万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

政党選択から政策別選択への移行を

2024年10月31日 11時43分32秒 | 統治制度論
 現代の民主主義国家では、各政党が公約を掲げて選挙に臨むスタイルが定着してきています。選択の基準がパーソナルな個人から政策リストとして公約に移行した点においては民主的選挙制度を進化させているのですが、公約には、一括選択方式、重大事項の公約外し、果ては外部勢力によるコントロール手段となるといった諸問題があります。特に日本国は中小政党も乱立するために政党政治の限界も見えてきているのですが、この問題に対する解決方法は存在しているのでしょうか。

 少なくとも現状の形式では、政権発足後に民意から離れた政策が実行されてしまうリスクから逃れることは困難です。政治家も政党も、自らの政治信条や支援団体の意向等に基づく政治的な偏りがありますし、民意を100%表すパーフェクトな政策リストの作成は殆ど不可能なことです。その一方で、国民の側にも多様な立場や利益があり、ある一つの政党が提示した政策リストを全面的に支持するという国民も皆無に近いことでしょう。こうした現実が示す改革あるいは改善の方向性とは、国民の各自が、政策毎に選択し得る制度への転換のように思えます。

 そこで考えられる第一の方法は、国民投票制度の導入です。現行の制度では、国民投票は憲法改正手続きに限定されていますが、これ以外の一般の法案にも広げるのです。国民投票の形態ですと、国民が自ら是非の意思表示すべきアジェンダは限定されていますので、民意に従った結果を得ることが出来ます。もっとも、全ての法案を国民投票に付すことは不可能ですので、国民の基本権や利害等に直接に関わる重要な問題に絞る必要はありましょう。昨今の事例としては、選択的夫婦別姓の導入などの家族法の変更は、国民自身の問題ですので、本来であれば国民投票によって決定すべき事項であるのかも知れません。

 もう一つの方法としては、議会の政策別複数議院制への改革です。今日の議会は、一院制であれ、二院制であれ、全ての政策領域の法案を扱う包括・総合型です。歴史的に見ますと、中世ヨーロッパの諸国に見られる身分制議会の主たる役割とは、君主による課税要求に対して各身分が同意を与えることにあり、財政政策に関する利害調整並びに合意形成の機能を果たしていました。長い目で見ますと、議会とは必ずしも包括・総合型である必然性はなく、政策領域別に複数の議院、あるいは、立法機関を設置するという方法もあり得ないわけではないのです。

 複数議院制度の下では、政策領域毎に選挙が実施されることになりますので、国民は、政策を選ぶことが格段に容易となります。その一方で、政党、あるいは、政策提案者の側は、今日のように包括的な政策リストをもって‘抱き合わせ販売的’な手法を用いることが難しくなります。現行の制度にあって衆議院議院選挙(小選挙区と比例代表区)と国民審査の三者を同時に実施するように、政策領域毎に分けられたこれらの複数の議院の選挙も一回の選挙で行なえば、国民の負担も軽減されましょう。

 もっとも、同制度を導入するに当たっては、複数の政策領域をどのように分けるのか、といった政策領域の分け方並びに議院数の問題もありましょう。大きくは内政と外政とに分けることができますが(内政については、予算を要する公益実現系と刑法や民法等の共通ルールを制定する自由・権利保護系を分けるべき・・・)、細かく分けようとすれば切がありませんので、適切な政策のグルーピングも必要となりましょう。あるいは、首相公選制が導入されれば、防衛、安全保障、外交と行った対外的な政策分野は、同選挙をもって適任者を選出すべきなのかも知れません。また、憲法改正を要さない形で同制度に近づけるためには、衆議院と参議院の役割を政策分野別に割り振るという方法もありましょう。

 本提案は試案に過ぎませんが、真の政治改革とは、国民本位の政治を実現するために民主的制度を発展させることに他なりません。現行の制度は完璧ではなく、数多くの欠陥に満ちているのですから、政治家も国民も、外部勢力の圧力に屈する、あるいは、世界権力に絡め取られることなく、民意に応え得る選挙制度、政治制度、そして統治制度の構築にこそ努めるべきではないかと思うのです。

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白票・棄権批判は酷では-選択拒否も国民の権利行使

2024年10月30日 12時07分03秒 | 統治制度論
 普通選挙の実施は、民主主義国家である証とされています。投票所にあって自らが選んだ候補者に一票を投じる国民の姿は、民主主義国家の誇るべき光景でもあります。このため、投票所に足を運ばずに棄権したり、投票用紙を白紙で提出したりしますと、民主主義国家の国民にあるまじき行為としてしばしば批判されます。しかしながら、今日に政治状況を見てみますと、白票・棄権批判は酷なのではないかと思うのです。

 民主主義国家では、主権者である国民は、年齢等の要件が定められているとはいえ、選挙に立候補する被選挙権も、複数の候補者や政党から自らの自由意志で選択する選挙権も有しています。参政権という権利なのですから、棄権も白紙投票も確かに自らの権利を放棄しているように見なされがちです。共産党一党独裁体制を敷くような非民主的な国家では、国民には選挙をもって政治家を選ぶ権利はありませんので、批判者の目には、棄権や白票を投じる人は、民主主義国家の国民としての貴重な権利を自ら捨てているように映ることでしょう。何と愚かなことか、ということになりましょう。

 加えて、棄権や白紙投票に批判的な人々は、これらの行為は選挙結果によって成立した政権に対する‘白紙委任’を意味するとも主張しています。権利を自ら放棄した以上、如何に自らの意に反した政策であってもそれに従うしかない、という見解です。この文脈にあって、国民に対して投票を法的に義務付ける投票義務化論も提起されており、権利から義務への転換も試みられているのです。

 これらの批判は、民主主義の価値に照らしましても一理あるようにも見えます。しかしながら、今日、日本国民が置かれている政治状況も考え合わせますと、以下のような反論が可能なように思えます。

 まずもって白紙や棄権も、投票とは異なる参政権行使の別の形、即ち、消極的な表現形態である、という点です。これは権利一般にも言えることですが、権利とは、必ずしもその行使のみを意味するわけではありません。‘行使しない’ことも、権利者が自らの自由意志によって決定し得る事項の一つと言えましょう。しかも、今日の政治状況は、国民の政治家並びに政党の選択を極めて難しくしています。民主主義国家の政治モデルとも言える複数政党制でありながら、何れの政党の公約にも看過できないような難があるからです。

この選択の困難性は、グローバル化に伴って浸透度を増した世界権力による日本国の政界全体に対するコントロールに起因しているのでしょう。既にグローバルレベルにおいて基本的な政策方針が決定されていれば、各国の国民とも、積極的に政治家や政党を選択する意味も意義も失われます。喩えれば、‘地獄行き’が共通の決定事項となっている場合、徒歩でゆくのか、バスで行くのか、あるいは、電車で行くのか、という、手段やルートの選択を迫られているようなものです。豪華客船という破格の提案を受けても、行く先が地獄であることがわかっていれば、これを選択する人は極僅かなことでしょう。無意味、かつ、何れを選んでも自己に不利益にしかならない選択を迫られた場合、目的地とされる地獄に行きたくない人は、選択そのものを拒否するしかないのです。

 ましてや投票が法によって義務付けられるともなれば、国民は、棄権や白紙と票によって‘地獄行き’を拒否する最期の手段さえも失うこととなります。映画『マトリックス』は、主人公が赤と青との二者択一を迫られるシーンで知られますが、投票の義務化とは、‘自由な選択’という名目の下で選択者を追い込むことにもなりかねないのです(二頭作戦や多頭作戦・・・)。もはや逃げ道はなく、全ての国民が、手段やルートは違っていても地獄に行くしかなくなります。

 棄権や白票が権利に含まれることは、これらに積極的に意味を持たせている投票制を見れば分かります。日本国憲法では、これらの扱いについての記述はありませんが、仮に、政府が国民の命を犠牲にするような政策を実行しようとした場合、棄権率や無効票数が国民が同政策に意義を唱えたり、反対する根拠となり得るかも知れません。棄権や白票を‘白紙委任’と見なす見解は解釈の一つに過ぎず、必ずしも国民の共通認識でもないのです。もちろん、政治に対する無関心から棄権する人もおりましょうが、棄権や白票には、選択し得ない政治の現状や現行の制度等に対する国民の不満や批判が込められているものです。白紙委任と決めつけている人々は、むしろ、棄権者や白紙投票者の意思を無視しているとも言えましょう。

 今般の衆議院選挙の投票率は53.85%であったそうです。戦後三番目の低さなのですが、与野党を問わずに何れの政党も、この数字を、政界全体に対する国民からの不信や拒否反応として重く受け止めるべきなのではないかと思うのです。

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‘裏金選挙’であれば自公政権の政策は変わらない-矮小化された争点

