万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

選挙公約には‘必須項目’が必要では?

2024年12月31日 12時18分22秒 | 日本政治
 今日の日本国の政治の世界を見ますと、‘権力を握っていれば、何でもできる’とする傲慢さに満ちています。この態度は、与党も野党も変わりはなく、前者が特に‘あこぎ’に見えるのは、政権の座にあるからなのでしょう。選挙期間にあっては平身低頭で自らへの支持をお願いしながら、選挙が終わった途端、支配者然として振る舞うのですから、イギリス人は選挙の間のみが自由であって、選挙が終われば‘奴隷’であるとする、18世紀に生きたジャン・ジャック・ルソーが指摘した通りでもあります。ルソーの時代から250年余りが経過し、民主主義の価値が定着したとされる今日にあっても、民主主義国家の証とされる自由選挙は形ばかりに過ぎないようです。


 それでは、何故、民主主義の制度的な発展は停滞したままであり、国民は、‘奴隷’状態のままに置かれているのでしょうか。もちろん、奴隷という言い方は文字通りの法的身分としての奴隷ではなく、‘他人に自分自身に関する権利を握られている者’、‘他人の意思に従う者’、あるいは、‘一方的に支配される者’という意味合いでの誇張表現ではあります。国民自身も、自らを‘奴隷’とは見なしていないことでしょう。ところが、政治家の国民を見る目は、かつての専制君主や‘奴隷主’の視線と然して変わりはないように思えます。否、現代のテクノロジーからすれば、国民は‘デジタル管理の対象ということなのかもしれません。


 この問題の原因は、先ずもって‘人を選ぶ’という選挙制度の基本的な仕組みそのものに求めることができます。ルソーの言葉が示唆するように、‘奴隷’が‘奴隷主’を選ぶ選挙では、何時までたっても奴隷は奴隷のままなのです。そこで、‘奴隷’が奴隷状態から脱するためには、選挙後にあっても‘奴隷主’の行動を拘束する何らかの仕組みを要することとなります。この点に注目しますと、近年における公約を掲げての選挙は、奴隷状態からの脱出に向けての第一歩ともなりましょう。公約とは、立候補者と有権者との間の半ば一種の‘約束’や‘契約’を意味しますので、選ばれた側がその職にある限り、公約は拘束的に作用するからです。「契約は守られなければならない」はローマ法の格言ですが、人類普遍の人間社会の原則とも言えましょう。


 かくして、公約の作成とその明示は選挙に際して立候補者がすべき作業とも認識されるに至るのですが、公約の掲載のみをもって奴隷状態からの完全に脱却できるわけではありません。(1)極めて内容の乏しい公約(事実上の白紙委任化・・・)、(2)意図的な争点はずしや誘導、(3)公約の‘抱き合わせ販売’、(4)公約内容に関する政党間談合、そして、公約には法的な実行義務がありませんので、(5)公然たる公約違反もあり得ます。かくして、‘敵も然るもの’、公約付き選挙は様々な手法によって悪用・歪曲され、その拘束的な効果を十分に発揮できない状況が続いているのです。


 それでも、公約には、政治家に対する選挙後の長期的な拘束性という効果はあります。完全ではないにせよ、同制度を改善することで、政治家の奴隷主的な態度や意識を改めさせることは不可能ではありません。例えば、公約に‘必須項目’を設けるというのも一案かも知れません。日本国や社会、そして、国民に直接的な影響を与える重要な政策分野については、必須項目として公約への記載を義務付けるのです。例えば、(1)移民政策(国境管理)、(2)防衛・安全保障等の対外政策(3)税制・社会保険制度、(4)公衆衛生(ワクチン政策等・・・)、(5)グローバル化(デジタル化の是非・・・)、(6)憲法改正の対象条文といった、従来、政党や政治家が故意に避ける傾向にあった政策領域についても、立候補者は、自らの立場や主張を明確にしなければならなくなります。


 「オストロゴルスキーのパラドックス」が既に数学的に証明しているように、個別の政策の選択と政党の選択は必ずしも一致せず、この問題は、ゆくゆくは政策別選択を可能とする制度の構築を要するのですが、少なくとも、現状にあっては、公約における必須項目の設定は、公約にまつわる幾つかの問題を軽減させることでしょう。来る年が、真の意味、すなわち、自由なる日本国民による政治に向けての政治改革の元年となることを願いつつ、本年最後のブログ記事を締めくくりたいと思います。拙い記事ながら、お読みくださいましたこと、心より感謝申し上げます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘却されている国民の課税同意権

2024年12月30日 12時25分45秒 | 日本政治
 民主主義と言えば、とかくに選挙における参政権と凡そ同義に捉えられがちです。かのエイブラハム・リンカーン大統領による「人民の、人民による、人民のための政治」という‘定義’も、民主主義の価値とは、‘人民’が自ら政治を行なうことにある、とするイメージを強めてきました。この民主主義の一般的なイメージは、共和制の連邦国家として誕生したアメリカ合衆国が民主主義の先端的なモデルとなってきたことにもよるのでしょう。しかしながらその一方で、議会制民主主義の歴史的な発展過程を振り返りますと、国民が参政権を得るに至った‘プロセス’を知ることができます。アメリカのように最初から民主主義国家として建国された国は少数であり、大半の諸国は、君主制から民主制への移行プロセスを経て今日に至っているのです。

 議会制民主主義発祥の地は、イギリスとされています。もっとも、そもそも封建制度を経験した国や地域では、中世以来、身分制議会などが設けられたケースも多く、イギリスのみに議会が設置されていたわけではありません。中世の封建制度にあっては、封建契約を交わした主君と家臣の間で統治の諸権限が分散しているため、国王と雖も有力諸侯達のパワーは侮れなかったのです(このため、常々内乱や王朝交代が発生しやすい・・・)。イギリスにありまして議会が国政の中心機関となり得たのも(最も、イギリスの議会主権は、国王が臨席する議会を意味する・・・)、有力諸侯達が議会を国王に対する自らの抵抗の‘砦’としたところにあります。

 1215年に成立した『マグナ・カルタ』は、イギリスの民主主義の起源ともされる国政上の重要な文書ですが(不成典憲法の国であるイギリスでは、今日でも、憲法的な役割を維持している・・・)、同文書にあって特に注目されるのは、議会の課税同意見です。そもそも『マグナ・カルタ』とは、ジョン失地王による一方的な諸侯に対する軍役や課税に起因する諸侯層の反乱に際しての‘和平合意’として作成されたのですが、その第12条にあって、国王は、議会(common counsel)に対して楯金や援助金を課す権限を認めています(この他にも、車馬や材木の挑発にも本人の同意を要するとしている・・・)。以後、紆余曲折がありながらも、イギリスの議会は、財政に関する権限を獲得してゆくのです。

 同プロセスにあって重要な点は、課税、すなわち、為政者や政府が国民に負担を求める場合には、国民の合意を要するとする民主主義の価値の一面です。参政権をもって民主主義の実現とみる今日では、政治家自身が国民から選ばれた‘国民の代表’とするスタンスにあるため、むしろ、国民の課税同意見が忘却されがちです。実際に、先週の12月27日に、日本国政府は来年度の予算案を閣議決定していますが、過去最大の115兆円規模に膨れ上がっています。物価高の折、税収も3兆円の伸びを見せており、こちらの額も過去最高というのです。

 ところが、日本国政府には、減税という発想は皆無のようです。「103万円の壁」についても、国民民主党が求めた178万円からは大幅に引き下げられ、与党案通りに「123万円」止まりとなりました。減税策は、基礎控除枠の拡大に限ったわけではないのですが、仮に、先の衆議院議員選挙にあって与党側が少数与党に転落しなければ、国民にはさらなる増税が待ち受けていたかも知れません。何れにしましても、日本国は、民主主義国家でありながら、かくも政府は国民負担に対して無神経で冷淡なのです。‘生かさぬよう、殺さぬよう’という江戸時代の言葉が現代に蘇っているかのようなのです。

 先の衆議院議員選挙では、国民民主党の「103万円の壁」が一石を投じることとなり、政府も、与党の座を維持するために増税路線を軌道修正せざるを得なくなりました。この点、選挙が一定の効果を示した事例ともなるのですが、民主主義が普通選挙と同一視されている現状では、‘国民の代表(国会)の合意による予算案の成立’という建前の下で、政府による国民の合意なき一方的な課税という、強制徴収的な手法がむしろまかり通ってしまいます。そもそも、115兆円規模の予算が真に必要なのか、あるいは、負担者である国民に受益として還元されているのか、今一度、歳出について国民視点からの検証を加えるべきですし、政府による課税については、負担者である国民の事前合意を基本原則とすべきと言えましょう。
 
 国民の財政に関するコンセンサスの形成については、今後、国民投票制度の導入と言った制度的な工夫を要しましょうが、現状にありましても、衆参何れであれ、各政党や立候補者に対して、増税案を含む税制に関する政策を公約の必須項目として記載を義務付けるべきなのではないでしょうか。普通選挙の実施は民主主義の入り口に過ぎず、国民が課税同意権を実際に行使し得る制度の構築こそ、政府の‘国民搾取体質’を是正し、財政民主主義を実現する道なのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国会議員は国が承認したワクチンを疑ってはならない?

