一覧にとても大事な御方を書き忘れていた。
【清原定隆】石見守と記載がある。(?-1072卒)
定隆は業恒系で、頼隆(979-1053)の三男?となるようである。定滋の弟である。
大外記石見守従五位上 息 定俊 養子 浄命(父:能登守 清原頼佐)とある。
定隆の父頼隆は本当は近澄の息で、広澄に養子となっていたようである。
広澄;小野吉柯為子〔清原氏系図作吉柯門人、或小野瀧雄二男云々〕。
正五位下。大外記。博士。大隈守。
寛弘元(1004)年12月改海宿禰為清原真人。
この小野吉柯 下記の系図によると、小野小町の祖父の兄である。
http://www8.plala.or.jp/furan/page009.html
広澄は旧姓が海宿禰であったという意味は、wikipediaによると「太田亮は、海氏の中でも特に天武天皇の時代の凡海氏(大海氏)の凡海麁鎌の子孫と主張した。」とある。
凡海 麁鎌(おおあま の あらかま)凡海氏は阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)、摂津国を本拠にした氏族である。大海人(おおあま)皇子の名は、凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたもので、凡海氏が大海人皇子の養育にあたったものと推定されている[1]。天武天皇13年(684年)12月に連姓の50氏が宿禰の姓を授けられた際、凡海氏もその中にあるので、麁鎌もこの時に連から宿禰になったと見られている。
このように、小野氏と清原氏は繋がっていたことがわかる。
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なお、浄命の実父頼佐は頼隆の弟である。
浄命は以前このブログに評定衆のメンバーのことで名が出てきた「清定」「斎藤浄円」につながるのであろうか?
この周辺、鎌倉幕府とつながっている清原氏が輩出されている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ec2ad0b08fca26eb6805512b1567862d
頼業の孫教隆もコトバンクによると「家学を継承。鎌倉へ行き、北条(金沢)実時をはじめ、武士の間に儒学を教えた。」とあり、金沢文庫の始りを予感させるような活動をしていた。
清原教隆(頼業の孫・仲隆の息)
本名仲光。
相模介。
三河守。
直講〔正嘉2(1258)年9月任。
関東評定衆伝〕。
音博士。
大外記。
正五位下。
関東評定衆〔系図纂要。
関東評定衆伝によれば、建長4(1252)年4月加引付衆〕。
正治元(1199)年生。
文永2年7月18日(ユリウス暦:1265年8月30日)卒。
式目作者六人之内随一之冥官云々〔系図纂要〕。
頼業は定滋の系。
石見守定隆は長門守定滋の弟!!
1072卒という定隆が石見守であったこと⇔ 1063年 清原頼行(邇摩郡久利郷)石見国庁宣に名前あり
コメント、ありがとうございます!
私も、出雲・石見に行きたくなっております。
今はまだ下調べが重要!と思って耐え忍んでます。
オミクロン、広がらずにすぎることを願っております。
さて、親忠と俊成の論文、以前Jikan様よりいただいていたかもしれませんが、その中に清原定隆の名も出ていたもので、再度見ております。
見る角度が違うと違って見えるのです!
今が疑問解決のチャンスですので、疑問をまとめて頂ければ、行きます。
出雲、隠岐も行きたいのに、コロナで行きそびれております。
もう雪が降っていますね。お体に十分注意下さい。
拙句
落ち葉にも夏の思ひもつまってる