2024年10月29日 12時28分28秒 | 日本政治
 今般の衆議院選挙は‘裏金選挙’とも称されるほどに、自民党の裏金問題を争点とした選挙とするイメージが振りまかれています。マスメディアも総出で同イメージの刷り込みに協力しているようにも見えます。配信記事のみならずコメンテーター等も含め、同選挙結果と自公政権の政策運営との関連性について言及するメディアが殆どないからです。全ての国民が裏金問題だけを判断材料として投票したのではないにも拘わらず・・・。あまりの徹底ぶりに情報統制も疑われるのですが、仮に政界やメディアが報じるように今般の選挙が‘裏金選挙’であるならば、国民にとりましては、由々しき事態が発生することになりましょう。

 由々しき事態とは、‘政策が全く変わらない’、というものです。今般の選挙に際しては、左右を問わずに自民党以外の政党の多くも、裏金問題’を強く意識し、自らの公約に政治改革や政治浄化を掲げて選挙戦に臨んでいます。立憲民主党、社民党、共産党は何れも公約のトップに置いていますし、日本維新の会も、政治改革を‘四大改革’の第一改革に位置づけています。このことは、同選挙にあっては最初から‘裏金路線’が敷かれており、与党側の敗北が高い確率で予測される選挙の結果については、裏金問題をもって説明し得るように準備していたとも考えられましょう。‘有権者は、自民党の裏金問題を最優先課題として投票した’とする説明が成り立つための、一種の‘アリバイ造り’であったのかもしれません。

 当の自民党も、与党側の過半数割れの選挙結果を受けて、茂木敏充前幹事長が最大の敗因は‘裏金問題’にある旨の発言をしています。この‘自己分析’も、的確に民意を分析した結果ではなく、‘裏金路線’に沿ったものなのでしょう。確かに、パーティ券収入をめぐる‘裏金問題’は自民党にとりましてはある程度のマイナス要因とはなるものの、自公両党の主観的な立場からすれば、必ずしも自らが行なってきた数々の政策に対する国民からの拒絶や退陣要求を意味しないからです。

 同解釈によれば、悪代官による国民虐めの如きものであっても、自公政権が進めてきた政策には問題がないということにもなりかねません。今後の連立の組み合わせ、あるいは、誰が内閣総理大臣に指名されるのか、といった新政権の如何に拘わらず、少なくとも政策については、方針の転換や見直し、あるいは、中止や中断を国民から求められていない、と主張することができるのです。たとえそれが、野党側による‘新政権’であったとしても・・・。

 今般の衆議院選挙を‘裏金選挙’と見なすことは、結局、今後の国政が問われるべきにも拘わらず、一つの政党における腐敗問題に矮小化してしまう結果を招いてしまいます。言い換えますと、党内にあって裏金問題が解消されさえすれば、国政選挙で示された‘民意に政治サイドが応えた’ことにされてしまうのです。何れの政権であっても、世界権力が推進するグローバリスト政策は継承されてゆき、今後とも、何らの反省も検証もなく、如何なる健康被害が生じようともワクチン接種政策は粛々と遂行され、国民のデジタル管理体制も強化されてゆくことでしょう。急速に増加している移民の問題等も放置されるものと予測されます。裏金問題は、本丸あるいは本陣であるグローバル政策を護るための陽動作戦、あるいは、囮作戦であったとする見方も強ち否定はできないのです。しかも、大敗を喫した自民党が、政権維持あるいは党勢維持のために裏金問題で離党した当選議員達を自党に呼び戻すとすれば、一体、この選挙は何であったのか、わけがわからなくなります。

 目下、自民党は、今般の選挙にて28議席を獲得して躍進を遂げた国民民主党に対して「部分連合」を呼びかけていると報じられています。閣僚ポストを提供することなく、政策ごとに協力できる部分のみ連携する、すなわち、国民民主党が掲げる政策を取り入れるとする提案のようですが(見返りに特別国家での首相指名の議決に際して石破首相を支持・・・)、この方式は、グローバル政策のみが協力分野としてピックアップするには好都合です。また、国民民主党のみならず、他の政党との同様の「部分連合」もあり得ることでしょう。裏金問題に国民の関心を集めている間に、○△□●▲■を公約として掲げた与党側政党と◎●▽▲◇■を公約とした野党側政党との間の協力により、国民が望んでいない●▲■のみが実現させる可能性もあるからです。このように考えますと、裏金問題の目眩ましに惑わされることなく、自公政権下において遂行されてきた“悪名高き”政策の行方こそ注視すべきではないかと思うのです。

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自公与党の敗因は‘裏金問題’ではないのでは?

2024年10月28日 11時51分45秒 | 日本政治
 昨日10月27日に実施された衆議院選挙の結果は、連立を組む自民公明両党の大敗という結果に終わったようです。加えて、同選挙結果には、戦後三番目の低投票率を記録しています(推定53.84%)。与党側の敗因は、マスメディアでは自民党の裏金体質が影響したと決めつけていますが、自民党の金権体質は今に始まったことではなく、また、同時に公明党も議席数を減らしています。この点に注目しますと、真の敗因は、自民党の実態がグローバリスト勢力の‘悪代官’であったことが、国民の前に明らかとなったところにあるのではないでしょうか。

 自公政権の政策の大半は、アメリカをも自らのコントロール下に置く世界権力の意向に沿ったものであったことは、日本国民を後回しにし、時には犠牲に供する政策の数々に現れています。その最たる政策は、コロナ・ワクチン接種事業や早急なデジタル化政策であり、既に1兆円を超えるとされるウクライナ支援もその一つと言えましょう。利権まみれの再生エネ推進政策や、保守政党でありながら事実上の移民受け入れ政策に転換したことも、自公政権に対する不評の要因となっています。この他にも、電力や米価を含む物価高は国民生活を直撃するわけですから、国民の多くが自公政権の継続を望まないのは当然の結果となりましょう。

 実際に、真の敗因が裏金問題ではないことは、ワクチン接種推進担当相並びにデジタル相を務めた河野太郎氏の選挙結果が示唆しています。同氏には裏金問題はなく、むしろ、自民党総裁選挙にあって‘裏金議員’に国家への返還を求めるなど、同問題に対して厳しい対処を主張してきました。しかしながら、神奈川15区にて当選確実とはなったものの、前回の衆議院選挙で獲得した21万票から13万票に減らしており、凡そ8万票という大幅な得票数の減少が見られたのです。同氏に対して吹いた逆風は、ワクチンやデジタル等の問題が有権者の投票行動に大きな影響を与えたことを示していると言えましょう。

 その一方で、裏金議員の全員が議席を失ったわけでもありません。裏金事件で処分を受け、自民党を離党した世耕弘成氏は和歌山2区で当選し、兵庫二区でも西村康稔氏が議席を維持しています。しかも、元統一教会問題に加え、自民党非公認の立候補となったものの、同党から2000万円の‘裏支援’を受けていたとされる萩生田光一氏まで東京24区で当選を果たしているのです。自民党全体としては、裏金議員の当落は18勝28敗となるそうですが、全体としては65議席も減らしおり、裏金問題のみでは説明が付きません。

 これらの当落の結果からしますと、必ずしも裏金問題が自民党の議席数を激減させるほどの原因であったとは考え難く、主因とは言えないはずです。本当のところは、上述したように自公政権による国民を踏みにじるような‘グローバル政策’が批判を受けた推測されるのです。しかしながら、おそらく自民党も公明党も、あくまでも裏金問題主因説を固守しようとすることでしょう。これを認めれば、自らが世界権力の傀儡政権であり、‘悪代官’の役割を担っていたことを自白するに等しいからです。自民党の茂木敏充前幹事長は、出演したNHKの番組にあって「政治資金の問題について厳しい声が寄せられたのが大きかった。景気をどうするか、物価高にどう対応するか党として明確な訴えが十分できなかった。反省しなければいけない」と述べ、敗北要因は裏金問題にあるとアピールしています。日本国のマスメディアの大半も、グローバリストの強い影響下にあり、かつ、情報統制や世論誘導役として自公政権の片棒を担ぎましたので、真の敗因を報じるわけもありません。

 そして、ここに日本国の最大の政治問題が浮かび上がることとなります。国民が現政権の政策、即ち、世界政府が推進するグローバル政策に対する不支持の意思を込めて与党側への投票を控えたとしても、その国民世論が無視されてしまうと言う問題です。否、二頭作戦や多頭作戦の存在を考慮すれば、野党もまた無視を決め込むかも知れません。実のところ、世界権力は、立憲民主党を中心とする政権への交代、首相交代、あるいは、政界再編等を意図して裏から早期解散を指示、あるいは、誘導したかも知れないのですから。次期政権がどのような組み合わせとなるのかは、現時点では判然とはしませんが、今般の衆議院議員選挙は、日本国政府あるいは政界そのものを、多くの国民が自らにも直接に関わる重大リスクとして実感する転機となったのではないかと思うのです(つづく)。



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国民の関心事が‘公約除外’とされる問題

2024年10月25日 12時23分05秒 | 日本政治
 各政党が公約を掲げて選挙戦を闘うスタイルは、一見、公約の比較により国民が政策を選べるという意味において民主的制度を進化させたように見えます。国民による単なる人事権の行使ではなく、間接的であれ、国民が政策形成過程に関与する形となるからです。しかしながら、これまでの記事でも述べてきたように、公約には様々な問題が潜んでいます。本日提起するもう一つの問題は、国民の関心が高い重要問題が‘公約除外’とされる問題です。

