万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

米価高騰は国会で調査を-国政調査権の行使

2025年01月31日 10時52分57秒 | 日本政治
 米価高騰は、川柳にも詠まれて話題になるほどの国民の関心事となっています。昨年秋の収穫時期を過ぎても価格が下がらないのですから、この先を案じる国民は少なくないはずです。高止まりどころか、さらなる値上がりを予測する声もあり、国民の不安は募るばかりです。しかも、米価高騰の原因やメカニズムにつきましては、政府からの国民に対する明確なる説明もないのです。

 このため、マスメディアであれ、ネットであれ、様々な憶測が飛び交うこととなりました。本ブログでも、先物取引原因説を唱えたのですが、詳細な情報も専門知識も欠ける上に、昨年春頃から始まる農林中央金庫の巨額損失、大阪堂島商品取引所での先物取引の復活、SBI証券の参入、買い占めの誘発など、関連性が強く疑われる一連の出来事からの推測に過ぎません。国民生活に直結する大問題でありながら、国民の誰もが、何故、お米の価格が上昇し続けているのか、その理由を知らないのです。

 政府は、食糧の安定供給について責務を負っていますので、主食である米価の高騰は、農政の問題、つまり、政治問題でもあります。ところが、現状を見る限り、日本国政府は、説明責任の無視に加え、何らの効果的な対策をも打たずに今日に至っています。米価高騰が始まってからかれこれ半年以上の月日が経っているにも拘わらず、どうしたことか、放置状態が続いているのです。昨今、ようやく政府備蓄米の放出を検討に至ってはいるものの、政府は、黙認状態を続けるのでしょうか。

 政府の不作為は、国民に対する統治責任の放棄であり、怠慢を理由とした行政訴訟が起きてもおかしくはないのですが、先ずもって問題となるのは、冒頭で述べたように米価高騰の原因が不明である点です。否、様々な説が飛び交い、原因が不確かである状況を利用して、政府が対策を怠っている節もあります。その一方で、この原因不明の状況は、別の解決手段に訴えるチャンスともなり得ます。それは、国会による対応です。

 国会と言いますと、憲法において立法機関と位置づけられているため、衆参何れの国会議員であれ、法律の制定や改正に専念しているというイメージがあります。それが、たとえ法案の採決に際して議場で一票を投じるだけであっても。しかしながら、議会には、一般的に国政調査権という権限があります(日本国憲法では第62条)。これは、議会が政府をチェック(制御)する権限であり、政府や行政機関に何らかの不正や違法行為等が疑われたり、国民の利益のために必要とされる場合、議会は、当該問題について厳正なる調査を実施することができます。諸外国では、より中立・公平性を確保し、客観的な立場から調査が実施されるように、専門家から構成されるオンブズマンを設けるケースもあり、重要な議会機能の一つに数えられています。

 国政調査権を行使するならば、最も標準的な方法は、衆参何れであれ、農林水産委員会が同調査を担うというものです。現在、衆議院の同委員会では40名の議員がメンバーとなっており、参議院では20名ほどです。これらの委員を務める議員が、率先して米価高騰の問題に対処すべきなのですが、現状にあって、政府の怠慢を追求することも、自ら対処しようとする姿勢を見せないところに、与党であれ野党であれ、今日の日本国の政治家の無責任さが伺えます。

 また、国会として米価高騰問題を扱う第三者委員会を設けるという方法もありましょう。これは、上述したオンブズマン形式に近いのですが、複数の専門家を委員として任命し、広範な調査権を与えるというものです(調査結果に基づき、具体的な対策についても提言権を与えることも・・・)。国会議員には内外からの圧力がかかりますし、利権も絡むことがありますので、中立公平な調査を実施するには、農林水産委員会よりも特別に調査委員会を設置する方が適していますし、国民も調査結果に対して信頼を置くことでしょう。

 今般の異常なまでの米価高騰は、複合要因説が唱えられるほど、不透明感が漂っています。国民の多くが不信感を抱いているのですから、政府のみならず、国会も、即、対応に乗り出すべきなのではないでしょうか。国会もまた沈黙を決め込んでいるとしますと、国民の政治不信も米価と同様に上がり続けるのではないかと思うのです。

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米価高騰は農家を扶けているのか?

2025年01月30日 11時50分27秒 | 日本経済
 昨今の米価高騰については、現状の価格が農家にとりましては適正なのではないか、とする擁護論があります。政府が長期的に推進してきた減反政策とも相まって、お米の生産量が減少してきた理由は米価の低さにあるとする説です。採算が採れず、作れば作るほど赤字になるのでは、次世代の後継者が失われるのは当然であり、国民がこれまで通りに国産米の供給を望むならば、高価格は受忍すべきということになります。

 確かに、米価が採算割れを起こすような低価格であれば、日本国の農業はやがて衰退してゆくことでしょう。しかしながら、米作農家を一緒くたにして米価の高止まりをよしとするのは、いささか極論のようにも思えます。何故ならば、‘農家’には、既に農地の集約化を済ませた比較的規模の大きな農業事業者から山間部等の零細な農家まで様々であるからです。前者については、個人事業ではなく、農業を専業とする少数の農家に農地を委託して法人化した農業事業団体も見られるのです。

 農地の集約化を見ますと、2014年から農地バンクの取り組みも始まり、年々、農地の集約化率は上昇傾向を続けています。農林水産省のデータによりますと、2010年に48.1%であった集積率は、2019年には57.1%まで上昇しています。2025年現在では、さらにこの率は上がっていることでしょう。しかも、集積率には地方毎に大きな開きがあり、北海道が91.5%であるのに対して、中国四国地方は28.7%であり、凡そ3倍の開きがあります。同データは、比較的小規模となる日本国の農地の問題が、近年緩和されてきていることを示すと共に、米価が低価格であっても経営が成り立つ‘農家’もあれば、価格が上がらなければ赤字となる農家も存在することを意味しています。

 現状にあって農地の経営状態に違いがあるのであれば、一律に米価を高止まりさせる必要は低下します。棚田など、山間部にあって集積化が困難な農家を基準として米価を想定して‘基準米価’としますと、消費者を犠牲にする形で大規模農家の利益が膨れ上がることにもなりましょう。もちろん、若者が農業を志すに十分な所得を約束する、つまり、適正なレベルの価格を維持する必要はありましょうが、農村に贅を尽くした‘お米御殿’が乱立するほどの高値はさすがに行き過ぎとなりましょう。つまり、農地面積を根拠とした高値擁護論は、今日、説得力が薄れてきているのです。

 政府は、集約困難な農地については、‘地域の特性に応じた持続可能な土地利用への転換’を基本方針としています。これらの農地では、米作を諦めて、放牧地や農業再開可能あるいは森林化するように薦めているのです。後継者が現れない場合は致し方がないものの、この方針については疑問がないわけではありませんが(独立採算を目指すならば、観光資源化や有機栽培等の高級米やブランド米を生産する方向性も・・・)、少なくとも現状にあって、仮に採算割れが起きている零細農家が存在しているとすれば、これらの農家に対して重点的に補助金を支給すれば事足ります。国民にとりましては、手頃な価格でお米が購入できますし、ピンポイント式の農家支援制度であれば、予算も限られますので税負担も軽減されましょう。実際に、農地の用途変更を進めつつも、政府は、中山間地域等直接支払制度を2000年から実施しており、存続が危ぶまれる零細農家に対して財政的な支援策が講じられているのです。

 以上に述べてきましたように、農家の経営や農業の持続性を慮った高値容認論も多々あるのですが、現状からしますと他の対処法もありそうです。それどころか、今般の米価高騰に関しては、その恩恵は農家には還元されず、集荷事業や卸売業者等による利ざや狙いの買い占めを指摘する声も聞えてきます。JA以外にも集荷業者が農家から高値で買い漁っているというのです。一体、こうした‘集荷事業者’がどうのようにして湧いてしまったのか、米価高騰の真相を知るためにも、その背景を調べてみる必要はありそうです(農水省が免許を交付、あるいは、営業を許可している?)。何れにしましても、今般の米価高騰は、今後、国民レベルで議論すべき日本国の農業に関わる様々な問題を提起したのではないかと思うのです。

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米価高騰は「食料供給困難事態対策法」の対象になるのか

2025年01月29日 12時08分08秒 | 日本経済
 報道によりますと、昨年2024年6月に国会で可決成立した「食料供給困難事態対策法」が、今年の4月1日から施行されるそうです。同法の目的は、食料が不足する事態に備え、‘兆候の段階から、政府一体となって供給確保対策を講ずる’ことにあり、どこか、緊急事態宣言の食料版のような印象を受けます。「政府の意思決定や指揮命令を行う体制やその整備」するというのですから。有事を想定してか、食料をめぐる政府の動きが活発化している様子も窺えるのですが、同法は、今般の米価高騰の問題性をも明らかにしているように思えます。

