万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

先物取引と‘未来操作’

2025年02月21日 10時17分10秒 | 国際経済
 目下、米価の高騰に国民の多くが憤っている最大の理由は、‘悪徳業者’によって価格操作が行なわれているからに他なりません。お米をため込んだり、転売するだけで利益を得ているのですから、生産者並びに消費者の怒りを買うのは当然のことです。米価が2倍にも跳ね上がったにも拘わらず、日本国政府の対応は後手後手であり、「買い占め等防止法」が存在しながら、これを適用しようともしていません。政府やマスメディアの不審な行動の背景には、常々、グローバリストの陰が見えるのですが、今般も、米先物取引との関連性が強く疑われるのです。

 先物取引という言葉は、一般的には馴染みが薄いのですが、人類史を振り返り、かつ、何故、今日、グローバリストが強大なるマネー・パワーを有するに至ったのかを考えますと、その重要性が自ずと理解されてきます。それは、先物取引、即ち、その本質とも言える‘未来の結末’に対する賭けが、莫大な利益を生むからです。例えば、今日、グローバリストの代表格とも言えるロスチャイルド財閥が巨万の富を得たのは、ナポレオン体制に終止符を打ったワーテルローの戦いにあって、逸早く‘未来の結末’を知り得たからです。「ネイサンの逆売り」と呼ばれるネイサン・ロスチャイルドの作戦は、自らの情報網からイギリス勝利を知りながら同国の国債(コンソル公債)を大量売却し、市場における同債権の投げ売りを誘発した後に、これらを安値で買い漁った上で、イギリス勝利によるコンソル公債暴騰で大儲けをする、というものでした。

 同事例に留まらず、‘未来の結末’が分からない戦争もまた、先物取引的な要素があり、戦時国債の売買にはギャンブル的な一面があったことには留意すべきです。そして、上述した「ネイサンの逆売り」は、‘未来の結末’を知っていた者には、確実に利益が転がり込むことを示しています。つまり、それは、既に‘賭け’ではなく、謀略の舞台となるのです。この点、昔ながらのサイコロを用いるルーレットなどの方が、余程、偶然の運に任されていると言えましょう。何らの人為的な操作を施す隙がなく、一瞬において勝敗が決まるからです(もっとも、ずる賢いプロのギャンブラーは、サイコロに細工を加えて勝敗率を操作したとも・・・)。

 そもそも、ギャンブルや投機とは、一分一秒でも未来における変化に賭ける行為であり、この側面においては、スポット取引も先物取引も変わりはないのですが、先物取引には、未来を操作するだけの十分な時間が用意されるという違いがあります。ワーテルローの戦いにあっても、ロスチャイルド財閥がその潤沢な資金力をもってイギリスを支援すれば、‘未来の結末’を裏側から操作できたはずです。日本国も、日露戦争に際してジェイコブ・シフ(クーン・ローブ商会)に戦時国債を引き受けてもらっていますが、同戦争での日本国の勝利は、日英同盟を背景としたイギリスの隠密支援が功を奏したとも指摘されていますので(バルチック艦隊の航行を邪魔する・・・)、ユダヤ系金融にとりましては、戦争、とりわけ、‘逆張り’ともなる敗北予測国側の勝利は、一刻千金の利益獲得のチャンスなのでしょう(その後の国債の償還や利払いを考えれば、日本国は、シフにそれ程恩義を感じる必要はないのかも知れない・・・)。

 戦争もまた‘賭け’の対象となったとき、人類は、人為的な‘未来操作’のリスクにも直面することとなります。しかも、この脅威は今日あってもなくなったわけでなく、今般の米価高騰をはじめ、ウクライナ戦争を機とする石油価格や穀物価格の操作疑惑など、様々な場面において同様の‘投機ビジネス’が繰り返されているようにも思えるのです。ヘッジ・ファンドは世界各地でビジネスチャンスを狙っていますし、不可解な出来事や現象の背景には、金融筋の不穏な動きも見え隠れします。そして、巨大地震の発生予測をはじめ、しばしばメディア等で紹介される予測や予言とは、‘未来操作’の一環であるかも知れないのです。

 このように考えますと、先ずもって、人類は、先物取引の存在意義を根底から問い質す必要がありましょう。そして、少なくとも農産物やエネルギー資源等、人々が生活する上で必需品となる品目に関しては、先物取引市場を閉鎖すべきなのではないでしょうか。大多数の無辜の人々が犠牲となる‘未来操作’のリスクから逃れるためにも。

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米先物取引の中国対抗論への疑問

2025年02月20日 10時40分51秒 | 国際経済
 昨年の2024年8月から大阪堂島商品取引所で始まったお米の先物取引については、今日、報道が規制されているためか、国民の多くはその存在を知りません。しかしながら、その影響力を考慮しますと、先物取引の問題は、‘グローバリストの視点’を想定しますと看過できないように思えます。

 農産物の先物取引市場での相場は、価格形成のみならず、将来の作付面積や生産量に対しても多大な影響を与えます。仮に、先物相場での価格が上昇すれば、農家は、当該作物を作付する面積を増やしたり、生産量を拡大するなど、増産の方向に動きます。逆に、先物相場が下落しますと、農家は、その反対の行動を採るからです。もっとも、農家が一斉に同じ方向で作付け期に生産量を調整しますと、数ヶ月から1年後の収穫期には過剰生産による暴落が起きたり、供給不足によって価格暴騰となる事態もあり得るわけですから、必ずしも農家のリスクがヘッジされるとも限りません(この需給調整の側面からも、先物取引の存在意義はますます怪しくなる・・・)。その一方で、この側面は、先物市場に資金を投じる‘投機家’や金融筋にも、自己利益拡大のために需給調整を行なう動機があることを説明するのですが、先物市場の相場が、当該作物を生産する全ての農家や原材料として調達する食品会社、延いては消費者にまで広く影響を与えている現状は、事実としてあることはあるのです。

 実際に、穀物各種の国際価格については、小麦やトウモロコシ等の大生産国であるアメリカでは、農業地帯を背景に中西部のイリノイ州のシカゴ市に、逸早く農産物の先物市場が開設されています(最初の商品は、1898年に始まったバターと卵の先物取引・・・)。今日、シカゴ・マーカンタイル取引所での相場は、将来的な穀物市場の国際的な価格指標として用いられており、アメリカ国内のみならず、その他の諸国の農産物価格や生産量等にも影響を与えているのです。

 シカゴの先物市場の先物価格が国際価格指標と見なされるのは、その取引量の多さに寄ります。この側面に注目して主張されているのが、日本国内での米先物取引の推進論です。実のところ、2019年8月に、中国大連において既にジャポニカ米の先物市場が堂島に先駆けて開設されています。未だに共産主義体制を維持している中国にあって、主食穀物の先物市場が開設されていること自体が驚きの事実でもあるのですが、このままでは、アジアの米市場の価格形成において、中国に主導権を握られてしまうとする危機感から、先物取引推進論が唱えられているのです。

 しかしながら、この見解は、日本産米の輸出入を前提としたものです。国際指標価格とは、当該作物が貿易商品であってこそ意味があるからです。そして、仮に、この説が正しければ、大阪堂島商品取引所の米先物取引の再開には、日本国政府による‘日本米の輸出作物化計画’が隠されていたことにもなりましょう。

 現実には、中国は、お米の生産量も消費量も世界第一位です。2015年前後の生産量が凡そ1億4,450万トンであったところ、2021年には、1億4900万トンまで増加しており、近年、増産が続いてきたことを示しています。しかも、日本米と同種のジャポニカ米の生産量が伸びています。その一方で、日本国のお米の生産量は、2024年で凡そ683万トンに過ぎず、中国で生産されたお米の30%がジャポニカ米としても、日中間では、圧倒的に生産量に差があります。この状態で、先物市場を日本国が開設したとしても、国際価格指標の形成でリードする可能性は殆どないに等しいこととなりましょう。

 以上に述べてきましたように、大阪堂島商品取引所での先物取引については、中国対抗論には無理があるように思えます。むしろ、日本国政府が米価の高騰を放置している理由は、グローバリストの意向にも沿った日本国の先物市場の開放であり、かつ、さらなる米輸入への道を開くことにあるのかも知れません。仮に、中国がジャポニカ米の生産量を今後とも増やしてゆくともなりますと(現状でも、中国からのお米が輸入されている・・・)、将来的には、中国からのさらなる輸入拡大をも視野に入れているとも推測されましょう(日本米は中国人富裕層向けに生産?)。

 そして、先物取引に注目しますと、この問題は、お米に限らないことにも気がつかされます。日本国の電力につきましても、上述したシカゴ・マーカンタイル取引所グループに属するニューヨーク・マーカンタイル取引所やドイツのフランクフルトに拠点を置くEUREX傘下の欧州エネルギ-取引所において先物市場が開設されているのですから。日本国内にも、電力の先物取引所として東京商品取引所が開設されていますが、電力自由化によって電力価格が下がるどころか、今日、上昇を続けている一因も、内外の先物取引市場の開設あるのかもしれません。しかも、近年、米欧では取引所のM&Aが活発化し、大手への集中が進んでいますので、大阪堂島商品取引所や東京商品取引所自体が欧米系に買収される未来も想定される事態なのではないかと思うのです。

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米先物取引は先買いによる‘買い占め’?