2024年12月27日 11時13分47秒 | 日本政治
 レプリコンワクチンを製造販売しているMeiji Seikaファルマ社が、損害賠償を求めて原口一博議員を訴えた件については、幾つかの考えるべき疑問点があるように思えます。その一つは、原口議員一人が被告とされたのは、国会議員の地位にあったからとする同社の説明です。

 体内で自己増殖を行なうレプリコンワクチンの危険性について、最初に指摘をしたのは原口議員ではありません。そもそも同議員は、従来型のワクチンが原因とみられる健康被害に苦しんだ自らの経験からmRNAワクチンそのものに対して危険性を訴えてきたのであって、新型のレプリコンワクチンについても、ワクチン被害者の立場から批判したに過ぎないのです。同社がネット上で12月25日に公開した「訴訟提起に関するお知らせ」を読みますと、同議員が「コスタイベ」について誤った知識を拡散させたことを重視しているようですが、仮に‘誤情報’が流布されたとすれば、その発信源は原口議員ではなく、研究者を含む内外の無数の有志の人々です。しかも、科学的には未検証の段階であったとしても、必ずしも‘誤った情報’とも言いきれず、危険性を多くの人々に伝えたいとする善意からの発信も少なくなかったのです(Meiji Seikaファルマ社は、逆に、ワクチン危険論が人々の命や身体を危険に晒しているとしているものの、実際には、ワクチン被害は相当数に上っている・・・)。

 ワクチン懐疑論者の数は膨大ですし、科学的に安全性を証明することが困難であることから、Meiji Seikaファルマ社は、‘誤った知識’という曖昧な表現をもって原口議員のみにターゲットを絞ったのでしょう。確かに、報道に依りますと、原口議員は、‘生物兵器まがい’という表現を用いたり、同社を「731部隊」にも擬えたしたとされます。しかしながら、その一方で、12月2日に公表されたアメリカの議会下院の特別委員会による最終報告書では、「新型コロナウイルスは中国・武漢の研究所にまつわる事故で出現した可能性が高い」とした上で、米国立衛生研究所(NIH)がウイルスの「機能獲得」に関する研究のために武漢ウイルス研究書に資金を提供していたことを事実として認めています。この遺伝子工学を応用した生物兵器開発の事実は、そもそも米中両国によるCovid19が生物兵器開発の産物であって、人工ウイルスであった可能性を強く示唆しています。生物兵器の開発に際しては、通常、自軍の防疫や解毒のためにワクチンや治療薬をセットで開発しますので、mRNAワクチンも、‘mRNA兵器’のカウンターとして開発された、あるいは、ワクチンであってもウイルスと同様にスパイクタンパク質を産生するため、人体に対して有害性(殺傷性)があるとする説は、強ち‘誤った知識’とは言い切れないのです(この点、原口議員が、Meiji Seikaファルマ社のみを批判したとすれば、こちらの方も奇妙・・・)。

 新型コロナウイルスの起源そのものが‘軍事的’である場合、原口議員の発言は、むしろ‘当たらずとも遠からず’となり、しかも、公共の利益にも関わりますので、刑法上の名誉毀損罪が成立するのかどうかも疑わしくなります。国民の多くがmRNAワクチンに対して不安を懐いており、国会議員の立場にあるからこそ、原口議員が国民を代表して疑義を呈したとすれば、この行為は、賞賛されこそすれ、批判されるべきことではないように思えます。否、仮に、裁判所がMeiji Seikaファルマ社の言い分を認め、国会議員は、政府が安全性を認めた限り、一切の疑問を呈してはならない、とする‘政府無誤謬’の見解を示したとすれば、それは、権力分立の危機ともなりましょう。議会は、政府に対する制御機能として行政監視の役割を有しているからです。つまり、政府に対する議会のチェック機能を解除してしまい、誰も政府の暴走を止めることができなくなるのです。

 もっとも、政府が国民の基本的な自由や権利を侵害している疑いがある場合、権力が分立している国家では、憲法訴訟や行政訴訟等も認められており、国民が政府を被告として訴えることが出来ます。今日の政府は、議会、並びに、裁判所によって二重にチェックされていると言えましょう。今日、コロナワクチンに関する健康被害についても、既に遺族等の被害者団体が国を相手取って損害賠償を求める訴訟に踏み切っています。この点に鑑みますと、原口議員には、同議員側からの提訴という選択肢もあり得るのかもしれません。原口議員のケースでは、ワクチンが原因とされる自らの発病、あるいは、政府による‘コスタイベの承認に係るプロセス’の不透明性や安全性の観点からの妥当性を争うというものです(この場合、Meiji Seikaファルマ社ではなく、政府が被告に・・・)。

 以上に述べてきましたように、Meiji Seikaファルマ社による訴訟の提起には、様々な問題性が含まれています。そしてこの問題は、‘そもそもCovid19とは何であったのか’という重大にして最大なる謎を解き明かさないことには、誰もが納得する結論には達しないのではないでしょうか。裁判の過程にあって真相が明らかになる可能性もありましょうし、アメリカ下院の特別委員会の最終報告書は、半ばこの謎を明かしてしまっているようにも思えるのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Meiji Seikaファルマ社はスケープゴートなのか?

2024年12月26日 12時38分00秒 | 日本政治
 新型のレプリコンワクチンをもってワクチン事業に参入したMeiji Seikaファルマ社は、ワクチン被害の広がりを前にして逆風に晒されています。危機感を募らせる中、同社は、昨日の12月25日には、ワクチンの危険性を訴えてきた立憲民主党の原口一博衆議院議員に対して名誉毀損に基づく損害賠償を求める訴訟を東京地方裁判所に提訴するに至りました。この訴訟、考えてもみますと、首を傾げざるを得ない諸点が散見されます。

 先ずもってワクチンをめぐる損害賠償請求訴訟であるならば、ワクチンの開発・製造販売を手がけた製薬会社が健康被害を受けた側から訴えられるのが、一般的な構図のはずです。今般のケースでは、被告席ではなく原告席に製薬会社側が座っているところに、ワクチン訴訟としての奇妙さがあります。

 もちろん、‘攻撃は最大の防御’とも言われておりますように、Meiji Seikaファルマは、将来における薬害訴訟を予測して‘先手’を打っているとの見方もあり得るかもしれません。しかしながら、同社が提供するレプリコンワクチン(「コスタイベ」)にあって実際に健康被害が生じようものなら、「生物兵器」といった表現はどうであれ、原口議員によるリスクの指摘自体は正しいこととなります。しかも、ファイザー社やモデルナ社のように、日本国政府が、購入契約の際に損害賠償の肩代わりを約しているわけではないはずです。強気の姿勢が仇となって、今後、自らにブーメランとして返ってくるリスクもありましょう。原口議員につきましては、是非、国会、あるいは、裁判所においてMeiji Seikaファルマに対する免責条項が存在しているのか、政府並びに同社に対して問い質していただきたいところなのですが、ファイザー社やモデルナ社でさえ免責を求めたくらいですから、製薬会社であるならば、当然に、将来の薬害訴訟は考慮されるべきリスクとなりましょう。

