万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

外国人が不起訴となる原因とは?

2025年04月11日 09時19分11秒 | 日本政治
 最近、移民の急激な増加を背景として、日本国内では、外国人が犯罪を行いながらも不起訴となるケースが頻繁に見られるようになりました。リベラル派の人々は、国民固有の権利に関わる分野にあっても権利の平等を主張しながら、外国人に対する不可解な不起訴処分については口を噤んでいます。検察審査会も機能しているようにも見えず、法の前の平等を損ねる由々しき問題です。それでは、何故、このような国民に対する政府の義務放棄、あるいは、検察の怠慢がまかり通っているのでしょうか(検察に対する政治介入が強く疑われる・・・)。

 現代にあって生じている問題でも、過去の歴史にヒントを見出す場合が少なくありません。日本国内で起きている外国人不起訴の問題についても、既に古代ローマ時代に前例のような類似する事例が見られるようなのです。その事例は、18世紀に執筆されたモンテスキューの『法の精神』の中で、シケリアのディオドロスが書き残した『歴史文庫(歴史叢書?)』からの引用として紹介されています。シケリアのディオドロスとは、紀元前1世紀に神話時代からカエサルのガリア遠征あたりまでの歴史を記述した古代の歴史家であり、『歴史叢書』とは、全四十巻から成る大書です。『法の精神』の紹介文は、以下の通りです。

「イタリア人は彼らの畑を耕し、家畜の群れを世話させるために、シチリアで奴隷の群れを買ったが、彼らに食料を与えることを拒んだ。この哀れな者たちは槍や混紡で武装し、獣皮をまとい、大きな犬を引き連れて街頭へ盗みをはらたきに行かざるをえなくなった。その属州全体が荒らされ、その地方の住民が自分のものといえるのは諸都市の城壁内にあるものしかなかった。この混乱に対抗しうる、あるいは対抗しようとする、そして、これらの奴隷をあえて罰する属州執政官も属州法務官もいなかった。なぜならば、彼らはローマで裁判権をもっている騎士達に所属したからである(『法の精神』第1部第11編第18章)、岩波文庫版より引用」

 この文章の意味するところを理解するには、当時のローマにあって、奴隷の多くが戦争捕虜であり、騎士が‘富裕層’であったという時代背景を知る必要があります。博識であったモンテスキューは、同文章を紹介した後に、以下のように述べているのです。

「私は一言だけ述べよう。利得だけを目的とし、それしか目的としない職業。常に要求し、他人からはなにも要求されない職業。富のみか貧困そのものをもまた貧困にする陰険で情容赦のない職業。かかる職業は、ローマにおいて決して裁判にかかわるべきではなかったのである。」

 ポエニ戦争後にあって、ローマの支配下に組み込まれた属州では(第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得・・・)、ラティフンディウムと呼ばれる多数の奴隷を使役する大規模農園が各地に出現します。富裕層が騎士(エクイテス)を務めたのは、富める者が軍事的な義務を果たすべきとするローマの伝統に由来しますが、騎士の中には金融業を営む者もあり、時代が下がる程に軍事よりも経済へと活動領域が傾斜しています。つまり、上記のモンテスキューの‘一言’は、富裕層に裁判権を握らせると、安価な奴隷労働力を使い続けるために奴隷による犯罪を取り締まらず、治安が悪化すると批判した言葉なのです。

 今日、ローマの属州における奴隷反乱から既に2000年を越える年月が経過しているのですが、この出来事は、どこか、日本国の現状とその構図において極めて類似しているように思えます。現在の自公政権は、まさに現代の富裕層であるグローバリストの傀儡となり、いわば‘属州’と化しているかのような様相を呈しているからです。そして、検察が外国人を不起訴とする理由も、移民ビジネスで利益を上げつつ、安価な労働力として使用している富裕者の側が日本国の統治権を握っているからなのかも知れません。日本国内の治安が悪化しようが、国土が荒らされようが、お構いなしの無情さなのです。

 モンテスキューが定式化した三権分立は、立法権力並びに執行権力からの司法権力の独立として理解されがちですが、私的なパワー、とりわけグローバリスに代表されるマネー・パワーからの独立性をも加えて理解すべきなのかもしれません。日本国の治安を回復させるためには、あらゆる不当なる介入を排すべく、警察並びに検察の独立性を含めた司法の独立性の強化を急ぐべきではないかと思うのです。

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関税政策の復活をチャンスとするには-国内経済の復興

2025年04月10日 10時00分53秒 | 国際経済
 今朝方、驚くようなニュースが飛び込んできました。それは、アメリカのトランプ大統領が、中国を除く諸国に対して一律10%関税を維持しつつも、90日間、相互関税の一部を停止したというものです。この‘変心’については、‘最初に高く持ちかけつつ、後に下げることで相手に要求を受け入れさせる交渉戦術であるとする見方’や、‘高率の相互関税は、百戦錬磨のディーラーでもあるトランプ流の手段であって、そもそも本気ではなかった’、あるいは中国が除外、かつ、125%に上乗せされたことから、‘本丸は中国である(他の諸国はダミー)’とする見解もあります。経済界は、めまぐるしく変わるアメリカの関税政策に右往左往する状態なのですが、グローバリズムがその無慈悲な側面ゆえに退潮を見せる中、ここは、長期的な視点から今後の国際経済の在り方について考えるべきように思えます。

 短期的には、関税の復活は、それが何%であったとしても、アメリカを含む何れの諸国に対してもマイナス影響を与えることでしょう。先ずもって、アメリカ市場に製品や商品を輸出している諸国は、対米輸出依存度が高い産業や企業ほど強い打撃を受けます。今般の一時停止では、中国だけは125%という高率の関税率がかけられますので、一時的であれ関税率10%に留まった諸国の企業も、中国に生産拠点を移し、中国からアメリカに‘made in China’として自社製品を輸出している場合には、相当の対米輸出の減少を覚悟する必要がありましょう。アップル社をはじめアメリカ企業であったとしても、製造国が中国でアル場合には、マイナス影響を免れ得ないのです。

 その一方で、アメリカの消費者も、安価な輸入品を購入することがもはや叶わなくなりので、輸入インフレ、即ち、物価高に見舞われます。日用品や消耗品等の生活に必要不可欠な商品の供給を中国に頼っていた場合には、アメリカ人の家計を圧迫することともなりましょう。所得水準の低い世帯ほどマイナス影響が及びますので、バイデン政権から続いてきた物価高に対する国民の不満がさらに高まってしまうという懸念もあります。もっとも、為替相場がドル高であれば、国内の物価への影響は若干は低減されましょう。

 以上の内外両面におけるマイナス影響の予測から、世界大での景気後退や世界恐慌の再来まで予測される事態ともなったのですが、そもそも高関税率の設定とは、国内の産業を護るための保護主義政策の手段です。今日、行き過ぎた自由貿易主義、並びに、グローバリズムが、先進国にあっては‘産業の空洞化’を招く一方で、中国の一人勝ちを許し、‘最適な国際分業’や‘資源の効率的配分’の名の下で、国家が自己決定権を失い、モノカルチャー的な生産と不利な役割をグローバリストに押しつけられている現状を見ますと、関税を含めて国境を‘絶対悪’と見なし、強者必勝を原則とするグローバリズムへの回帰が‘正解’であるとは思えません。トランプ大統領の関税政策については、‘問答無用’とする批判がありますが、その一方で、グローバリストも‘問答無用’で国家に対して国境を取り払うように求めているのです。

 アメリカによる関税の設定は、関税の復活と言うよりも、国家の関税自主権、関税政策、あるいは、自立的な通商政策の決定権の復活と表現した方が適切なのかも知れません。この文脈からすれば、トランプ大統領は、通商に関する国家の権限の奪還に向けて狼煙を上げた、最初の人物とも言えましょう(仮に、パフォーマンスではなく、本気であれば・・・)。アメリカが、弱肉強食と所得格差の拡大を是とし、国家の消滅を目指すグローバリズムと決別し、自国の国内産業の優先と復興を基本方針とするならば、他の諸国も、高率の関税を嘆くよりも、自らも同方針に転換すべきなのではないでしょうか。