2025年02月19日 10時07分58秒 | 日本政治
 今般の米価高騰については、様々な要因が指摘されながらも、同時期に大阪堂島商品取引所で再開された米先物取引の存在は無視できないように思えます。既に、米価は2倍にも跳ね上がっていますので、仮に、再開時に先行きの米価高騰を予測して「買いヘッジ」に資金を投入した‘投機家達’は、今月で6ヶ月の限月を迎える場合、投資額が2倍に増えたことになります。‘笑いが止まらない’という状況なのでしょうが、その他の大多数の一般国民は、上昇し続ける主食の価格に悲鳴を上げています。

 先物取引が米価に影響を与える仕組みについては、限月までの間に需給バランスを自らの利益となる方向に操作できる時間的な猶予から説明も説明されます(その他については、本ブログの12月18日付けの記事で説明・・・)。将来的な価格上昇に賭ける「買いヘッジ」の場合には、供給量を減らす動機となる一方で、将来的な価格下落に賭ける「売りヘッジ」の場合には、供給量を増やす動機が働くからです。今般、「買い占め」の実行者として異業種企業や外国人バイヤーの暗躍が指摘されている背景にも、供給不足を意図した需給操作が疑われるのです。

 また、先物市場における契約の成立自体が、「買い占め」効果をもたらしかねません。何故ならば、限月が到来するまでの期間は、先物市場にあって‘先買い’されたお米は、売約済みの‘塩漬け’状態となるからです。言い換えますと、先物市場において投機資金が集まれば集まるほどにお米の出荷が滞り、供給量を減少させてしまうのです。同供給不足は、さらなる‘米不足’を引き起こし、なお一層米価が高騰するという悪循環に陥ることでしょう(もっとも、「買いヘッジ」に賭けて投機家達からみれば‘好循環’・・・)。

 この懸念に対しては、先渡契約等を締結すれば、限月に至らない時点で現物を引き渡すことが出来るとする反論もありましょう。しかしながら、上述したように、お米の価格が上昇し続けている局面にあって、それを良心的に市中に放出する買い手はそれ程には多くないことでしょう。米価が上昇する程に利益も上がるのですから、たとえ現物で受渡されたとしても、直ぐには手放さず、倉庫に眠らせようとするはずです。お米の放出は、自己利益に反するからです。結局、お米の保管場所の移転に過ぎず、大多数の消費者の食卓にはお米は届かないか、不当に釣り上げられて高値のお米を買わされることになるのです。

 以上に、先物取引と「買い占め」について問題点を述べてきましたが、この懸念については、重大な情報が欠けていることは、認めざるを得ないところです。それは、先物取引に参加した生産者である農家が誰にお米を引き渡しているのか、これが謎なのです。証券会社を経由して先物取引に資金を投入している投機家達は、現物の受渡しには全く関与しません。先物市場が開設されている大阪堂島商品取引所も、決済所に過ぎないとされています。商品先物取引事業者のリストの殆どは証券会社なのですが、証券会社についても、法律によって異業の事業は規制を受けているはずです(もっとも、SBIホールディングスのような企業グループであれば、子会社や関連会社等を利用できるかも知れない・・・)。それでは、先物で買い取られて農家のお米は、一体、どこに行くのでしょうか。

 おそらく、仲介業を営むブローカー的な存在が想定されるのですが、この点が、どこか不明瞭なのです。先物取引が出現したことで、お米の流通過程がさらに複雑になるようでは、米価安定どころか、混乱要因でしかなくなります。少なくとも今般の米価高騰を見る限り、先物市場が農産物の価格安定に寄与するとする説は説得力を失いつつあります。

 先物取引がお米の価格形成に影響を与える以上、生産者から消費者までのお米の流れの全プロセスを含む先物取引の仕組みは、国民が知るべき情報と言えましょう(消えた21万トンのお米とも関連するかも知れない・・・)。日本国民の主食が投機の対象となるような決定を、政府の一存に任せるのは望ましいことではなく、国民も農家も共に考えるべき重大問題であり、米先物市場の開設を方針とする政党は、国政選挙にあって自らの公約に掲載すべきであったのではないかと思うのです(つづく)。

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農家の要望なき米先物取引の罪

2025年02月18日 12時00分27秒 | 日本政治
 農産物の先物取引については、一般的には‘天候等による価格変動のリスクをヘッジする’として、その必要性が説明されています。収入が安定するので、農家のためにこそ存在するとする説です。しかしながら、本ブログの2月7日付けの記事でも述べましたように、農家にとりましては極めて不利な制度です。

 そこで、昨年2024年8月から大阪堂島商品取引所での米先物取引再開の経緯を見ますと、やはり疑問ばかりが沸いてきます。先ずもって、取引復活に際しては、SBIホールディングスの強い要請があったことは疑いようもありません。同社は、大阪堂島商品取引所の株式公開時に凡そ3分の1を取得しており、市場の運営者がプレーヤーを兼ねる状態となります。中立・公平であるべき取引所が自社企業に有利になるように運営する懸念が高まるのですが、実際に、米先物取引の再開と同時に、SBI証券が米の先物取引市場に参入し、主要プレーヤーとなっています。SBI証券のビジネスとその利益のために米先物取引を再開させたことは、誰の目にも明らかと言えましょう。しかも、農林中金の巨額損失が明らかとなった、まさにその時期に。

 加えて日本国政府にも、民間の一企業、あるいは、投機筋への利益誘導政策として米の先物取引を再開に許可を与えた疑いが生じます。内外に市場を開放した形での先物取引は今般の米価高騰の一因とも推測されますので、これは、大問題となりましょう。第一に、先物市場の開設は、農家からの要望ではないのですから。冒頭の説明のように、仮に農家には農産物価格の変動リスクをヘッジする必要があるならば、農家の側から開設を求める強い要請があったはずです。しかしながら、農協は一貫して先物取引反対の立場にありましたし、一般の農家の人々が先物市場の開設を政府に求めた形跡もありません。農家としては、先物取引によって自らが生産した農産物を‘得体の知れない事業者’に売り渡すことには二の足を踏むことでしょう(因みに、堂島商品取引所のホームページでは、投資家に対して受渡しの必要はないとしつつ、契約が成立した際の農家、あるいは、集荷事業者や卸売り事業者の‘受渡し先’に関する説明がない・・・)。

 となりますと、先物市場農家必要説は崩れ、そこに現れるのは、投機マネーを集めて賭け事をするマネーゲームの場としての先物市場です。そして、この現実は、農産物の先物市場の実態はカジノと同じであり、一刻千金を夢見る者や富裕層の遊びの場でしかないことを示しています。しかも、一般の国民にとりましては、カジノより遥かに有害であり、実害も発生します。カジノでは、賭に負けても勝っても、それは、賭けた人の自己責任であり、その資産をもって決済されますが、先物市場では、市中の農産物価格にも影響を与えます(現物取引よりも時間的な余裕があるので、価格操作という‘魔’が入り込む余地もある)。言い換えますと、一般の消費者も、マネーゲームの巻き添えにされかねないのです(なお、農産物市場に限らず、一般の人々は、バブルとその崩壊など、常に、金融筋の投機的な行動の犠牲者となる・・・)。今日に至るまで、日本国にあって米先物取引市場が設けられてこなかった理由も、この点にあると言えましょう。マネー・パワーに迎合、あるいは屈して、先物取引のリスクを国民に負わせた政府の責任も重いということになります。

 そして、この問題をさらに突き詰めてゆきますと、農産物の生産者でもなく、また、集荷業者でも卸売業者でもない無関係な個人や事業者が、自らの私的利益のために農産物の売買を行なう正当なる自由や権利があるのか、という疑問に行き着きます。もちろん、証券会社は、農産物の売買を手がけているわけではありません。農家にリスクヘッジの機会を提供していると抗弁するのでしょうが、その必要性が乏しいことは先に述べたとおりです。否、農家に対するリスクヘッジの手段の提供と見せかけながら、その実、全体から見れば、先物市場は、一部の投機家たちの私的欲望のために一般の人々にその数万倍ものリスクをもたらすという、リスク増幅装置として作用しているように思えます。国民の生活を危険に晒すこのような装置こそ、誰も‘ヘッジ’できない最大のリスクなのではないでしょうか。

 真偽の程は分かりませんが、大阪堂島商品取引所では、政府による備蓄米放出の方針の発表にも拘わらず、米価下落の効果を願う国民の期待をあざ笑うかのように、先物の価格は今なお上がり続けているようです。岸田文雄前首相が提唱した‘新しい資本主義’とは、マネーゲームのさらなる解禁なのでしょうか。米価対策は備蓄米の放出が全てではなく、日本国政府は、米先物取引に許可を与えた責任をとり、速やかに同取引の許可を取り消し、合わせて「買い占め等防止法」のお米に対する適用を表明すべきではないかと思うのです。

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米先物取引には情報統制がかかっている?

