山中長俊は1547年生まれという。という事は、1507年に活躍していた為俊は、祖父に当たるのではないだろうか?
wikipediaでは父となっていたが、1507年に頼られる存在であったならば、すでに30歳から40歳くらいであったろうと想定する。となると為俊は、1467年~1477年あたりに生まれているはずである。
為俊が70歳から80歳に長俊が生まれたことになるため、曾孫とも考えられる。
さて、山中氏の文書・書籍に見える名前を調べてみようと思う。
☆山中俊好も某年十月浅小井(現近江八幡市)を承禎より安堵された。☆
橘左衛門尉久俊 橘左衛門尉久俊の弟が俊好のようである。 俊好の弟 西岡兼俊
山中大和守(橘左衛門尉久俊)
戦国時代後期、山中氏の惣領は勘解由左衛門貞俊・大和守久俊父子であった。
(山中貞俊ー久俊・俊好・兼俊となる)
山中氏は柏木御厨と関係があり、さらに遡ると「鈴鹿山」の警護役でもあり、つまり浅小井氏・深尾氏ともつながりがあると思えるのである。
深尾氏も確か警護役として鈴鹿山にいて、その後員弁の山奥に潜んでいたはずである。
室町時代だが、九里浄椿は柏木御厨に飛鳥井氏の使いとして出入りしていたではないか!
山中氏とつながりがあったからこそ、選ばれたのかもしれない。
仏教大学の論文があったのでご紹介したい。↓
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/M003/OSM0030R521.pdf
『元来彼らは伊勢国との国境鈴鹿山系近辺に土着し、其の惣領家は山中村地頭職鈴鹿山守護= 鈴鹿関警固役を
先祖重代相伝の所職としていた鎌倉御家人であった。
建久五年(1194年)二月十四日「鎌倉将軍家下文案」に、山中新五郎俊直所』…と書かれているそうである。
そして建保4年に息俊信に、仁治3年には俊信の息の山中有俊に譲り渡しをおこなっている。
祖は、橘義清 橘諸兄の系という。 父は橘義通 祖父は橘為義 弟に橘為仲
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/waka-rokunintou/yosikiyo-t.htm
他に文書・書籍に見えた人物は、
盛俊 盛宗
道俊
であった。
山中氏祖とある ↑
此の後、大江氏とつながる。