 各党の公約の要旨を読み比べてみますと、あたかも示し合わせたかのように特定の政策領域に公約が集中しています。もちろん、これらの公約を編集したメディア側が予め恣意的に取捨選択している可能性もあり、詳細な政策綱領にあってはより幅広い政策領域について記載されているかも知れません。しかしながら、投票に際して多くの有権者が判断材料とする比例代表区の選挙公報を読みましても、何れの政党も、自民党の裏金問題に端を発した政治改革、減税案を含む税制、社会保障政策、教育無償化等の子育て・教育支援、日米同盟の在り方を問う安全保障政策などに集中しているのです。しかも、その殆どが箇条書きであり、詳しい説明が付されているわけでもありません。

 それでは、国民の政治的関心は、政治サイドが設定した政策領域に限定されているのでしょうか。紙面や文字数が限られているため、重要な問題しかピックアップできなかったとする理由付けもあるかもしれません。しかしながら、昨今の社会状況や世論の動向からしましても、公約に掲げるべき重要問題は山積しています。例えば、近年の急増を受けて治安の悪化も懸念される移民問題は、既にアメリカやヨーロッパ諸国のみの政治課題ではなくなっています。川口市のクルド人問題のみならず、外国人や中国系マフィア等による犯罪事件が頻繁に報じられるようにもなりました。本来であれば、欧米諸国と同様に、日本国にあっても活発に議論し、選挙を介して国民が判断すべき問題と言えましょう。

 また、移民問題に劣らず、政府によるコロナ・ワクチンの接種事業に対しても、国民の間から疑問や反対の声が上がっています。厚生労働省が認定しただけでも、800名を超える人々が命を落としており、その健康被害は甚大です。安全性が疑問視されているレプリコン型ワクチンの接種も始まってもおり、国民の不安は募る一方です。マスメディアは、‘反ワクチン’については、あたかも極端な思想の持ち主が集まった‘陰謀論者’の集団であるかのように報じていますが、自公政権によるワクチン接種推進政策については、多くの国民が、抜本的な見直しと時間をかけた客観的かつ科学的な検証を望んでいるのではないでしょうか。

 さらには、現政権が積極的に推進しているマイナンバー制度をはじめとしたデジタル化やカーボンニュートラル政策も、国民監視の強化やデジタル全体主義化、並びに、環境破壊やエネルギー価格の高騰等の危惧もあり、国民から積極的な支持を受けているわけでもありません。これらの他にも、東京メトロの政府保有分の売却やNTT法の見直しを含む民営化政策やその他の新自由主義政策、国民の生活水準の低下を意味する物価高、矛盾に満ちた農政への懸念、さらには、憲法改正に際しての緊急事態条項の扱いなど、国民は、自らに直接に関わる政治問題を多数抱えています。あるいは、曲がり角を迎えている象徴天皇や皇族の問題も、その存在意義を含めた既に国民的な議論を要する時期に差し掛かっているように思えます。

 これらの重要課題については、公約にあって積極的に自らの党の立場や方針を明らかにしている政党は皆無に近く、むしろ、申し合わせたかのように議論を回避しているようにも見えます。何れの政党も、当たり障りのない一般受けするような公約ばかりを並べており、政策選択としての争点らしい争点も見当たらないのです(敢て言えば、自公政権存続の是非をめぐる選挙・・・)。国民の負担減を訴えるという意味では評価されるのでしょうが、上述したような国民の関心が高い重大な問題については議論を避けるという、一種の‘談合’が政党間に成立しているとも言えましょう。

 こうした政党間に観察される画一的な公約対象の事前選択は、有権者の選択を無意味にする多頭作戦を採用してきた世界権力が、日本国の主要政党を外部からコントロールしている証でもあるのかも知れません。単独であれ、連立であれ、選挙の結果として何れの政党が政権与党となろうとも、同勢力の基本方針から大きく外れることはなく、各政党の公約にちりばめられている自らの政策を実行させれば、日本国をグローバルレベルでの自らの支配体制によりしっかりと組み込むことが出来るからです。しかもそれは、誰からの命令や指示でもなく、民主的選挙を介して日本国民が‘自らの自由意志で選択した結果’と見なされるのです。

 以上に述べてきた公約の問題は、結局、国民の発案権が弱いという現状の制度的欠陥にも行き着きます。選挙における公約とは、政策決定手続きの入り口である提案の権限を政党や政治家が独占していることを意味するからです(しかも、公約に掲載されていない部分は白紙委任になりかねない・・・)。このように考えますと、グローバリストのコントロールの外にあり、独立的かつ広く民意を代表する政党の出現、否、政党に拘わらず、より民意を反映し得る政治システムの構築こそ、今日の日本国民は必要としているのではないかと思うのです。

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現政権への批判票と公約の問題

2024年10月24日 11時49分18秒 | 日本政治
 世の中では、しばしば自らが原因となって敗北してしまう‘自滅’という現象が起きるものです。選挙にあっても、有権者は、選挙に勝利した側を積極的に支持したわけではなく、選挙の結果が、勝者側の得点ではなく敗者側の失点によって決まってしまうケースがあります。10月27日に投票日を迎える今般の衆議院選挙にあっても、同現象を見出すことができましょう。連立政権を組んでいる自民党並びに公明党の苦戦が報じられており、その主たる原因は、自公政権の失政、否、悪政にあるからです。相当数の国民から怒りを買ってしまったのですから。

 与党の過半数割れが起きるとすれば、それはまさしく自らへの不評に起因する自滅なのですが、ここに、公約に関するもう一つの問題が持ち上がります。それは、現政権に対する批判票をもって勝利はしたものの、野党に一票を投じた国民の多くは、必ずしも投票先の政党が掲げる政策を支持しているわけではなく、ましてや公約についてもその実現を切望しているわけではない、という乖離の問題です。現政権の退陣を求める批判票は、投票先政党の政策支持を意味しないのです。

 実際に、野党の中には、極めて非現実的な政策を掲げている政党も見受けられます。過去にあって唯一の政権交代となった2009年における民主党政権の誕生に際しても、同様の現象が問題となりました。この時も、有権者の多くが長期に及ぶ自民党政権に愛想を尽かし、漠然とした期待感から民主党に投票はしたものの、その期待は悉く裏切られています。民主党政権では、公約の遵守どころか、菅直人首相に至っては「議会制民主主義は期限を切った独裁」と述べたのですから、その後の政策運営は推して知るべし、ということになりましょう。政権与党になれば、公約の範囲をも超えて何でも好き勝手に出来ると考えていたとしますと、そら恐ろしいと言わざるを得ません。「悪夢の民主党」という評された所以は、まさに「批判票≢政策支持」の問題にあったと考えられるのです。

 大量に発生した批判票が野党政党に流れ込むことが予測されている今般の衆議院選挙では、何れの連立の組み合わせであれ、現状の自公の枠組みが維持される可能性は極めて低いと言えましょう。そして、この予測は、前回の政権交代の悪夢を繰り返すリスクを暗示してもいます。勝利した側の野党は、自らの公約が国民からの支持を得たとして、政権発足後に、独善的な立場から国民の望まぬ方向に政策方針の舵を切るかもしれません。自公政権にありましても、国民の声に頑なに耳を塞ぎ、国民の命をも世界権力の犠牲に供してきましたが、政権交代が実現したとしましても、民意に添った政治が実現する保障はないのです。

 それでは、「批判票≢政策支持」の問題に対して、どのように対処すればよいのでしょうか。少なくとも、投票日は27日に迫っていますので、制度を変えることは不可能です。そこで、せめて同問題を緩和させるためには、‘批判票と政策支持はイコールではない’とする認識を、政治家並びに国民が共有する必要がありましょう。批判票が流入した政党の側は、それが、自らの公約に対する全面的な支持を意味しないことを自覚すべきですし、その一方で、批判を受けた側の与党政党は、自らの政策に国民の多くが反対している現実を直視すべきと言えましょう。否、今般の選挙結果は、与野党を問わず日本国の政界自体が、国民が何に反対し、どのような政策を望んでいるのか、民意を的確に分析し、理解する機会とすべきなのではないでしょうか。

民主主義の本旨は、選挙での公約実現を盾にして、政党が自らが掲げる政策を国民に押しつけるものではないはずです。逆に、民意を適切に政策化することこそ、民主主義国家に相応しい政治の在り方と言えましょう。今日の政治は主客が逆転しており、この逆転が、日本国の政界がグローバリスト、即ち、世界権力の代理機関に堕してしまった要因の一つでもあると思うのです(つづく)。