 同方針に基づく具体的な政策とは、先ずもって関税障壁によって減少する輸入品を国産品に代替するというものです。短期的にはマイナス影響が予測されたとしても、代替品の生産拡大は、長期的には当然にGDPの増加に寄与しますし、新しい雇用も生まれます。輸出に依存してきた産業も国内市場重視に転換し、適正な規模にダウンサイジングする(労働力人口の減少を理由とする移民政策も不要に・・・)、あるいは、高関税でも、相手国の製品と競合せず、一定の輸出量を確保できる個性的な製品の開発に努めるべきかも知れません。

 もっとも、内製化に際しては、エネルギー資源を含めて天然資源に乏しく、原材料を輸入に頼っている現状では、コスト高という壁が立ちはだかっています。この問題についても、発想を転換すれば解決が不可能なわけではありません。‘なければ造ればよい’のであって、代わりとなる新素材や新たな生産方法を開発すれば、資源不足の問題も乗り越えることができましょう。科学立国の復活でもあり、日本国の面目躍如ともなります。

 日本国のみならず、各国とも、自国経済に集中するほうが、相互に相手の市場を荒らし、弱肉強食となるグローバル時代の貿易戦争に巻き込まれ、敗北すれば‘植民地化’されるよりも、はるかに平和的で安定的です。未来の国際経済とは、各国が自国産業の実情に照らして適切かつ賢明な関税政策を実施し、農業を含めて自立し得る経済を整えた上で、相互利益となる品目や製品を中心に通商を行なう体制へと移行すべきではないかと思うのです。

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‘商人による専制国家は最悪’-現代にも通じるグローバリストの問題

2025年04月09日 09時57分27秒 | 統治制度論
 モンテスキューの『法の精神』と言えば、三権分立論、とりわけ、司法の独立の意義を論理的に説明した書物として知られています。現代に生きる人々も、同書の恩恵を大いに受けているのですが、『法の精神』には、司法の独立のみならず、至る所にモンテスキューの鋭い洞察力が覗われ、国家体制に関する箴言を見出すことができます。

 『法の精神』が出版されたのは、カール・マルクスの『共産党宣言』が出版された1848年を丁度一世紀、即ち、100年遡る1748年のこととなります。18世紀のフランスを背景に執筆されているのですが、今日の問題を先取りした考察も少なくありません。18世紀と言えば今日のグローバリゼーションの黎明期でもあり、世界大での海外貿易の活発化により商業が著しく発展した時代でもありました。この時代にあって、モンテスキューは、以下の興味深い言葉を残しているのです。

 「法律は、彼ら(貴族)に対して商業をも禁止しなければならない。これほど信用のある者が商人であれば、あらゆる種類の独占を行なうであろう。商業は平等な人々の職業である。したがって、専制国家のうちでも最もみじめなのは、君公が商人である国家である。(『法の精神』第一部第5編第8章、岩波文庫版より引用)」

 この文章は、貴族政の在り方について論じた部分に記されていますので、‘貴族政であってすら為政者が商人である国家は悲惨なのだから、ましてや専制君主が商人である国家は、なおのこと悲惨な状態に置かれてしまう’という意味となります。為政者に商業を禁じる理由として、モンテスキューは、独占を志向する商人のメンタリティーを挙げています。‘信用のある者’を‘権力を持つ者’と解すれば、‘商人が君主となった専制国家では、君主が、自らが排他的に握る権力を用いて、あらゆる利権や利益を独占するであろう’ということになります。

 独占や寡占は、今日にあっては独占禁止法等の競争法によって禁止されております。経済とは、個々人に各種の自由が保障されてこそ、公正な競争のもとで発展するのであり、競争を消滅させる独占や寡占は、絶対的な阻害要因となるからです。しかも、上記の文章に「商業は平等な人々の職業」と記されているように、モンテスキューは、経済の本質として、企業や個人といった経済主体間における平等性、即ち、対等性についても言及しているのです。

 ここに、経済活動が人々に豊かさをもたらすには、自由と平等が必要であるとする認識も伺えるのですが、それでは、専制君主が商人となった場合、どのような事態が起こりえるのでしょうか。これは、まさしく、モンテスキューが指摘したように、‘最高に惨め(les plus misérables )’ということになりましょう。否、これ以上の惨めさはないという意味においては、‘最悪’ともなります。権力者が、政経両面に亘ってその絶大なるパワーをもって独占体制、否、独裁体制を構築するとすれば、経済のみならず、政治的にも人々は隷従状態となり、もはや自由な空間をどこにも見出すことはできなくなるからです。

 そして、このモンテスキューの政経一致体制における独裁に関する洞察は、政府が全面的に経済を統制した共産主義体制を彷彿とさせますし、今日のグローバリストの世界支配構想ともオーバーラップします。金融・経済財閥でもあるグローバリストのフロント組織である世界経済フォーラムは、公然と‘グローバルガバナンス’に踏み出していますし、同フォーラムが目指す‘グレートリセット’とは、各国の政治権力を自らに集中させるための‘上からの革命’といっても過言ではありません。

 しかも今日、地球を私物化してようとしているグローバリストは、世界大にマスメディアを操作し、AIをはじめとしたデジタル技術、バイオテクノロジー、さらには、先端的な軍事技術等を活用し得る立場にもありますので、それがもたらす近未来の‘惨めさ’は、18世紀フランスに生きたモンテスキューの想像を遥かに超えることでしょう。自らの私的な利益のためには、他の人々を‘商品’や単なる労働力と見なして売買したり、不要となれば問答無用で‘処分’しかねないのですから。今日に生きる人々は、モンテスキューの言葉を、過去からの警告として重く受け止めるべきではないかと思うのです(つづく)。

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株価暴落はチャンス?

2025年04月08日 11時29分21秒 | 国際経済
 アメリカのトランプ大統領が発動した相互関税は、日本国を含む世界各地で株価の下落をもたらしているようです。1929年の世界大恐慌が第二次世界大戦の遠因として指摘されているように、証券市場での株価暴落は、全世界に大惨事をもたらしかねないリスクがあります。第一次世界大戦後に訪れた未曾有の好景気を背景に発生した証券バブルの崩壊が原因とされ、あたかも、この歴史の流れを当然のことのように捉えがちですが、果たして、ニューヨーク株式市場での株価暴落は、‘歴史の必然’であったのでしょうか。

 マルクス主義の祖であるカール・マルクスは、‘資本家’側の視点から『資本論』を執筆しています。このため、同書には、株価暴落に関する興味深い記述があります。それは、「あらしが過ぎ去れば、これらの証券は、失敗した企業または山師企業を代表するものではない限り、再びその以前の高さに上昇する。恐慌におけるそれらの減価は、貨幣財産の集中のための強力な手段として作用する。」というものです。同記述については、フリードリヒ・エンゲルスが脚注を付しており、この実例として、1848年にフランスで発生した二月革命直後の株価暴落に際しての‘金融資本家’の行動を紹介しています。かのロスチャイルド(おそらくパリ家のジェームス・ド・ロスチャイルドでは・・・)が、スイス商人R.ツヴィルヘンバルトに持ちかけられて、可能な限りの現金を集めて下落した証券を買い漁った様子を伝えているのです(『資本論』第三巻第5篇第29章)。フランスの二月革命と言えば、‘プロレタリア革命’的な色合いが極めて濃いのですが、現実には、‘資本家’にとりましては利益をもたらす千載一遇のチャンスであったことが分かります。

 二月革命から100年を経ずして世界経済を破産させた上記の世界恐慌につきましても、多くの人々を失業者とし、奈落の底に突き落としつつ、最も利益を得たのは‘資本家’であったとされています。否、金融市場における独占を狙って、金融・経済財閥が暴落を仕掛けたとする説もまことしやかに囁かれており、上述したロスチャイルドの行動からしますと、この説も強ち否定はできなくなります。株価暴落によって、‘投機家’や借入金で株の売買をしている一般の人々、そして、資金力に乏しい中小の‘資本家’は、破産を余儀なくされるほどの大きな損失を被りますが、潤沢な資金力を持つ‘大資本家’は、これらの人々が先を競って手放した株を買い占めることができるからです。

近年では、バブル崩壊によって破綻した金融機関の救済を理由として、大手が中小を合併する大規模な金融再編が行なわれていますので、放出株式の買い取りのみならず、救済措置としての金融機関の寡占化も進んでいます。そして、今日、全世界の人々がマネー・パワーを‘独占’するグローバリストの支配欲に晒される事態に陥ったのも、株価暴落という‘バーゲンセール’にあって、同勢力が、すかさず買い占めをおこなうことができる‘特別な立場’にあったからなのでしょう。