2025年02月17日 09時44分17秒 | 日本政治
 今般の異常なまでの米価高騰の背景には、昨年の8月から大阪堂島商品取引所で再開されたお米の先物取引が関与している疑いは濃厚です(「コメ指数先物」)。しかも、この米先物市場に関しては、国民の関心を引かないように隠されているのではないか、とする説もあります。実際に、日経新聞の大阪堂島商品取引所の先物市場情報欄を見ましても、トウモロコシについては掲載されていても、何故か、お米については情報がないのです。もしかしますと、既に閉鎖されているか、あるいは、取引の頻度が低いとも考えられるのですが、お米の先物取引を取り上げる大手メディアや雑誌社も殆ど見当たりませんので、情報が規制されているとも推測されるのです。

 先物取引では、「買いヘッジ」であれば、決済時の限月に1円でも契約時の「現物コメ指数」よりも高値となれば利益が出ますので、投資家や投機筋には価格操作の動機が強く働きます。このため、仮に、米先物取引に対して情報統制が行なわれているとしますと、幾つかの理由が考えられましょう。先ずもって注目すべきは、同市場は、海外投資家等にも開放されている点です。

 米価高騰については、ネット上では、中国系の‘事業者’から生産農家に対して高値買取の問い合わせがあるとする情報も散見されます。日本国の米先物市場が中国人富裕層のターゲットになっているとしますと、こうした「買い占め」も、先物市場における投機的なチャイナ・マネーの流入と関連しているのかも知れません(現物取引を含めて、にわか集荷業や卸売業社を造る・・・)。仮にこの推測が正しければ、情報隠蔽の理由はまたしても‘悪しき中国配慮’ということになり、未だに日本国の大手マスメディアが、中国との間の報道協定に縛られているということにもなりましょう。あるいは、日本国政府が、かつての米騒動のような反中暴動とまでは行かないまでも、日本国民の対中感情の悪化を押さえるべく、今般の米価高騰の怒りの矛先が中国に向かわないように情報を隠蔽しているとも推測されます。もっとも、安易に中国系事業者に売り渡してしまった農家も、日本国民に対する手前、同情報は表沙汰にはしたくないのかもしれません・・・(農村では、深刻な‘お嫁さん不足’から中国から嫁いできている農家も多い・・・)。

 第二の推理は、グローバリストの日本攻略戦略の一環でとする見立てです。国民には見えないところで、先物、現物を問わず、お米市場には、チャイナ・マネーのみならずグローバル金融の潤沢なマネーも投入されているのかも知れません。しかも、世界大での‘最適分業’を目指すグローバル視点からしますと、日本国の分担は、‘おいしい日本米’の輸出国であったとしても、その消費国ではないのでしょう。むしろ、日本国は、アメリカ等で大量に生産されている小麦を中心とした安価な輸入穀物の消費国であるべきと考えているとすれば、今般、米価高騰の演出は、一石二鳥にも三鳥にもなるのです。全世界のメディアに対するグローバリストの甚大なる影響力を考えますと、日本国内のメディアに対する情報統制も難しいものではないはずです(もちろん、グローバリストの僕である日本国政府は黙認あるいは協力・・・)。

 そして、第三の推理は、SBIホールディングスの意向が強く働いているというものです。同社は、堂島商品取引所の株式の凡そ3分の1を保有すると共に、米先物取引の再開と同時に、SBI証券が同市場に参入しています。グループ全体としては金融のみならず、情報・通信をはじめ様々なインフラ事業をも手がけていますので(独禁法違反では・・・)、米価高騰に関与したともなりますと、‘ソフトバンク’という企業ブランドのイメージ悪化は避けられません。この事態を恐れて、政界にも繋がる人脈やマネー・パワーを駆使して、情報の拡散を押さえ込んでいる可能性もありましょう(あるいは、グローバリストの‘先兵’の役割・・・)。

 米価高騰に国民の多くが憤る中、政府は、備蓄米放出の方針を示してはいるものの、その原因を明確には説明してはいません。遠因を含めれば複合的な現象でもあるのでしょうが、米先物取引の再開が引き金となった可能性が高いにも拘わらず、意図的とも思える情報の乏しさが、むしろその信憑性を高めているとも言えましょう。先物取引が原因ではないならば、日本国政府、堂島商品取引所、及び、SBIホールディングスは、参加者の構成、成約数、取引量(3トン単位)、限月での現物の受渡しの実態等を公表し、‘あらぬ疑い’であれば、事実による証明をもってそれを晴らすべきではないかと思うのです。

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相互主義関税は保護主義の相互承認への道?

2025年02月14日 12時07分31秒 | 国際経済
 江戸時代も末期となる1858年、徳川幕府は「安政五カ国条約」を結び、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリスそしてフランスとの間の通商を開始します。これらの条約によって輸出入に関する関税も定められたのですが、その内容が不平等であったため、その後、条約改正が明治政府の重大なる政治課題となったことは、教科書の記述等でもよく知られるところです。関税自主権の回復は、1905年の日露戦争での勝利を待たねばならず、日本国の悲願の達成には凡そ半世紀を要したことになります。

 輸出関税率を5%、輸入関税率を20%とする「安政五カ国条約」で定められた関税率は、アロー号事件後に清国と間で締結された天津条約における輸入関税率が輸出関税率と等しく5%であったことを踏まえますと、自国産業の保護という意味においては、確かに「安政五カ国条約」の方が有利であったかも知れません。また、低率の輸出関税率が、日本製品の海外輸出を後押ししたことも確かなのでしょう。しかしながら、喩え日本国側に有利な側面があったとしても、この時、日本国側が強く意識したのが、独立国家としての主権の確立であったことは疑いようもありません。西欧列強の砲艦外交の結果として締結された条約でしたので、日本国にとりましては、半ば‘強制された’条約であったからです。今日の「条約法条約」第52条では、‘武力による威嚇、または、武力の行使による国に対する強制は、条約の無効事由となりますので、日本国側の不服は当然の反応とも言えましょう。日本国の近代史を振り返りましても、関税に関する権限、すなわち、通商に関する政策権限が、現代人が想像する以上に重大問題であったことが分かります。

 さて、前置きが長くなりましたが、第二次世界大戦が、ブロック経済、すなわち、列強による経済圏の‘囲い込み’を要因として発生したとする共通認識から、戦後は、アメリカを中心とした自由貿易体制が構築されることになります。この流れの中で、自由貿易主義=正義とするイメージが浸透し、完全なる関税の撤廃こそ世界の諸国が共に目指すべき究極の目的地とされたのです。かくして、関税を設けること、即ち、保護主義が、あたかも悪事のような後ろめたさや罪悪感を抱かせる程まで、自由貿易主義は‘絶対善’の地位を得てしまうのです。今日の自由貿易体制、延いてはグローバリズムの出発点が第二次世界大戦にあったとしますと、GATTの枠組みにおける交渉ラウンドを経たとはいえ、各国の市場開放にはやはり武力が用いられたとする見方も成り立つようにも思えます。