 それでは、何故、Meiji Seikaファルマ社は、強気一辺倒で法的手続きに踏み込んだのでしょうか。最も単純で表面的な説明は、‘目先の利益のみで判断した’というものです。将来の訴訟リスクなど全く頭の片隅にもなく、投資額に見合った収益が上がれば事業計画は成功したものとする姿勢です。この見方からすれば、原口議員の言動は、誹謗中傷による信用の毀損による営業妨害ということなのでしょう。日本国政府の後ろ盾もあったことから、多少の警戒論があろうとも政府が押さえ込み、同社としては、一定の収益は確保できるものと判断したのかも知れません。ところが、国民の間に予想を越える拒絶反応があり、目論見が大きく外れて損失の発生が確実となったことから、訴訟に踏み切ったとも考えられましょう。

 しかしながら、その一方で、どこか、Meiji Seikaファルマは、巧妙にスケープゴートにされてしまった観もないわけではありません。仮に、mRNAワクチンのリスクに関する指摘が営業妨害にも当たる‘名誉毀損’となるならば、ファイーザー社やモデルナ社等のワクチンメーカーこそ、率先して訴訟を起こすべき立場にあるからです。この点、Meiji Seikaファルマ社は、「原口氏の主張の科学的根拠を問うものではない」と説明しており、既に逃げ腰です。科学的な根拠が争点ともなりますと、原口議員の主張に分があることを認識しての回避なのでしょう。同タイプのワクチンについては医科学的な見地からのリスクを指摘する学術論文等も存在しているからです。科学的な検証を避けつつ訴訟に勝つためには、名誉毀損で責めるしか方法がなかったからなのかもしれません。そして、この強引な訴訟は、国民の関心や批判の矛先を日本企業であるMeiji Seikaファルマ社に集中させようとする海外の製薬大手、並びに、その意向に従う日本国政府の思惑も、見え隠れしているように思えるのです(Meiji Seikaファルマ社は踊らされている?)。

 仮に、Meiji Seikaファルマ社がスケープゴートとして設定されているとすれば、今後、さらに拡大が予測されるmRNAワクチンの健康被害に対する賠償責任も、これらの免責特権のない日本企業に負わせる算段であったのかも知れません。そして、この点に注目しますと、日本国民のみならず、Meiji Seikaファルマ社を巨額賠償の‘罠’から救ったのは、実のところ、原口議員を初めとするリスク警告者であったという‘どんでん返し’もあり得るように思えます。健康被害を警戒して誰も「コスタイベ」を接種しなければ、賠償責任も生じないからです。事実は何処にあるのか、日本国民は、事の推移を慎重に見定めてゆく必要があるのではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Meiji Seika ファルマの社員出版批判は藪蛇では?

2024年12月25日 11時59分32秒 | 日本政治
 2023年9月18日、コロナワクチンの危険性を訴える『私たちは売りたくない!危ないワクチン販売を命じられた製薬会社現役社員の慟哭』という書籍が発売されました。同書はAmazonの総合書籍ランキングで1位を獲得するほどの反響を呼んでおり、一般国民のワクチン問題への関心の高さも示しています。その一方で、同書は、名指しで批判されることとなった製薬会社Meiji Seikaファルマの怒りをも買うことにもなったのです。

 『私たちはうりたくない』は、製薬会社Meiji Seikaファルマに勤める現役の社員たちが書いたとするスタイルを採っています。執筆のきっかけとなったのは、全く健康に問題のなかった同社の若手社員がコロナワクチン接種により突然に死亡するという痛ましい出来事に遭遇したことにあります。このとき、Meiji Seikaファルマは、新たなタイプのコロナワクチンとしてレプリコンワクチンの製造開発に乗り出していたのですから、‘自らの社のビジネスは正しいのか?’という疑問を抱く社員が現れてもおかしくはありません。同書には、人の命を奪いかねないワクチンを販売することに対する良心の痛みがあったのです。同書がベストセラーとなったのも、組織の目的と個人の良心との間の葛藤に、多くの人々が惹きつけられたからかも知れません。そして、被害者の実在性も確認されている‘内部告発’に類するものであるからこそ、その内容にも説得力が備わっていたとも言えましょう。

 もっとも、同書の影響が広がるにつれて、デマ情報への警戒を訴える新聞広告を掲載するなど、Meiji Seikaファルマ側も対抗姿勢を鮮明にしてゆきます。そして、遂に、今月12月19日には、同書に関する社内調査の結果を公表するのです。その調査結果とは、「チームKは社内に実在しない」というものです。筆者は社員の一人に過ぎず、しかも、コロナワクチンの接種が原因で亡くなった社員とは面識もなかったというのです。Meiji Seikaファルマ側としては、同書の虚像を暴くことで、同社に対する批判本の信憑性を失わせたかったのでしょう。いわば、ネガティブ・キャンペーンの典型的な手法です。

 しかしながら、相手を‘下げる’ネガティブ・キャンペーンでは、自らに対する信頼性が高まるわけでありません。唯一、信頼性を獲得できるとすれば、それは、客観的かつ明確なデータを示して科学的に安全性を証明する他にありません。しかしながら、事態は逆の方向に急速に動いており、コロナワクチンの危険性を示すデータの方が増え続けているのです。たとえMeiji Seikaファルマ側が‘筆者’のパーソナルな部分における情報の虚偽性を暴いたとしても、レプリコン型を含むコロナワクチンに対する認識が改善されるとは思えないのです。

 しかも、Meiji Seikaファルマは、同報告書によって、それがチームではなく個人であれ、(1)筆者が社員であったこと、並びに、(2)ワクチンの犠牲となった社員が存在したことだけは、公式に認めたことにもなります。このことは、同社が、社員のワクチン死の事実を知りながら新型ワクチンビジネスに乗り出したことを意味しますので、企業倫理を厳しく問われかねません。否、Meiji Seikaファルマは、社員の犠牲に鑑みて、二度とワクチン死を起こさない安全な製品として、新たなタイプのワクチンを‘自ら開発’すべきであったと言えましょう(レプリコン型は、長期に亘りスパイクタンパク質を体内で造り続けるので、安全性を高めたとは言いがたい・・・)。

 Meiji Seikaファルマは、結局は、同書籍の出版は、純粋なる社員の良心の叫びではなく、お金儲けを目的とした悪質なビジネスとして結論づけたいのでしょう。同書の筆者の他にも、‘反ワク’なる活動グループも存在しており、これらの個人や組織も、人々のワクチン不安に便乗した‘利益団体’と見なされています(もっとも、陰謀論と同様に極端で過激な活動組織を敢て登場させることで、一般の人々をワクチン批判から遠ざけようとする作戦である可能性が高い・・・)。しかしながら、利潤優先の‘お金儲け’を批判するならば、ワクチンの危険性を知りつつ、これを強引に販売した製薬会社にこそ向けられるべきように思えます。健康な人々の尊い命や身体を犠牲にして、自らは巨万の富を手にしたのですから。Meiji Seikaファルマの社員出版批判は藪蛇になったのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ミヤネ屋」放送の火災映像はフェイク?

2024年12月24日 12時20分50秒 | 日本政治
 先月11月27日に東京都文京区にて発生した猪口邦子参議院議員宅の火災に際し、日本テレビ系の情報番組「情報ライブミヤネ屋」が火災直後の様子を撮影したとされる映像を報じたことから、SNS等で批判を浴びることとなりました。BPO(放送倫理・番組向上機構)にも、12月19日までに250件の苦情が寄せられたと報じられております。

 同映像に関する批判の多くは、映像があまりにもショッキングであるため、ご遺族への配慮を欠いているというものです。同火災では、ご家族となるお二人の方が亡くなられたことが既に確認されており、動画に映されていた炎を前にしたベランダの女性もその内のお一人である可能性があるからです。逃げ遅れた方の様子を放送するのは無神経で残酷であり、放送倫理に反するということなのでしょう。確かに同主張には一理も二理もあるように思えるのですが、全く疑問がないわけではありません。何故ならば、これらの批判は、映像が‘本物’であることを前提としているからです。仮にこの前提が崩れますと、同火災事件は、全く別の様相を呈してくることとなりましょう。