 こうした株価暴落人為説につきましては、もちろん、厳正なる検証を要するのですが、証券市場にあって暴落が発生したり、しばしば不正な価格操作が行なわれるのは、その価格決定の仕組みにも問題があるからなように思えます。市場での株式の価格は、証券会社を介しつつも、最低価格を提示した売手側と、最高価格を提示した買手側との間で成立した値となります。言い換えますと、極めて少量の取引であったとしても、同取引が株式の価格を決定してしますのです。こうした価格決定の仕組みですと、意図的に売り注文や買い注文を出すことによって、価格を容易に操作することができます。そしてそれは、他の市場参加者に対して投機的な売買を誘導するバンド・ワゴン的な効果を持ちますので、証券市場では、バブルやその崩壊が発生しやすいのです。しかも、バブル崩壊は、株式取引に無縁な一般の人々をも巻き添えにするのですから、罪深いお話なのです。

 証券システムについては、株主の権利が強すぎ、かつ、企業買収の手段(‘人身売買’にも似た法人格を持つ主体の売買・・・)や‘植民地化’のリスクという大問題もあり、抜本的な見直しを要するシステムでもあります。何れにしましても、株価が実体経済に影響を与えるべきではなく、ここは、冷静なる対応が望ましいように思えます。そして、関税の復活が投資家心理のみならず、実際に企業の業績にマイナス影響を与えているならば、むしろ、危機をチャンスとする発想は、一般の国民や企業にこそ持つべきなのかも知れません。今後の展開を予測すれば、貿易依存度を下げ、国内経済を強化する政策こそ、グローバリズムが終焉を迎えつつある今日、日本国に必要とされる政策なのではないかと思うのです。

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若年層は皇室について議論を

2025年04月07日 11時32分07秒 | 日本政治
 今般、筑波大学に入学した秋篠宮家の悠仁氏については、昨年、大学入学をめぐり、一大騒動が起きることとなりました。何故ならば、 ‘東大入学を希望した秋篠宮家が、皇族の特権を濫用して裏工作を画策したのではないか’とする憶測が流れたからです。真偽のほどは判然とはしないものの、同情報の内容と実際の行動や出来事との間に一致がみられたことから、SNSやウェブを中心にかなりの信憑性をもって語られることになったのです。この結果、国民の間から反対の大合唱が起きると共に、悠仁氏の東大入学に反対する署名活動も始まる事態に至りました。しかも、同署名活動が停止状態に追い込まれたため、日本社会に対して介入パワーを持つ‘特権身分’として、皇族の存在に対して、より一層警戒感がもたれることにもなったのです。

 皇族の大学進学がかくも国民の反対に遭った理由は、皇族を特別扱いすることに対する不公平感にあったことは言うまでもありません。公平であるべき国立の大学の入試制度を自らの私的目的のためにねじ曲げようとしたのですから、それが皇族であれ、誰であれ、国民からの反発は、至極、当然のことでもあります(不正な裏口入学となる・・・)。そして、ここで考えるべきは、現在の若者層は、皇室の存続を心から望んでいるのか、という基本的な問題です。

 悠仁氏の東大入学に関する疑惑を前にしてしばしば指摘されていたのは、‘入学試験が競争を伴う限り、皇族に対して特別に入学を認めることは、本来、合格すべき他の同年代の受験生から定員枠を一つ奪うことになる’という批判です。合格を目指し、寝る間も惜しんで受験勉強に励んできた受験生達に対して、卑怯な手を使うのはいかがなものか、という批判です。こうした意見は発信手段を比較的自由に使いこなせる‘大人’によるものなのですが、同世代の若者の多くも同様に感じたことでしょう。入試問題に限らず、‘皇族は特別の存在だから特別待遇を受けるのは当然であり、国民は黙って従うべき’と考える若者は、今日では、ほとんどいないのではないでしょうか(この側面は愛子氏や佳子氏も同じであり、将来的には、悠仁氏の次世代にも繰り返される・・・)。生まれながらにして特権を有し、他者は無条件で礼を尽くして敬意を示さなければならない存在は、心から受容や納得していない限り、決して心地よいものではありません。

 しかも、今日の皇室の活動については必ずしも法律に根拠があるわけではなく、皇統の継続性についても歴史的な疑義もあります(例えば、明治維新に際しての断絶と交替・・・)。また、科学的にも‘血’の希薄化は避けられません。即ち、血統において国民との差もなくなり、否が応でも正当性が揺らぐ中にあって、自らを特別の存在として振る舞っている皇族の姿は、現代という時代にあって違和感があります。そして、この時代錯誤に付き合わされている国民も、不幸言えば不幸なのです。実写版『白雪姫』が現代を過去に持ち込んだことで、逆に過去を現代に引きずり出し、現代の問題を炙り出す‘クロス現象’をもたらしたように、今日の王室も皇室は、現代人が過ぎ去った過去、あるいは、‘おとぎの国(人々が理想とする空想の世界)’の役割を演じるという、一種の劇場にならざるを得ないのでしょう(それは、時には国民をうんざりさせ、時には大真面目な演技が滑稽にもなってしまう・・・)。

 こうした皇室に関する疑問は、戦前にあって現人神と信じられ、戦後にもカリスマ性を保ち続けた昭和天皇に対する崇敬心から代が替わっても無条件に皇室に崇敬心を抱き続けてきた人々、あるいは、今や‘皇室の藩屏’と化している新興宗教団体の人々からは、強い感情的な反発を受けることでしょう。しかしながら、時間の経過と共に国民の意識は変化するものです。北朝鮮風味のメディアの皇室報道が‘超自然的な存在’としての皇族を国民の意識にすり込み(もっとも、国民の側はなかなか洗脳されないのでは・・・)、同存在に基づく不平等感や不公平感が社会の停滞を招き、健全な知性の働きや発展を阻害する要因となるならば、皇室の存在は、今日の若者層にとりまして財政負担に加え、心理的な側面を含めて‘重し’ともなりましょう。

果たして、現在の若者層は、皇室の存在をどのように捉えているのでしょうか。憲法第1条を含む皇室については、‘大人達’こそ、‘菊のカーテン’という名のタブーをなくし、将来を見据えた自由闊達な議論に努めるべきなのではないでしょうか。この問題についても、政治家の人々は、若者の声を聞こうとはしません。そして、将来の日本国を背負う若者こそ、かつての若者達が‘天下国家’について論じたように、自らの国の将来について積極的に語るべきではないかと思うのです。

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倉西研究所のメンバーのご紹介

2025年04月04日 10時20分42秒 | その他
倉西研究所のメンバーのご紹介

 時空を超えて様々な問題の解明に取り組んでいる倉西研究所のメンバーは、所長の倉西正嗣(機械工学:略歴参照)、副所長の倉西正武(数学:米コロンビア大学名誉教授)、並びに、倉西茂(土木工学:東北大学名誉教授)、事務担当の倉西睦子と倉西那智子、そして、研究員の倉西裕子(歴史学)と倉西雅子(政治学)の双子の姉妹からなります。このうち、倉西裕子と倉西雅子のみ、いまだこの世にあって研究を続けています。

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王室・皇室は国民の理性を抑圧してしまう

2025年04月03日 11時42分53秒 | 統治制度論
 実写映画の『白雪姫』は、実のところ、今日の王室や皇室が抱える深刻な問題を人々の意識に上らせてしまったように思えます。美しいお姫様と勇敢な王子様が登場するおとぎの世界として安心して読めたストーリーも、それに現代の“価値観”が投入されますと、時代が現代に向けて逆流し、俄に現実味を帯びてくるからです。そして、この感覚は、否が応でも今日の王室や皇室の存在に対して抱く国民の疑問や違和感を強めてしまうのです。

 客観的に現状を観察すれば、今日という時代にあって、既に王室も皇室もその存在意義が失われていることは否定のしようがないように思えます。先ずもって民主主義が価値として根付いている今日では、かつての君主のように統治者にあって政治的権力を行使し得る立場にはありません。立憲君主制にあってもこの点は変わりなく、『マグナ・カルタ』を機に早くに立憲主義が確立し、‘国王は君臨すれども統治せず’とする原則が成立したイギリスにあっても、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法の第一条において天皇の地位が統合の象徴と位置づけられている日本国にあっても、もはや統治の分野にあって権力を行使することはできないのです。民主的制度には、誰もが認める合理的な根拠がありますので、君主主権論や君主親政待望論は、国民主権には太刀打ちできないのです。そもそも統治権力は、人々の必要性から生じているため、民主主義には必然性があるからです。しかも、征服や植民地化の過程にあってしばしば見られるように、統治権を持つ君主が外国や海外勢力の‘傀儡’ともなれば、国家の独立性が損なわれるリスクも伴います(実際に、今日の王族も皇族も、グローバリストの‘傀儡’となっている疑いがある・・・)。