 しかしながら、誰かを護る、あるいは、何かを保護するという役割を考えた場合、それを‘壁’や‘囲い’を設けることなくできるのでしょうか。自然界でも、放置すれば外来種が在来種を駆逐してしまうケースは珍しくはありません。勢力圏の囲い込みが世界大戦を招いたとする説に一理があったとしても、関税壁そのものを否定するのは、‘羮に懲りて膾を吹く’という諺どおりの過剰反応のように思えます。そもそも、各国が独立的な‘関税自主権’を有していれば、自国の産業構成や生産量等に鑑みて、自由に貿易相手国を選ぶことができるのですから、ブロック化は起きるはずもないのです。この側面からしますと、EUであれ、CPTPPであれ、RCEPであれ、今日、さらなる自由化を目指して世界各地で誕生している地域的経済枠組みの方が、余程、ブロック化の要素が強いとも言えましょう(多角貿易の阻害要因に・・・)。

 今般、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、相互関税の方針の下で関税を復活させております。その具体的な内容についての詳細は不明なものの、今後、アメリカは、自国の関税率と同率の関税を相手国に課すという相互主義を、通商の原則に据えたものと推測されます。この方針は、貿易相手国によって関税率を変えることを意味しており、関税の完全撤廃という、戦後に敷かれた‘一本道’からの離脱を示したことにもなりましょう。

 関税の復活については、自由貿易主義やグローバリズムの流れに反するとする批判もありますが、アメリカの方針転換は、他の諸国にとりまして決して悲劇ではないように思えます。例えば、日本国につきましても、相互主義に基づけば、中国等からの安価な輸入品の一方的な流入を防ぐことができるようになります。現状は、中国側が、自らの都合に合わせて一方的に高い関税を設定する一方で、日本国政府は、グローバリズム原理主義の下でさらなる市場開放を進めているからです。相互主義への転換は、全世界の諸国にとりまして保護主義の相互容認への第一歩であり、やがては各国共に自国の産業を護りながら、相手国にも恩恵となる最適な通商網を選択的に世界大に構築する道を開くことになるのではないかと思うのです。

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グローバリズムの正体は世界戦略では

2025年02月13日 11時32分09秒 | 国際経済
 グローバリストの最終目的が‘もの’、‘サービス’、‘マネー’、‘人’、‘知的財産’、‘情報’の世界大かつ全面的な自由移動であるとすれば、その行く末は、グローバリストが最適と見なした形での国際分業の成立とその固定化であることは、容易に予測されます。そして、自由移動こそが、政治分野における征服や異民族支配に伴う一側面であったことを思い起こしますと、グローバリズムとは、経済理論でも、思想や宗教でもなく、その本質において‘世界戦略’であった可能性が高まってくるのです。

 経済学にあって、グローバリズムが全人類にもたらす効用や恩恵を論理的に説明する理論が登場せず、行き詰まってしまった理由も、それが不可能な命題であったからなのでしょう。国境の消滅とそれに伴う全ての生産要素の自由移動の帰結が、全ての諸国の経済成長であり、全ての人々の生活レベルの向上であると断言することには、誰もが躊躇するはずです。逸早く市場統合を試みたEUでも、当初に予測されていた高い経済効果が全ての加盟国にもたらされた訳ではありませんでした。ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクといったかつての‘西側先進国’は、低成長と経済停滞に悩まされていますし(マイナス成長を記録した年もある)、加盟当初は投資に沸いた中東欧諸国でも、今ではマイナス成長が目立ってきています。その一方で、企業レベルでは、インフラ分野を含めて規模に優るドイツ企業の‘一人勝ち’が指摘されており、欧州市場やユーロ誕生の際の浮かれたような熱気は今では嘘のようなのです。現実が証明しているのですから、グローバリズムにつきましても、経済的な繁栄を描く理論や理論を提起しても、自ずと説得力が乏しくなるのです。

 かくしてグローバリズムの理論武装の路線は半ば放棄された状況に至ったのですが、それに代わって頻繁に用いられるようになったのが、プロパガンダやイデオロギー化で合ったように思えます。理屈では説明を付けられない、あるいは、論理的帰結を誤魔化したい場合、イメージ操作や洗脳という手段がしばしば使われるものです。グローバリズムも、人類の理想郷としての根拠のないイメージが拡散されるようになるのです。例えば、今日、マスメディアや経済空間では、DX、GX、再生エネ、AI、メタバースといった近未来テクノロジーの言葉が飛び交い、日本国政府もファンタジーのようなムーショット計画を打ち上げています。グローバリストの本山とも言える世界経済フォーラムが描く未来像もこの一種であり、臆面もなく‘グレート・リセット’の名の下で‘グローバル・ガバナンス’のヴィジョンが公開されているのです。グローバリズムはあたかも新興宗教のようでもあり、多くの人々が洗脳されているかのようです。

 しかしながら、グローバリズムとは、元よりグローバリストの世界戦略であったとすれば、以上に述べてきた奇妙な現象も説明が付きます。‘グローバリズムは金融財閥でもあり、膨大な利権とマネー・パワーを握る極少数の私人達による世界戦略である’とする仮定の下で経済現象を分析すれば、経済学にあってもより合理的に現実を説明できたことでしょう。陰謀論として同仮定をはじめから排除しているからこそ、出口のない迷路にはまってしまっているようにも見えるのです。

 それでは、人類は、グローバリズムの罠から逃れることが出来るのでしょうか。少なくとも今日の日本国の政治家やマスメディアを見ておりますと、あたかもグローバリストの‘僕’のようです。その一方で、グローバリズムの行く先が、中間層の消滅を経て貧富の格差の拡大し、最終局面では経済面における‘世界分業体制’であるとしますと、AIの普及促進も、中間層の消滅という意味において最終段階に差し掛かってきている証であるのかもしれません。しかしながら、現時点にあっては、既に引き返しのできない段階に達しているとも思えません。グローバリズムは‘世界戦略’である、とする認識が人々の間に広がれば、やがて洗脳も解けてゆくことでしょう。

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グローバリズムの格差拡大メカニズムとは

2025年02月12日 13時38分03秒 | 国際経済
 1980年代後半以降、米ソ冷戦時代の終焉をもってグローバリズムが全世界に広がることとなります。とりわけ、2002年に中国がWTOに加盟すると世界経済の状況は一変し、同国が、経済大国として躍り出ることにもなりました。この流れに平行するように、経済格差の広がりも顕著となり、かつての先進国でも中間層の崩壊に伴う貧困の増加が深刻な問題として持ち上がることにもなったのです。結局、グローバリズムが国家間の貿易において相互に利益をもたらし、全ての人々の生活を豊かにするとする宣伝文句とは逆の方向へと向かったことになります。それでは、何故、グローバリズムは‘嘘つき’となってしまったのでしょうか。

 その理由は、昨日の記事でも指摘したように、国境を越えた生産要素の自由移動が、経済学において自由貿易主義者が主張してきた比較優位による互恵的な国際分業の根拠を崩壊させると共に、現実においても、堰きを外すと水が高きから低きに流れるが如く、あらゆる領域にあって最適な箇所への集中が起きてしまったからなのでしょう。ヘクシャー・オーリンモデルでは、資本が潤沢な国での知識集約型、労働力が豊富な国での労働集約型の産業への特化による国際分業が説明されていますが、国境の壁が消失しますと、資本の自由移動により労働力の豊富な国における知識集約型の製品の製造が可能となります。つまり、資本も労働力も特定の国に集中してしまうのです。言い換えますと、自由貿易論は、その前提が崩れることにより、皮肉なことに、グローバリズムにおける格差拡大の必然性を説明しているとも言えましょう。

 技術レベルが国際競争力の源泉となる現在では、資本のみならず、製造拠点の移転と共に先端的なテクノロジーや情報も特定の国に集まります。中国が短期間で世界第二位の経済大国まで成長したのも、豊富、かつ、安価な労働力という国際競争上の有利な条件に加え、外部から国境を越えて資本やテクノロジーが集中的に流入したからに他なりません。その一方で、日本国は、勤勉な国民性に支えられた製造拠点としての優位性を失うと共に、テクノロジーの多くも中国に移転されたのですから、産業が衰退するのも当然の成り行きであったとも言えましょう。しかも、アメリカの場合、安価な移民労働力も流入してくるのですから、一般国民の所得水準が低下し、中間層の崩壊が他の先進工業国よりも早くに訪れたことになります。そして日本国も、今や移民労働力の大量流入により、アメリカと同じ轍を踏もうとしているように見えるのです。