 先ずもって、同動画には、加工が加わっている疑いがあります。火災の現場をリアルタイムで撮影したものであるならば、途中で画面やアングルの切り替えがあるはずもありません。ところが、同動画は少なくとも3つのパートから構成されており、しかもカメラの位置にも違いが見られるのです(その一つには木の枝が映っており、ベランダの内側から撮影したとしか思えない・・・)。また、ベランダの女性は轟々と燃えさかる炎を前にしているのですが、衣服には全く引火していない点にも不自然さがあります。仮に、あたかも中世の火あぶりのような悲惨な状況が映し出されていたとしますと、同番組に対する批判は、今日の程度では済まされなかったことでしょう。むしろ、動画の最後のパーツでは、女性は、画面右の方向に小走りで逃げており、同動画の見た人々の多くは、この女性は無事に避難したものと信じたかも知れません。 ‘ご遺族への配慮が欠けている’とする批判は、映像に映っていた女性が長女であるとする前提において、はじめて成り立つのです。

 これらの他にも、火災の被害状況に関する情報にも齟齬が見られます。玄関付近で倒れているところを発見され、病院に搬送されたとされる第三の女性の存在は、その後、何故か、消されてしまっています(初期の放送では、搬送されるシーンも報じていたらしい・・・)。こうした同火災に関する不審点をも考慮しますと、同番組に対する批判点は、放送倫理の欠如ではなく、動画の真偽を確認する作業を怠ったところにあるように思えます。今日は、生成AIの技術を用いればフェイク動画は素人での簡単に造れる時代でもあります。一般の視聴者提供とは言え、同動画もフェイクである可能性について十分に留意すべきであったと言えましょう。また、逆に本物であるのならば、ベランダ沿いに逃げていた女性が、なぜ、屋内に戻って台所でなくなったのか(映像の猛火では、屋内に入ることすら不可能では・・・)、搬出されたという女性は、いったい誰であるのか、などの多くの謎が残ることになります。

 そして、このことは、BPOの報告をもって同動画の問題が解決したわけではないことを意味しています。否、同動画を‘本物’と決めつけた上で、倫理問題に閉じ込める形で幕引きが意図されているとすれば、やはり、同火災には何らかの事件性があったものと推測せざるを得ないのです。しかも、火災の現場検証等に際して警察も同動画を入手しているはずですので、映像の真偽については、公的な鑑定に付されるべきものでもありましょう。事実を突き止めるには、すり込まれた最初の前提を疑ってみることこそ、大事なように思えます。マスメディアも、SNSにも、世論誘導のプロは潜んでいるものです。放送倫理を問う前に、先ずもって、映像の真偽を問うべきではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お米の先物取引は即刻廃止すべき

2024年12月23日 11時36分01秒 | 日本政治
 秋の収穫期も過ぎ、年の瀬も押し迫っている今日、凡そ2倍に高騰したお米の価格は一向に下げる様子は見られません。収穫量も十分に確保されているはずなのに、お米の集荷業者間では‘争奪戦’が続いているというのです。この‘異常現象’も、あるいは、大阪堂島商品取引所で始まったお米の先物取引の影響であるのかもしれません。


 商品の先物取引一般には、通常、限月における現物の受渡しを伴います。このことは、先物取引への投資額が増えるほど、消費者とは無関係な次元でのお米の取引量が増加することをも意味します(「受渡決済」)。もっとも、大阪堂島商品取引所におけるお米の先物市場につきましては、現物の受渡しを伴わない形での決済も行なわれているようです。取引参加者の大半は、農家、農協、卸売業者等の当事者ではない「非当事者」即ち、証券会社や内外の投資家といった人々によって占められているからです。これらの「非当事者」が先物取引を行なう場合には、「差金決済」が行なわれています。例えば、SBI証券による顧客向けの説明では、同取引には現物の受渡は伴わず「差金決済」のみとしています。


 現物の受渡しを伴わないならば、お米の需給関係に対する影響は薄いようにも思えますが、これでは、何故、お米の先物取引の再開が許可されたのか、国民に対して合理的な説明を行なうことが難しくなります。現物の受渡を伴わない取引とは、「空売り」や「空買い」ともなりかねず、実体経済を離れた値動きによるバブルが生じかねないからです。証券等での空取引は法的規制の対象になっていますので、何故、政府が、お米の先物市場の開設に際してこれを許したのか、不思議でなりません。消費者や生産者にとりましての先物取引の唯一のメリットは価格や所得の安定化機能にあるのですから、これでは、内外の投資家に対して投機、あるいは、マネーゲームの場を提供したに等しくなります(海外投資家にも開放されている・・・)。農林中金の1兆を越える巨額損失は、先物市場に投機マネーを呼び込んだことでしょう。


 また、上述したように先物取引の契約には、最終決済日となる限月が定められているものですので、一般の顧客に対しては「差金決済」としつつも、実際には、証券会社等で一括管理している先物取引の契約書には、お米の受渡日が明記されているのかも知れません。となりますと、「買いヘッジ」を行なった証券会社や直接に取引を行なった内外の投資家には受渡請求権があり、この売り手側に対する権利の行使が、収穫シーズンを過ぎた時期においてもお米の買取争奪戦が収まらない原因であるとも考えられましょう。そして、それは、さらなる米価の上昇をもたらすとともに、「買いヘッジ」による利益をも一層押し上げていることにもなります。その一方で、先物価格が下落するとすれば、それは、投機マネーが、今度は米価の暴落を見込んで「売りヘッジ」に仕掛けている予兆として警戒すべきなのかも知れません。

 何れにしましても、大阪堂島商品取引所におけるお米の先物取引の再開は、今般の米価高騰と無関係であるとは思えません。先物取引については、変動リスクの回避による物価や所得の安定化をもってその存在意義が説明されていますが、お米の場合には、今日、国レベルでの備蓄米制度もあり、価格の安定は、流通量の調整によって実現することができます。先物取引に安定化機能を求めることが如何に国民に採りまして危険であるのかは、今般の一件によって示されたのですから、政府は、先ずもって、お米の先物取引市場を閉鎖すると共に、米価の正常化に努めるべきではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本国政府の米価高騰に対する奇妙な沈黙

2024年12月20日 09時28分42秒 | 日本政治
 昨今の米価高騰について、その原因として先物取引等の投機マネーの流入が推測される理由は、日本国政府の沈黙にあります。物価高につきましては、ガソリンや電力・ガス等に対する対策は一先ず練られていても、凡そ全ての国民のエンゲル係数を上げる米価高騰につきましては、対策らしい対策を採ろうとはしていないのです。マスメディアもまた、この件については沈黙を守っています。この現象は、如何にも不自然なのです。

 主食である米価が2倍にも跳ね上がれば、通常は、一揆が起きてもおかしくありません。もちろん、‘飽食の時代’とも称されておりますように、今日では、お米の価格が高くとも、小麦やトウモロコシなどの他の食品で代替できます。このため、過去の時代よりも深刻度は低いのでしょうが、それでも、食卓にご飯のお茶碗が添えられている家庭が圧倒的に多いはずです。食べ盛りのお子さんがいる家庭では、お米価格の高騰は家計を逼迫させていることでしょう。

 国民生活を第一に考える政府であれば、先ずもって、米価高騰の要因を詳細に分析するはずです。本ブログでも指摘しておりますように、インバウンド説、猛暑説、肥料価格高騰説、輸送コストアップ説などは何れも主因とは考え難く、5キロで6000円と言ったバブル的な値動きは、先物取引市場への投機マネーの流入を仮定せざるを得ないのです。それでは、何故、政府は、無策なのでしょうか。

 第一に推測されるのは、政治家自身がお米の先物取引から利益を得ているというものです。今年8月の大阪堂島商品取引所での先物取引再開が、SBIホールディングスのロビー活動の結果であったとすれば、政治家の懐には、相当のマネーが転がり込んでいるはずです。また、SBI証券をはじめ、幾つかの証券会社が一般顧客向けに先物への投資を募っていますので、政治家が直接に先物取引を行なっている可能性もありましょう。この事実が明らかになりますと、国民から強い反発を招くことになりますので、政治家の人々は、嵐が過ぎ去るのを首をすくめて待っていることとなりましょう。国民生活を犠牲にしつつ、自らは肥え太っていることになるのですから。