 かくして政治分野における君主としての役割は、より合理的で精緻なメカニズムを有する民主的制度の発展により失われることとなるのですが、この流れにあっても王族や皇族に残されていたのが、国民を纏める権威としての社会的な役割です。ところが、権威というものも、それがフォロワーの心理に依存する限り、国民の理性との間に摩擦や軋轢が生じるものです。全ての国民の心を捉えることができる人物は、それが君主であれ誰であれ、この世に存在するとは思えません。また、人をもって求心力とするには、相当のカリスマ性を備えるか(この求心力は理性に基づくものではい・・・)、神聖性や超越性を演出するか(国民を洗脳するか、騙すことに・・・)、暴力的手段や脅しを用いて恐怖心に訴える(下部組織を使った政策的な同調圧力の醸成も・・・)しかないのです。何れの手法を用いても、人々の精神活動の自由を縛り、内面の自由をも侵害しかねませんので、国民に対して理性の名の下で権威の承認を求めることが不可能であり、むしろ反発や抵抗を受けるケースも想定されるのです。

 しかも、君主制の多くは世襲制ですので、権威喪失のプロセスは科学的に説明され得ます。王統や皇統の遺伝子は、仮に建国や王朝の祖から断絶がないとしても、代を重ねる度に減数分裂により半減する一方で、これらの遺伝子は、時間の経過と共に広く国民の間に拡散するからです。この生物学上の事実は、誰もが否定し得ないはずです。また、今般の実写版『白雪姫』のように、‘お姫様’と‘山賊’の組み合わせともなれば、‘高貴なる血統’を根拠とした君主の地位は不安定となり、当然に、人心の離反を引き起こすことにもなりましょう(たとえ慰問を受けたとしても、国民は‘ありがたい’とは思わなくなる・・・)。あるいは、イギリスの名誉革命時のように、支持派と不支持派とに国民が分裂し、統合どころの状況ではなくなります。このことは、生物学的な見地からすれば、国民統合の役割も果たせなくなることを意味します。しかも、‘高貴な身分’としての特権が行使されたり、国民を見下すような言動をとれば、国民の反感さえ招きかねないのです。

 合理的に考えれば、形骸化したとはいえ、王族や皇族の存在意義は既に失われており、今日では、むしろ国民の理性を抑圧するリスクさえ認められます。それにも拘わらず、政治サイドでも同制度の維持には熱心な一方で、抜本的な見直しに関する議論が起きてこないのは、国民の理性抑圧の手段としての利用価値があると見なされているからなのかも知れません。そして、その利用目的がグローバリストによる人類支配体制への組み込みにあるとしますと、なおのこと国家の将来的な在り方についての議論を急ぐべきではないかと思うのです。

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風刺になってしまう実写映画『白雪姫』

2025年04月02日 13時48分02秒 | 社会
 『白雪姫』と言えば、19世紀にグリム兄弟がドイツに伝わる昔話やおとぎ話を収集したグリム童話の中でも、特によく知られている代表的な作品です。今日に至るまで、かわいらしい挿絵が描かれている絵本のみならず、映画化やアニメ化されて全世界の人々に親しまれてきました。ところが、今般、ディズニー社が実写版のミュージカル映画を作成したところ、思わぬ物議を醸すこととなりました。

 グリム童話は、1812年、即ち、ドイツ諸国がナポレオン体制の頸木を脱し、ドイツ・ロマン主義運動が高まりを見せていた時期に出版されています。同運動は、後年のドイツ統一へと繋がってゆくのですが、ドイツという極めて政治性を帯びた民族性が強く意識されながらも全世界に広く読まれるようになったのは、同作品の中に、人類共通の普遍的な要素が含まれていたからなのでしょう。否、‘遠い昔’のみならず、‘遠い国’のメルヘンであるからこそ、他の諸国の人々に‘夢’を与えたのかも知れません。時空における現実との遊離感や距離感が、人々のロマンティズムを掻き立て、おとぎの世界に誘ってきたのでしょう。そして、悲劇的な境遇や苦難を乗り越えてハッピーエンドで終わる、あるいは、悪者が懲らしめられる勧善懲悪を基本とするストーリー展開が、ドイツ人ではなくとも多くの人々の共感を呼び、安心感を与えたことも、グリム童話が、世界的な‘ベストセラー’となった理由とも考えられます。

 本来であれば、グリム童話は、‘実際にはこの世には存在しない’という前提があってこそ、誰もが楽しめる作品であったとも言えましょう。ところが、今般の映画化された『白雪姫』は、実写化に伴って、非現実的な物語の世界に‘現実感’を与えてしまったようなのです(なお、本記事は、実写版を視聴したわけではなく、同映画に対する批評記事から推測して書いています。悪しからず、お許しを)。

 実写映画『白雪姫』については、その批判点は一つではありません。白雪姫を演じたレイチェル・ゼグラーの個人的な政治的なスタンスをはじめ、様々な方面から批判や意見が寄せられています。その中の一つが、現代リベラリズムの問題としてしばしば指摘されているポリティカル・コレクトネスを中世のおとぎ話に持ち込んでいるというものです。確かに、今般の作品は、原作とは著しく違っています。白雪姫の命名の理由を変えてまで‘雪のように白く’はない白雪姫を登場させ、その人物像も、人々が描く穏やかで優美なプリンセスではありません。自我の強い積極的な活動家であり、将来、即位した際には、リーダシップの発揮が予測されるタイプなのです。そして極めつきは、‘白馬の王子様’が、実写版では、何と、山賊の青年というのです。

 最後は、同青年が白雪姫に感化されて‘改心’するという、現代風のハッピーエンドで幕となるようなのですが、同ストーリーの展開、否、原作の改竄に‘違和感’を抱く人は少なくないことでしょう。そして、この違和感は、同作品が、現代の価値観をおとぎ話に持つ込むことで、逆におとぎ話にリアリティーを与え、現実に引き入れてしまったところに起因しているのかも知れません。何故ならば、自ずと今日の王族や皇族の現状と重なってしまうからです。

 もちろん、今日の王族や皇族には、君主の座にあって国家を治める政治的な権力はありません。しかしながら、イギリスや日本国をはじめ幾つかの諸国では、立憲主義の下で‘世襲君主’の形だけは維持しており、現代にあっていわば過去の世界を残していると言えましょう。そして、今日の王室・皇室報道に見られるように、王族や皇族のパーソナルな側面や活動に関心が向けられており、実写版白雪姫と共通するのです。婚姻関係を見ましても、‘山賊’とまでは行かないまでも、マフィアなどの犯罪組織との繋がりや品位に欠ける人物でも王族や皇族の一員になることができるのです。

 過去に舞台設定された空想の世界がリアリティーをもって今日にその姿を現わすとき、それは、違和感をも越えて現実的な脅威となり得ることを意味します(現代の価値を過去に持ち込んだつもりが、逆に、過去の問題が現代に持ち込まれてしまう・・・)。それが善意であったとしても、個人的な意思をもってリーダーシップを発揮する王族や皇族は、民主主義を損ないかねませんし(グローバリストが望む独裁やパーソナル・カルトの容認に・・・)、プリンセスやプリンスが気に入りさえすれば、配偶者は犯罪者であれ何であれ誰でもよい、とする価値観を押しつけられているようにも感じられるからです。実のところ、多くの人々が皇室や皇室に対して抱いている疑問を、同映画がそれとなく描き込んでいるとしますと、これは、まさに現状に対する風刺となりましょう。果たして、ディズニー社の意図はどこにあったのか、興味深いところなのです。

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日本国の食料&エネルギーの自給率を上げる政策を

2025年04月01日 11時42分03秒 | 日本政治
 食料安全保障の強化を謳った日本国の大手商社とアメリカの大手穀物メジャーとの業務提携は、日本国の農業の行方に暗い影を投げかけています。同提携は、5年後の2030年には、200万トンから300万トン、即ち、日本国内の米生産量の凡そ二分の一弱の大量の穀物が日本国に輸入されることを意味するからです。目標達成の見込みがなければ、三菱商事がADMに対して輸出施設の整備に1000億円もの投資を行なうはずもありませんので、同提携の背後には、日米両国の政府が動いているとも推察されるのです。

