高向玄理のことが書かれている【関裕二氏著作二冊】↓
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金庾信の母の萬明夫人は新羅王家の血筋をひいている。(第24代国王 真興王の弟の金粛訖宗の娘。第26代国王 真平王の異父妹)
金庾信の先祖は首露王だそうでwikipediaによると『妃は阿踰陀(あゆだ)国の王女と伝わる許黄玉[1]。阿踰陀国についてはインド、タイ、中国、日本などの説あるが、インドのアヨーディヤーが最有力である[2]』とあり、
金海金氏のwikipediaには『2004年に許黄玉の「インド渡来説」を立証する科学的証拠が示された[2]。』とある。遺骨のDNA鑑定によるものだそうだ。
興味深い!
金海金氏 ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%B5%B7%E9%87%91%E6%B0%8F
王女 許黄玉 ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E9%BB%84%E7%8E%89
横道にそれてしまったが、金庾信は母が新羅王一族であったために、新羅の
高向玄理が亡くなった後、日本は急に百済国救援と急展開していく。
高向玄理のwikipediaより
白雉5年(654年)遣唐使の押使として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した[11]。 『日本書紀』白雉5年2月条
金春秋(武烈王)は 大化2年(646年)9月に新羅にやってきた高向玄理を迎え、翌467年に共に日本へやってきた。
『翌648年、今度は唐に派遣された金春秋は、対高句麗で思惑の一致する太宗の厚遇を受けた。「特進」(正二品)の地位を与えられ、支援を得ることに成功した(唐・新羅の同盟)。翌年、金春秋は唐への恭順を示すため子の金文王を唐に残して帰国し、さらに高宗の永徽元年(650年)からは新羅独自の年号を廃止し、唐の元号を使用するようにした。』
新羅は唐の属国となったのである。
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新羅は、大和政権と百済国が手を結んでは影響がある為に高向玄理を要人と思っていたと思う。
だからこそ日本まで足を延ばしわざわざ自分を【質】としてまでも、直に天皇に会いに来たのだと思う。
しかし、
金春秋は滞在していたにもかかわらず、良い返事をもらえないままに、唐へ渡る。
そこで厚遇を受けた金春秋は、唐と手を結ぶ。
高向玄理は、654年(白雉5)遣唐押使として新羅経由で入唐。
皇帝高宗に会いに行き、客死してしまう。…ということのようだ。
さて、皇帝高宗にとって、また金春秋と