最近、移民の急激な増加を背景として、日本国内では、外国人が犯罪を行いながらも不起訴となるケースが頻繁に見られるようになりました。リベラル派の人々は、国民固有の権利に関わる分野にあっても権利の平等を主張しながら、外国人に対する不可解な不起訴処分については口を噤んでいます。検察審査会も機能しているようにも見えず、法の前の平等を損ねる由々しき問題です。それでは、何故、このような国民に対する政府の義務放棄、あるいは、検察の怠慢がまかり通っているのでしょうか(検察に対する政治介入が強く疑われる・・・)。
現代にあって生じている問題でも、過去の歴史にヒントを見出す場合が少なくありません。日本国内で起きている外国人不起訴の問題についても、既に古代ローマ時代に前例のような類似する事例が見られるようなのです。その事例は、18世紀に執筆されたモンテスキューの『法の精神』の中で、シケリアのディオドロスが書き残した『歴史文庫(歴史叢書?)』からの引用として紹介されています。シケリアのディオドロスとは、紀元前1世紀に神話時代からカエサルのガリア遠征あたりまでの歴史を記述した古代の歴史家であり、『歴史叢書』とは、全四十巻から成る大書です。『法の精神』の紹介文は、以下の通りです。
「イタリア人は彼らの畑を耕し、家畜の群れを世話させるために、シチリアで奴隷の群れを買ったが、彼らに食料を与えることを拒んだ。この哀れな者たちは槍や混紡で武装し、獣皮をまとい、大きな犬を引き連れて街頭へ盗みをはらたきに行かざるをえなくなった。その属州全体が荒らされ、その地方の住民が自分のものといえるのは諸都市の城壁内にあるものしかなかった。この混乱に対抗しうる、あるいは対抗しようとする、そして、これらの奴隷をあえて罰する属州執政官も属州法務官もいなかった。なぜならば、彼らはローマで裁判権をもっている騎士達に所属したからである(『法の精神』第1部第11編第18章)、岩波文庫版より引用」
この文章の意味するところを理解するには、当時のローマにあって、奴隷の多くが戦争捕虜であり、騎士が‘富裕層’であったという時代背景を知る必要があります。博識であったモンテスキューは、同文章を紹介した後に、以下のように述べているのです。
「私は一言だけ述べよう。利得だけを目的とし、それしか目的としない職業。常に要求し、他人からはなにも要求されない職業。富のみか貧困そのものをもまた貧困にする陰険で情容赦のない職業。かかる職業は、ローマにおいて決して裁判にかかわるべきではなかったのである。」
ポエニ戦争後にあって、ローマの支配下に組み込まれた属州では(第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得・・・)、ラティフンディウムと呼ばれる多数の奴隷を使役する大規模農園が各地に出現します。富裕層が騎士(エクイテス)を務めたのは、富める者が軍事的な義務を果たすべきとするローマの伝統に由来しますが、騎士の中には金融業を営む者もあり、時代が下がる程に軍事よりも経済へと活動領域が傾斜しています。つまり、上記のモンテスキューの‘一言’は、富裕層に裁判権を握らせると、安価な奴隷労働力を使い続けるために奴隷による犯罪を取り締まらず、治安が悪化すると批判した言葉なのです。
今日、ローマの属州における奴隷反乱から既に2000年を越える年月が経過しているのですが、この出来事は、どこか、日本国の現状とその構図において極めて類似しているように思えます。現在の自公政権は、まさに現代の富裕層であるグローバリストの傀儡となり、いわば‘属州’と化しているかのような様相を呈しているからです。そして、検察が外国人を不起訴とする理由も、移民ビジネスで利益を上げつつ、安価な労働力として使用している富裕者の側が日本国の統治権を握っているからなのかも知れません。日本国内の治安が悪化しようが、国土が荒らされようが、お構いなしの無情さなのです。
モンテスキューが定式化した三権分立は、立法権力並びに執行権力からの司法権力の独立として理解されがちですが、私的なパワー、とりわけグローバリスに代表されるマネー・パワーからの独立性をも加えて理解すべきなのかもしれません。日本国の治安を回復させるためには、あらゆる不当なる介入を排すべく、警察並びに検察の独立性を含めた司法の独立性の強化を急ぐべきではないかと思うのです。