 人口減少が続く中、2、300万トンもの穀物を新たに日本国内で消費されるとは思えず、おそらく、政府は、日本国民の食卓に上る主食を、国産のお米から輸入穀物に置き換えようとしているのでしょう。備蓄米の放出にも拘わらず、米価が高値を維持しているのも、‘米作放棄、輸入促進’が政府の基本方針であるからなのかも知れません。日本国民は、同政府の方針を支持しているわけでも、ましてや、お願いしたわけでもありません。むしろ、農家の方々の生活が安定する形で国内農業が維持され、適正な価格で国産のお米が提供されることを望んでいることでしょう。言い換えますと、仮に、上記の推理が間違っていなければ、政府は二枚舌で国民を騙しており、日本国の民主主義が風前の灯火であることとなりましょう。

 危機的な現状に鑑みれば、今後の日本国政府の対応、並びに、今夏の参議院議員選挙において掲げられる各党の農政に関する公約が注目されるところであり、日本国民は、彼らが国民の代表であり、国民の信託に誠実に応える政治家であるのかどうか、見極める必要がありましょう。全般的な物価高や自給率の問題を含めて食糧問題は、凡そ全ての国民の重大な関心事ですので、与野党ともに、選挙に際して同問題を避けて通ることはできないはずです。

 かくして、日本国政府が国民を騙しつつ穀物輸入拡大政策を遂行している疑いは強まるばかりなのですが(同時に、高級米輸出政策も遂行・・・)、一つだけ弁明の道があるとすれば、それは、エネルギー支援としての穀物の利用なのでしょう。3月28日付けの日経新聞の記事には、ADM側の事業提携の狙いとして、‘バイオ燃料向け原料の販売拡大への期待’が挙げられています。「三菱商事はENEOSホールディングスと連携し、和歌山県で再生校区燃料(SAF)製造設備を計画中」とあるからです。

 ADM側は、同製造整備の原材料として日本国に自社が取り扱う穀物を売り込もうとしている、と解釈されるのですが、‘計画中’段階に過ぎませんし、5年後に200万から300万トンもの穀物が同施設のみで使用されるとは思えません。やはり、上記の穀物輸入拡大説に軍配が上がるのですが、それでも、ADM側がバイオ燃料の生産に期待を寄せているとしますと、ここで一つ明らかとなるのは、農作物は、エネルギー資源となり得る点です。この点に注目しますと、仮に、日本国内の米需要を十分に賄えるだけの生産量を超える余剰生産力、即ち、休耕田や耕作放棄地、あるいは、荒蕪地があるとしますと、こうした土地は、エネルギー用の作物の栽培地としたほうが、余程、日本国の利益に適います。

 第一に、エネルギー資源の乏しさが、経済も国民生活も他国に依存せざるを得ない状況に日本国を置いてきましたので、この弱点を克服することができます。第二に、近年、増加してきた休耕地等への太陽光発パネルの設置は、たとえそれがエネルギー自給率を高めたとしても、パネル生産国の中国へのエネルギー依存を意味します。また、景観を著し損ねると共に、自然災害時における危険性も指摘されています。バイオ燃料用作物の生産であれば、これらの問題も解決します。第三に、エネルギー資源の海外依存度が低下すれば、自ずと国際社会における日本国の政治的立場も強化されます。アンフェアな国際分業体制に組み込もうとするグローバリストの予防をも阻止できますので、一石二鳥以上の効果が期待されるのです。減反の挙げ句に高級ブランド米の輸出国を目指すよりも、遥かに国民の賛同を得られることでしょう。

 もっとも、バイオ燃料に関してはコストの面が問題とはなり得ます。肥料等を海外からの輸入に頼るのでは、真に自給率を高めたことになりません。そこで、雑草のように無肥料や低肥料、無農薬、放置状態でも問題なく生育し、収穫量も高い農産物の研究・開発を進める必要もありましょう(同時に、容易に燃料化し得る分解・発酵等に関する技術も・・・)。新たな目的が見つかりますと、意欲が湧いて、人の能力や行動力も高まるものです。日本国を救う国産技術の開発に期待したいと思うのです。



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食料安全保障とは自給体制の強化では?

2025年03月31日 11時57分41秒 | 日本政治
 先日の3月28日付けの日本経済新聞朝刊の第1面に、日本国の食料安全保障に関する記事が掲載されておりました。タイトルは「三菱商事、穀物メジャーと提携」というものです。同記事の内容は、日本国の大手商社三菱商事が、2030年度の穀物の取引量を現在の1.5倍に増やすために、アメリカの穀物メジャーであるADM(アーチャー・ダニエルス・ミッドランド)に対して1000億円ともされる額を出資するというものです(ADM側は、穀物の供給先として三菱商事の再生航空燃料事業に期待・・・)。同提携については、日本国の‘食料安全保障に寄与する’としているのですが、日本国の農業を取り巻く厳しい現状に照らしますと、この解説には疑問が沸いてきます。

 この問題を考えるに先だって、‘食料安全保障とは何か’という同用語の定義を確認する必要がありましょう。農林水産省のホームページには、食料・農業・農村基本法の抜粋として以下の記載があります。

「(食料の安定供給の確保)
第2条食料は、人間の生命の維持に欠くことができないものであり、かつ、健康で充実した生活の基礎として重要なものであることにかんがみ、将来にわたって、良質な食料が合理的な価格で安定的に供給されなければならない。

2  国民に対する食料の安定的な供給については、世界の食料の需給及び貿易が不安定な要素を有していることにかんがみ、国内の農業生産の増大を図ることを基本とし、これと輸入及び備蓄とを適切に組み合わせて行われなければならない。

4  国民が最低限度必要とする食料は、凶作、輸入の途絶等の不測の要因により国内における需給が相当の期間著しくひっ迫し、又はひっ迫するおそれがある場合においても、国民生活の安定及び国民経済の円滑な運営に著しい支障を生じないよう、供給の確保が図られなければならない。

(不測時における食料安全保障)
第19条国は、第2条第4項に規定する場合において、国民が最低限度必要とする食料の供給を確保するため必要があると認めるときは、食料の増産、流通の制限その他必要な施策を講ずるものとする。」

HP掲載条文の全文をアップしましたが、とりわけ注目すべきは、第2条の2です。食料安全保障の基本は、「国内の農業生産の増大を図ること」と明記しているからです。おそらく、国民の大多数が、たとえ同定義を知らなくとも、常識的には食料安全保障とは食料自給率の向上を意味すると理解していることでしょう。ところが、今般の日本国の商社と米穀物メジャーとの業務提携は、穀物輸入を増やすという、逆方向での“食料安全保障”なのです。

 もっとも、第2条の2では、‘基本’について述べた後に「これと輸入及び備蓄とを適切に組み合わせて行われなければならない」と続きますので、必ずしも輸入を否定しているわけではありません。しかしながら、有事にあって‘敵国’が‘海上封鎖’を実施すれば、日本国への輸送ルートは断たれ、兵糧攻めに遭ってしまいます(中国は、既に太平洋に進出し、潜水艦等による海洋戦略を展開している・・・)。輸入に依存しない食糧の自給体制構築が近々の重要課題であるとする認識は国民が共有するところですので、輸入拡大をもって食料安全保障の強化とする見解には、自ずと疑問符が付いてしまうのです。

 そこで注目すべきは、やはり、目下、日本国で起きている異常なまでの米価高騰です。米価格の高騰の背景には、お米を含む穀物輸入を増やしたい日本国政府、あるいは、グローバリストの思惑があるのではないか、とする指摘があります。大手商社と穀物メジャーという民間での事業提携の形態を取りながら、本当のところは、日本国政府の‘国策’であるとも推測されるのです。

 しかも、同協定で想定されている穀物の輸出国はアメリカのみではなく、ブラジルも加わっています。ブラジルと言えば、先日、同国の大統領が訪日したばかりなのですが、両国間で穀物の取引に関する何らかの‘協定(密約?)’が結ばれた可能性も否定はできません。中国がアメリカからの穀物輸入を減らし、ブラジル産に切り替えている中、日本国がブラジルからの輸入を増やして中国に対抗するとする対中政策論です。ところが、岩屋毅外相は、「日中ハイレベル経済対話」の席で中国に対して日本産精米の輸入拡大を求めていますので、日本国政府の政策は支離滅裂なのです(ブラジルが、アマゾンの熱帯林を伐採して日本輸出向け穀物生産を拡大させるならば、地球の環境破壊を促進することにも・・・)。