 第二の推測は、今夏における収穫前に備蓄米の放出を渋った責任を問われたくないとする政治家の意識です。しかも、秋の収穫期が過ぎれば米価は平年並に戻るとされながら、高値が続いています。本来であれば、去年の備蓄分も含めて放出すべきところなのですが、政府には、備蓄米を供給する動きが見られないのです。この推測についても、仮に、先物取引が主因であれば、政府は、敢て高値を維持するために備蓄米を放出せず、供給量を減らしているとする疑いも生じます。

 そして、第三の推測としては、政府は、減反政策の失敗を認めたくないのかもしれません。しかも管政権以来、日本国政府は、カーボンニュートラルの目標を掲げると共に、再生エネルギーの導入に積極的に取り組んでいます。この結果、農村の耕作放棄地に太陽光発電のパネルが並ぶ事態にも至ったのですが、政府は、国民の生活よりもグローバリストが推進している国際公約としての‘グリーン政策’を優先しているのかもしれないのです。日本国の農業の衰退は、食糧安全保障をも脆弱化しますし、海外依存も高まりますので、グローバリストにとりましては一石二鳥なのでしょう。そして、あるいは、お米の先物市場には、海外マネーも流入している可能性もありましょう。

 何れにしましても、説明責任の回避は疑いを強めますし、米価高騰に対する政府の沈黙は不気味ですらあります。‘あらぬ疑い’であれば晴らさなければなりませんので、政府は、米価高騰について国民に対して詳細を説明すべきなのではないでしょうか。また、政治とお金との問題を解決するためにも、授受に関する入り口の規制のみならず、内外のマネーの流れと政策との関係を調べる必要がありましょう。因みに、古代ローマにはセンソールという役職が設けられており、元老院議員といった政治家の綱紀粛正を行なう強力な権限が付与されていました。今日にありましても、独立的な立場から政治家に対して調査を行なことができる専門機関を設置する、あるいは、検察庁の特別捜査部の独立性を強化すべきではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SBIホールディイングスが先物取引を再開させた理由

2024年12月19日 11時18分07秒 | 日本政治
 今年8月の大阪堂島商品取引所におけるお米の先物取引の再開につきましては、同取引所の凡そ3割の株を保有するSBIホールディングスの強い働きかけがあったと指摘されています。同取引所と民間の一企業との関係は、市場の運営者と事業者の癒着が生じますので、独占禁止法に抵触する可能性もありましょう。それでは、何故、SBIホールディングスは、お米の先物取引に手を出したのでしょうか。

 お米の先物取引については、既に2011年から試験的に実施されていたのですが、参加事業者が集まらないことを理由に農林水産省が許可を与えず、2023年には一端終了しています。お米の先物取引については、過去においても米価高騰の要因となり、国民生活を苦しめてきた歴史がありますので、農林水産省が二の足を踏むのも当然と言えば当然なことです。ところが、2024年に至って事態は急速に展開し、2024年6月21日には農林水産省は大阪堂島商品取引所におけるお米の先物取引に許可を与えるのです。強引とも言える再開ですので、おそらくその背後には相当の‘お金’が動いたことは容易に推測されます。もっとも、SBI証券は、自らの参加によって米の先物市場が復活したとして恩を着せようとすることでしょう。

 ‘政商’とも揶揄されてきた孫正義氏をトップに頂くSBIホールディングの経営戦略の特徴とは、再生エネ、情報通信あるいは半導体(産業の‘コメ’)といった経済の基幹的な分野への集中投資です。お米もまた、弥生時代より日本人の主食として広く栽培されてきましたので、先物取引を介して価格形成に関与することで、日本国民の食料基盤を押さえようとしたとも考えられます。実際に、昨日の記事で述べたように先物取引が今般の米価高騰を引き起こしているとしますと、お米価格の主導権は、一民間事業者であるソフトバンクに握られてしまったことにもなりましょう。

 さて、SBIの投資傾向が基盤掌握型であり、どこか植民地支配との共通性も伺えるのですが、もう一つ、推理するとすれば、それは、農林中央金庫(農林中金)の巨額損失問題との関連性です。農林中金とは、農業協同組合(JA)、漁業協同組合(JF)、森林組合(JForest)を統括する金融機関であり、純資産100兆円、運用資金の規模は凡そ50兆円ともされます。その農林中金が、今年の5月の決算会見において、外国債権の運用の失敗によって3月期の最終損益で凡そ5000億円の赤字が生じたことを公表しています。翌6月には、2025年3月期の最終赤字が1兆5000億円規模となる見通しを述べたのです。

 同巨額損失については、農協等からの出資による資本増強で対応するとしていますが、この情報が、お米の先物取引において莫大な利益をもたらすチャンスと認識された可能性があります。何故ならば、農林中金とリンケージする農協を中心にお米を高い価格で販売する動機が生まれるからです。農家の所得が増えれば預金額も増えますし、農協が平年よりも高い価格で卸売りをすれば(先物取引の指標となる「現物コメ指数」は相対取引の平均価格・・・)、その増収分を農林中金の増資に充てることもできます。米価上昇が見込まれる状況下にあって買いヘッジを仕掛ければ、相当の収益が期待できるのです。ここに、お米の先物取引市場の復活が急がれた理由があるように思えるのです。

 もちろん、以上に述べてきたことは推測に過ぎませんが、異常なまでの米価高騰は、金融機関や投資家等による投機的動きなくしてはあり得ないようにも思えます。日本国政府は、国民生活を護るためにも、お米の先物取引の問題に真摯に取り組むべきなのではないでしょうか。大阪堂島商品取引所におけるお米の先物取引の許可取り消しも選択肢の一つであると思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お米の先物取引が米価を上げる理由

2024年12月18日 11時37分02秒 | 日本政治
 大阪堂島商品取引所で今年の8月から再開されたお米の先物取引は、米価高騰の一因となっているようです。それでは、何故、先物取引がお米の価格を押し上げるのでしょうか。

 この価格上昇のメカニズムは、‘人とは自らの利益を最大化するために行動する’と仮定しますと、容易に理解することができます。先物取引では、現在の取引価格よりも将来の限月における価格が上昇した場合、両者の差額による差益が生まれるのは‘買いヘッジ’です。このため、先物市場で高値が付いている場合には、同市場で取引に参加していない人々までも、大凡の将来における値動きを予測することができるのです。将来的な価格上昇が見込まれるからこそ、‘買いヘッジ’において高値が付くからです。先物市場での高値は、将来における値上がりの‘サイン’とも言えましょう。

 先物市場における価格は公開されていますので、先にも述べましたように、一般の人々も広く知るところとなります。こうした先物市場での価格情報は、売り手側にある人々に様々な反応を引き起こします。先ずもって、直接の生産者であるコメ農家の人々は、将来の値上がりに期待して、現時点で収穫したお米を売却するよりも、より価格が高くなった将来において売り渡そうとするかも知れません。つまり、‘売り渋り’が起きてしまうのです。この結果、お米の供給量が減少し、将来のお話でありながら現在の価格を押し上げる方向に作用します。

 加えて、卸売り業者の行動にも、変化が生じます。農業者の側の基本的な姿勢は‘売り渋り’ですので、お米を売ってもらおうとすれば、当然に、買い取り価格を上げざるを得なくなります。しかも、品薄状態ともなれば、需要と供給との間の均衡も崩れ、供給減少が価格上昇に拍車をかけます。1918年の大正時代の米騒動に際しては、米問屋等の卸売業者がお米の買い占めや売り渋りを理由に焼き討ちに遭うことにもなりました。取引の自由化は、供給量が需要を上回る場合には、価格引き下げ競争が起きますので消費者に恩恵がもたらされますが、需要が上回る場合には、逆に‘値上げ競争’となりますので、一概には消費者にメリットになるとは言えないのです。

 こうした生産者サイドにおける値上がり要因に加え、お米価格の上昇を口実とした便乗値上げも誘引されます。小売店側にとりましても、消費者の間に高いお米価格を当然視する風潮が広がりますと、自らの利益のために価格を上乗せするかも知れません。ましてやお米は日本人の主食ですので消費者は買わざるを得ず、足元を見られがちなのです。また、お米は様々な食品に加工されていますので、値上げラッシュはお米を原材料とする商品にも波及してゆくことでしょう。