 もっとも、貧富の差が開き続けているアメリカがそれでもなお、日本国にはない経済的なアドバンテージあるとしますと、国際決済通貨としての米ドルの強みやIT大手をはじめとしたデジタル分野での優位性などを挙げることが出来ましょう。そして、さらにグローバル時代の強者と言えるのが、グローバリストの母体とも言える金融勢力なのではないでしょうか。上部あるいは外部の視点から全体を見渡し、最も利益率の高い最適な投資、否、国際分業のパターンを見出す位置にあるからです。近年、しばしば経営のスローガンとされる‘選択と集中’とは、実のところは、対象となる産業分野であれ、事業であれ、国であれ、金融グローバリストの戦略なのです。しかも、資本ほど‘逃げ足の速い’要素もありません。焼き畑農業の如くに、賃金水準の上昇等により利益率が下がれば、他の国や地域に逸早く投資先を変えてしまうのです。

 経済学者の多くは、資本の自由移動についてその調整力に期待する向きがありますが(資本の相互融通により不足と過剰を平準化する・・・)、高い利益率が期待できる国や地域のみが‘選択’され、投資がこれらの国や地域にのみ‘集中’してしまうのが現実なのではないでしょうか。しかも、集中的な投資先となった諸国も巨額の負債を負う一方で、債権者となった金融勢力は、これらの諸国に対して自らの利益増進に貢献するように、さらなる市場開放や規制緩和等を求めつつ(政治家もマネー・パワーで籠絡・・・)、利権の獲得、利払いや配当金等によってさらにマネー・パワーを強大化してゆくのです(格差拡大のメカニズム・・・)。

 結局、グローバリズムとは、何れの国にとりましても、金融グローバリストに選ばれなければ経済発展を望むことができない、過酷な環境に身を置くことを意味します。そして、‘選ばれる’ために払われる犠牲も多大であり、屈服をも強いられかねないのです。以上に述べたように、グローバリズムを特定の勢力の利権集団のための世界大の仕組みとして捉えますと、人類は、この枠組みからの離脱こそ目指すべきと言えましょう。この意味において、日本国を含む各国共に、中間層の貧困化を防ぐためにも、自国経済の発展を基礎とした自立的な経済成長をめざし、速やかに方向転換を図るべきではないかと思うのです。

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自由貿易論の限界とグローバル理論の不在

2025年02月11日 11時34分01秒 | 国際経済
 自由貿易主義の非現実性は、垂直であれ、水平であれ、自由競争の結果とされる国際分業なるものが、全ての諸国にとりまして満足するとは限らないという事実をもって容易に理解されます。しかも、 ‘最も効率的な国際分業’である以上、たとえ自国が担うことになった‘役目’に不服があったとしても、半ば永遠に固定化されてしまうかもしれません。ITやAIなど先端技術の分野にあって圧倒的にテクノロジーの差が生じてしまっている今日では、過去の時代よりも遥かにキャッチアップが難しい時代でもあるからです。否、キャッチアップが可能な国は、中国やインドと言った人口並びに資源に恵まれた大国に限られているのが現実とも言えましょう。グローバル時代には、‘規模の経済’が優位要因として極めて強く働くからです。

 比較優位説に基づく自由貿易体制における分業については、ヘクシャー・オーリンモデルというものがあり、資本が潤沢な国と労働力が豊富な国との間の分業をモデル化しています。前者では、知識集約型の製品が製造輸出され、後者では、労働集約型の製品が製造輸出されると説明されます。この理論は戦前に唱えられたものですが、逆説的には、供給される生産要素の違いであれ、何であれ、国によって輸出製品に価値の差が生じることを認めているとも言えます。もちろん、前者の価値、すなわち、単価の価格は前者が遥かに高くなるのですが、このことは、比較的に価値の低い後者を製造する国は、前者が製造する最先端の高付加価値の商品を輸入することができないことを意味します。つまり、輸出品において価値に差がある場合には互恵関係が成立しないのです。植民地主義も、アジア・アフリカ諸国が商品作物の生産に特化する一方で、欧米諸国が工業製品の生産を担ったとすれば、国際分業として是認されてしまいます。

 輸出製品の価値差は、これらの理論に頼らなくとも、途上国の経済成長が遅れがちである現実を説明しています。途上国は、輸入に際しての決済(支払い)に必要となる外貨を十分に入手することができないからです。そして、この側面こそ、外国為替を無視したリカードの比較優位説の弱点でもあります。通貨においても国による価値差が存在する場合、価値の低い製品を輸出している国が外国からより価値の高い先端的な製品を輸入しようとすれば、決済通貨が外貨であれば、自国通貨を売って決済通貨(外貨)を買わなければならないのです。となりますと、輸入が増えるほどに自国通貨売りによる為替相場の通貨安が生じ、ますます国内における輸入品の価格が上昇すると共に、互恵関係から遠のいてゆくのです。

 もっとも、為替相場の下落については、輸出には通貨安が有利なため、輸入量の減少と輸出量の増加によって自動的に調整されるとする説もあります(逆に、通貨高の国は輸入が増加し輸出が減少・・・)。しかしながら、この調整力は、国際分業が成立し、かつ、輸出品の価値に差がある場合には、効果が限定されてしまいます。低価格の商品の輸出量が増えたとしても、そこで獲得される外貨は微々たるものだからです。しかも、リカードは、貿易に際して要する決済通貨についても、全く関心を払っていません。第二次世界大戦末期にあってIMFが設立され、兌換通貨としての米ドルを事実上の国際基軸通貨とするブレトンウッズ体制が構築されたのは、貿易決済の円滑化であったのですから、経済学者がまず先に関心を寄せるべきは国際決済通貨であったにも拘わらず・・・。

 因みに、ヘクシャー・オーリンモデルの発案者であるエリ・ヘクシャーは、スウェーデン国籍ではあるものの、リカードと同じくユダヤ系の経済学者でした(ベルティル・オリーンはその弟子・・・)。ヘクシャーもまた、一国の国益に囚われないグローバルな視点の持ち主であったことは想像に難くありません。国際分業とは、あらゆる国を自由貿易体制に組み込むこと、即ち、世界、否、全世界の諸国に関税を撤廃させることによって実現するからです。国際分業の観点からすれば、今日の日本国に期待されている役割は、日本国政府の政策方針を見る限り、富裕者向けの農産物や水産物の生産、並びに、観光であるようにも思えてきます。

 以上に、自由貿易理論の非現実性を概観してきましたが、そもそも、自然科学における理論が、一つの例外事例をもって崩壊してしまうにも拘わらず、経済理論の多くが、非現実的な条件を付していることには大いに疑問があります。例えば、ヘクシャー・オーリンモデルでは、生産要素は地域間では移動しない、としていますが、現実には、資本であれ、労働力であれ、国家間を移動するからです。そして、この生産要素の国境を越えた移動自由化こそ、自由貿易主義とグローバリズムとの違いを意味します。前者は、あくまでも、現在の国家間の貿易を前提としている一方で、後者は、未来における国境なき世界市場の出現を想定しているからです。

 実のところ、ここから先にあって、グローバリズムを肯定的に擁護する理論が現れず、移動の自由化をもって破綻してしまう自由貿易論がなおも持ち出されるのは、その論理的な帰結が一般の人類にとりましてはディストピアであるからなのではないでしょうか(つづく)。

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関税壁の復活は内需復活へのチャンスでは?

2025年02月10日 10時24分10秒 | 国際経済
 国内政治にありましては、弱い立場の人々を扶けることは、政府の役割の一つとしされています。このため、所得や収入が低いといった恵まれない立場にある人や世帯に対しては、税を軽減したり、特別に支援金や手当を支給すると言った措置がとられています。所得レベルに比例して税率を上げてゆく累進課税も、弱者に配慮した制度と言えましょう。経済政策の分野でも、大企業と中小企業とは区別されており、一律に同一条件で法を適用するのではなく、後者に対しては条件を緩和するといった措置がとられることも珍しくはありません。こうした政策の根底には、全てのメンバーの生活を維持し、豊かさをもたらすという、公権力の存在意義があるからなのでしょう。

 それでは、今日の自由貿易主義やグローバリズムはどうでしょうか。今日に至るまで、これらの自由主義思想の基礎的な理論は、リカードが唱えた比較優位説に求められてきました。ところが、この説に従えば、競争力において劣位する‘弱者’は、当然に淘汰されることになります。否、完全に淘汰しなければ、最適で理想的な国際レベルでの分業も資源の効率的配分も成立しないのですから、劣位産業を潰すことは当然に通過すべき‘プロセス’となるのです。