 三菱商事の現状での穀物輸入量は500万トンから600万トンとされていますので、目標とされる5年後の2030年度に1.5倍に拡大すれば、250万トンから300万トンが新たに輸入されることとなります。その一方で、日本国内でのお米の年間の生産量は凡そ700万トン弱です。以上の諸点を考え合わせますと、最悪の場合には、日本国の高級ブランド米は中国を含む海外に輸出される一方で、中小規模の農家は廃業に追い込まれ、米生産の減少分を海外からの安価な穀物の輸入で補うという未来もあり得ないことではありません。しかも、両社の提携は有事を想定したものでもありませんので、この未来は、直ぐそこまで来ているように思えるのです。輸出による外貨獲得が先細る中、有事であれ、平時であれ、永続的に食料を海外に依存する体制が望ましいはずもなく、日本国政府は、国内農業の育成と発展にこそ努めるべきではないかと思うのです。

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グローバリストの実行部隊の特徴-独裁志向と真逆性

2025年03月28日 11時29分47秒 | 統治制度論
 宗教とは、人々の内面や魂の問題領域であるとする認識の下にあって、初めてその自由が個人に対して厚く保障されています。しかしながら、仏陀であれ、イエス・キリストであれ、マホメットであれ、生前にあって既にその教えに惹かれた人々が自然に集まり、教団を結成したことは否定のしようもありません。自然崇拝や祖先崇拝、あるいは、アニミズム等を除いて、世界三大宗教と称される宗教は、組織を伴って今日までその教えが伝えられてきたと言えましょう。ローマカトリックと袂を分かったプロテスタントでさえ、小規模ながらも○○派や○○会と称する独自の教会組織を設けています。宗教が内包してきた組織性に注目しますと、信仰とは、必ずしも個人の問題とは言い切れなくなります。そして、今日、グローバリストが宗教を利用したのは、まさしく、この宗教に備わる組織形成力にあるのでしょう。

 とりわけ、グローバリストの傘下にある新興宗教には共通する特徴があるように思えます。それは、信者の間に教祖を頂点とする独裁体制を構築しようとする点です。その理由は、単純です。グローバリストが自らの目的を実現するための実行部隊として設立する以上、上意下達を徹底した組織形態にする必要があるからです。この点、トップの命令一つで全ての信者達が行動を開始する独裁体制ほど望ましく、これほどその目的に適した組織形態はありません。トップである教祖一人を自らのコントロールの下に置けば良いのですから。

 この特徴は、軍隊組織とも共通しています。軍隊もまた、攻守両面において戦略の組織的な実行が勝敗を決しますので、トップの命令が最前線の兵士にまでストレートに、かつ、正確に伝わる必要があり、トップダウン式の組織形態とならざるを得ないのです。しかも、兵士の個々人が‘上官’の命令に忠実に従い、トップが策定した作戦や命令に対して疑問を呈したり、不満を訴えたり、ましてや拒絶は許されません。このメンバーに対する絶対服従の要求も共通しているのです。例えば、創設者のイグナチウス・ロヨラが軍人であったイエズス会は、伝統宗教が説く平和主義とは真逆の‘戦う宗教集団’でした(ロヨラはバスク出身なので、イスラム教の影響を受けている可能性も・・・)。イエズス会はその本質において軍隊であるとする指摘は、まさに同教団の設立の過程にその根拠を見出すことができましょう。

 兵士の場合には、内面における批判も抵抗もあり得るのですが、それ故に、戦争にあっては、‘狂信’も一つの勝利のための必要要件となり得ます。古代ユダヤ人をはじめ各地に戦争恍惚師という役割が存在し、イスラム教のジハードにあって麻薬の使用が是認され、かつ、常々、戦争を前にして過激な狂信主義が出現するように、戦争を行なうに際しては、その遂行者には、兵士の理性を狂わせたり、我を忘れさせたいという動機が働くのです。宗教と軍事的目的との結合は、‘宗教的な正義あるいは神’の名の下で人類に混乱と悲劇をもたらしてきたことは、偽らざる事実とも言えましょう。

 そして、今日の新興宗教団体こそ、宗教と‘権力’とが結びつく最悪のパターンであるのかも知れません。何故ならば、背後のスポンサーが巨大なマネー・パワーを有するグローバリストであるために、母体となる伝統宗教の教えとは真逆の行動をとるからです。旧統一教会も創価学会も、常々、集金マシーンとして批判され、政府との癒着により利権漁りに勤しむのも、‘真の創設者’の野望と目的が世俗における富と権力の掌握にあるからなのでしょう(オウム真理教もその権力志向からすれば、同系列である可能性が高い・・・)。かくして、ここに、新興宗教団体のもう一つの特徴として、伝統宗教との真逆性、即ち、世俗主義、拝金主義、利己主義、私的欲望の全開、負の感情の肯定(その結果としての復讐や虐めの容認・・・)などを認めることができるのです(善悪も逆転し得る・・・)。

 これらの独裁志向や真逆性といった特徴は、過激な民族主義のみならず、共産主義とも共通しており、必ずしも新興宗教に特有のものでもありません(ヒトラーが煽ったゲルマン優越主義がドイツ人をして国土の破壊と敗戦の憂き目を見させ、平等を訴えた共産主義が極端な‘特権社会’をもたらした・・・)。グローバリストの実行部隊に共通する特徴でもあり、こうした組織の信者やメンバーの人々は、騙されているか、利権や私欲に目がくらんだか、もしくは、‘確信的共犯者’であるのかも知れません。‘水と油’に思える中国共産党と創価学会との奇妙な関係も、司令塔を同じくし、同一の世界支配の組織に属しているとすれば容易に理解されましょう。日本国の独立性が内部からも脅かされている今日、グローバリストが分散的に配置し、多方面から活動展開している各種の実行部隊の危険性については、旧統一教会の解散をもって幕引きとはせず、具体的な対策に踏み出すべきではないかと思うのです。

お知らせ

 本ブログの姉妹サイトとして開設しておりましたホームページ『倉西先生の御学問所(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)』が、3月31日をもちまして、プロバイダーのサービス終了により閲覧することができなります。同ホームページの政治学コースは、2009年に政治学の基礎研究として纏めたものであり、構造・機能分析の出発点となります。姉の倉西裕子が作成した歴史学コースは、既に『日本書紀の真実 ―紀年論を解く』(講談社選書メチエ)や『源氏物語が語る古代史 ―交差する日本書紀と源氏物語』(勉誠出版)などの書籍や論文で発表している日本書紀紀年法の構造(プラス・マイナス120年構想による多列並列構造)について図などを用いてわかりやすく説明しております。興味をお持ちの方がおられましたならば、是非、ご覧くださいませ。

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元統一教会解散では終わらない新興宗教団体問題

2025年03月27日 15時56分54秒 | 統治制度論
 新興宗教団体とは、第二次世界大戦後にあって突然に出現したわけではなく、戦前にありましても、大本教や天理教など、神様からお告げを受けたとされる教祖達が始めた宗教団体は存在しています。海外に視線を移せば、イエズス会など、新興宗教団体の古株が世界大に根を張っています。新興宗教団体と政治との繋がりも、戦後の新興宗教団体に始まるわけでもありません。その一方で、今日の新興宗教団体には、分断と対立を狙うグローバリストの実行部隊としての側面がもはや隠しようもなく表面に現れているようにも思えます。

 長らく政権与党の座にあり続けてきた自民党と元統一教会との関係は、安部元首相個人に限ったものではありません。政治家の秘書の多くが統一教会の信者であり、選挙に際しても活動員が提供されていたことは、その組織的な繋がりを示しています。秘書であれば、議員のスケジュールを把握して教団に報告することができますので、自民党の内部情報も、全て統一教会に掌握されていたのでしょう。そして、今般の解散命令にあって問題視された教団の集金マシーンとしての側面は、政党と教団との‘持ちつ持たれつ’の関係を支えてきたはずです(政治とお金の問題は、企業献金のみではない・・・)。見返りとして、自民党は、その求めに応じて何らかの利権を教団側に提供しているはずなのですから(この点、カルト風味のムーンショット計画も、文(Moon)の姓名に因んだ計画かも知れない・・・)。