 かくして先物取引における高値は、将来を先取りする形で現在のお米の価格にも反影され、消費者は、物価高に苦しむことにもなります。そして、価格上昇による差額の収益期待は、証券会社や商社等の先物市場における参加事業者達にも、高値維持あるいはさらなる価格上昇を望む強い動機ともなるのです。この点、本日Web記事として‘年上げ後にさらなる米価の値上げが予測されている’とする主旨の記事が掲載されていましたが(FBC福井放送)、こうした値上げ予測の記事や情報は、事実を伝えるというよりも、先物市場での値崩れを防ぐことを目的としている可能性もないわけではありません。言い換えますと、‘令和の米騒動’とは、お米市場におけるバブルとも言えるかも知れないのです。

 農業者であれ、卸売業者であれ、証券会社であれ、そして投資家であれ、お米のさらなる価格上昇は、何れに対しましても利益をもたらします。その一方で、負の部分が重くのしかかるのは、高いお米を買わされる一般の国民と言うことになりましょう。先物市場の解禁が人々の利己心をも解放してしまい、多くの人々が生活に苦しむ事態を招いているのが、今日の日本国の現状のようにも思えます。無制限な利己心、あるいは、欲望の追求が社会全体にマイナス影響を及ぼす場合、適切な規制を設けるべきなのですが、大阪堂島商品取引所の大株主となったSBIホールディングスの意向で先物取引が再開されたとなりますと、この問題は、今日、政治とお金との問題にも発展することにもなります。一体、どのような経路や働きかけによって、政府は、お米の先物取引に許可を与えたのでしょうか。米価高騰は、日本国を蝕む様々な問題が絡んでいるように思えるのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米価高騰を推理する-先物取引原因説

2024年12月17日 11時28分02秒 | 日本政治
 不思議なことに、主食であるお米の価格が2倍近くにも跳ね上がるという異常事態にありながら、マスメディアのみならずネット上では同問題に関する情報が圧倒的に不足しています。物価高が先の衆議院議員選挙における自公政権の敗因理由の一つでありながら、石破政権もまた、国民生活を護るために対策に乗り出す様子も見られません。‘令和の米騒動’と称されながら、政府は積極的な説明も対策も怠っており、この‘沈黙’には何らかの意図が隠されているようにも思えてきます。余りにも不自然なのです。昨日の記事で述べたように、インバウンド説、猛暑説、肥料価格高騰説、輸送コストアップ説の何れもが説得力に乏しいとしますと、真の原因は、別のところにあるのでしょう。そこで、情報不足の状況にありながら、幾つかの推理を試みてみたいと思います。

 第一の推理は、投機マネーの流入による価格高騰です。お米の先物取引については2011年から試験的な上場が始まり、一端は終了したものの、大阪堂島取引所において先物取引が「コメ指数先物」という名で復活したのは、まさに米価高騰中の今年の8月のことです。日本国には、米の先物取引については、江戸時代から堂島にあって帳合米取引が行なわれていた歴史があります。先物取引とは、長期的な価格安定に寄与する役割を果たす反面(変動リスクのヘッジ)、価格変動の結果としての差額が利益となるために投機の対象ともなり得るのです。

 先物取引にあって投機的な利益を上げる方法としては、買いヘッジと売りヘッジがあります。将来の決済日における価格上昇が予測される場合には先物で買いヘッジを行い、実際に価格が購入価格よりも上がった場合にその差額が収益となります。例えば、お米の先物取引ですと、先物で1俵17000円で購入したお米が、最終決済月である限月には20000万円の価格に上昇していたとしますと、3000円の差額が収益となります。このため、買いヘッジは、将来における値上がりが予測される場合に行なわれます。言い換えますと、将来的に価格が上がるほど、利益も増えてゆくのです。その一方で、価格低下が予測される際に予め高値で売っておく手法が、後者の売りヘッジです。

 こうした先物取引における投機性に注目しますと、堂島取引所の仕組みは、価格調整機能よりも投機的な取引に偏っているようにも見えます。何故ならば、先ずもって同市場への参加事業者は、商社のみならず、金融事業者、即ち、証券会社も参加しているからです(売りヘッジは、価格調整機能を必要とする生産者側にメリットがある・・・)。開始直後は三社程度でしたが、今日では、SBI証券も参加しています。堂島での先物復活にも、SBIホールディングスが暗躍したとされ、同取引所が会員組織から株式会社への衣替えする際に株式の取得により3割を越える議決権を握っているとされます。ここに、投機的なマネーがコメ先物市場に流入する要因を見出すことができましょう。因みに、同取引での米価は、全国の相対取引を平均化した「現物コメ指数」であり、農林水産省が作成して毎月公表されています(正確には公益社団法人米穀安定供給確保支援機構)。

 そして、先物取引と米価高騰との関係を探るに際しては、うるち米ともち米との値動きの違いにも注目すべきかもしれません。何故ならば、農林水産省が公表している東京穀物商品取引所に関する資料に依りますと(同取引所は、2013年に大阪堂島商品取引所と東京商品取引所に移管・・・)、2012年に策定された「米穀の合意基づく早受渡しの特例」における同特例の対象は「水稲うるち玄米」としているからです。また、現在、同省のホームページで公開されている相対取引価格の一覧表を見ましても、同表に掲載されているのはうるち米の銘柄みのようです。昨今の物価を見ますと、もち米の価格はうるち米ほどには値上がっておりません。スーパーでのお餅一袋の小売価格の全国平均は、去年2023年10月では729円でしたが、一年後の激しい米価高騰に見舞われていた今年2024年10月では743円に過ぎません。内外の要因がもたらす稲作に対する影響は同じなのですから、両者の値上がり幅の著しい違いは、全てではないにせよ、先物取引の影響を示しているように思えるのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本国の米価高騰は人災か?

2024年12月16日 11時19分18秒 | 日本政治
 2024年は、異常なまでのお米価格の上昇に見舞われた年でした。夏頃には平年ですと5キロ2000円台程度であったお米の小売り価格があれよあれよという間に3000円台に上昇し、秋の収穫期が過ぎた今日でも、一向に価格が下がる気配はありません。4000円台や5000円台のお米も珍しくはないのです。米価格だけを見れば、50%から100%を越えるインフレ率ともなりましょう。お米は日本人の主食ですので、急激な米価高騰は国民生活を直撃します。ところがこの状態を、日本国政府は、全くと言ってもよいほどに放置しているのです。今般の米価高騰については、様々な理由が挙げられていますが、一体、どこに原因があるのでしょうか。

 米価高騰の原因の一つとされるのは、コロナ禍収束後におけるインバウンドによる需要の増加です。需要増を受けて国内の米供給が逼迫したことから、お米価格が上昇したとする説です。しかしながら、訪日外国人数は、コロナ以前のレベルを回復した9月でも凡そ287万人に過ぎません。仮にこの説が正しければ、既に200万人を越えていた2016年から2020年までの期間にあっても、お米価格の急激な上昇が見られたはずです(統計に依れば、同期間の米価は横ばいのようです・・・)。しかも、お寿司に代表されるように和食にはお米を使う料理が多いものの、観光であれ、ビジネスであれ、来日した外国人が、日本国のお米価格を暴騰させるほど大量のお米を消費したとも思えません。インバウンド説は、どこか説得力に欠けているのです。仮に同説に従うとすれば、日本国政府は、国民の食料確保の観点から、今後、外国人の入国規制を行なわざるを得なくなりましょう。

 第二に米価高騰の要因とされているのは、天候の影響です。過去の事例を見ましても、天候不良による不作が米価の高騰を引き起こしており、歴史上の大飢饉の大半も冷夏や日照不足が原因となっています。この点、天候説の方が上述したインバウンド説よりも説得力がありましょう。しかしながら、今般の不作の原因は、異常な猛暑が続いたところにあり、過去にあって幾度も飢饉を引き起こしてきた冷害ではありません。高温の影響で、「一等米」の率が減少したというのです。全国平均で「一等米」の率が17.6ポイントも下回ったとされます。確かにこの説明を受けると納得しそうにもなるのですが、実のところ、「2等米」や「3等米」であっても食用に適さない、ということではないようです。実際に、ネット上では「2等米」が販売されており、ブランド米ですと「1等米」より僅かに低価格であるに過ぎません。品薄の原因が消費者の「1等米」への拘りにあるのならば、低価格をアピールして「2等米」や「3等米」の販売を促進し、供給量を増やせば、品不足は緩和されるはずです。政府は、何故、「2等米」や「3等米」を活用しようとはしないのでしょうか。