 そして、このリカードの視点において注目すべきことは、貿易を行なう双方国における淘汰を肯定的に認め、特定の国家の立場や利益に立脚しているわけではない点です。あるいは、客観性や中立性を装いながら、その実、当時自由貿易主義で最も利益を得たイギリス、もしくは、同国に内在化したユダヤ勢力に貿易利益がもたらされる体制を理論武装しようとしたとも言えましょう。何れにしましても、国家を主体とした二国間の貿易を論じているように見せながら(従来の一般的な見解)、リカードは、上部あるいは外部から国際経済を捉えようとしていたことになりましょう。

 さて、自由貿易主義やグローバリズムの方法論はいたってシンプルであり、それは、国境を越えてあらゆる要素を自由に移動させることにあります。障壁となる国境が消滅すれば、広域的な競争が始まり、自動的に規模や技術に劣る側が中小国の産業やより規模の小さな企業が淘汰されてしまうからです。現実には、人口、国土の面積、地理的条件、気候、国家機構、技術レベル、教育レベルなど、様々な面において国家間には格差がありますので、この状態で自由競争を強いますと、柵を外して羊さんとオオカミを同じフィールドで闘わせるようなもので、‘弱肉強食’となるのです。保護壁として国境が消滅すれば、より規模が大きくよりテクノロジーにおいて先進的な諸国のみが勝ち残るのは目に見えているのです。もちろん、敗者に対するフォローはありません。上述したように、国内政治では、規律ある自由主義経済を基調としつつも、それでも経済的に弱い立場の人々が生じた場合には、上述したように公的な支援を行なうものなのですが、グローバリズムにはそれもないのです(あるいは、淘汰された側の国に弱者救済の責任や負担を押しつける・・・)。

 リカード並びにその後継者たるグローバリスト達に淘汰に対する罪悪感が全くないのも、国家の利益やその国の国民生活は、全く視野に入っていないからなのでしょう。そして、今日、グローバリストや新自由主義者達が日米をはじめ多くの諸国から批判に晒されているのも、その冷酷なまでの淘汰容認にありましょう。淘汰とは、社会一般ではこの世からの追放を意味しますので、道徳観や倫理観を持ち合わせていないサイコバスにしか見えないのです。‘世界レベルで最適の分業体制が成立するのだから、何が悪い’ということなのでしょう(しかも、同体制においては利益の殆どは永続的にブローバリストに集中する・・・)。

 アメリカではドナルド・トランプ大統領が関税を復活させ、アメリカ産業を護る方針を打ち出しています。日本国内では、メディアを中心に自由貿易主義に反するとして反対の声で溢れていますが、むしろ、関税の復活とは、経済面においても、政府が保護的な役割を取り戻すことによる‘正常化’を意味するように思えます。日本国政府も国民も、‘関税壁のある時代’の到来を危機とは見なさず、農業を含めた自国産業の復活に努め、新たなる内需型経済を構築するチャンスとすべきではないかと思うのです。

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米先物取引は農家に不利では

2025年02月07日 12時40分29秒 | 日本政治
 昨年2023年8月において大阪堂島商品取引所で再開されたお米の先物取引は、米価高騰の時期と重なることから、値上がり原因の疑いがあります。先物取引再開には、堂島商品取引所のステークホルダーでもあるSBIホールディングスの強い働きかけがあったとされ、投機のチャンスを狙う金融筋の思惑が絡んでいるのは確かなことなのでしょう。

 農産物の先物取引については、投機マネーの流入が懸念されながらも、農産物価格の変動リスクをヘッジする役割を果たすとする肯定論があります。否、農家に対するリスクヘッジこそが、農産物の先物市場の存在意義とも言え、この役割なくしては、誰も同取引を正当化できないことでしょう。競馬や競輪などと同じく、単なる‘賭け事’となってしまうのですから。しかも、日本人の主食であるお米を賭け事の対象とするとなりますと、多くの国民からの反対の大合唱が起きることでしょう。それでは、この変動リスクヘッジ説は、先物取引を正当化できるほど、説得力があるのでしょうか。

 ‘農家のための先物取引’によれば、農家は、天候や作柄による価格の変動リスクから逃れられるとしています。しかしながら、天候が良く、作柄も良好であっても、‘豊作貧乏’という言葉があるように、大量供給による価格の低下により収入が減少することもあり得ます。また、天候が悪く、作柄も平年以下であっても、供給量の減少による価格上昇が、思わぬ利益をもたらす‘不作長者’という逆パターンもありましょう。その一方で、これらの価格変動も、他の地域の生産量や消費者の動向によって左右されるのであり、実際に‘豊作長者’や‘不作貧乏’となってしまうこともあり得るのです。つまり、農業には予測不可能なリスクが伴いますので、先物取引でのヘッジはリスク軽減にはならず、逆のリスクに掛けたに過ぎないこととなります。

 しかも、この予測不可能性は、他者よりも、より詳細でより豊富な情報を手にしていれば予測可能性に転じますので、半々の確率ではなく、より‘勝率の高い賭け’事となります。この点、今般の米価高騰の場合、農林中金の巨額損失等もあり、先行きの高値が予測されるに十分な状況がありました。つまり、米価が高騰する確率の方が飛躍的に高くなるのですから、情報を得ている側が高値予測で‘買いヘッジ’に投資するのは当然です。つまり、農家よりも金融情報を逸早くキャッチした金融筋や投資家側が極めて有利となるのです。

 それでは、農家の側はどうでしょうか。情報に乏しい場合には、先物取引市場での価格上昇につられて先物での売り渡し契約を結ぶかもしれません。しかしながら、2倍ともされる米価の急激な上昇からしますと、おそらく‘隠れ損’となった農家の方が多いのではないでしょうか(現物取引では1万円の状況下で、先物取引で13000円の価格で売却契約を結んだところ、実際には、20000万円まで上昇したようなケース・・・)。つまり、情報量が‘賭け事’の結果を左右するならば、情報収集能力において優位し(最先端の金融工学やAIをも利用しているかも知れない・・・)、日本国内のみならず世界全体の状況を把握し得る金融筋や投資家に、より多くの利潤がもたらされるのです。

 一方、農家が先物取引で純粋に恩恵を受けるのは、将来的に価格が下がった時のみに限られます。しかしながら、機を見て敏感な金融筋や投資家は、今度は、「売りヘッジ」に走ることでしょう。このケースでは、先安感から売り注文が殺到すれば現物市場でも暴落を引き起こしかねず、先物市場に不参加の農家も巻き添えとなって損失を被ってしまいます。

しかも、生産者側となる農家は常に現物の売り手側ですので、一端、売り渡した限り、買い手側となってそれを買い戻すことも不可能です。一方、差益を期待して先物取引に投資をする人々にとりましては、価格の上昇も下落も同価値のチャンスです。また、新たに発足した堂島のシステムでは、途中で「買いヘッジ」を解約して「売りヘッジ」に切り替えることも自由自在です。先物取引では、農家と投資家との立場は等しくはなく、前者の自由度の方が遥かに高いのです。

 加えて、先物取引が農家のリスクをヘッジするならば、全ての農家が同市場を利用するはずです。上述したように、天候等によるリスクは、全ての農家にとりまして不可避であるからです。しかしながら、全ての農家が先物取引に参加すれば、現行のお米の流通過程は崩壊することでしょう。もちろん、農協は集荷事業者としての役割を失い(農協は、先物市場の開設に一貫して反対・・・)、従来の卸売り事業者も、先物市場で調達せざるを得なくなるかも知れません。そして、米価がおよそ先物市場で決定されるとすれば、小売り事業者や消費者は、今日以上に投機的な価格の変動に見舞われることでしょう。先物取引が価格の安定に寄与するどころか、逆方向に作用知ることになるのです。しかも、今般、先物市場で購入されたお米が何処にいったのか、すなわち、誰が売り渡し農家から集荷し、それを流通ルートに乗せているのか、これもまた謎なのです(密かに輸出されている疑惑も・・・)。

 以上に幾つかの問題点を見てきましたが、農家のリスクヘッジに役立たず、一部の金融筋や投資家の投機の対象となり、しかも米価高騰を誘引しているのであれば、やはり、米の先物市場は閉鎖すべきなのではないでしょうか。存在意義がないのですから。そして、まさかとは思うのですが、政府の備蓄米の放出が遅れたのも、先物取引の「買いヘッジ」の限月を待ってのこともあったとも思えてきてしまうのです。

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米価高騰とグローバリズム

2025年02月06日 11時58分18秒 | 日本政治
 国産米価格の高騰が続く中、グローバリズムの時代なのだから、時代の変化として受け入れるべきとする擁護論も聞えてきます。お米市場が自由化された結果であり、この現状を受入れ、海外から安価なお米を輸入すればよい、というのです。おそらく、農政改革を訴えるグローバリストの政治家の多くも、この路線で改革を推進したいのでしょう。しかしながら、グローバリズムを帝国主義や植民地主義という言葉に置き換えてみますと、この擁護論が如何に危ういものであるかが容易に理解されます。