 かくして、保守政党を名乗りながらその実グローバリスト政党である自民党は、新興宗教団体といわば二人三脚の如くに日本国の政治権力を行使することとなるのですが、この状況にさらに輪を掛けて悪化させたのが、創価学会を支持母体とする公明党との連立ということになりましょう(日本国は、事実上、狂信主義政権に・・・)。創価学会もまた、教祖とされてきた故池田大作氏に関して朝鮮半島や中国出身説があり、かつ、近年、海外への布教にも熱心です。日本国民よりも外国人や外国を常に優先する自公連立政権の政策運営は、グローバリストの下部組織と目される新興宗教団体の意向を反映させたため、とも推測されます。そして、日本国の皇室のみならず、世界各国の王族にあって新興宗教団体やグローバリストとの関係が指摘されるのも、伝統的な民族主義を破壊、もしくは、これらをも自らの組織に取り込むことができるからなのでしょう。

 民族主義も宗教も、それが自然発生的で抑制的なものであれば人々を纏める統合作用として働くのですが、時にして激しい分断と対立をもたらすことは歴史が示すとおりです。何れにしましても、これらの精神作用には統合と分裂という両極端の二面性がありますので、本来、極めて慎重な扱いを要する分野なのです。そして、それ故に、政治的には利用されやすく、グローバリストは、まさにこの二面性を巧みに使い分けることで、自らの支配力を広げていったと言えましょう。戦後に顕著となった保守政党と新興宗教団体との強固な結びつきは、近現代にあって構築されてきたグローバリストによる世界支配体制に、日本国も組み込まれていることをも示唆しているように思えます。

 このように推理しますと、今般の旧統一教会の解散には、表向きの理由とは異なる幾つかの解釈が可能となります。第一の解釈は、近年の新興宗教団体の退潮ぶりからしますと、グローバリストは、同集団をもって間接支配を敷く従来の方法を止め、デジタル技術を用いた日本国民の直接支配に切り替えたとするものです。直接支配の形態としては、国民の個々人を対象とするもののみならず、旧統一教会や創価学会等を介さず、また、自民党や公明党に限らず、日本国の政治家全てを直接にコントロールという手法もあるのかもしれません。すなわち、新興宗教団体は“ご用済み”ということになります。第二に、旧統一教会の解散は、トカゲの尻尾切りに過ぎないかもしれません。グローバリストが複数の新興宗教団体を操っているとしますと、旧統一教会の信者達を他の配下の教団に移せば、解散命令は有名無実となりましょう。そして、第三の可能性は、旧統一教会の背後にアメリカが付いており、創価学会の後ろに中国が控えているとしますと、前者の解散は、米中対立の演出の一環であるというものです。新興宗教団体の間では、両者を操る上部の存在を知らされておらず、真剣に敵対関係にあると思い込んでいるのかも知れません。そして、何れのケースであったとしても、一般の日本国民にとりましては、悪夢でしかないのです。

 極右とも称される新興民族団体にせよ、新興宗教にせよ、自国の独立並びに安全保障を脅かす存在となっている今日、元統一教会の解散をもって同脅威が取り除かれるわけではありません。リスクという同一の基準に照らせば、旧統一教会のみならず、創価学会も解散させるべきですし、新興宗教団体という存在を、それが、個人の信教の自由を越えた政治的な組織である場合には、政教分離の原則を徹底し、何れの教団であれ、その存在は認めるべきではないと思うのです。

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グローバリストによる巧妙なる民族主義・新興宗教の利用

2025年03月26日 12時56分49秒 | 統治制度論
 昨日、3月25日、東京地方裁判所は、旧統一教会に対して解散を命じました。同解散命令の発端となったのは、安部元首相暗殺事件であったことは言うまでもありません。犯人とされた山上徹也被告が、母親に対して巨額の献金を強要してきた旧統一教会への恨みを理由として犯行に及んだと供述しているからです。もっとも、同事件につきましては、自家製の銃器を用いた山上被告による単独犯行は物理的にあり得ないことから、組織的な背景が強く疑われるのですが、この問題、結局は、グローバリストによる世界支配の問題に行き着くのではないかと思うのです。

 共産主義につきましても、マルクスは、『共産党宣言』において労働者の組織化の重要性をアピールしています。離れた土地を結ぶ広域的な通信・交通網を介して労働者が連絡し合い、結集して階級や政党を結成すれば、共産主義革命も夢ではないとする主張です。しかしながら、マルクス主義の背後にあって、国民並びに国際社会の分断と対立を狙うグローバリストの思惑が隠れているとしますと、共産主義とは、人々を対立・闘争モードに引き込むための罠であったとする見方もあり得ることとなります。

 この視点からしますと、過激な民族主義や新興宗教もまた、共産主義と同様の役割が担わされている可能性があります。近現代において政治的な勢力ともなった思想集団については、自由主義(ここで言う自由主義は新自由主義に近い・・・)、狂信主義(Fanazism?)、及び、社会・共産主義の三者に大別することができますが、狂信主義の母体となる民族主義や宗教につきましては、これまで、人々の間から自然に醸成されてきた自発的、あるいは、自生的なものと見なされてきました。民族主義は国民の自らが属する国に対する愛国心や独立心の現れでもあり、国家統合や植民地からの脱却に向けた原動力ともなってきました。アイデンティティーとも繋がるこうした国民感情は、国家の独立性のみならず、民主主義をも支えています。また、宗教も、神や仏の存在を意識するのはホモサピエンスとしての人のみですし、利己心を戒め、自己抑制を説く教えや戒律は社会の安定と安全に寄与してきました。ところが、近現代にあって、国民の間に広まった過激な民族主義や新興宗教には、これらの一般的な民族主義とも伝統宗教とも違った側面を持つのです。

 ここで狂信主義と表現した理由は、近現代、とりわけ第一次世界大戦後に出現した民族主義が、ファシズムやナチズムに代表されるように、カリスマ独裁ともいうべき政治体制を志向し、全国民に対してパーソナル・カルト(個人崇拝)の受容と独裁者に対する絶対服従を求めたからです。ところが、ナチスを率いたアドルフ・ヒトラーの容貌は、自らが理想とした‘長身金髪碧眼’を特徴とする‘ゲルマン民族’とは著しく異なりましたし(もっとも、アーリア人は中近東系となる・・・)、ナチスの幹部の多くは、その掲げた反ユダヤ主義に反してユダヤ系でもありました(ヒトラー自身もユダヤ系であったとする疑いもある・・・)。こうした誰の目にも明らかな矛盾があったとしても、それを国民は問うてはならず、ひたすらに指導者に心酔して体制に従うことが強制されるのです。これもまた、‘二重思考’の一種とも言えましょう。

 何れにしましても、民族主義は、国民の間に組織を作り出すに際してその核となり得ます。そして、カリスマ的指導者を崇める多くの熱狂的な心酔者や支持者を得ることで、一大政治勢力にのし上がっていくのです。政党を結成さえすれば、民主的選挙での勝利を経て合法的に政権を獲得することができまるのです。もっとも、グローバリストによる民族主義の利用は、‘偽旗作戦’に気がつかれないまでの間なのですが・・・。

 第二次世界大戦における連合国側の勝利により、一先ずは、それ自体が矛盾を含む狂信的な民族主義は歴史の表舞台から姿を消したように見えます。しかしながら、本当に、これらの集団は、戦争の終結と共に消え去ったのでしょうか。ヨーロッパ諸国では、‘極右’と表現される政治団体が、冷戦の終焉並びにグローバリズムの拡大と歩を合わせ、雨後の竹の子のように出現しています。これらの極右団体も、決して反ユダヤ主義ではありません(因みに、ユダヤ系であるウクライナのゼレンスキー大統領が好む黒シャツ姿は、ファシスト党の黒シャツ隊を想起させる・・・)。そしてもう一つ、グローバリストの実行部隊としての組織化という面において注目すべきが、新興宗教団体なのです(つづく)。

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ケネディ大統領は何故暗殺されたのか?