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衆議院選挙後の行方-選挙における‘公約’リスクは深刻

2024年10月23日 12時23分32秒 | 統治制度論
 日本国の政党政治のタイプは一党優位の多党制とされています。政権交代は過去に一度しかなく、たとえ今日のように連立政権となる場合があったとしても、自民党が ‘一強’として他の諸政党を数で引き離しているからです。しかしながら、今般の衆議院選挙では与党側の苦戦が報じられており、二度目の政権交代の可能性も取り沙汰されています。一方の野党側は、中小の政党がひしめき合っているとはいえ、有権者の投票先の選択肢として意識されるようになってきているのです。

 同現象の背景には、自公政権に対する国民の失望と払拭しがたい国民の不信感があることは疑いえません。マスメディアはパーティー券を悪用した裏金問題を信頼失墜の最大原因として報じていますが、前岸田文雄政権に対して渦巻いていた国民の‘怨嗟’の的は、この問題に留まりません。旧統一教会問題に加え、国民に膨大な健康被害をもたらした無責任なワクチン接種事業、早急なマイナンバー保険証への移行(セキュリティー並びにコスト無視のデジタル化・・・)、相次ぐ増税等の国民負担増、巨額のウクライナ支援、物価高、お米不足などなど、数え上げたら切がありません。何れも、巨額の利権も絡み、かつ、世界権力の意向に沿った政策であるため、これと同時に自民党は保守政党を装った‘偽旗政党’である、とする認識も広がることにもなったのです。自民党の正体が明らかになるにつれて保守層の自民党離れが生じ、無党派層も急増しているのです。

 となりますと、当然に、投票先を失った保守層の受け皿となり、無党派層を取り込む政党が議席数を伸ばすことが予測されます。このため、10月27日に実施される選挙の結果にあって、連立を組む自民党と公明党の議席数が過半数を割ることになれば、何れの野党にも与党となるチャンスがめぐってきましょう。野党において最大勢力であるものの、立憲民主党も、一党で過半数を制することは極めて困難です。しかも、自民党や公明党との連立もあり得ないことではありませんので、現行の与野党の壁を越えた‘政界再編’も視野に入ってくるのです。

 今日の政治状況は、混戦状態であるとはいえ、普通選挙を介して日本国の政治が‘変わる’という意味において、民主主義の価値には即しています。また、国民にとりましても、政党選択の幅が広がりますので、個々の政治的な自由意思が政治に活かされるチャンスとなり得ます。複数政党制は、民主主義国家のメルクマールでもありますので、表面的には民主的制度が機能しているように見えるのです。しかしながら、ここに思わぬ落とし穴があるように思えます。

 確かに、今日の選挙では、各政党が政策綱領を作成し、選挙戦に際しては公約としての政策リストを選挙民に提示して臨んでいます。メディア等での討論会や立会演説会などにあっても、立候補者や各政党の代表等は、自らが掲げる政策に対する支持を得るために論戦を張ると共に、自らが示す政策の優位性を有権者に向けて熱心に訴えています。近年にあって一般化した公約を掲げての選挙は、単なる人物選びであったかつての選挙よりも、より進化した選挙制度として評価もされてもいます。しかしながらその一方で、‘公約’という言葉の‘約’の一文字が示すように、その実行において義務的な意味合いを含むため、悪用されるリスクもないわけではないのです。

 第一に挙げられる問題点は、有権者は、政策毎に選択をすることができない、という点にあります。政党の政策綱領や公約は、凡そ全ての政策領域に関する政策がワンセットとなっています。しかしながら、各政党が提出している政策リストを読んで、全ての政策を一つも残らず支持できる人はおそらく殆どいないことでしょう。防衛政策や安全保障政策については○○政党の政策に賛同できても、経済政策や社会保障政策については△□政党を支持する、といったケースは珍しくはないはずです。より細かく見るならば、経済政策の××問題に関しては○○政党の政策が望ましく、同政策分野の△△問題は、△□政党に賛成するといった場合もありましょう。何れにしましても、有権者は、アラカルトに政策を選択することが出来ないのです。

 この欠点については、政策領域の優先順位に添って判断すべき、とする反論もありましょう。防衛政策が最重要であれば、この領域に関する各党の政策を比較して投票すれば良い、とする意見です。しかしながら、何れの政策分野やアジェンダにも優劣付けがたく重要である場合も少なくありません。例えば、雇用政策については解雇規制緩和を、税制については大幅減税を訴える○■政党と、雇用政策については安定強化を約する一方で、税制については消費税率25%を掲げる●△政党との間で、優先順位から判断せよ、と求められても、戸惑う人の方が多いのではないでしょうか。たとえ国民多数が雇用の安定と減税を望んでいても、プラスとマイナスの政策が‘抱き合わせ販売’となっていれば、国民は、これらを分離して個別に選択することができないのです。しかも、上述したように、公約は国民との‘約束’を含意するために、国民の雇用安定志向から選挙の結果●△政党が与党となった場合、消費税率を25%に挙げたとしても、決して公約違反とはならないのです。否、●△党政権は、‘国民の選択に従った’と悪びれもせずに公言することでしょう。

 この問題、民主的選挙における政策綱領や‘公約’が抱える重大なリスクを意味しています。そして、巨大なマネーパワーを有する世界権力の存在を考慮しますと、民主的選挙における公約の問題は、さらなる危機を国民にもたらすかもしれないのです。しかも、今般のように選挙後の連立の組み合わせが予測不可能な場合には、この問題は、さらに深刻となりましょう(つづく)。

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不可解な衆議院解散の謎

2024年10月22日 11時45分48秒 | 日本政治
 今月10月9日、就任間もない石破茂首相は、突然にして衆議院解散を表明しました。就任後僅か8日での解散であり、戦後最短記録を更新することともなりました。解散に当たって、石破首相は同解散を「日本創生解散」と位置づけており、その目的については、日本国民に自らの政権への信託を問うと説明しています。慣例を破って岸田文雄前首相が自民党の総裁選挙に立候補せずに途中交代の形で就任したことから、国民に対して事後承認を求めたとも言えましょう。しかしながら、この解散、どこか不自然なのです。

 日本国は議院内閣制を採用していますので、首相を選ぶ権限は、事実上、政党に握られています。このため、岸田前首相その他歴代首相の何れも、国民からの信託を受けたわけではありません。否、メディアの世論調査では常にトップレベルの人気を維持してきた石破氏以上に不人気な首相も多々おり(同人気も謎ではある・・・)、ここで敢て信を問う必要性があったのかどうか、疑問なところでもあります。先の自民党総裁選挙では、マスメディアがグローバリストの秘蔵子である小泉進次郎氏を強力に推していましたので、石破氏の選出にむしろ安堵した国民も少なくはなかったはずなのです。

 しかも、自民党総裁選挙にあっては、石破氏は、早期解散、否、即刻解散を‘公約’にしていたわけではなく、「野党と国会論戦を行なった上で」として慎重姿勢を示していました。安定性を自らのセールス・ポイントとしており、自民党の議員や党員を含めて国民の多くも、来年に予定されている衆議院議員の任期満了を待つものと予測していたことでしょう。ところが、就任後、即、‘七条解散’という伝家の宝刀をいきなり抜いたのですから、その豹変ぶりに驚かされたのです。

 また、裏金問題により自民党には逆風が吹いていますので、現時点で解散すれば、自民党が議席を大幅に減らす事態も大いにあり得ます。つまり、安定性の観点からすれば、解散時期をできる限り先延しにするとする選択もあったはずです。与党に選挙準備期間を与えないための奇襲解散とする説もありますが、コロナワクチン禍やマイナ保険証をめぐる国民の政治不信を考えれば、自民党の立場からすれば解散時期が適切であったかどうかは疑問なところなのです。また、国民にとりましても、不意打ちのようなイメージを受けますので、石破政権が政府としての実績や安定感を示した後での解散のほうが有利であったとも考えられましょう。

 ここに、衆議院解散の謎なるものがあります。上述した公式の説明は説得力に乏しく、同解散には、別の目的があったものと推測されるからです。そして、今日における世界権力の隠然たるパワーを考慮しますと、今般の解散は、日本国内の政治状況に基づく判断によるものではなく、海外からの圧力や指令であった可能性が俄然高まるのです。それでは、何故、今、日本国は、衆議院を解散しなければならないのでしょうか。

 仮に、世界権力の意向を受けたものであるとしますと、第一に推測されるのが、石破政権を短命政権として終わらせてしまうという目的です。マスメディアを総動員した小泉政権樹立路線には失敗していますので、同シナリオでは、野党への政権交代が織り込まれているのでしょう。おそらく、白羽の矢が立てられているのは立憲民主党の野田佳彦代表であり、早々に野田政権を誕生させれば、日本国をより操りやすくなると考えているのかもしれません。野田代表と言えば、国際公約の形で消費税10%路線を敷いた‘実績’がありますので、世界権力からは覚えがめでたいのでしょう。