 4月1日からの施行に先立って、政府は基本的な運用方針を明らかにしています。お米を含む対象12品目については、国内供給量が2割以上減少し、価格高騰が発生した場合などを「食料供給困難事態」と規定しており、今般の米価高騰が同法の適用対象となるのかは、微妙なところです。

 先ずもって、同法が想定している供給不足の原因を見てみましょう。‘供給を不安定化させている要因は多様化している’とした上で、「異常気象の頻発化、被害の激甚化」、「家畜伝染病や植物病害虫の侵入・まん延リスクの増大」、「地政学的リスクの高まり」、「新たな感染症の発生リスクの高まり」、「 穀物等の畜産需要や非食用需要の増加」並びに、「 輸入競争の激化」などを挙げています。今般の米価高騰の原因については猛暑説も唱えられていますので、仮に政府が‘異常気象’をもって供給不足が生じたと見なした場合、今般の米価高騰も、同法の適用対象となる可能性はあります。

 もっとも、食糧供給困難兆候・事態の認定については、平時の調査によるものとしています。つまり、政府は、「食料の需給状況、価格動向、民間在庫などの情報収集・分析」した結果をもって、事態の深刻度を判断するとしているのです。となりますと、今般の米価高騰についても、政府は、同法に従って厳正なる調査を開始することとなるのですが、この結果、上記とは全く別の要因によって供給不足が起きているとする結論に達したとしますと、政府は、どのように対応するのでしょうか。例えば、本ブログが推理するように、投機マネーの先物・現物取引市場への流入などが、供給不足を引き起こしていることが判明した場合です。

 投機が利ざやの獲得を目的とする限り、常々、値上がり効果を狙った‘買い占め’や‘買い惜しみ’が起きるものです。実際に、昨年の収穫量は6%アップでありながら、流通量事態は不足しているとする指摘があります。お米は、2年間程度は保存できますので、民間にあって大量に‘備蓄’され、倉庫に眠っている可能性も否定はできないのです。あるいは、先物取引であれば海外投資家も自由に参加できますので、何らかのルートで輸出されているのかもしれません(海外で日本米が安値で販売されているとする情報も・・・)。つまり、投機行為によって、小売り段階における供給不足もあり得ることとなります。

 実のところ、同法では、上述した‘2割以上の供給減少’の他に、「 国民生活・国民経済への支障の発生(買占め、価格高騰など)」が併記されており、ここに初めて‘買い占め’という言葉が登場します。そして、大きな影響が出る場合を想定し、深刻度によっては1割程度でも異常事態として認定されるとしているのです。ここで、再び、今般の米価高騰が同法の適用対象となる可能性が高まるのです。

 買い占めについては、戦後の昭和48年に政令として制定された「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律施行令(買占め等防止法)」が既に存在しているものの、米作は長期に亘り食糧管理法の下にあったこともあり、お米が同法の対象となるのかどうかは不明です。また、今般の対策法に関する説明として、既存の法律では「買占め又は売惜しみが行われるなど問題が明らかとなった場合しか対応を行うことができない」と記されていますので、目下のところ、政府は、米価高騰の原因を‘買い占め’にあるとは認めておらず、同法に基づく措置を取ってはいないのでしょう。しかしながら、仮に、食料供給困難兆候・事態に認定されますと、お米は、同法の対象となります。「事業者への要請など供給確保のための措置」にあって、「その他の食料供給困難事態対策(法第20条)」として買占め等防止法に基づく買い占めの防止を挙げているからです。

 仮に諸要件が当て嵌まれば、食料供給困難兆候であれ、食料供給困難であれ、事態同法の適用第一号は、‘令和の米価高騰’となりましょう。結果として、買い占めや売り惜しみを根絶する効果は期待できます。しかしながら、同措置法の内容は政府による統制色が強いという問題があり、必ずしも食料供給困難兆候・事態の認定が望ましいわけではありません。この点を考慮すれば、むしろ、既存の買占め等防止法の対象品目として米穀を指定した方が、供給不足の原因に拘わらず、幅広い範囲でこれらの行為を規制することが出来ましょう。あるいは、政府は、本当のところは同法での取締ができるにも拘わらず、買い占めや売り惜しみは行なわれていないと見なしているのでしょうか。何れにしましても、米価高騰には、先物取引の規制や政府備蓄米の放出のみならず、買い占めや売り惜しみ対策も必要なのではないかと思うのです。

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政府備蓄米放出と米相場の問題

2025年01月28日 12時08分05秒 | 日本経済
 米価高騰の原因については諸説が入り乱れているものの、何れも説得力に欠けています。このため、複合要因説も唱えられることにもなったのですが、本ブログでは、先物取引をはじめとした投機マネーの流入、並びに、それに便乗する形でのバブル現象ではないかと疑っております。仮に、異常な値上がりが一種のバブルであれば、政府による備蓄米の放出は米相場に影響を与えますので、幾つかの留意すべき問題があります。

 最初に、政府備蓄米の放出によるプラス面を挙げてみることとしましょう。昨年のお米の作柄は6年ぶりに収穫量がアップしていますので、流通していない保管分を合わせれば、現状はお米不足の状態ではありません。となりますと、仮に、消費者への小売り段階で品不足であるならば、それは、さらなる値上がりを期待して人為的に供給が制限されていることを意味します。つまり、集荷事業者、卸業者、生産農家、農協などのいずれかが(小売業者もあり得るものの、保管にコストがかかるので可能性は低い・・・)、が‘売り惜しみ’や‘囲い込み(買い占め)’を行なっていることになりましょう。第一のプラス効果は、政府備蓄米が市場に供給されることで、人為的であった供給不足が解消されるところにあります。

 第二のプラス効果は、もちろん、国民の大多数が待ち望んでいる米価の下落です。供給不足が解消され(売り惜しみや囲い込みを行なう動機も失われる・・・)、市場に十分な量の米が出回るようにならば、米価格の上昇はストップし、やがて下落に転じることでしょう。

 そして、第三のプラス効果があるとすれば、お米の先物市場でも先物価格が下ることです。先高に期待した資金の流入も止まることでしょう。‘買いヘッジ’に投じた人々は、米価下落により損失を被ることにもなるのですが、先物取引に付随する変動リスクですので致し方がないことになります。

 それでは、政府による備蓄米の放出には、マイナス面もあるのでしょうか。マイナス面とは、国民にとりましての不利益を意味します。プラス効果となるのか、マイナス効果となるのかは、偏に政府の政策目的、選択する放出方法、並びに、タイミングにかかってくるように思えます。政府性悪説をとれば、上述したプラス効果が現れず、逆効果となるケースも想定されるからです(性悪説の延長には、米輸入促進の隠れた意図も指摘されている・・・)。

 例えば、政府が放出する備蓄米の量が微々たるものであれば、品不足の状態は解消されません。‘売り惜しみ’や‘囲い込み’を止めさせるだけに十分な放出量がなければ、焼け石に水となってしまうのです。

 また、第二の価格下落効果についても、放出量が少なければ効果が限定されると共に、政府が集荷事業者に販売するに際して設ける価格次第では、米価は高止まりとなってしまいます。現状と同程度の価格で販売すれば、むしろ、政府が高値状態を追認したことにもなりかねません。その一方で、売り渡し先となる農協等が、小売り事業者に卸すに際して高値を維持する可能性もありましょう。仮に、米価高騰には農林中央金庫の巨額損失問題が絡んでいるとすればなおさらです。政府が卸売業者に対して安価での小売りへの卸しを条件付けない限り、米価下落効果も限られてしまうのです。

 そして、第三のプラス効果もマイナス効果が生じるリスクがあります。先ずもって、‘お米バブル’が崩壊すれば、急激な米価下落が生じるかもしれません。もちろん、消費者にとりましては、お米価格の低下は歓迎すべきことです。しかしながらその一方で、米価が著しく安値になりますと、経営が立ちゆかなくなる農家も現れるかもしれません。農業へのマイナス影響を考慮すれば、政府は、農業経営を揺るがすほどの大幅な下落を防ぐ手段を講じておく必要がありましょう。

 しかも、米市場に投じられてきた投機資金は、米価下落をも利益追求のチャンスにされるものと予測されます。政府が備蓄米を放出する時期を見計らって、‘買いヘッジ’から‘売りヘッジ’に切り替えるようとすることでしょう。この場合、政府による備蓄米放出は、外国為替市場における政府による‘市場介入’のような状況ともなり、どこか、投機筋との攻防戦のような様相も呈してくるのです(政府が付した買い戻し条件とは、価格低下時への備え?)。投機マネーについては、政府の介入実施のタイミングによって損得の差が生じるのですが、ここでポイントとなるのは、政府が投機筋には‘忖度’せず、国民の利益のために市場介入を行なうか否か、ということになりましょう。もっとも、今般の放出のケースでは売りに拍車がかかり、米価暴落ともなりかねませんので、先物市場は予め閉鎖しておいた方が安全であるかも知れません。

 以上に述べてきましたように、政府による備蓄米の売却に際しては、考慮すべき点が多々あります。何れにしましても、現状にあって米価高騰は国民の生活に深刻なダメージを与えていますので、政府は、お米放出による影響を十分に検討し、万全の準備を整えた上で、国民のために備蓄米を放出すべきであると思うのです。

*2025年1月30日修正 JAについては、表現を卸売業者から集荷事業者に変更しました。

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米価高騰の原因は投機?