 古代ローマ帝国は、今日に至るまで様々な学ぶべき教訓を人類に与えています。現代に生きる人々が反面教師とすべき教訓の一つが、‘パンとサーカス’です。肥沃なナイルのデルタ地帯に広大な穀倉地帯が広がるエジプトを征服したことで、イタリア半島には大量の安価な穀物が流入します。この結果、質実剛健で知られ、自らの土地で自立的に農業を営んできた多くのローマ市民達は、安価な輸入穀物に耐えられず、農地を手放さざるを得なくなります。大量の浮浪者が出現して都市に流れ込んでくるのですが、これらの困窮民に対する“施し”の政策として歴代皇帝が実施したのが‘パンとサーカス’であったのです。つまり、無償でパンを配りつつ、持て余している時間を消費させるために、コロッセウム等で娯楽となる様々なショーを提供したのです。帝国側としては、これらの持たざる人々の現状に対する不満が爆発し、反乱が起きることを恐れていたのでしょう。また、古代ローマには奴隷制があり、当時、一人で1万人もの奴隷を抱える権勢家もいたとされますので、その著しい格差には驚かされます。債務奴隷もあり得ましたので、借金で市民権をも失った人々は、奴隷となるしかなかったのかもしれません。かくしてローマ帝国が征服した地にも、大勢の奴隷を使役する大規模なプランテーションが出現するようになるのです。

 古代ローマ帝国の事例は、安価に生産し得る地域がある場合、国境なき広域的な‘もの’、すなわち主食用穀物の自由移動がより規模の小さな自営農業を壊滅させてしまうメカニズムを端的に説明しています。古代ローマ帝国の場合には、軍事的な征服によって“国境”が消滅しましたが、今日では、規模の経済において優位性を有する勢力が推し進めているグローバリズムという経済的潮流が、無血開城の如くに国境を消し去ろうとしています。ローマ帝国と同様の事態が絶対に起きないと言い切れるのでしょうか。

 また、大航海時代以降にあっても、悪しき教訓を大英帝国が示しています。逸早く産業革命を成し遂げ、工場における機械生産によって圧倒的な輸出競争力を獲得したイギリスは、繊維をはじめ安価な消費財を大量に輸出するようになります。英東インド会社が植民地化した地域は、安価なイギリス製品の消費地ともなるのですが、この結果も、自由貿易主義が主張する互恵的なものではなかったことは言うまでもありません。インドでは、農村にあって手織物を生業としてきた人々が職を失い、至る所で白骨街道が出現したとも伝わります。インドのみならず、他のアジア・アフリカの各地でも、伝統的な農村社会が消滅する一方で、本国の事業家が様々な輸出用の商品作物を栽培経営し、現地の人々が半ば強制的に労働を強いられる大規模なプランテーションが建設されてゆくのです。もちろん、高級品は本国や海外の富裕層に向かい、現地の人々の食卓や生活を潤すことはなかったのです。

 これらの事例は、国際競争力において劣位する場合、国境の消滅は、その国の産業に対して破壊的な作用を及ぼすことを、歴史的な事実として示しています。歴史の鏡に照らして見ますと、相互互恵を描くリカードの比較優位説による自由貿易論は現実を説明してはいません。当時のイギリスの自由貿易政策を正当化し、負の側面から人々の目を逸らさせるために一部を切り取って美化した‘プロモーション理論’であったとも考えられましょう。しかも、グローバルな時代とされる今日においてさえ、‘国境なき世界市場’が全ての人々に恩恵をもたらすことを、論理的、かつ、万民が納得する説明力を有する理論が出現しておらず、未だにリカードの理論に頼っている現状を見れば、‘推して知るべし’なのです(なお、現代ではヘクシャー・オリーンモデル等はあるが、同様の批判を受けている・・・)。

 もっとも、グローバリズムを礼賛する人々は、なおも日本国から農業が消えても、農家以外の一般の国民は、割高な国産に代えて安価な輸入穀物を購入することができるのだから、何らの問題はないとする反論もありましょう。しかしながら、海外から輸入するとなりますと、外貨による決済、即ち、支払いが必要であることを考慮していないように思えます。外貨が国内で足りなければ無尽蔵に輸入ができるわけではないのです。そして、この貿易決済に要する決済通貨、並びに、異なる通貨間の価値評価の問題にこそ、リカードの説の欠落部分であったことは注目に価するのです。(つづく)。

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米価高騰から経済における‘自由主義’を考える

2025年02月05日 13時20分48秒 | 日本経済
 今般の米価高騰については、今後のさらなる値上がりや品薄も懸念されており、政府が備蓄米放出の方針を示しても、国民の不安が払拭されたわけではありません。食料品の全般的な値上がりもあって、国民生活は苦しくなるばかりです。この問題、実のところ、経済における自由主義に関する二つの‘思い込みの問題’を提起しているように思えます。その一つは、国内市場における一般的な自由主義であり、もう一つは、グローバリズムにも繋がる国際経済における自由貿易主義です。

 近代における経済自由主義の祖ともされるアダム・スミスは、その著書『諸国民の富』において自由主義経済の効用を論じています。‘神の見えざる手’は、人々の自由な経済活動が自然に富をもたらすことを上手に表現した言葉です。確かに、より豊かな生活を求めて多くの人々が経済活動に熱心になりますと、経済成長が促されて皆が豊かになるとする説には説得力があります。神様も登場するのですから、多くの人々はこの説を信じたことでしょう。しかしながら、その一方で、欲望には一定の制限を設けなければ他者に対する侵害となりかねないことは、自明の理でもあります(制限を設けなければ、殺人、人身売買、窃盗などの自由も許されてしまう・・・)。この理は、経済に限ったことではなく、人類社会における道徳倫理の根幹に位置しています。自由という価値は極めて重要でありながら、他者の自由や権利を侵害しないように自由に制限を設けることに反対する人は、殆どいないのではないでしょうか。

 この観点から今日の自由主義を見ますと、とりわけ新自由主義が主張する規制緩和や聖域なき自由化には、疑問符が付くこととなります。今般の米価高騰を見ましても、異常なまでの米価高騰は、人々の私益を求める自由行動に起因しているからです。しばしば、自由化に際しては、価格競争や品質をめぐる事業者間競争が促進され、消費者が利益を得ると説明されてきました。誰もが納得しがちなのですが、同説の主張通りに競争が働くには、一定の条件を満たす必要があることは忘れがちです。最低限、需給バランスにおいて十分な供給及びその可能性が条件となりましょう。

 需要に対して供給が減少すれば価格が上昇することは、価格決定のメカニズムとして経済学が述べるところです。このことは、市場の自由競争は、常に価格が競争的に低下するとは限らないことを意味しています。つまり、供給不足の状況下では、我先に値を上げようとする競争的な値上げという現象もあり得ることとなりましょう。とりわけ農産物は、工業製品のように供給不足に即応することが出来ません。後者であれば、供給不足は増産のチャンスともなるのですが、一年に一回しか収穫期のない農産物は、その年の収穫量がその後一年間の供給量を凡そ決定してしまうのです。

 実際に、今般の米価高騰を見ますと、その発端や真の原因が何であれ、集荷事業者や卸売業者等の人々が、より大きな利ざやを求めて競争的に価格を引き上げているように見えます。マスメディアが供給不足を強調すればするほど、さらなる供給不足を狙った買い占めや売り惜しみが誘発されるのです。しかも、自由化の場は、農業の生産から小売りまでの流通過程に限られてもいません。先物取引市場も開設されていますので、運用益を狙う投資家の欲望をも解き放つのです。

 かくして供給不足の局面では、‘神の見えざる手’は、‘悪魔の見えざる手’に転じてしまいます。国民生活が豊かになるどころか、私利私欲に走った一部の人々の欲望に巻き込まれ、富を吸い取られてしまうのですから。とは申しましても、経済モデルが極めて限られた条件下でしか成立しない問題はマルクスの『資本論』にも言えることであり、統制経済が望ましいわけでもありません。しかしながら、食料供給は生存条件でもありますので、自由放任であってはならないことは確かです。自由化がもたらした米価高騰の惨状からしますと、今後の農政改革は、農業者並びに消費者の自由を護るために、如何にして適切な規律や制限を設けるのか、という方向で進めるべきなのではないでしょうか。最初のステップとして、先ずは、日本国政府は、投機的な買い占め等の取締と共に、農産物市場への投機マネーの流入を遮断すべきではないかと思うのです(つづく)。