 第二に推測されるのは、何らかの重大事項から国民の関心を逸らすという目的です。しばしば、マスメディアは、国家の命運や国民の生命、身体、財産等に関わる重大事項を反対や抵抗なく隠密に遂行するために、大々的に有名人等のスキャンダルなどを報じるとされます。今般の解散も、その裏では何らかの重大事項が密かに進行している可能性がありましょう。最も強く懸念されるのは戦争への準備作業であり、第三次世界大戦シナリオの発動であるのかも知れません(南海トラフ地震といった災害を人為的に起こす可能性も・・・)。あるいは、世界権力が抱く‘グレート・リセット構想’に基づくデジタル全体主義体制への移行作業であるとも推測されましょう。なお、石破首相は、親中派とも指摘されてきましたので、台湾有事⇒世界大戦のシナリオにとりましては、不都合であるとの見方もできます。

 そして、第三の推測としては、来月11月5日に予定されているアメリカ大統領選挙に日本国の政治も合わせる、というものです。もっとも、日本国の投票日は10月27日ですので、日程的にはアメリカの大統領選挙の投票日より先んじています。このため、仮に同推測が正しいとすれば、世界権力は、前回の大統領選挙において疑惑が持たれたように、アメリカの大統領選挙をもコントロールしていることとなりましょう。もしくは、アメリカでの‘政権交代’の予測を前にして、世界権力あるいは米民主党政権が、日本国内にあって権力基盤を保持しようとしたとも推測されます。

 以上に主たる推測を述べてきましたが、何れにしましても、今般の衆議院解散には謎が残されているように思えます。政治に無関心でいれば、この謎が解き明かされた時には既に手遅れの状態にもなりかねません。そして、この危機を回避するためには、解散総選挙に隠れた背後の動きやグローバリストの思惑こそ、深く洞察すべきではないかと思うのです。

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尾を引く自民党総裁選挙-迷える国民

2024年10月21日 12時24分38秒 | 日本政治
 10月27日に衆議院選挙の投票日を控え、選挙区では、立候補者達が熱心に自らへの支持を訴えています。終日、選挙カーから立候補者の名前が連呼される週末となったのですが、今般の総選挙ほど、日本国の政治の混迷が露呈した選挙は他にはなかったかもしれません。この混迷は、日本国民にとりましては、民主主義の深刻な危機でもあります。日本国の政界自体がグローバリスト、即ち、世界権力のコントロール下にあることが、日に日に明瞭に認識されてきているからです。

 そして、この世界権力の支配力は、先の自民党総裁選挙にあってまざまざと見せつけられることともなりました。国民世論の強い反発を受けて頓挫はしたものの、マスコミを牛耳る同勢力が小泉進次郎候補を本命と見なしてことは否定しがたく(本当のところは、第一候補は河野太郎氏であったかも知れない・・・)、露骨なまでの‘小泉推し’がむしろ逆効果となってしまった感さえあります。実際の選挙にあって石破茂氏が同党の総裁に選出されたため、国民にも‘最悪の事態は避けられた’とする安堵感が広がったのですが、問題は同総裁選挙をもって終わったわけではありません。同選挙がもたらした自民党に対する国民の不信感は、今般の総選挙にも尾を引いているように思えるのです。

 一先ずは、グローバル色の比較的薄い石破政権が誕生したものの、いつ何時、世界権力の支部としての顔が現れるか、国民には予測がつきません。石破首相自身も、これまで主張してきた自らの持論を封印し始めたことから、首相就任後に‘豹変’したとも評されています。同豹変の背後には、国内のみならず国際的な圧力があったことは想像に難くありません(歴代の首相のみに‘一子相伝’で伝えられている‘密約’等が存在している可能性も・・・)。保守層の自民党離れが著しい中、国民からの警戒心を薄めるために石破首相を‘選挙の顔’として選んだものの、それはあくまでも一時しのぎであり、総選挙の結果によっては、むしろグローバル色、つまり、雇用形態やDX・GXを含めた新自由主義的な政策傾向が強まる可能性もないわけではないのです。

 例えば、衆議院選挙の比例代表名簿は拘束名簿式ですので、名簿の掲載順位、すなわち、当選者の決定は党内の決定事項となります。この点に注目しますと、党三役ではないものの、総裁選挙で敗れた小泉進次郎氏は、‘党四役’とされる選挙対策委員長に就いています。選挙に際しての人選や公認等については幹事長の影響力が強いとはされていますが、選挙対策委員長は、実務面での実権を握るとされています。実際に、比例代表名簿の顔ぶれをみますと、同総裁選挙にあって小泉候補の推薦人となった議員の名も多く見られますので(名簿順位のトップとしては、東京、東海、近畿・・・)、党内にあって‘親小泉勢力’は温存されているのでしょう。このため、小泉氏、否、その背後勢力にとりましては、総裁選挙では‘後退’しても、総選挙では‘前進’するという可能性もないわけではないのです。自民党内に深く根を下ろしているグローバル勢力は、自らの‘配下の者達’が政治の表舞台に出られるように常にスタンバイしているのでしょう。

 こうした政界の惨状を前にして、国民は戸惑うばかりです。保守層であれば、自民党に一票を投じたとしても‘保守政党’に投票したことにはなりませんし、総選挙後にあってどのような政権が誕生するのか、皆目見当が付かないからです。先の自民党総裁選挙にあって、図らずもグローバル勢力の動きが‘ガラス越し’ではあれ可視化されたことが、国民の政治不信に拍車がかかり、今般の総選挙において、保守層のみならず、多くの国民が投票先に迷う要因となったのではないでしょうか。

 そしてこの問題は、自民党に限定されているわけではなく、自公政権の継続であれ、野党による政権交代であれ、結局は、‘岸田政権’の後継者、すなわち、グローバリストの傀儡政権であるのかも知れません。マスメディアがしきりに与野党伯仲を報じていますが、二頭作戦あるいは多頭作戦の存在を考慮すれば、国民は、政党も政治家も選びようがなく困惑するばかりなのです。日本国民が真に求める政治改革とは、国民本位の民主的政治の仕組みの再構築、あるいは、作り直しなのではないかと思うのです(つづく)。

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日本国の核の意思決定参加要求が問い詰める先は?

2024年10月18日 11時26分11秒 | 国際政治
 報道に因りますと、ロシア外務省のザハロワ情報局長は、米軍による日本国への核配備について言及し、‘地域の安定を崩壊させる’として強く牽制したそうです。ロシア側の威嚇とも言える発言の背景には、石破首相によるアジア版NATO創設、並びに、核シェアリング等の提唱があり、この動きを未然に抑える意図があったとも解説されています。

 石破首相の核シェアリング論は、‘核の傘’が閉じられる事態への対処をも含む踏み込んだ内容を特徴としています。現状にあって、日本国内では、仮に日本国がロシア、中国、北朝鮮等の核保有国から核攻撃を受けた場合、アメリカが、自国への報復核攻撃を覚悟してまで日本国のために相手国に核を使用するはずはない、とする懸念が、水面下にあって静かに広がっていました。そこには、同盟国に対する根強い不信感があります。平時には核の傘を日本国に差し掛けながらも、有事にあって自らの安全を優先するのは、それが同盟国に対する信義には反してはいても、マキャベリズム的な意味においては‘合理的’な判断でもあるからです。

 同盟国を護るための核使用に関する不確実性は、より冷徹な思考を有するロシアや中国等であれば、日本国民以上に十分に理解するところですので、‘核の傘’という名の抑止力は、日本国の防衛に関しては然したる効果を期待できない状況にあります。日本国を核攻撃しても、アメリカ大統領が核のボタンを押すはずないと既に見透かされてしまっている訳ですから、日本国民は、米軍の‘核の傘’の存在をもって安心することができないのです。

 こうした‘核の傘’に関する懸念から主張されたのが、核シェアリングに伴う意思決定への参加論です。核のボタンについては、最終的にこれを押す権限はアメリカ大統領にあるのでしょうが、これに至るまでの決定プロセスにあっては、国防相、国家安全保障会議(NSC)、CIAといった諸機関も加わるはずです。同盟国である日本国に対する核攻撃が想定されるケースでは、当事国となる日本国政府も同プロセスに参加して然るべき、とするのが意思決定参加論なのです。つまり、米軍による核による反撃を確実にし、有名無実となりつつある核の抑止力を高める目的の下で、同論は主張されていると言えましょう。

 米軍が核による反撃を行なうに際しては、核シェアリングに基づいて日本国に核兵器が配備されていれば、距離が近いだけに効果は高まります。相手国が迎撃する時間的な余裕が大幅に削られますし、日本国政府が意思決定に加わるとすれば、核の傘はほぼ確実に開くことともなります。もっとも、今日では、陸上や地下に建設したミサイル基地方式よりも移動性の高い潜水艦方式に優位性が認められていますので、あえて日本国内に核ミサイル基地を建設して核兵器を配備しなくとも、日本国政府が意思決定にさえ参加できれば、反撃の確実性が高まり、抑止力を強化できるはずです。つまり、核シェアリング論において重要となるのは、核配備の場所ではなく、自国の運命を決する決定権の所在であり、決定手続きなのです。日本国による意思決定過程への参加要求は、おそらく、核による反撃を確約できない以上、アメリカ側も理解することでしょう。そして、この問題、実のところ、アメリカにとりましても、そして、ロシアにとりましても、問われたくない問いでもあります(もちろん、中国にとりましても・・・)。