2025年01月27日 12時08分12秒 | 日本政治
 昨年から続いてきた米価の高騰は、秋の新米の収穫時期を過ぎ、年が開けても収まる気配はなく、国民の家計を圧迫し続けています。お米は主食なだけに、とりわけ所得の低い世帯や子育て世代では、お米の購入を諦めるか、控えざるを得ない事態に直面しています。多くの国民が早期の正常化を期待してきたのですが、政府の動きは余りにも鈍く、国民の苦境を敢て黙認してきた観さえあります。

 ここに来てようやく江藤拓農林水産大臣も、買い戻しの条件付きながら政府備蓄米の放出を口にするようになりました。去年の夏には、坂本元大臣が‘新米が出荷になるので米価高騰は落ち着くので、備蓄米は放出しない’旨を説明していましたので、江藤大臣は、米価の高騰の主たる原因が、需給バランスにおける後者の不足にあるわけではないことには気がついたようです。

 実際に、お米の作柄については、昨年の2024年12月10日に、農水省が「024年産米の収穫量が前年比2.7%増の679万2000トン」と発表しています。そもそも、供給不足とされた去年でさえ、添付されていたグラフを見ますと、平年を著しく下回っているわけでもありません。本当のところは、かくも急激な価格上昇をもたらすほどの不作や凶作ではなかったにも拘わらず、米価格が高騰してしまったのが実情なのでしょう。

 収穫高に然程の変動がないにも拘わらず、米価高騰を招いた原因としては、インバウンドの回復、猛暑の影響、円安による輸入資材の値上がり、国際市場における肥料価格やエネルギー価格の上昇なども挙げられてきました。しかしながら、他の産物や製品分野と条件を比較しますと、何れも説得力に欠けています。複合要因説も唱えられているのですが、うるち米の価格だけが上昇するのは、如何にも不自然なのです。

 そこで、本ブログでは先物取引が原因ではないかと推理したのですが、それは、まさに米価高騰が始まった時期と大阪堂島商品取引所にて「コメ指数先物」が復活した時期と凡そ一致するからです。もちろん、‘偶然の一致’ということもありましょう。しかしながら、米価格の急激な上昇がマネー現象である限り、米市場への巨額の資金の流入、あるいは、投機的マネーの動きを想定せざるを得ないのです。

 投機的行動を主因とする見方については、日刊ゲンダイのデジタル版にあって、本日、「一般的なコメが5キロ5000円も…価格高騰で「コメ転がし」マネーゲーム化の動き」というタイトルの記事を発見しました。同記事では、先物取引ではなく、現物取引における投機的行動を問題視しているのですが、投機マネーが米市場に流れ込んでいるのは事実なのでしょう。

 同記事によれば、お米が最長で2年間は保存できるため、相場の値動きを意識して売却せずに「囲い込み」が行なわれているそうです。この「囲い込み」の主語が、卸売業者なのか、仲買人なのか、農家なのかは明記されておらず、あるいは、凡そ1.5兆円ともされる巨額の損失を抱え込んだ農林中央金庫(農林中金)なのかもしれません。また、堂島の先物取引にはSBI証券や内外の投資家が参加していますので、背後にあって「買いヘッジ」に賭けている人々による「囲い込み」誘導や供給阻害もあり得る推測です。

 何れにしましても、異常なまでの米価高騰は、国民の困窮をよそに、自らの利益を追求している一部の少数の人々の存在を示唆しています。そして、これが‘お米バブル’とも言えるマネー現象であるとしますと、政府の備蓄米放出には複雑な要素が絡んでくるとともに、国民のための軟着陸という課題も浮かんでくるのです(つづく)。

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‘政府の嘘’が最大の問題では-陰謀論作戦の背景

2025年01月24日 11時57分51秒 | 日本政治
 ドナルド・トランプ米大統領が近日中の解除を約したケネディ大統領暗殺事件に関する機密文書については、おそらくウォーレン委員会の最終報告とは違った内容を含むのでしょう。仮に同報告書と何らの矛盾も齟齬もない文書であれば、かくも厳重に機密扱いする必要がないからです。かくして人々の関心も自ずと高まるのですが、今般の一件は、‘政府の嘘’の問題をも提起しています。

  今日、メディアでは、‘陰謀論’を見出しに含む記事が定期的に流されています。何れも、‘陰謀論’に嵌まってしまった家族や知人、あるいは、陰謀論が流布する現状を嘆くものであり、これらの記事からは、暗に‘陰謀を信じる人々を一般社会から排除しよう’あるいは‘まともに取り合ってはならない’とするメッセージが伝わってきます。執拗なまでの頻繁な記事に、これこそ世論誘導のための陰謀なのではないか、と疑うレベルなのですが、これらの筆者の何れも、我こそは常識的な国民の代表’とばかりに懐疑論者の異常性をアピールしているのです。もっとも、極端な主張を繰り返すQアノンあたりになりますと、‘偽旗作戦’の可能性も高くなるのですが・・・。

かくして、陰謀の可能性の指摘を‘同調圧力’によって封じようとする動きが見られるのですが、これらの封印‘活動’には、一つの共通点があるように思えます。それは、何れも国家や政府が情報の発信者として関わっている点です。国民を思考停止に追い込むための陰謀論作戦の発端がケネディ大統領暗殺事件にあったとする指摘がありますように、政府の情報に対して国民から嫌疑がかけられる場合、陰謀論攻勢が激化するのです。

 アメリカ国民の大多数がオズワルド単独犯行説に疑いを抱いているように、日本国でも、政府の説明をそのまま信じることができないような事件は多々あります。今日、コロナワクチンに対する様々な陰謀説が飛び交っているのも、そもそもは、当時の河野太郎新型コロナワクチン接種推進担当を筆頭に、政府が、同型のワクチンの安全性を宣言したところにあります。ところが、実際には、国民の間で多数の健康被害が生じており、死亡者数も認定を受けた数だけで1000人に迫っています。超過死亡数も増加が指摘されており、政府の‘宣伝’に騙されたと感じる国民も少なくありません。そして、陰謀論論争の主戦場の一つが同ワクチンにあることは、誰もが知るところです。

 もう一つ、分かりやすい事例を挙げるとすれば、それは、安部元首相暗殺事件です。ケネディ大統領暗殺事件について調べますと、銃器による暗殺が如何に凄惨であったかを知ることが出来ます。文字にすることも憚れるのですが、銃弾の身体に対する破壊力には誰もが慄きます。ところが、安部元首相は、沿道のビルの一室から射撃されたとされるケネディ大統領よりも遥かに至近距離で被弾したにも拘わらず、著しい身体的な損傷を受けてはいません。銃社会であるアメリカにおいて倒れた元首相の様子や現場が放映されれば、政府が厳正なる調査の結果として公表したとしても、誰もが、山上容疑者による単独犯行とは信じないことでしょう。

 「陰謀論」が政府関連の事件に集中しているとしますと、‘政府は嘘を吐いており、何らかの情報を国民に隠している’と考える人が出現してもそれはおかしいことではありません。そして、悪意のないホワイトライというものがあることはあるものの、人が嘘を吐く場合とは、得てして自らに都合が悪い場合が圧倒的に多数を占めます。陰謀説が流れることは、国民からしますといたく自然の現象であり、レッテル張りに躍起になる「陰謀論」の方が余程不自然なのです。