2025年03月25日 10時17分47秒 | アメリカ
 先日、アメリカでは、一部機密扱いとされてきたケネディ大統領暗殺事件に関する機密文書が公開されました。凡そ8万ページに及ぶ膨大な量に上るため、その全ての解析には時間を要するそうですが(こういう時こそ、AIの出番では?)、既に‘犯人は未だにオズワルド’とする落胆の声も上がっているそうです。その一方で、調査の時点で既に‘忖度’が行なわれているらしく、その作為的な不自然さがむしろCIA関与説、あるいは、陰謀説に信憑性を与えているとも言えましょう。

 理性に基づく合理的な懐疑を‘陰謀論’の一言で封じる手段は、心理作戦に長けたCIAが開発したとする説もあるように、今般の機密解除は、陰謀の実在性を強く印象づけることになりました。そしてこのことは、近現代史は、陰謀を抜きにしては正確に理解することはできないことを示しています。第一次世界大戦を前にして‘余りにも都合良く’全世界が三つ巴となり、三つ巴が1対2の構図で戦われた第二次世界大戦後にも、‘余りにも都合良く’二つの超大国が拮抗する二極対立構造が出現しています。もちろん、この‘都合良く’は、グローバリストにとりまして‘都合良く’です。主たる対立軸はイデオロギーということになるのですが、暴力革命や全世界を巻き込んだ世界大戦こそ、グローバリストによる陰謀を疑って然るべきです。‘陰謀論’として嘲笑している人々こそ、物事を客観的かつ濁りなく見る理性を失っているようにも思えるのですが・・・(もしくは、陰謀組織の協力者か一員・・・)。

 さて、実際に、厳重に警護されている要人の暗殺を成功させようとすれば、事前に綿密な練られた計画を必要とするものです。当然に、ターゲットの行動に関する詳細かつ正確な情報も広範囲に収集しなくてはなりません(政府内部の情報を入手するなど・・・)。第一次世界大戦の発端となったセルビアの一青年が放った銃弾の背後にも組織の存在が指摘されているように(犯人のプリンツィプは、大セルビア主義者の秘密組織であった「黒手組」と連携・・・)、おそらく、ケネディ大統領の暗殺計画でも、テキサス州ダラスでのパレードが計画された時点にあって、既に同計画は動き出していたのでしょう(犯行の日付が22というぞろ目であることにも注意を要する・・・)。オズワルド一人の犯行としては無理があり、組織的な協力なくして大胆且つ正確な暗殺はあり得ないとする方が、余程合理的な推理なのです。

 事件発生当初からオズワルド単独犯説には疑問が呈されており、かつ、調査報告書も機密扱いされたことから、未解決事件の真相解明を求める声も高く、CIA説、FBI説、マフィア説、キューバ説、副大統領の職にあったジョンソン説、そして、機密解除後にあってはCIAと関連のあったジョージ・H・W・ブッシュ元大統領説まで飛び出しています。また、これらの組織の共犯とする説もあるのですが、仮に‘共犯説’が正しいとすれば、これらの組織を上部にあって統括する本部がなくてはならず、これこそ、世界大戦をも背後から操ってきたグローバリスト勢力、もしくは、同勢力に危機感を覚えた対抗勢力であったのかもしれません(前者の方が可能性としては高いような・・・)。

 もっとも、突き止めるべきは、公的な組織をも動かすことができる人物、あるいは、暗殺を決定してその実行を命じた影の命令者のみではありません。何故、ケネディ大統領は暗殺されたのか、その理由が明らかにされないことには、同事件が真に解決されたとは言えないからです。真犯人が誰であったとしても、ケネディ大統領が白昼堂々と衆人の前で暗殺された理由は、同勢力のアメリカ、否、世界支配の確立や利権確保にとりまして不都合な存在であった、あるいは、仲間内でありながらも‘見せしめ’として暗殺する必要があったのかもしれません。もしくは、組織内部での権力闘争の結果とも考えられます。

 日本国政府を含め、政府が国民に対して尤もらしいカバー・ストーリーや表向きの理由しか語らない現状を見ますと、真相の究明には、陰謀の実在性の認識こそが重要なように思えます。教科書的な説明と歴史的な事実が一致しないとしますと、現代に生きる人々は、表ではなく、裏の事実としての歴史こそ解明してゆくべきとも言えましょう。

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グローバリストの巧妙なる共産主義の利用

2025年03月24日 12時11分21秒 | 国際政治
 ‘資本家’であるグローバリストによる共産主義の活用方法は、極めて巧妙です。労働者を煽ることで国民を分裂させ、国境を越えた運動として自らの国際組織に取り込むと共に、国際社会をも分断させたのですから。第一次世界大戦後には、自由主義、狂信主義(造語が許されるならばFanazism・・・)、共産主義の三者を操って第一次世界大戦に誘導しましたが、第二次世界大戦後には、資本主義対共産主義という枠組みを作り出すことに成功しています。そして、こうしたイデオロギー集団のコントロールによって最も利益を得たのは、グローバリストであったとも言えましょう。

 それでは、先ずもって共産主義は、どのようにして国際社会にまで分裂作用を及ぼしたのでしょうか。指摘し得るのは、‘共産主義革命’に向けた工作活動です。最初の共産革命とされるロシア革命は、共産主義に基づくと宣伝されながら、その実態は、農民兵を含む兵士による軍事クーデタと称しても過言ではありません。当時のロシアでは、革命の主体となるはずの工場労働者が人口に占める比率は低く、マルクスが論じたような、‘資本主義の矛盾の極限’としての労働者による革命ではありませんでした。革命後にあっては、暴力を是とするボルシェビキの最終的な勝利により、ここに、民主主義とはかけ離れた共産党による一党独裁体制の国家が誕生することとなるのです。

 グローバリストは、‘共産主義’をあたかも人類共通の‘正義’であるかのように喧伝することにより、ここに一つの非民主主義国家のモデルを建設します。共産主義を信奉する人々は‘進歩’であると主張していますが、人類の統治機構の発展史からしますと、この体制は、明らかに進歩ではなく退行です。より単純で原始的な形態に戻ってしまったのですから。極めて少数派となるグローバリストが心密かに恐れていたのは、多数派である一般の国民が自治的に自らの国の統治を行なう民主主義体制であったのでしょう。

 因みに、マックス・ウェーバーは、その著書『職業としての政治』にあって、革命後のソヴィエトについての記述を残しています。ウェーバーは、テーラーシステムなど‘資本主義の制度’が温存されると共に、外資導入にも否定的ではなく、「いったんブルジョア的階級制度として打倒したものを、やがて残らず受入れ、かつての秘密警察まで再び国家権力の主要機関として使っている」と批判しているのです。1919年当時の状況を述べたものですが、ソ連邦とは、あるいは、労働者(生産と消費を行なう便利な商品)を大量に創出した上で、最大限に合理的かつ徹底的に管理し、その労働力を使い尽くすという意味において、‘資本家’の理想郷であったとも解されましょう。今日、国家体制の違いに拘わらず、日本国政府をはじめ、何れの国でもデジタル全体主義が蔓延り、国民搾取に血眼になっているのも、その発想の大本が‘資本家’、すなわち、グローバリストにあるからなのでしょう。

 何れにしましても、共産主義国家、しかも、グローバリストの支援の下で短期間で超大国に成長したソ連邦の出現は、冷戦期にあって国際社会を二分します。そして、東西両陣営とも、安全保障上の脅威となる‘敵勢力’の存在を根拠として、激しい軍拡競争を展開し、かつ、代理戦争としての局地的な‘熱戦’も戦われることとなるのです。この間、エネルギー産業を含めた軍需産業を握るグローバリスト勢力が挙げた利益は計り知れないことでしょう。そしてそれは、国民が本来不要な負担を強制的に背負わされていることを意味します(グローバリストの計略がなければ、国民はより豊かになったはず・・・)。

 しかも、共産主義国家にして超大国の出現は、西側各国にいて国民分断をも深める効果を及ぼします。各国の共産党やその系列の左派集団は、国内の自生的な思想集団ではなく、暴力主義国家をバックとした国際的な活動組織として認識されるからです(安全保障上の脅威に・・・)。国民の間でも疑心暗鬼や心理的な壁が生じると共に、公安活動を含め、テロ対策のためのコストも跳ね上がります。何れも、物心両面で国民の重荷となる一方で、グローバリストにとりましては、内外両面(国家の内部と国際社会)において‘自発的’な対立と分断をもたらしますので、同作戦は一石二鳥となるのです。

 近現代史は、不自然さに満ちています。グローバリストの影は、共産主義のみならず、ナチズムやファシズムといった狂信主義にも見られるのであり(今日では新興宗教団体・・・)、こうした歴史をコントロールするための‘駒’とされた政治勢力の実像を解明しないことには、グローバリストが人類支配のために築いてきた巧妙な支配のメカニズムから逃れることはできないのではないでしょうか。

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