 アメリカにとりましては、日本国が核攻撃を受けた場合には、自国に対する核攻撃リスクを引き受ける、即ち、日本国のために自国を犠牲にする覚悟を意味します。それが抑止力の強化を目的とするものであっても、可能な限り曖昧にしておきたい部分であることは想像に難くありません。同問題がアメリカ政界で公に議論されるともなれば、世論の強い反対を受ける可能性もありましょう。一方、ロシアにとりましては、同議論は、日本国による核の独自保有に繋がるリスクがあります。アメリカが核報復の確約を渋った場合には、ロシアや中国が日本国に核ミサイルの照準を合わせている以上、日本国は、核の抑止力を備えるだけの正当なる根拠を持つことになりからです。冒頭で述べたように、ロシアの批判の先が米軍による日本国への核配備であるならば、日本国独自の核保有に反対するには、別の尤もらしい理由を見つけなければならなくなりましょう。

 この日本国政府による‘核の意思決定シェアリング’の要求は、あるいは、NPT体制の欺瞞を暴くチャンスとなるかも知れません。そして、NPT体制をもって国際社会をコントロールしてきた世界権力にとりましても、頭の痛い問題となりましょう。何故ならば、アメリカ、ロシア、中国等の軍事大国は、対立を装いながらも日本国を含む中小諸国の核保有を阻害するために行動している実態が明るみとなる場ともなり得るからです。つまり、核の傘の不確実性、否、核の抑止力の放棄に関する提起については正当な理由や根拠もありますので、何れの軍事大国も、日本国のみならず、国際社会をも納得させる回答を示すことができないのです。核の抑止力の必要性につきましては、人類の未来を左右するのですから、NPT体制の見直しを含め、早急に議論すべきではないかと思うのです。

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NPT体制の不安定な構造-計画された不安定性?

2024年10月17日 12時06分08秒 | 国際政治
 体制という言葉の語感には、良しにつけ悪しきにつけ、どこか安定性をイメージさせるものがあります。NPT体制につきましても、IAEAによる査察制度を伴う形で締約国に核兵器の不拡散を法的に義務付けているのですから、人々が、非人道的な兵器である核の脅威を取り除き、国際社会の安定に貢献していると信じ込むのも無理からぬことです。しかしながら、‘核なき世界’の理想を目指して発足したNPT体制は、現実にあって国際社会に安定と平和をもたらしているのでしょうか。

 平和的解決手段、即ち、合意や法的解決のための制度は別として、国際社会において、力による安定を求めるならば、大きくは(1)支配型と(2)従属型(3)均衡型の三者に分けることが出来ます(‘司法型’は警察組織とセットですので、ここでは扱わない・・・)。支配型は、力に勝る国がそれに劣る国を力で抑え込み、独立性を奪って支配するタイプであり、帝国などの一極体制が典型例となります。もっとも、今日の国際社会にあっては、全世界の諸国を軍事力をもって支配下に置く‘世界帝国’は出現していませんので、現実の世界ではあり得ないタイプです。(2)の従属型は、軍事強国に自国の安全を依存するタイプであり、これには保護・被保護関係に基づく上下関係を伴います。その一方で、(3)の均衡型は、力のバランスの成立による抑止力によって複数の独立国家が並立する形態です。このタイプには国家間の上下関係は存在せず、今日の国際社会の基本原則である主権平等に最も叶っていると言えましょう。

 今日の国際社会を具に観察しますと、(2)依存型と(3)均衡型がミックスされており、(1)支配型は、世界権力を想定すれば潜在的な脅威としての存在します。そして、こうした力学的な観点からNPT体制を客観的に検証するとしますと、上記の問いに対する答えは、‘No’であるのかもしれません。先ずもって、1967年1月1日にラインを引き、それ以前の核実験の実績という極めて非合理的な要件の充足をもって合法的な核保有国を認める一方で、他の諸国には、一切の核開発や保有等を禁じているからです(法の一般適用性を欠くので、IAEAが存在していても司法型ではない・・・)。また、同体制に加わらない諸国も存在する上に、違反国に対する強制的な核兵器の排除を核兵器国に義務付けているわけでもありません。このため、核保有国と非保有国のとの間の力の不均衡は明白です。

 それでも、冷戦期のように軍事大国相互間には核の抑止力が働き、直接的な熱戦は回避できたとする積極的な評価もありましょう。確かに、核兵器を保有する軍事大国間では(3)の均衡型となり、これまでのところ第三次世界大戦は引き起こされていません。しかしながら、核兵器の保有が軍事大国等に限られているからこそ、非核保有国の抑止力は著しく不十分となり、自国の安全を軍事大国に依存せざるを得なくなります。いわば、核保有国の存在、並びに、大国間の対立関係が(2)の依存型の関係をも支えており、非核兵器国は、同盟国との力の不均衡に由来する属国化の脅威にも晒され続けているのです。

 これらの二点だけを見ても、NPT体制が歪な力関係の上に成り立っているのが分かるのですが、対立関係にある核保有国間の力の均衡と同大国との間に軍事的な協力関係を有する中小諸国との間の力の不均衡の組み合わせは、常に地域紛争に大国が絡み、戦争を誘発したり、それを長期化させる要因ともなります。実際に、第三次世界大戦に至らずとも、戦後に起きている戦争の大半は、その背後にあって大国が関わっています。軍事大国は、自国内に巨大な軍事産業を抱えていますので、戦争は巨万の富をもたらすビジネスともなるからです。地域的な紛争でありながら、最先端のハイテク武器をもって戦われ、国連の常任理事国の地位にあっても和平には消極的な姿勢を示す背景には、戦争にはビジネスという側面があるからなのでしょう。加えて、戦争は、金融財閥である世界権力にとりましては富や権力を握る一大チャンスでしたので、むしろ、‘戦争が起きない体制’の成立は不都合なのでしょう。そして、この文脈から推測すれば、永遠の支配体制を確立すべく、確実に自らが勝者となるように予め仕組んだ上で、第三次世界大戦へと諸国を誘導するためにも、NPT体制の維持は不可欠なのかも知れません。

 以上の視点からしますと、NPT体制は、戦争が起きやすいように敢て不安的な力関係を固定化しているとも考えられます。全ての諸国に安全と安定を与るためではなく、核保有国から攻撃を受ける、あるいは、地域紛争が戦争に発展するリスクが常に脅威として存在し続ける不安的な構造として、最初から設計されているとも推測されるのです。そしてそれは、経済におけるグローバリズムとの両面作戦でもあるのでしょう。果たして、同体制の永続化が人類にとりまして望ましい未来であるのか、今日、国連の仕組みも含めて再検討を加える時期に差し掛かっているように思えるのです。

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NPT&核兵器禁止条約は‘刀狩り’か-世界支配の構造的基盤

2024年10月16日 12時05分40秒 | 国際政治
 アメリカの銃社会に対する批判として、しばしば日本国の銃刀法が引き合いに出されます。確かに日本国は、同法によって一先ずは‘銃なき社会’が実現しています。しかしながら、同法の歴史を振り返りますと、必ずしもその目的が人々の安全を護るためではなかったことに気付かされます。

 日本国の銃規制の歴史を辿りますと、明治政府によって廃刀令が発せられたのは明治6(1873)年であり、その後、明治43(1910)年には、鉄砲類の所持については登録制となりました。もっとも、今日の銃刀法の起点は、第二次世界大戦後の連合国による占領政策にあります。1945年9月から翌年にかけて、GHQは、日本国の武装解除を目的として民間人の所有する刀剣類を米軍に引き渡させると共に、ポツダム勅令として鉄砲類の所持を禁じたのです(銃砲等所持禁止令)。現行の銃刀法自体は、主権回復後の1958年に制定されており、日本国内の治安の向上に貢献することとなりましたが、その出発点にあっては、勝者・支配者側による敗者・被支配者側の抵抗や反乱手段の物理的な排除という目的があったことは否めません。

 国内の武器規制のみならず、戦争における敗戦国が、戦勝国から軍事力の縮小を強要されるのは、世の常でした。古くは防壁や砦を取り壊されたり、武器類を没収されたりしたものです。近代にありましても、第一次世界大戦にあって敗戦国となったドイツに対して厳しい軍備制限が課されたため、ロカルノ条約の破棄を訴えたナチスが台頭し、第二次世界大戦の遠因ともなったとされています。日本国も、降伏後の1945年11月には、旧日本軍、すなわち帝國陸海軍が解体されています。

 かくして、軍備縮小には、力に優る側による劣る側の抵抗力の排除という意味合いがあるのですが、この観点から見ますと、NPTも核兵器禁止条約も、これらの条約前文が謳うように、人類に惨害をもたらす核戦争を回避し、‘人民の安全を保障する’ために制定されたのか、疑わしくなってきます。実のところ、核兵器の放棄は、如何なる国のとりましても、最大級の軍縮であるからです。否、核兵器の場合には、各国がそれを開発・保有する前に、その権利を未然かつ自発的に放棄させられてしまったとも言えましょう。

 世界各国が、抑止力の意味においても自国の命運に関わる主権的権利とも言える核兵器保有の権利を、かくも簡単に条約をもって封印してしまったのは、合理的に考えますと不可思議でもあります。もちろん、広島や長崎から伝わる被爆地の惨状のみならず、アメリカをはじめとした軍事大国による圧力と説得があったことは否めません。あるいは、核兵器を持たない段階にあったからこそ、その攻撃・抑止の両面における絶大なる効果については無自覚であったのかも知れません。見方を変えれば、先行して核を保有した諸国は、その威力を知るからこそ、芽のうちに摘んでしまい、他の諸国には持たせまいとしたとも考えられましょう。その証拠とも言えるのは、核保有国は、決して自らは核を手放さないという一貫した態度です。これは、秘密裏に核兵器を開発・保有したイスラエルや北朝鮮等にも言えましょう。

 戦国時代にあって、豊臣秀吉は、天下を平定し、自らの支配体制を固めるに当たって、‘刀狩り’を実施しています(もっとも、後に天下人は徳川家康に取って代わられますが・・・)。同事例も示すように、他者の武装解除と軍事力の独占、あるいは、圧倒的優位性は、支配体制の確立を意味します。今日の世界の構造にあっても、大枠としてはアメリカ、ロシア、中国といった核保有軍事大国による分割統治体制であり、国連の常任理事国にして核保有国のイギリス・フランスがアメリカを側面から支えると共に、イスラエルや北朝鮮は、‘鉄砲玉’としての役割を担っているようにも見えます。その一方で、核保有国は、軍事同盟国に対しては‘核の傘’を提供することで、安全を自らに依存せざるを得ない状況に置いているのです(一方的な依存は、しばしば属国化をもたらす・・・)。そしてこれこそ、全ての諸国を背後からコントロールしようとする世界権力の支配を支える仕組みなのでしょう。しかも、この仕組みは、核保有国相互の間では戦争は起きなくとも、戦争ビジネスのために非核保有国が犠牲となる形で地域紛争を頻発させるように仕組まれているのです。

 一つの政策が、たとえ一つの崇高な目的をもって説明されたとしても、他の側面においてより重大な効果やマイナス影響を及ぼすことがあります。核兵器は、その威力が絶大であるだけに、NPT体制にあって(核兵器禁止条約も含めて・・・)、世界権力による人類支配の主要な構造的基盤の一つとなっている現実にも注意を払う必要がありましょう。この場合、核廃絶の理想は、体の良い‘目隠し’の役割を果たしているのです。‘核なき世界’を理想とする人々は、おそらく本記事に対しまして核=絶対悪とする意識から反感を抱くものと推測されるのですが、核廃絶の理想の陰に隠れたもう一つの目的についても、タブーを排して直視すべきように思えるのです。


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‘銃刀法’になれない核兵器禁止条約-成立要件の欠如

2024年10月15日 11時40分55秒 | 国際政治
 力には破壊力と抑止力との二面性がありますので、常々、武器類の禁止をめぐっては議論が起きます。アメリカにあって、無辜の市民が犠牲となる痛ましい銃事件が度々発生しても、銃禁止一色に世論が傾かない背景には、銃なくして自らの身を守ることができない現実があります。銃を保持していれば、銃撃された時には応戦することができますし、銃を見せて‘動くな’と叫べば、相手に犯行を断念させることもできます。この場合、誰も、護身や犯罪の抑止のために銃を所持している人を、道徳的に批判したり、重大な罪として責めたりはしません。犯罪者側にも、自らが銃を使って犯罪を犯せば銃によって反撃されるリスクがありますので、犯罪を自制する強い抑止力ともなるのです。とりわけ、アメリカのように広大な土地に人々が離れ住み、凶悪な事件が起きても警察官が直ぐには駆けつけてくれないような社会では、銃規制は格段に難しくなるのです。

 その一方で、銃規制が一向に進まないアメリカの現状を、日本国の「銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)」を引き合いに出して批判する声もあります。日本国では銃の所持が厳格に管理されており、それ故に、一般市民が銃撃される心配のない安全な社会であるとして。日本国に比べれば、銃を取り締まることもできないアメリカは、文明国にはあるまじき未だに暴力が支配する野蛮な国と見なされることとなります。

 銃に対する正反対とも言える日米両国の対応を見比べますと、一見、銃刀法を制定して銃を規制している日本国の方が、倫理的に一歩先んじた社会のように見えます。しかしながら、‘罪なき者の命を守る’という基本的な社会正義に照らしますと、‘アメリカは日本国に見習うべき’とは、一概には言えないように思えます。何故ならば、‘銃なき社会’には、それが成立する環境や成立要件があるからです。これらを欠く場合には、むしろ、銃規制によって一般の人々の命が危険に晒されることにもなりかねないのです。

 銃刀法、あるいは、銃禁止法の成立に必要となる最低限の要件としては、(1)物理的な力における警察>犯罪者or犯罪組織、(2)警察組織の高い対犯罪即応力、(3)不法な銃保持者の取締の徹底、(4)司法制度の完備(力による解決の禁止)、(5)禁止法が全ての人に一般適用される・・・などを挙げることができましょう。これらの要件を備えてこそ、犯罪者による銃の使用を凡そ完全に封じることが出来るからです。そして、逆に、これらの要件が揃わないにも拘わらず、‘銃なき社会’の理想を掲げて銃を禁止しますと、一般の人々は、自らの身を守ることもできず、銃の抑止力も失われてしまうという、望ましくない結果を招きかねません。つまり、犯罪者が有利な環境が出現してしまい、‘罪なき者の命を守る’こともできず、社会正義が実現しないのです。

 それでは、国際社会はどうでしょうか。非人道的な大量破壊兵器である核兵器は、まさしく一般社会の銃のような立場にあります。水爆も開発されている今日では、核分裂による凄まじい破壊力は、多くの無辜の人々の命を無残にも奪い、瞬時に都市を焼き尽くしかねないのですから。このため、‘核なき世界’が人類の理想として掲げられ、NPTや核兵器禁止条約も、脅威の除去という文脈にあって成立したのです。しかしながら、上述した銃規制のケースのように、成立要件を欠く場合には、逆に危険性が増してしまうという問題が生じます。

 上述した銃禁止の成立要件に照らしましても、今日の国際社会が、これらの要件を十分に満たしているとは言えません。アメリカは、既に‘世界の警察官’の立場を放棄していますし、ロシアや中国と言った核保有国に警察官の役割を期待する国は存在しないことでしょう。北朝鮮に至っては、暴力主義を行動原理とする犯罪国家と言っても過言ではありません。その一方で、紛争等を平和的に解決するための司法制度は未整備な状態にあり、いわば無法地帯に近いわけですから、抑止目的に限定されたものであっても核兵器の保有禁止は、核を持たない国にとりましては極めて酷な要求なのです。しかも、既に核を保有している諸国が同条約に加わるはずもなく、善意の加盟国が増加するにつれて核保有国による核の独占が強化されてしまうという由々しき結果をも招いているのです。

 何ごとも、形のみで理想を整えても、実質が伴っていなければ、メリットよりもデメリットの方が大きくなるものです。‘核なき世界’の理想をその保持の禁止をもって追求するならば、先ずもってこれらの成立要件を充たすことができるのか、考えてみる必要がありましょう。そして、それが不可能であるならば、少なくともテクノロジーによって核兵器が無力化されるまでの間は、各国に相互抑止力としての核保有を認めという選択肢もあって然るべきと思うのです。


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ノーベル平和賞で懸念される抑止力の否定

2024年10月14日 12時12分46秒 | 国際政治
 今年、2024年のノーベル平和賞は、戦後、凄惨を極めた原爆被害の経験を語り続け、核兵器廃絶を訴えてきた「日本原水爆被害者団体協議会」におくられることが決定されました。被爆体験を多くの人々に広く伝え、核兵器の非人道性を知らしめたという意味において、平和への貢献として高く評価されたのでしょう。その一方で、同団体は左翼系の核廃絶運動に携わる団体の一つでもありましたので、既に日本国の政治にも影響が出てきているようです。核禁止条約へのオブザーバー参加、あるいは、加盟が取り沙汰されるようになったからです。

 ノルウェーのノーベル賞委員会の受賞者選定は、かねてより政治色が強いとする指摘を受けてきました。その政治色の一つが核廃絶運動に対する傾斜であり、これまでも、2009年にはプラハでの「核なき世界演説」で核廃絶を訴えたオバマ元米大統領が、また、2017年には、核兵器禁止条約の成立に向けて活動してきたICANが受賞しています。今年の「日本原水爆被害者団体協議会」にも、同委員会の核廃絶に対する強い思い入れが伺えます。しかしながら、その一方で、北朝鮮の核保有をはじめ、NPT体制の弊害が顕著となる今日、核の放棄は最大の抑止力の放棄でもありますので、核兵器禁止条約への対応は、国民の命の問題とも直結していますので、正直に申しまして複雑な心境にもなります。