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馬脚を現わす日本国の政治家-ガザ難民受入

2025年02月04日 09時41分08秒 | 日本政治
 去る1月25日、大統領に就任したばかりのドナルド・トランプ大統領は、ヨルダンのアブドラ国王との電話会談で、パレスチナのガザ地区の住民の受入を拡大するよう要請したと報じられています。翌26日には、エジプトのシーシー大統領に対しても同様の申し入れを行なったようです。アメリカでは、不法移民の強制退去が始まっているために、周辺諸国に対するガザ住民の受け入れ要求については、ダブル・スタンダードとしての批判があります。そして、昨日2月3日に、石破茂首相も、日本国におけるガザ住民の受入を検討すると発言したと報じられたことから、日本国内では反対の声が広がっています。

 仮に、アメリカの不法移民の強制退去が、出身国への強制送還であれば、ダブル・スタンダードの批判は免れたことでしょう。不法移民の強制送還は、何れの国でも実施されている合法的な措置です。一方のガザ地区住民の受入要請も、戦争と無縁であれば、アメリカによる中東地域への横柄な介入と見なされたことでしょう。ところが、戦時にあり、しかも、移住を強いられる人々がその国の古来の定住者である場合には、全く様相が違ってきます。明らかに国際法違反となるからです。イスラエルのガザ地区に対する民間人にも容赦のない無差別攻撃は、ジェノサイド、戦争犯罪、人道上の罪、そして、侵略にも該当する程に凄まじいものです。トランプ大統領の発言がイスラエルによる軍事作戦の一環としてのガザ住民追放政策に対する協力であることは明らかですので、アメリカは、国際犯罪の‘共犯国’になりかねないのです。

 国際法違反の観点からしますと、日本国政府がガザ住民を受け入れるとすれば、日本国も‘共犯国’の一国に名を連ねることになります。しかも、多くの人々が指摘しているように、ガザ住民が日本国内の居住者となるとすれば、受入側の日本国民の財政並びに社会的な負担も計り知れません。受け入れ国が出身国でもないという点では、明らかなるダブル・スタンダードにもなります。重税に苦しむ日本国民の反発を買うのは当然であり、むしろ、国民の否定的な反応を全く予測も考慮もしない日本国政府の態度には空恐ろしくなるのです。

 時系列的にみますと、日本国政府、否、石破首相が唐突にガザ住民の受入を検討しはじめたのは、トランプ大統領からの要請があったからなのでしょう。到底、同首相自らの発案であったとは考えられないからです。岩屋外相による中国人ビザ緩和に際しても、自民党内でさえ寝耳に水であったことが判明していますが、今般のガザ住民受け入れについても、トップ・ダウン形式での首相本人への直々の要請、あるいは、在日米大使館等を介して連絡があったのかも知れません。受入検討の表明の場は衆議院予算委員会なそうですので、自民党の党内でもメディアの報道で初めて同案を知って驚いたという議員も少なくないことでしょう。

 アメリカ政府からの要請を日本国政府が二つ返事で引き受けるケースは今回が初めてではないのですが、国際法違反行為への加担を要求され、日本国民の民意が完全に無視されるともなりますと、既に一線を越えてしまっている観があります。日米同盟の絆をもって許容されてきた対米協力も、あたかも属国のような扱いを受け、かつ、日本国民に負担のみが押しつけるようでは、忍耐も限界に達してしまうことでしょう。かくして、日本国の国益重視や伝統の尊重を掲げ、保守党を名乗ってきた自民党は、自国を属国化したことにおいて日本国民に対する背信者となると共に、‘傀儡’にして‘偽旗政党’という自らの正体を明かしてしまったことにもなります。

 もっとも、石破首相をはじめとした日本国の政治家の大半が、アメリカの‘傀儡’であると判断するのは早計かも知れません。何故ならば、トランプ大統領は、イスラエル、すなわち、ユダヤ人のためにアメリカの大統領権限を行使しているからです。つまり、トランプ大統領自身もまた‘傀儡’なのであり、全世界に張り巡らされている指揮命令系統のトップに座しているのは、世界権力とも称されるユダヤ系グローバリストである可能性が高いのです。おそらく、世界権力の得意技は二頭作戦ですので、アメリカの基本的なユダヤ・ファーストの外交政策は、民主党政権時代と大差はないでしょう。否、過激化しているようさえ見えます。今や、日本国民も、‘陰謀論’という世論誘導策に惑わされることなく、自国の政治家の傀儡化、並びに、自国の属国化の危機を現実として受け止め、この問題に正面から向き合うべきではないかと思うのです。

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米価高騰は農政改革と関連するのか?

2025年02月03日 12時21分14秒 | 日本政治
 多くの人々にとって、経済の仕組みが複雑に感じられ、分かりづらいのは、国民に公開されていない情報があまりにも多いからなのではないでしょうか。現実には、国民の目には見えないところで、教科書に記述されている範囲の知識や情報を遥かに超えた活動が幅広く行なわれているのですから。

 例えば、今般の米価高騰を見ましても、日本国民の多くは、何故、かくも米価が高騰するのか、その理由が分からない状態に置かれています。その理由は、お米に関する生産から小売りまでのあらゆる段階に加え、金融まで関わる不透明な部分、即ち、‘謎’が多いからです。例えば、日本農業協同組合(農協)や農林中央金庫(農林中金)の問題は今に始まったことではありませんが、外国債権の投資の失敗で生じた凡そ2兆円ともされる農林金庫の損失は、一体、どのような経緯で生じたのかも、謎の一つです。同金庫は、米国債を中心に外国債券を運営してきたと報じられていますが、大量の米国債を保有しているとの説が正しければ、円安によってむしろ含み益も生じているはずです。また、他の金融機関では米国債保有を理由とした巨額損失のお話は聞きませんので、農林金庫のみがかくも巨額の損失を被ったことに首を傾げざるを得ないのです。

 この件に関しては、同巨額損失を受けて、農林水産省の有識者検証会が、農林中金のリスク管理体制を問題視し、理事会への外部有識者の参加等を提言しています。同提言の内容は、巨額損失の再発防止策なのですが、ここで思い起こされますのは、小泉進次郎議員が農水相を勤めていた際に、農協の解体を主張していたことです。確かに、農協の存在にも多々問題があるものの、その一方で、この改革案、どこか、小泉純一郎首相が断交した「郵政民営化」に伴う郵政事業の解体を連想させるのです。農協とは、今般の巨額損失事件の発生現場となったように、貯金、融資、各種保険をも扱う金融部門を含む総合事業体です(農産物の集荷事業も、郵便物の集荷に類似している・・・)。総資産が100兆円を超える巨大なる機関投資家でもあるのです(貸出金残高約18兆円、預金残高約60兆円)。

 郵政民営化については、郵政事業の金融部門を海外の金融勢力に明け渡したとする批判もあり、小泉政権が、国民の利益を慮って行なったのかは疑わしいところです。今般の農水省の有識者検証会が、外部人材の登用に加え、安定よりも利潤重視の方向にポートフォリオの見直しを求めたのも、それが、さらなる‘日本国の金融市場の開放’を意味するからなのかも知れません。海外、つまり、金融勢力であるグローバリストの利益が絡みますと、何故か、政治・行政サイドの動きが素早くなるのです。問題視されているのは、米価高騰ではなく、農林中金の巨額損失なのですから。

 このように考えますと、先の自民党の総裁選挙にあって、背後から支援していた小泉進次郎氏が敗北したことから、グローバリストは、農林中金への内部への浸透、あるいは、別の方向からの‘農協解体’に作戦を変えたとする推測も成り立つように思えます。今後、今般の巨額損失や米価高騰の責任を問われる形で、農協の解体、あるいは、分割を求められるという展開もあり得ないわけではありません。そして、この改革の対象は金融部門に限られるわけではなく、その先には、小泉元農相の方針の如く、輸出可能な米作への転換という目的も含まれているとも推測されましょう(当初の目的は、米価引き下げによる輸出競争力の強化であったものの、今日では、国内の高価格を維持しつつ、別ルートで海外への輸出が拡大しているらしい・・・)。

 先ずもって、農林中金の巨額損失は、何故、発生したのか、その詳細を解明する必要がありましょう。そして、それは、単なる一金融機関の運営失敗に留まるものではないように思えるのです(つづく)。

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