本日いただいたコメント、ありがとうございます。
繋がってくる部分があったので、ここに書き留めておきたいと思います。
いただいたコメントよりご紹介させていただくと‥‥
・1571年(元亀二年) 4月15日(31歳) 原七郎兵衛胤秋 積徳院殿保善大居士
※1571年(元亀二年) 4月19日 武田信玄・勝頼父子 信濃より三河侵攻、
伊那郡下条信氏をして鈴木重信の足助城を陥落せしめ同城の番をする。
(信濃史料 巻十三 永禄九年(1566)~)
系図によると『父と○○討死』と見え私は文亀二年と読んでいたのですが、
墓誌銘には元亀二年とあるようなので(1571年)
どうも私の読み間違えのようです。
(1507年に没してしまうと胤成が生まれてこない…)
・波合備前守 胤成(曾祖父)
1538年~1575年
代々信州に居住、武田家臣に属す。美濃と信州を結ぶ波合関所を預かり務める。
勝頼の時代に旗本に召し抱えられ足軽50人預かりになるも武田家滅亡後は出家し、
尹良山堯翁院の開基となります。
この系図の中の胤成は、尹良山堯翁院開祖の胤成のことになります。
☆兄弟胤定に関して、もしも何かご存知でしたらご教示いただけますと有難いです。
私もこれから調べてみようと思います。 次の記事にします。
・原与一右衛門(祖父)
武田家が滅亡し、胤成出家の頃に浪人となり飯田藩の小笠原家家臣となります。
大阪の陣の折には摂津に赴き負傷し再び浪人になるも、松平定綱に浪人分として
仕えるも喧嘩が原因で立ち退き、信州伊那郡小松原の民家に居候した後病死。
この松平定綱との縁こそ、キリシタン原胤信が家康の小姓として入るきっかけではなかっただろうか?と思います。
wikipediaによると、下総とも関連し、関東千葉氏の原氏とも十分につながりがあったのではないだろうかと思います。
下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩の各藩主。定綱系久松松平家初代。官位は従四位下・越中守。徳川家康の甥に当たる。
(甥…定綱の父=松平定勝が家康と同じ母=於大の方の生んだ子どもなので、定綱は家康の異母兄弟の息子)
偶然 『どうする家康』のドラマと重なっていますが。(於代の方)
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さて、
この原胤定の系と九里の岡田氏が関係するのだろうか?
九里氏は桑名藩に一名いたはずである。
大和宇陀藩(後に柏原藩に移封)の九里に二度ほど「水野氏」から養子が入っていることも謎だったのだが於大の方の実家は水野氏。