 また、従来の冷害ではなく、‘熱害’が原因であるならば、事前の対策も打てたはずです。ましてや日本国政府は、地球温暖化説に基づいてカーボンニュートラル政策を協力に推進しているのですから、エネルギー政策のみならず、農業政策にあっても温暖化への対策を講じるべき立場にあります。お米とは、熱帯地方では二毛作が行なわれているように、本来、気温が高い地域に適した作物です。これまでの品種改良は、緯度の高い地域でも栽培し得る品種の開発であったのでしょうが、温暖化予測を信じるならば、猛暑にあっても収穫量や品質が落ちない品種を準備しておくべきであったと言えましょう。あるいは、供給量を増やすならば、猛暑を逆手にとった二毛作用の品種の開発や導入も検討すべきであったのかも知れません。

 加えて第3の要因とされるのが、肥料価格の上昇です。確かに、国際市場における状況の変化から、2022年をピークに著しい肥料価格の上昇が起きています(サプライチェーンの寸断リスクやEU、ブラジル、中国、インド、ロシア等の動向が影響・・・)。しかしながら、この点についても、2023年には平年レベルに低下しており、国際価格の影響は薄らいでいます。また、同様に肥料価格の高騰に見舞われた2008年にあって日本国内における米価への影響が全く見られませんので、この説明も説得力に乏しいのです。

 以上に、米価高騰に関する幾つかの主要な説を見てきましたが、何れも、著しい米価の高騰を招く要因としては根拠が弱く、かつ、政府の無策が目立ちます。これらの他にも運送費等の上昇説もありますが、この説も、他の商品価格の高騰率と比較しますと、説得力を失います。そして、さらに要因を突き詰めていきますと、長期に亘る減反政策のみならず、米先物市場の開設、農協並びに農林中金の巨額赤字問題、米製品の輸出促進など、農政全般の問題が浮かび上がってくるように思えるのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

否定できない新型コロナパンデミック陰謀説

2024年12月13日 10時15分21秒 | 国際政治
 2019年12月に中国の武漢市に始まるCovid19パンデミックにつきましては、発生当初より、SNS等では様々な憶測が飛び交ってきました。もちろん、中には陰謀説もあったのですが、同パンデミックから凡そ5年が経過した今日では、マスメディアやウェブ上で公開されている情報だけからでも、ある程度は真実に迫ることができるようになりました。そして、同ウイルスについては未だに不明な点は多いものの、点と点が線となり、やがてこれらの分散されていた線が一つのキャンパスに吸い寄せられてゆくと、素描ではあれ、そこにはやはり陰謀の姿が浮かび上がっているように思えるのです。

 陰謀の実在性は、ここ凡そ十日間におけるCovid19パンデミックをめぐる動きからも容易に推測されます。先ずもって、12月2日に、アメリカの議会下院の特別委員会は、「新型コロナウイルスは中国・武漢の研究所にまつわる事故で出現した可能性が高い」とする最終報告書を公表しています。天然のウイルスであれ、人工ウイルスであれ、あるいは、意図的であれ、偶然であれ、同ウイルスは、武漢市に設けられていたバイオセキュリティー・レベル4のウイルス研究所から流出したとしているのです。

 もっとも、武漢ウイルス研究所におけるウイルス研究については、アメリカも無関係ではなく、同報告書では、米国立衛生研究所(NIH)がウイルスの「機能獲得」に関する研究のために資金を提供していたことを事実として認めています。「機能獲得」とは、自然界に存在する天然のウイルスの遺伝子配列に遺伝子操作を加え、新たな機能を付加することを意味します。ウイルス研究所における研究目的が、純粋に自然界に存在するウイルスが引き起こす感染症の撲滅や治療を目指しているならば、あえて‘機能’を拡張させる必要はないはずなのです(有毒化機能や感染促進機能の獲得としか思えない・・・)。ここに、流出の有無に拘わらず、米中が、生物化学兵器にも転用し得るウイルスの遺伝子改変技術の開発を共同で行なっていた実態が明らかになったとも言えましょう。武漢ウイルス研究所は、人民解放軍との関係も指摘されています。

 また、仮に中国が主張するように、Covid19が武漢市の海鮮市場で売られていた野生コウモリを宿主とするウイルスであるとしますと、今日、中国は、12億人ともされる人口大国ではなかったはずです。当時にあって武漢市で撮影された映像では、街を歩く人々がバタバタと倒れていましたが、中国の人々が伝統的にコウモリを食材としていたとしますと、今回の感染拡大も珍しいことではなく、歴史にあって同疫病は何度も繰り返されていたことでしょう(Covid19感染症に耐性を有する人も多いはず・・・)。自然発生説は、おそらく武漢ウイルス研究所からの流出説を打ち消すために創作された‘カバー・ストーリー’としか考えられないのです。
 ここまで事実が明らかになりますと、誰もが、Covid19が武漢ウイルス研究所において実験対象とされてきた研究用ウイルスであり、かつ、遺伝子操作が加わっている可能性が限りなく高い、という結論に容易にたどり着けるように思えます。ところが、新型コロナ発生から5年目に当たる12月8日に、新型コロナ政府分科会会長を務めた尾見茂氏は、報道番組のインタヴューの中で「パンデミックがまた来ることは想定していた方がいい」と語っています。次いで、その二日後の12月10日には、WHOのテドロス・アダノム事務局長が、WHOへの国家主権の移譲を伴うリスクが指摘されてきたパンデミック条約について、2025年5月までに締約国館で合意が成立するものと確信していると述べているのです。

 これらの発言は、なおもCovid19自然発生説を前提としているのですが、上述したように、武漢ウイルス研究所からの流出が真の原因であれば、同条約は最早必要ではないはずです。パンデミックが発生する確率は著しく低下するのですから。採るべき対策は、各国のウイルス研究書における管理体制を強化すると共に、生物化学兵器に転用し得る機能獲得研究の禁止と言うことになりましょう。全く対策の方向性が違っている、あるいは、的外れのです。
 
 しかしながら、このパンデミックの再来を確信しているかのような不可解な対応も、武漢ウイルス研究所からの流出が故意であったと仮定すれば、自ずと理解されてきます。そして、あたかも既に準備されていたかのようにmRNAワクチンが米英の大手製薬会社から大量供給されると共に(従来型であれ、中国でも即座にワクチン提供が開始された・・・)、各国政府も、足並みを揃えるかのようにロックダウンやワクチンパスポート、並びに、全国民ワクチン接種体制の導入に邁進した理由も分かってくるのです。かくして同パンデミックが発生した当時、‘陰謀論’として一笑に付されていた陰謀説も、俄然、信憑性を増してきます。‘プランデミック’とも称されるように、パンデミックを口実とした人類支配体制構築のためのプランが作成されており、コロナ禍とはその実行過程であったと見た方が、余程、現実に起きてきた一連の出来事が一つの計画として説明できるのです(米中の対立も表面に過ぎない・・・)。プラン発動の前に、各国政府を含む世界レベルでの協力体制は、水面下にあって既に整えられていたのでしょう。今や、陰謀説を否定する方が難しくなっているのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうして企業・団体献金は‘だめ’なのか

2024年12月12日 10時11分59秒 | 日本政治
 自民党のパーティー券に端を発した政治資金の問題は、先の衆議院議員選挙にあって自民党の議席激減の一要因として指摘されたように、多くの国民に政治腐敗の元凶として認識されています。今般の一件では、収支報告書の記載における不正が‘裏金’として咎められたものの、企業・団体献金自体は、政治資金規正法等の法律に従っていれば許されています。このため、先の選挙では、立憲民主党や日本維新の会など、公約に団体献金の全面的な禁止を掲げた政党も現れることとなりました。とは申しますものの、企業・団体献金の禁止については、幾つかの側面から反対意見があります。果たして、これらの反論には、合理性や説得力があるのでしょうか。

 今月10日に開かれた衆議院予算員会での石破首相の答弁からしますと、先ずもって、反対論の根拠としては、‘憲法第21条への抵触’が挙げられているようです。石破首相に依れば、企業献金の禁止は、憲法の同条が保障している表現の自由を侵害するというのです。企業による政治献金も、自らの政治的見解を自由に表現したものであるので、これを禁じることは企業の自由の侵害に当たる、とする論理です。