 政府の嘘が、国民に対して何かやましいことがあり、巨額の利権をも絡む謀略や犯罪をも強く示唆しているとしますと、国民は、‘騙されたふり’をしてはならないように思えます。政府が国民を騙し仰せたと確信しますと、何度でも、事実を隠すためのカバーストーリーの作成や虚偽の説明を繰り返すからです。そして、国民は、政府は何を隠そうとしているのかを冷静に洞察し、正真正銘の陰謀や政治家の汚職が絡んでいる可能性を追求してみるべきなのではないでしょうか。近い将来、政府の発表や報道に疑問を呈する国民を「異常者」として排斥するような陰謀論作戦が発動した時こそ、国民が、陰謀の実在を確信する時となるのかもしれません。

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ケネディ大統領暗殺事件と陰謀論作戦

2025年01月23日 11時44分24秒 | アメリカ
 2025年1月20日、アメリカではドナルド・トランプ氏が大統領に就任し、第二次トランプ政権が発足しました。その一方で、就任式に先立つ19日に、過去の三つの暗殺事件に関する機密文書を‘数日以内’に‘全て公開する’と同大統領が述べたことから、この日を待ち望んでいた人々には朗報ともなりました。三つの暗殺事件とは、1963年に発生し、全世界に衝撃が走ったジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件を含む、68年のロバート・ケネディ元司法長官並びにマーチン・ルーサー・キング牧師の暗殺事件の三件です。

 ケネディ大統領暗殺事件については、当初からオズワルド単独犯説は疑われており、ウォーレン委員会が提出した最終報告書にも現場の状況や目撃証言との食い違いや矛盾点があったことから、アメリカ国民のみならず多くの人々が陰謀の存在を疑うこととなりました。誰もが、‘政府は嘘を吐いている’、あるいは、‘政府は何かを隠している’として、アメリカ政府に対して疑いの目を向けたのです。

 仮に、事件の経緯が政府の説明通りに、‘一匹オオカミ’による個人的な犯行であれば、如何なる情報であれ、国民に隠しておく必要はないはずです。また、CIAや国防総省が機密としてきた理由は「情報提供者の保護」とされていますが、何らの組織的な背景がないならば、この説明も説得力を欠きます。何故ならば、この説が正しければ、一体、誰が‘情報的強者’を狙うのか、という疑問が生じるからです(オズワルドも既に暗殺されている・・・)。加えて、犯人のオズワルドが事件直後にジャック・ルビーなる人物に、これもまた‘個人的な理由’によって暗殺されてしまったことにも、事件の背景に巨大な組織が潜んでいる可能性を強く示唆しているのです。

 真犯人、あるいは、黒幕については、オズワルドは過去にあってソ連邦に亡命した経歴があることから、先ずは、黒幕としてソ連邦やキューバの名が挙がることにもなりました。しかしながら、スパイや工作員が蠢く国際社会の裏側では、偽旗作戦や偽装作戦は日常茶飯事ですので、‘容疑者’は冷戦時代の共産主義国のみではありません。CIAや当時副大統領であったジョンソン大統領の名も挙がると共に、オズワルドやルビーには反社会組織との繋がりもあることから、マフィア犯行説も唱えられたのです。

 かくして、ケネディ大統領暗殺は、何らかの背景を持つ陰謀であった可能性が極めて高いのですが、CIAや国防総省が機密解除を阻止してきた様子からしますと、これらの組織が関与していた可能性も否定はできなくなります。隠蔽する強い動機を持つからです。あるいは、真犯人を知るが故に、情報公開により、それが鋭い国家間対立や戦争へと向かうことを恐れたとも考えられます。超大国間で一触即発の状態が続いた米ソ冷戦時代の暗殺事件であればこそ、戦争回避のための隠蔽説もあり得るのですが、既にソ連邦が消滅し、キューバにあってフィデル・カストロ議長が鬼籍に入った今日、仮に両国、あるいは、いずれかの国が暗殺に関与していたとしても、機密解除をもって米ロや米・キューバ間の対立が激化するとも思えません。

 アメリカでは、一定の期間が経過すると機密文書が解除される仕組みが設けられていますので、国民は、何れであれ、陰謀が囁かれる事件であっても真相を知ることができるとされます。しかしながら、歴代大統領が情報の開示を要求しても、CIA並びに国防総省が拒絶してきたとされますので、両機関には、大統領の要請をも拒否できる情報に関する絶大な権限があることになります。第一次トランプ政権での同事件の情報公開は、両機関に阻止されて一部に留まりました。

 ‘陰謀論作戦’、すなわち、政府が発信する情報や説明に対して異議を唱え、これとは違う真相を追求しようとする人々を‘陰謀論者’として揶揄する作戦は、CIAが、ケネディ大統領暗殺事件に対する国民の詮索を阻止するために考案されたとする説がありますが、今日の状況を見ますと、この説も、俄然、信憑性を帯びてきます(CIAが‘アメリカの機関’であるかどうかも疑わしい・・・)。そして、日本国において2023年に発生した安部元首相暗殺事件に際しても、疑いを提起しようものなら陰謀論者のレッテルが貼られるという、同様の現象が見られるのです(トランプ大統領の就任式に安部元首相の昭恵夫人が招待されたことにも、何らかの意味があるのかも知れない・・・)。

 民主主義国家であっても国家の情報に国民が知り得ない現状こそ、陰謀の実在性を半ば証明しているとも言えましょう。仮に、今般も、トランプ大統領による機密解除の要請がCIAや国防総省によって拒否されるとしますと、背後の闇の深さが際立つこととなります。そして、この由々しき現状は、国家の情報に関する権限や権利は、一体、誰が持つのか、という重要なる問題をも問いかけていると思うのです。

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医療保険制度が蝕まれる理由

2025年01月22日 12時14分10秒 | 日本経済
 近年、日本国内に住所をもつ中国人の人口が増加するにつれ、国民が深く懸念する事態が生じています。マスメディア等でも取り上げられてきたのですが、それは、医療保険の利用を目的とした中国人の日本国への移住です。この問題は、2012年に、原則として3ヶ月以上に日本国に滞在する予定の外国人に対して、日本国の社会保険への加入を義務付けたことから始まります。義務づけという言葉に惑わされがちですが、同改正は、住民基本台帳に登録されている外国籍の人であれば、日本国の各種社会保険制度に加入し、これを利用することができることを意味します。

 このような問題が生じるのですから、現行の医療保険制度には、何か盲点があるはずです。先ずもって、日本国政府は、公的年金制度と医療保険制度の両者を基本的に社会保険として一括りに扱っているようです。「106万円の壁問題」で知られるように、年金と健康保険の加入要件はほぼ同一です。しかしながら、一方は老齢年金、もう一方は医療保険ですので、その目的もリスク・カバーの仕組みも著しく違っています。民間の金融機関では両者は明確に区別されており、本来、別物として考えるべき制度のように思えます。

 特に公的医療保険制度が狙われ、外国人によって‘フリー・ライドされてしまう理由としては、同制度は、公的年金制度よりも受益と負担のバランスが崩れやすい点を挙げることができましょう。年金制度の場合には、基本的には加入者本人が保険料を積立て、それに見合った年金が給付されます。納付期間や納付額が給付額に比例的に反映されるため、比例平等の原則を一先ずは保たれています。日本国の厚生年金に至っては、加入期間が僅か1ヶ月であっても、受給資格を満たす年齢に達しますと、その納付額は厚生年金分として支給されます(国民年金は、後述するように受給資格を得るには10年以上の加入が必要)。

 一方、医療保険制度は、必ずしも受益と負担が均衡するわけではありません。当然と言えば当然のことなのですが、医療費の負担が軽減されるのは、治療の必要な病気や怪我をした人のみです。このため、軽い風邪で受診した人と高額の先端医療を要した人とでは、同制度の受益の部分にあって雲泥の差が生じます。同制度では、加入者にあって受益格差が著しいのです。しかも、公的医療保険となりますと、上述したように外国人であっても日本国内に住所があれば、誰でも加入することができます。民間の保険会社ですと、病歴や年齢等が厳しくチェックされ、リスク面からの厳格な審査を通らなければ加入契約を結ぶことが出来ません(一定年齢以上の高齢者は加入対象から外されてしまう・・・)。将来の支給額が実際の納付額よりも上回ると判断される保険契約は徹底的に回避されるのです(精緻な確率計算が行なわれている・・・)。ところが、公的医療制度では、こうした病歴や健康状態のチェックはありませんし、高齢者でも加入できます。民間保険会社とは真逆なのです。

 おそらく、かくも加入に寛容であるのは、公的医療制度には、国民間の相互扶助の精神、並びに、国民が生涯に亘って日本国内に居住するものとする‘国民モデル’があるからなのでしょう。確かに、これらの前提に基づけば、同制度は国民にとりましては医療費負担のリスクを軽減する助け合いの制度です。しかしながら、日本国政府の移民受け入れ政策への転換もあって、外国人人口が増加する今日、同制度は、低コストで質の高い治療を受けたい外国人の目には、好都合な制度に映ることは理解に難くありません(なお、2020年から、外国に居住する被扶養者については適用から外している・・・)。僅かな加入期間でも、深刻な持病があったとしても、そして、高齢であったとしても、高額の医療費を賄ってもられるからです。実際に、日本国の公的医療保険制度に‘フリー・ライド’するために、日本国に移住する中国人も少なくありません(違法行為はないものの、‘確信犯’という意味では倫理において問題がある・・)。

 外国人による医療保険制度の利用がたとえ合法的な行為であったとしても、日本国民から見ますと、これは著しく不公平です。そして、その原因が上述したような制度上の欠陥にあるとしますと、同問題を解決するためには、現行の制度を変える必要がありましょう。例えば、医療保険についても、少なくとも受給条件については長期滞在を加えるべきです。この点、国庫負担のある国民年金の受給資格要件の期間は10年以上ですので、医療保険についても、受給に関しては同程度の要件を付すべきかもしれません(もしくは、加入に際して10年以上の滞在を予定している場合のみこれを認める・・・)。もっとも、この措置ですと無保険状態があり得るのですが、外国人に対する健康保険制度は別途設け、比較的高額となる保険料を設定する、あるいは、民間保険への加入を義務付けるといった方法もありましょう。また、外国人の高齢者については、本人であれ、被扶養者であれ、本国における加入期間があるはずですので、原則として、本国での制度利用を原則とするなど、様々な工夫があり得ましょう。

 さらには、国家間の公平性を確保するためには、相手国との協定の締結、あるいは、国際的なルール作りも必要となりましょう(今日、二重加入を防止するための二国間の社会保障協定が締結されているものの、中国との間の協定の対象は公的年金のみ・・・)。日本国民の社会保険料の負担が年々重くなり、家計を圧迫している今日、医療保険制度の特徴に鑑みて、日本国政府は、その改革を急ぐべきではないでしょうか。そして、この問題は、国境を越えた人の自由移動が時にして侵害性を有するという、グローバリズムの実態をも暴いているように思うのです。

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危険に満ちた中国人観光ビザ緩和

2025年01月21日 14時45分30秒 | 日本政治
 昨年2024年12月25日、日本国の岩屋毅外相は、訪問先の北京にて中国人向けの観光ビザを大幅に緩和する方針を示しました。日本国民にとりましては寝耳に水であり、国民的合意を欠いた政府の独断・独走であることは明白です。これでは、国境管理に関する措置ですので、住民から鍵と管理を預かる門番が、自分の利益のために勝手に門の扉を開けてしまったようなものです。さすがに日本国内の世論も同措置に反発し、岩屋外相、否、日本国政府に批判が集中することにもなったのですが、中には、経済効果を期待して、同措置を千載一遇のチャンスを掴んだとして評価する声も聞えます。日本国に多大なる利益をもたらすというのです。


 対中ビザ緩和策に対する日本国利益論の根拠となるのは、同緩和策の目玉となる富裕層を対象とした10年間の有効期間を持つ「観光マルチビザ」の新設です。有効期限内であれば、自由に日中間を往来できる「観光マルチビザ」には、これまでも有効期限が3年のものと5年のものがあったのですが、今般、日本国側は、新しく大幅に有効期限を長期化した10年のものを設けたのです。同ビザは、「取得するための年収や保有資産の条件を高く設定する」としており、発給対象者は富裕層に絞られているため、富裕層の来日数の増加がインバウンドによる経済効果も見込まれると言うことなのでしょう。しかしながら、同措置には、多大なるリスクが潜んでいるように思えます。


 先ずもって、同緩和措置にあっては、同時に65歳以上の中国人には在職証明書を求めない方向にも変更されています(3年ビザも5年ビザも含めて)。この緩和措置は、医療目的で入国する中国人高齢者の増加を予測させるに十分です。中国人高齢者が、予約した診察日に間に合うように入国し、先端的な医療設備を備えた日本国内の病院で治療を受け、その足で帰国することも容易になります。その一方で、近年、日本国の医療保険制度や高額療養費制度によって利用されるケースが増え、既に政治・社会問題化しています。もっとも、2020年から健康保険法等の一部改正に伴って、外国人の被扶養者については国内居住要件が追加されましたので、観光ビザ緩和に際しては悪用増加の心配は不要かも知れません



 また、同緩和措置を擁護する説としては、中国の共産党一党独裁体制の崩壊をも視野に入れた、中国人富裕層の日本国への逃避準備論もあります。擁護論者は、同憶測に基づいて、富裕者が日本国内にあって増えるのだから、日本国民は歓迎すべきこととしています。しかしながら、現崩壊の如何を問わず、この説も危険極まりありません。何故ならば、今日の政界の状況を見れば誰もが予測できるように、日本国の政治家の多くは、マネー・パワーによって易々と動かされる存在です。日本国を避難先とした富裕層は、金権体質の日本国の政治家に対して積極的に働きかけをすることは目に見えています。もちろん、在日中国人への手厚い保護や優遇措置のみならず、社会保険制度をはじめ様々な‘規制緩和’を求めてくることでしょう。もちろん、日本国の不動産や企業等の多くも、中国人所有や経営が激増するかも知れません。


 実際に、東南アジア諸国の多くは華僑系の人々に経済を握られていますし、アメリカやヨーロッパ諸国を見ましても、マネー・パワーにおいて他を圧倒する少数のユダヤ系の人々が、政治のみならず社会全体を牛耳っている感もあります。しかも、中国人の富裕層は、共産党員や党関係者が多数を占めることを考えますと、そのマネー・パワーは、日本国内への共産主義の浸透をも意味するかも知れません。あるいは、今般のビザ取得の緩和措置には、中国共産党とも利権を共有してきたグローバリストの思惑も絡んでいるとも推測されましょう。


 以上に述べてきましたように、岩屋外相によるビザの緩和措置は、「戦略的互恵関係」も基づくものと説明されながら、その実、どこにも互恵性が見られません。中国側は、コロナ感染防止対策として2020年~日本人向けに設けていた短期滞在ビザの免除措置を再開したに過ぎないのですから。しかも、中国では、目下、ヒトメタニューモウィルス感染症が拡大しているのですから、日本政府は、ビザの観光ビザの緩和ところが強化に努めるべき局面にあります。日本国政府は、一体、誰のために働いているのでしょうか。


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「日本の不動産に1兆円」-投資ファンドはグローバリストの先兵?

2025年01月20日 11時58分12秒 | 日本政治
 「日本の不動産に1兆円」とは、昨日1月19日付の日本経済新聞の一面に掲載されていた記事の見出しです。同記事の内容は、アジア系投資ファンドのPAG(Pacific Alliance Group)が、今後3年間において1兆円規模の日本国内の不動産投資を予定しているとするものです。

 PAGは、不動産や未公開株等を主たる投資先とする代替投資会社と称される投資ファンドの一種あり、プライベート・エクイティ・ファンドとも呼ばれるものです。プライベート・エクイティ・ファンドについては、債務不履行の窮地に陥った貧困国から同国が発行した公債を買取り、債務削減交渉を拒絶して容赦なく債務返済を迫る行為がこれまでの問題視されてきており、この側面だけを見ましても、全てではないにせよ、投資ファンドというものの植民地主義的な行動パターンが伺えます。

 さて、PAGの歩みをみますと、同社は、まさしくグローバリズムの発展と軌を一にしています。同グループは、2002年にイギリス人のクリス・グラデル氏等が設立したパシッフィック・アライアンスを前身としており、2010年に不動産部門の投資ファンドであり、ジョン・ポール・トッピーノ氏が代表取締役社長を務めてきたセキュアード・キャピタル・ジャパン(1997年設立)と合併し、同年、共同創設者となるウェイジャン・シャン(単偉建)氏もプライベート・エクイティ部門を設立し、PAGに加わっています。現在、クリス・グラデル氏、ジョン・ポール・トッピーノ氏、並びに、単偉建氏が共同創設者とされ、同グループの株式の過半数もこれら三者によって所有しているとされます。

 PAGは、香港に本社を置き、東京、上海、ソウル、シンガポールにも支店を設けていますので、紙面に見られる‘アジア系ファンド’という表現は、その地域的な投資ターゲットに起因します。今般の対日投資では、その説明に当たったのはトッピーノシ氏であったのですが、本社が香港ということもあり、中国との関係が極めて深いことも、同グループの特色です。共同創設者以外の幹部の顔ぶれを見ましても、姓名をから判断しますと、9人の内6人は中国系のようです。そして、ここで注目されるのは、同グループの代表取締役会長である単偉建氏です。

 香港に本社がありますので、多くの人々が、単偉建氏は香港系の中国であり、元より西欧の価値観に馴染んできた人あろうと想像することでしょう。ところが、経歴を調べてみますと、この人物像は音を立てて崩れてゆきます。同氏は1954年に北京市で生まれており、文化大革命の嵐が吹き荒れる時代に中国本土で育っているのです(同時期には、内モンゴルに下放されている・・・)。習近平国家主席とは、同世代となりましょう。1975年には北京に戻り、対外経済貿易大学で学ぶのですが、その後アメリカに留学し、サンフランシスコ大学を経て最終的にはカリフォルニア大学バークレー校でPhD.を取得しています。1987年からは、ヤング・プロフェッショナル・プログラムのメンバーとして世界銀行の投資部門に勤務し、ペンシルバニア大学で6年間教鞭を執った後、1993年から1998年までの期間はJ.P.モルガンに活動の場を得ています(マネージング・ディレクター兼中国担当責任者の職も兼任)。

 ここまでの経歴を見ますと、投資畑一筋で生きてきたようなイメージを受けるのですが、日本国内ではあまり知られていないものの、同氏は作家でもあります。2019年に出版した、自らの自叙伝とも言える『Out of the Gobi: My Story of China and America』をはじめ、『マネー・ゲーム』や『マネー・マシーン』といった多数の著作もあります。しかも、大英博物館の理事を務める文化人でもあり、どこか、‘グローバルな人脈’を覗わせるのです。加えて、同氏は、現在、香港証券取引所の国際諮問委員会の委員であると共に、アリババ・グループにあって社外取締役をも勤めてもいます。

 PAG、並びに、同氏の背景を探ってゆきますと、そこには、中国共産党、香港、イギリス、アメリカ、世界銀行、ユダヤ金融財閥、証券取引所、プロパガンダといった、東インド会社をも彷彿されるようなグローバリズムのキーワードが至る所にちりばめられていることに気付かされます。そして、PAGの日本国内での‘ミッション’が、データセンターの開発用地の確保や日本企業が保有する社員寮等の買取である点を考慮しますと、同社の投資によって、日本国内における‘デジタル支配’が強化されると共に、取得後の転売を含め、中国人をはじめとした外国人による日本国の土地所有が加速されることとなりましょう(地価高騰にも拍車をかけ、一般の日本国民には手がとどかないものに・・・)。

 投資ファンドの役割がグローバリストの先兵であるとしますと、グローバリズムの侵害性について議論を深めると共に、日本国政府は、こうしたファンドの活動に対しては法的規制を課すべきなのではないでしょうか。そして、この現実を目の当たりにしますと、政治家やメディアが煽る米中対立もどこかお芝居じみて見えてくるのです。

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中国人東大生12%の衝撃-グローバリズムの理不尽

2025年01月17日 11時30分23秒 | 日本政治
 報道に寄りますと、東京大学の中国人学生は、学部と大学院を合わせて3,396人に上るそうです。全在学生の数が凡そ27500人とされていますので、実に12%が中国人学生と言うことになりましょう。日本国政府は、長年に亘り、中国人留学生の受け入れ拡大を政策的に推し進め、今日では、多様性の尊重を旗印にグローバリズムの先鋒と化していますが、この数値は、グローバリズムが如何に一般の国民にとりましては不経済であり、かつ、リスクに満ちているかを実数で表しているように思えます。

 グローバリズムを金科玉条の如くに信奉している人々は、この数字をグローバリズムの成果として見なし、頬を緩ますかも知れません。また、大学の国際ランキングでは多様性は重要な評価基準ですので、中国人を筆頭とする外国人の在籍者数の増加は、ランキングアップに血眼になってきた大学側にとりましても、これまでの努力を示す誇らしい数字なのかも知れません。あるいは、リベラリストの視点からしますと、外国人差別がなくなった証とも映ることでしょう。また、より冷めた見方からは、中国人学生が公平・公正に実施された入学試験に合格した結果なのだから仕方がない、とする見解もありましょう(その大半は、留学生ではない・・・)。グローバリズムの時代には、もの、サービス、マネー等のみならず、人の移動も国境を越えて自由化されますので、これらの人々の頭の中では、この12%の数字は、理想に一歩近づいたことを意味するのです。

 しかしながら、その一方で、近年、グローバリズムに対する批判の声が高まってきており、今般のアメリカ大統領選挙にあってドナルド・トランプ前大統領が返り咲いた背景にも、反グローバリズムに傾斜したアメリカ国民の世論の後押しがありました。アメリカのみならず、各国とも、政府と一般の国民との間にはグローバリズムに対する評価が必ずしも一致せず、後者は、むしろ、反グローバリズムに傾く傾向にあるとも言えましょう。それもそのはず、一般の国民は、グローバリズム原理主義を押しつけられた結果、理不尽な事態にしばしば直面するからです。

 中国人東大生12%の現実も、この理不尽な事態の一つと言えましょう。何故ならば、先ずもって東京大学は国立の大学であり、昨今、独立採算制への動きがあるものの、施設の維持費であれ、研究費であれ、事務経費であれ、多額の国費が投入されているからです。言い換えますと、東京大学の運営を支えているのは、税を納めている日本国民であるにも拘わらず、少なくともその12%は(中国人以外の諸国の出身学生を合わせると%はさらに上がる・・・)、外国人の教育に投じられているのです。

 日本国内の人口比からしましても過剰な中国人学生数は、日本国民にとりましては、納得も合意もできない税負担となります。自らへのリターンはほとんどゼロであり、中国人のために税負担を強いられているに等しくなるからです。財政とは、受益と負担のバランスが崩れますと公平性や税徴収の正当性が失われ、一種の‘国民搾取’となりますので、負担者側、つまり国民の不満が高まるのは当然の反応なのです(日本国民には、フリーライダーとして認識される・・・)。中国人学生の増加は他の国公立大学でも見られますので、日本国民の負担は重くなる一方と言えましょう。

 しかも、スパイや工作員の潜入による安全保障上のリスクのみならず、今般の日本製鉄によるUSスチール買収計画とそのアメリカ側による禁止措置が、双方の国民感情を刺激したように、それは国民間の摩擦や対立要因ともなります。つまり、理想論が説くようにグローバリズムを進めれば進めるほど人類が一つの世界市民として融合し、人種、民族、宗教、国籍等の違いを越えて皆仲良くになるのではなく、現実に国家という政治的枠組みが存在している以上、逆に、双方の国民の相手国に対する感情を悪化させるケースも大いにあり得るのです。この現象も、グローバリズムのパラドックスの一つなのですが、中国の精華大学の在籍者数の12%が日本人学生や院生によって占められたとしますと、おそらく恐ろしいほどの反日運動や排日暴動に発展することでしょう。

 グローバリズムが是認する国境を越えた自由移動には、人類の普遍の倫理・道徳観に照らしますと、侵害性を伴うと言わざるを得ない側面があります。マネーやサービスの移動自由による経済的支配力の浸透のみならず、人の自由移動を介しても、他国の財政や教育・研究資産等を浸食するからです(外国人による日本国の健康保険の利用も問題に・・・)。この由々しき状況を是正するには、先ずは理詰めでグローバリズムの理不尽さを説明し、かつ、相互的に独立性や自尊心を尊重し、権利として保護することの重要性を理解してゆく必要があると思うのです。

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グローバリズムは‘デジタル帝国’をもたらす

2025年01月16日 12時11分18秒 | 国際経済
 グローバリズムとは、‘規模の経済’が絶対的な優位性を与えますので、規模の如何が企業間並びに国家間競争に多大なる影響を与えます。その一方で、もう一つ、グローバリズムにあって圧倒的な優位性を約束するのがテクノロジーです。テクノロジーにあって他に先んじる企業は、国境を越えて易々と自らのシェアを拡大してゆきますので、規模とテクノロジーの両者は車の両輪のような働きをするのです。このテクノロジーに注目しますと、今日のコンピュータを含む情報処理・通信産業の発展は、グローバル時代における経済植民地化に拍車をかけたとしか言いようがありません。

 第一に、上述したように、テクノロジーが競争上の優位性を約束する要因ですので、これは、高度で先端的なテクノロジーを有する国や企業にしか、同産業に参入するチャンスが殆どないことを意味します。今日のIT大手の顔ぶれを見れば一目瞭然であり、その大半は、アメリカ並びに国策として同国の技術を積極的に導入し、短期間でキャッチアップに成功した中国の企業で占められています。先進国企業とされる日本企業の場合、テクノロジーのレベルでは然程の大差はないかもしれませんが、規模の要件を欠きますので、米中企業の後塵を拝せざるを得ないのです。

 第二に、情報処理・通信分野、すなわちIT産業にあっては、OSの提供であれ、検索サービスであれ、SNSであれ、サービスの提供に際してユーザーとの永続的な契約関係や広範囲のプラットフォームの構築を伴います。言い換えますと、特定企業によるユーザーの‘囲い込み’を伴うのです。このため、一端、ユーザーとして組み込まれますと、不可能ではないにせよ、他社への乗り換えには手間やコストがかかります。つまり、インフラ事業の一種ともなるITサービス事業には、‘先手必勝的’な側面があり、後から同産業に参入しようとする企業は、競争上、常に不利な立場から出発しなければならないのです。このため、先に自らの製品の普及やプラットフォームの構築に成功した事業者は、長期的に収益を確保できるのです。しかも国境を越えて、他国の人々の個人情報をも飲み込みながら。

 もっとも、今日では競争法があるのだから、IT大手による独占や寡占は規制されるのではないか、とする反論もありましょう。実際に日本国の公正取引委員会をはじめとする各国の競争当局は、IT大手に対する規制の強化に動いています。しかしながら、デジタル技術を基盤とするIT産業は、農業、商業、工業といった既存の産業ではなく、人類史にあって全く新しい産業分野として20世紀に登場しています。このことは、同産業では、既存の競争相手が存在しない状態で起業が行なわれたことを意味しますので、スタート時点においては凡そ独占状態が否が応でも出現してしまうのです。事業の新規性に鑑みて、アメリカの連邦最高裁判所も、同事業分野についてはIT大手に対して好意的な判決を下す傾向にあります。第三の経済支配加速化原因は、更地の上に新たな事業を広げ、ネットワークをも独自に構築できる‘自由自在さ’にあります。そしてこれも、国境を越えて広がってゆくのです。

 また、企業買収を許す今日の経済システムでは、たとえ先進国であれ、途上国であれ、小規模ながらも独自技術を開発したスタートアップが設立されても、マネー・パワーによってIT大手に買い取られてしまいます。企業としての独立性を保つことは難しく、何時、大手に飲み込まれてもおかしくはないのです。

 これらの要因が重なりますと、領域支配を伴わないとしても、IT大手は、あたかも‘仮想帝国’のような様相を呈することとなります。全世界の人々をユーザーとして囲い込む、あるいは、自らのプラットフォームに取り込むことで、永続的に収益を吸い上げることができるのですから。植民地時代にあって、宗主国が植民地の課税権等を掌握したのと、然して変わりはないようい思えます。しかも、サービスの内容や使用料金、あるいは、製品の価格や品質を決める決定権は、IT大手側にありますので、ユーザーは一方的に‘支配される側’となるのです。OSを例にとれば、企業側の一方的なモデル更新や仕様の変更により、過去のデータさえ読み出せなくなる事態に直面するかも知れないのですから、ユーザーの不利益は計り知れません。

 かくして登場したIT大手、あるいは、グローバリスト連合が、その絶大なるマネー・パワーをもってグローバルレベルでデジタル化をさらに推し進め、人類に未来ヴィジョンを押しつけ、挙げ句の果てに、ワクチン事業等をもって‘現地住民’に対する生殺与奪の権まで握ろうとするのであれば、これは、かつての植民地時代よりも専制的で冷酷な支配となりましょう。グローバリズムについては、その負の実態から目を背けることなく、人類は、より安全な別の道を模索すべきではないかと思うのです(つづく)。


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企業買収と経済植民地主義

2025年01月15日 12時04分30秒 | 国際経済
 第二次世界大戦後、植民地主義は終焉したと見なされがちです。確かに、アジア・アフリカ諸国の多くが独立し、植民地は、地球上から姿を消したようにも見えます。しかしながら、植民地は消えたとしても、植民地主義は、別の形で残っているようにも思えます。

 植民地主義とは、自国の国境線を越えた領土や勢力範囲の拡張を是とする考え方であり、‘帝国主義’とも言い換えることができるかもしれません。強者の論理であり、この世界では、強い者が弱い者から奪うことが是認されます。その一方で、敗者や弱者の側は、支配される側として虐げられることを意味します。実際に、植民地主義が蔓延していた時代には、宗主国が現地の統治権を奪うのみならず、植民地とされた諸国の領域内にある資源や権益は持ち去られ、一般の住民達もプランテーション等での労働を強制されたり、一方的に搾取される立場に置かれることも珍しくはありませんでした。支配の安定を目的として宗主国から地位や豪奢な生活を特別に保障された極少数の人々は別としても、植民地の人々には過酷な運命が待ち受けていたのです。もちろん、とりわけ人種や民族が違う場合には、宗主国の人々が、植民地の現地住民の人々を自らの国の国民と見なす意識も殆どなかったことでしょう。

 しかしながら、やがて人類は、他国の支配を‘悪’とみなすことで合意してゆきます。この流れは、利己的他害性を悪とする人類普遍の理性が、国際レベルにあってようやく形として現れる過程でもありました。侵略や植民地支配等を禁じる国際法も制定され、民族自決並びに主権平等の原則も国際社会において確立するのです。かくして、国家レベルでは、一部を除いて植民地主義は消えたかのように見えるのですが、経済分野では、必ずしも同方向に同調したわけではないようです。経済の基本システムにあって、それがより取引が簡便となる小口の株式の形態であれ、所有権や経営権の売買が合法的な行為とされる以上、経済分野にあっては、‘他国企業’、あるいは、‘グローバル企業’による合法的な支配はあり得るからです。そして、冷戦の終焉によって国境の壁が著しく低下し、もの、サービス、マネー、人、知的財産、情報と言った諸要素が自由に国境を越えるに至ったグローバルな時代とは、企業買収や出資等を介してマネー・パワーが全世界の諸国の隅々まで及ぶ時代を意味したのです。言い換えますと、政治的植民地主義は過去のものとはなったとしても、経済的植民地主義は細々と生き残るどころか、90年代以降は、加速されてしまったとも言えましょう。

 グローバル市場における最大の強みは‘規模’ですので、この時期にあって、中小国がひしめくヨーロッパにあって経済統合が推進されたのも容易に理解されます。そして、かつての植民地時代のように産業の発展した国が必ずしも優位となるわけではなく、BRICSや今日注目を集めているグローバル・サウスのように、人口規模の大きな国が競争力を有し、急速な経済成長を遂げるようにもなります。もっとも、BRICSもグローバル・サウスも、その人口規模が評価されて、世界金融・産業財閥とも言えるグローバリストから有力な投資先として選定されたのでしょう。言い換えますと、たとえ過去にあって植民地であったとしても、規模の経済を備えた国の企業が、グローバリストを後ろ盾としつつ、かつての宗主国であった先進諸国の企業を買収するケースも増大してゆくのです。

 アヘン戦争以来の歴史を屈辱と見なす中国では、この‘下剋上’あるいは逆転劇に、過去に傷つけられたプライドを埋め合わせ、あるいは、復讐劇として溜飲を下げているかも知れません。その一方で、チャイナ・マネーによって多くの企業が買収された諸国では、国民の対中感情は芳しくはないはずです。そして、USスチールの買収を諦めていない日本製鉄に対して、同社の買収を競ったクリーブランド・クリフス社のゴンカルベス最高経営責任者(CEO)が、太平洋戦争時の真珠湾攻撃を持ち出して「日本は邪悪だ」と罵るのも、敗戦国が戦勝国の企業を買収することに対する怒りにも似た嫌悪の感情があるからなのでしょう。

 しかも、これらの感情の根源に、他者による支配を‘悪’と見なす人類普遍の倫理観があるとしますと、日本側も、米国民の国民感情を決して無視は出来ないように思えます。否、グローバルな時代には国境はないとするのが幻想であればこそ、経済における‘企業売買’の許容は、当事者となる企業や政府のみならず、国民をも巻き込む政治的な対立要因ともなりかねないと言えましょう。

 このように考えますと、今後、議論すべきは、経済における相互的な主体尊重のルール造りのように思えます。窃盗の被害に遭った人が、その後、窃盗を行なったとしても状況は改善されるわけではなく、治安はさらに悪化することでしょう。USスチールにつきましても、‘何れかに買収されなければ生き残れない’とする主張は、救済目的であれば文句はないはず、とする自己正当化のための弁明であり、一企業としてのUSスチールの独立性や自力再生力を見くびっているとも言えましょう。マネー・パワーが猛威を振るい、政治や社会における人々の自由を侵害しつつある今日、急ぐべきは経済植民地主義を推進している同パワーに対する制御であり、相互の主体性尊重と対等性を原則とする企業間の関係、延いては、企業組織そのものの倫理に即した在り方なのではないかと思うのです(つづく)。

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企業買収の反倫理性-経済における自由のパラドックス

2025年01月14日 08時54分27秒 | 国際経済
 自由とは、しばしば‘他者の意思に従属しないこと’として説明されています。‘自由な市民社会’という言葉も、ヨーロッパにあって中世の身分社会が崩壊し、個々人が対等な立場にあって自らの意思に基づいて生きることができる社会の到来の表現したものです。もちろん、‘全て’の人々の自由を護るには、相互に他害行為を抑制する規範やルールが必要なものの、自由とは、本来、独立した主体性を意味しており、これを奪うことは、他者に対する不当な侵害行為と見なされるのです。

 この観点から見ますと、今日の自由主義経済には、その名とは裏腹に、自由、否、主体性の侵害を許す側面があります。この側面は、自由の最大化を目指す新自由主義に顕著なのですが、株式会社が経済活動の主体としての基本モデルとなったために、株式の取得等により、他社を自らの支配下に置いたり、吸収合併することが、容易かつ合法的にできるからです。つまり、企業間関係をみますと、企業グループの名の下で中世さながらのヒエラルヒーが形成されたり(親会社、子会社、兄弟会社、孫会社・・・)、帝国に飲み込まれるが如くに主体性を完全に失い、市場から消えてしまう企業も少なくないのです。

 そして、一度、他の企業に経営権が移りますと、買収される、あるいは、従属下に置かれた側の企業側の境遇は、過去の奴隷と大差はありません。支配権を握った企業経営者は、収益が期待外れであった、あるいは、価値や必要性が失われたと判断した場合には、当該企業を再度市場で売却することができます。取得側が投資ファンドであれば、利ざやを稼ぐための‘転売’こそが買収の目的となりましょう。また、経営や資産活用の効率性が思わしくなく、リストラを要すると見なした場合には、売られた側の企業に勤める社員は、CEO等の幹部から製造現場の労働者に至るまで、戦々恐々となります。即、解雇される恐怖に直面するからです。さらには、売却側企業が保有していた資産の処分も買収側の自由自在です。‘身売り’する側の企業の境遇は、自らに対する決定権を失い、なす術のない‘奴隷’のそれに近いと言えましょう。

 近現代とは、社会の分野にあっては個々人の人格が尊重され、全ての人々の自由を保障した時代として理解されています。誰もが、人々が自由に生きられる時代の到来を歓迎したことでしょう。実際に、個々の人格の平等性は憲法の保障するところでもあります。その一方で、経済分野を見ますと、経済の基本システムが、‘企業売買’を当然視しているため、永続的な主体性の喪失と自由の侵害が放置されています。そして、競争が経済成長の原動力とされる限り、あらゆるコストを下げる効果を有する規模が重視され、規模の拡大をめぐる競争とならざるを得ないのです。この結果、規模に優る企業が弱小企業を併呑する形で寡占化や独占化が進み、いわば、経済版の‘帝国’が出現するに至ったと言えましょう。このことは、‘自由な社会’とは逆に、‘不自由な経済’が出現したことを意味します。もちろん、この経済世界は、決して民主主義を基本原則としているわけでもないのです。

 経済における自由が、実質的に規模の大きい企業、あるいは、競争力に勝る企業のみの自由を意味するに至ったとき、自由主義経済の自由とは、一部の経済主体のみの自由に転じてしまいます(新自由主義はまさにこの思想・・・)。この逆転に逸早く気付いた経済大国のアメリカでは、世界に先駆けて反トラスト法が制定され、その後、日本国の独占禁止法を含めて各国にあって競争法を制定する動きが広まりました。しかしながら、同法も競争当局も力不足でもありますし、今日の経済システムが抱えている根本的な問題に踏み込んでいるわけでもありません。それどころが、経済における独裁容認の世界観が政治や社会にも浸透し、今やグローバリズムの名の下で‘全ての人々の自由’を脅かしているとも言えましょう(つづく)。

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‘企業売買’は許されるのか?

2025年01月13日 11時46分43秒 | 国際経済
 人身売買と言えば、誰もが眉を顰め、人類にはあってはならないものとして批判するものです。奴隷市場が公然と開設され、奴隷達が取引されていたお話を聴けば、それは過去の野蛮な時代の悲劇として、誰もが奴隷になりかねない時代に生きた人々に深い同情を寄せることでしょう。今日では、人を売買することは、売る側が自分自身であったとしても犯罪であり、法律によって固く禁じられています。人身売買の禁止は、人類の道徳・倫理の精神的成長を示す証とも言えましょう。

 ところが、経済の世界を見ますと、実のところ、企業の売買は許されています。人身売買の罪の本質が、他者の自己決定権とも表現される主体性を失わせ、自らの意思に従属させるところにあるとしますと、何故、人がだめで企業が許されるのか、その合理的な説明は難しくなります。どちらも、主体性の侵害、そして他者に対する“殺生与奪”の権限の掌握という側面を含んでいることには変わりはないのですから。主体性喪失あるいは簒奪の問題は、主権を有する国家についても言えるかも知れません。

 この素朴な疑問に対しては、経済学者やグローバリストの多くは、今日の自由主義経済の仕組みを解説することで、説得しようとすることでしょう。‘経済とは、市場における企業間競争が成長を牽引しており、賢明な経営によって安価で良質な製品やサービスを消費者に提供した者が生き残る世界である。企業間競争は、経済成長には不可欠であるのだから、勝者となったより優れた企業が市場の敗者となった企業を買い取ることは許されるべき当然の行為である’と・・・。あるいは、吸収・合併や企業間統合のメリットを強調し、‘規模が大きく、技術力を備えた大企業が、競争力に乏しく市場からの敗退が迫っている弱小企業を取り込むことは、一種の救済である。’ホワイト・ナイト‘のようなものであり、買う側と売る側の双方がWin-Winであれば、評価すべきである’と説明するかも知れません。

 今般の日本製鉄によるUSスチールの買収計画を見ましても、同案の正当性や合理性は、これらの主張によって支えられています。マスメディア等では、‘経営と技術力に優る日本製鉄が他の企業を合併し、さらなる強敵である中国製鉄企業との競争に備えるのは当然である’、‘USスチールは、日本製鉄が買収しなければ倒産するか、クリーブランド・クリフスに買いたたかれるはずであった’、‘日本製鉄もUSスチールも双方とも合意しているのに、部外者である政府が介入するのは不当である’とする合併推進論が声高に叫ばれているのです。

 バイデン大統領の買収禁止の判断の根拠が安全保障上の懸念であったことから、経済合理性を政治的打算が覆したとする論調も強いのですが、外国企業による自国企業の買収に憤慨するアメリカ国民の感情も、その根源を辿れば、自国企業の主体性の喪失にあるのかもしれません。単なる反日感情やアジア系に対する差別意識というよりも、より人類の根源的な自己喪失に対する危機意識に根ざしているかもしれないのです。

 このことは、上述したような合併推進派の弁明も、この主体性喪失の危機、否、自己防衛本能を伴う反発の前にはこの説も大きく揺らぐことを意味します。喩え奴隷が自らの生存に必要となる衣食住を奴隷主から提供され、奴隷主によって生かされているとしても、誰も、人身売買や奴隷制を道徳や倫理に叶った正しい行為とは見なさないことでしょう。買われた奴隷自身が、この状態を‘よし’としたとしても。

 相互的な自己保存の承認が人類社会に規範やルールをもたらし、悪や犯罪を規定し、統治機構をも出現させた側面に注目しますと、むしろ、何故、経済においてのみマネーで主体を買うことが出来るのか、この疑問が、人類の未来をも左右する問題として迫ってくるのです。果たして企業売買が許されていた時代を、人類が野蛮な時代として嘆く日は訪れるのでしょうか(つづく)。

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