 報道に因りますと、核兵器禁止条約へのオブザーバー参加については、立憲民主党、国民民主党、日本維新の会など、野党が揃って賛成の立場にあるのに加え、連立与党の公明党も参加を要請しています。日本共産党、れいわ新撰組、並びに、社民党に至っては、オブザーバーの資格では満足せず、同条約への正式加盟を主張する程です。この流れを受けてか、先の自民党の総裁選挙ではアメリカとの意思共有まで踏み込む「核シェアリング」に言及していた石破首相も、オブザーバー参加については‘よく議論’すると述べ、他の政党への歩み寄りを見せているのです。自民党までも、核禁止条約に対して前向きな姿勢を示したのは、おそらくは、ノーベル賞をも牛耳る政権権力の圧力が想定されるのですが、何れにしましても、日本国内では、自国団体のノーベル平和賞の受賞が、むしろ、安全保障上の不安定性、即ち、平和への懸念を齎しているという皮肉な状況にあるのです。

 核の抑止力の重要性を無視できない理由は、核の使用を抑止する方法は、現在にあっては核しか存在しない、という厳しい現実にあります。それが指向性エネルギー兵器等を用いたものであれ、完璧なるミサイル防衛技術が確立されれば、核は自ずと無力化することでしょう。しかしながら、現時点では、同システムは核攻撃を防ぐに十分なレベルに達しておらず、最も効果的な抑止手段は、核の保有と言わざるを得ないのです。

 実際に、核兵器の抑止効果は歴史が証明しています。冷戦期にあっては、相互確証破壊の論理が示すように米ソ間の対立は核の均衡によって超大国間の熱戦には至りませんでした。また、核保有の手段が国際社会に対する卑怯極まる‘騙し’であったとは言え、北朝鮮は、核を保有することでアメリカを対話路線に転換させています。同国の核保有は、朝鮮戦争の再開、及び、軍事力による核の排除という選択肢をアメリカから奪っており、小国による大国に対する核の抑止力の有効性を示す前例ともなったのです。今後のイスラエル・イラン間の関係も、イランの核保有の有無によって違ってくることでしょう(同時に、両国に対する世界権力の影響力を測る機会ともなる・・・)。

 そして逆から見ますと、核の抑止力を持たない非核保有国は、核保有国から攻撃を受けやすい脆弱な立場にあることとなります。実際に、ウクライナがロシアから軍事介入を受けたのも、「ブダベスト覚書」による核放棄が原因しているとも指摘されています。また、核保有の非対称性からすれば、日本国がアメリカから原子爆弾を投下されたのも、第二次世界大戦末期の核兵器開発競争においてアメリカに先を越され、日本国が核を保有していなかったから、という見方も成り立ちましょう。仮に、先に核武装していれば、広島や長崎の悲劇を回避できた可能性もないわけではなかったのです。

 この点に鑑みますと、ノーベル平和賞を受賞する「日本原水爆被害者団体協議会」が核の抑止力まで否定しているとなりますと、過去にあって手にできなかった被爆回避手段を、今日、手にする機会がありながらもそれを否定するということにもなります。被爆体験があまりにも過酷であったために過去に囚われすぎてしまい、現在のそして未来の日本国民の命を護ることを忘れてしまっているのかもしれません。言い換えますと、それが無意識、あるいは、善意からではあれ、NPT体制下における横暴な軍事大国や悪徳国家による核の独占を擁護し、中小国を無防備な状態に放置することに貢献しているようにも見えてもくるのです。理想によってリスクに目を瞑らされるよりも、「日本原水爆被害者団体協議会」のノーベル平和賞受賞は、むしろ、現実に即した対応の議論を開始する機会とすべきではないかと思うのです。

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AI不況もあり得る?-失業による消費の縮小

2024年10月11日 10時18分12秒 | 日本政治
 生成AIの登場もあり、日本国政府は、近未来の日本国をデジタル社会として描いているようです。率先してDXやGXを推進すると共に、‘成長産業’への集中投資や人材の移動をも積極的に訴えており、デジタル化に成功すれば、日本国の未来は安泰であるかのような夢を振りまいているのです。しかしながらその一方で、デジタル全体主義の懸念に加え、生成AIは、人々から職を奪うのではないか、とする危惧の声も上がっています。とりわけ、失業の危機に立たされるのは‘ホワイトカラー’とも称されてきた事務処理や管理等に携わる職種です。全く正反対とも言える未来像が示されているのですが、果たして、どちらがより可能性が高いのでしょうか。

 未来を予測する場合、通常、過去の事例が参考になることが少なくありません。少なくとも信頼性に関しては、過去の言動にそれを失わせるものがあれば、将来にあっても信頼を裏切られるような結果となるのではないか、と疑うものです。この信頼性の観点からしますと、政府の異論を許さないデジタル礼賛一辺倒の姿勢につきましては、自ずと疑問符が付いてしまいます。日本国政府の過去の言動を見ましても、現実が理想と真逆となるケースが多々見られるからです。

 第二次世界大戦中の大本営の発表については‘あの時代’という言葉が言い訳となっても、同時代の出来事については、‘時代’をもって言い逃れをすることは困難です。その際たる事例が、新型コロナ感染症対策として接種事業が大規模に展開されたmRNAワクチンと言えましょう。当初、同ワクチンについて、政府は、安全性を言葉で‘保障する’と共に、科学的な知見に基づく根拠のあるリスク指摘であっても、これらを‘デマ’と決めつけた上で言論統制まで踏み込んでいました。mRNAワクチンは、最先端のテクノロジーが使われており、これを国民が接種さえすれば、コロナ禍は程なく収束し、日常の生活に戻れると説明していたのです。ところが、現実には多数の死亡者を含む健康被害が広がり、後に、この説明は誤りであったことが判明するのです。

 国民からしますと、‘政府に騙された’とする感情がふつふつと湧いてくることにもなるのですが、政府は、明らかに治験不足とされるレプリコン型ワクチンを平然と承認しており、全く反省の色もありません。結局、Covid19は、インフルエンザのように変異し続けるため、国民は、コロナワクチンを永遠に打ち続けるように奨励されているようなものであり、同事業に費やされる費用も莫大な額に上っているのです。

 政府の性急で強圧的な態度、一切の異論を排そうとする頑迷さ、計画性、巨大利権、そして、背後に潜む‘司令塔’の存在などからしますと、コロナ禍とデジタル化には幾つかの共通点が見られます。国民を自発的に参加させる、即ち、動員するためのプロパガンダに勤しみ、あらゆる反対や批判を押しのけて粛々とスケジュール通りに実行してゆく姿は、あたかも上部からの命令を受けた‘部隊’のようです。言い換えますと、そこには、‘国民を騙してでも目的を達成すべし’とする、第二次世界大戦時の大本営にも通じる強固な‘意思’さえ感知されるのです。

 過去の前例を見る限り、政府が描くデジタル社会の理想は逆方向に向かう可能性は否定できなくなります。既に日本国政府は生成AIの普及を前提として、原子力発電所の再稼働をはじめ必要とされる膨大な電力の確保に走り出してもいます。

 おそらく、経営者や投資家の多くは、AIの導入により人件費の削減を試みることでしょう。AIであれば、24時間、疲労することもなく仕事をしてくれますし、交通費や様々な手当を支給する必要もありません。仕事上のヒューマン・エラーも激減することでしょうまた、給与に関して不満を漏らすことも、賃上げを要求することもありませんので、人を雇用するよりもAIを使った方が利益となりますし、合理的な経営判断のようにも思えます。

 しかしながら、経済は‘生きもの’とも称されますように、一種の生態系ですので、部分的な利益が必ずしも全体的に利益を齎すわけではありません。仮に、AIの導入によって大量失業が生じるとしますと、失業とは、人々が所得を得る機会を失うことでもありますので、購買力、即ち、消費をも減少させてしまうからです。購入者やユーザーがいなくなってしまいますと、製品やサービス等を提供する事業者側も自ずと経営が行き詰まってしまいます。経済にあって消費部門が縮小することは、致命的な意味を持ちます。デジタル分野にあって失業者を全て吸収し得るとは考えられませんので、国民の多くは、行き場のない絶望的な状況に陥ることとなりましょう。

 新型コロナワクチンと同様にマイナンバーを含むデジタル化についても、政府は、そのリスクやマイナス影響を直視しようとはしませんし、国民の声には耳を塞いでいます。メディアの大半も政府のプロパガンダの片棒を担いでいるのですが、ここは、国民生活を含めた経済全体をメカニズムとして捉える必要がありましょう。一端、DXやGXを導入しますと、システム更新やセキュリティー対策等に追われ、永続的なコスト負担も生じます(巨大なデジタル利権・・・)。デジタル全体主義のみならず、AI不況も想定される中、政府に踊らされてデジタル化やAIの導入を急ぐ必要があるのか、今一度、考えてみるべきではないかと思うのです。

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