 石破首相の同見解は、「禁止に反対するのは参政権侵害に当たると考えるためか」立憲民主党の米山隆一氏の質問に応えたものです。この米山氏の質問から、第二の禁止反対の論拠として、参政権の侵害も指摘されていることが分かります。こちらの方は、企業・団体による政治献金は政治活動の一環であるので、これを禁じることは、政治に参加する権利を侵害することになる、ということなのでしょう。

 何れも、憲法違反を根拠とする禁止反対論となり、尤もらしくも聞えます。しかしながら、どこか詭弁のようにも思えるのは、人々の心の中に、公権力をお金で動かすことに対する内なる理性の声とも言える拒否感や懐疑心があるからなのでしょう。何故ならば、お金で公権力を買い取ることができるのであれば、公権力は、極少数の資金力のある人々に私物化され、大多数を占める資金力の無い人の声は、政策に反映されなくかってしまうからです。言い換えますと、民意に応えた政治ではなく、マネー・パワーを有する一部の人々の利益を叶えるための政治に堕してしまい、民主主義に反してしまうのです。

 しかも、企業・団体献金の禁止が、これらの表現の自由や参政権を侵害したり、奪ったりするわけでもありません。献金とは、数ある表現手段の一つに過ぎず、請願制度の利用、陳情、要望書の提出など、政府の政策に対する自らの立場や要望を政治の場に届ける手段やルートは他にもあります。否、企業・団体献金の場合には、政治家は、資金を提供する特定の企業や団体の‘声’しか聞かないことになるのですから、むしろ刑罰の対象となる贈収賄に限りなく近い行為ともなりましょう。

 企業の参政権侵害の指摘につきましても、企業・団体献金の容認は、政治参加の手段としての‘お金’の授受を公然と認めることを意味します。国民が個人レベルで参政権を行使する場である選挙制度にあっては、一票の格差が常々問題視され、最高裁判所などでも違憲判決が示されています。その一方で、企業・団体献金を集団レベルでの政治参加の手段と見なすならば、平等原則から著しく逸脱してしまうのです。‘見返り’を前提として献金する一部企業・団体のみに‘参政権’を与えることになるのですから。これこそ、憲法違反ともなりかねないのです。

 因みに、日経新聞の「私の履歴書」欄にて日本政治の研究で知られるジェラルド・カーティス氏が自らの半生を綴っております。この中で、同氏は、資金力に乏しい一般の人が政治家になるためには、ある程度の献金やお金を受けとるのは仕方がない、との主旨の見解を述べておられました。この側面は、民主主義国家である日米とも変わりはないとしています。カーティス氏の見解は、被選挙権における機会の平等に注目した、もう一つの企業献金擁護論となりましょう。しかしながら、資金力のない政治家が献金を介して資金力のある一部の勢力の意のままに動き、政策を決定してゆくとなりますと、結局は、政治家の傀儡化による一部の‘富裕者のため政治’に至ってしまうのではないでしょうか(一方、国民のニーズは無視され、重税のみが課せられる・・・)。同士の両親は、ゼレンスキー大統領と同じくユダヤ系ウクライナ人なそうですが、腐敗大国であるウクライナの政治体質を是認しているようにも思えます。そしてそれは、今日のグローバリストとも‘世界観’を共有しているのかも知れません。

 以上に、企業・団体献金における公権力の私物化問題について述べてきましたが、仮に、政治家自身が、企業の表現の自由や参政権を尊重すべきと考えるならば、政治資金に関する改革のみならず、より公平・平等に企業や国民が意見や要望を表明し得る制度を構築すべきです。政治家がマネー・パワーに取り込まれてしまう現状こそ改善すべきであり、資金力の如何に拘わらずに誰もが政治家となり得、また、政治と企業を含めた国民をむすぶための制度的な工夫が凝らされた、真の意味での民主的な国家を目指すべきではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ブダペスト覚書」の教訓-日台同時核武装が対中戦争を防ぐ

2024年12月11日 11時42分48秒 | 国際政治
 ウクライナ戦争を誘発した遠因として、しばしば「ブダペスト覚書」に基づくウクライナの核放棄が指摘されています。同覚書によって、ウクライナは同時に核の抑止力をも失ったからです。事実を直視しますと、「ブダペスト覚書」とは、NPTの縮図にも見えてきます。核兵器を手放したウクライナと核放棄の見返りに同国の安全を保障したアメリカ、イギリス並びにロシア等との関係は、NPTにおける非核保有国と核保有国との間の関係との相似形であるからです。ウクライナは、結局、約束を反故にされて騙される形となったのですが、核保有国による核兵器使用の可能性が高まる今日、核攻撃のリスクに晒されている非核保有国の多くでは、核保有国、否、NPT体制の背後で蠢いてきた世界権力によって‘騙された’とする感情が湧いていることでしょう。

 もっとも、ウクライナでは既に戦渦に見舞われていますが、他の非核保有国には、戦争を未然に防止する手段が残されています。その方法とは、速やかに核の抑止力を備えることです。つまり、一般国際法としてのNPTの終了、もしくは、各締約国によるNPTからの脱退ということになりましょう。軍事大国による核使用の現実性に加え、インドとパキスタンとの間の核の均衡については別に置くとしても、イスラエル、北朝鮮、イラン等が核を開発・保有した時点で、NPT体制の仕組みは既に破綻しているのですから。NPTの理想論にしがみついていても戦争を回避することはできない段階に、今や至っていると言えましょう。今日とは、物理的な対応をもってしか剥き出しの暴力を止めることができない時代にあるのかもしれないのです。

 「ブダペスト覚書」の事例が人類に教訓を与えているとすれば、それは、核の抑止力の重要性です。同教訓に学ぶならば、中国による台湾侵攻を防ぐためには、先ずもって台湾の核武装を急ぐ必要があるとの結論に至ります。同核武装につきましては、台湾が独自に開発・保有する方法と準軍事同盟国であるアメリカ等の核保有国から提供を受けるという二つの道がありましょう。台湾は、NPTの正式な締約国ではありませんので(条約遵守国の地位)、前者については、NPTによる法的な縛りは格段に弱くなります。台湾の核武装が実現すれば、核の抑止力の効果により台湾有事の可能性が著しく低下しますので、同時に台湾有事が日米同盟により日本国に連鎖的に波及するリスクも下がります。

 もっとも、日本国の場合には、中国との間に尖閣諸島問題も抱えていますので、中国による台湾有事が断念された場合、中国あるいはその背後の世界権力が、日本国に狙いを定めるリスクは逆に高まります(真の目的は第三次世界大戦の誘発にある・・・)。対日侵略のリスク、さらには共に核保有国であるロシア並びに北朝鮮の脅威を考慮すれば、日本国も同時に核武装を急ぐべきこととなります。そして核武装の必要性は、南シナ海問題で中国との間で紛争が生じているフィリピンについても言えましょう。

 なお、シリアにあってアサド独裁体制崩壊の混乱状態の中、イスラエルがシリア領に侵攻したとの報道もあります。イランに対しては抑制的な対応をとる一方で、シリアに対しては‘火事場泥棒’の如きに傍若無人に振る舞うイスラエルの態度には、あるいは、前者が核保有国であり、後者が非核保有国であるとする認識の違いがあるのかも知れません(おそらく、イランは既に核兵器を保有している可能性は相当に高いのでは・・・)。

 仮に、近い将来において中国が台湾に侵攻した場合、後世の歴史家は、何故、時間があるにも拘わらず、台湾、並びに、日本国やフィリピンが核武装をしなかったのか、その非合理的かつ非現実的な無防備さを訝しがることでしょう。否、今日にあっても、「ブダペスト覚書」の教訓に学ぼうとせず、戦争回避のために手段を尽くそうとしない政治家の責任が問われるべきですし、仮に、故意に回避手段をとらないのであるならば、第三次世界大戦を欲する世界権力の傀儡であることを自ら認めたに等しいのではないでしょうか。ノーベル平和賞の授賞式が行なわれている中、核武装の議論は不謹慎として眉を顰める方もおられましょうが、時間は待ってはくれないと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする