万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

国民の方が高い‘知的レベル’

2024年09月16日 10時33分29秒 | 日本政治
 先日、自民党総裁選挙への小泉進次郎氏の立候補表明の記者会見にあって、フリーランスの記者から知的レベルの低さを問題視する質問を受けたことが、メディアやSNS等で話題となりました。一般の社会にあっても、本人に面と向かって‘知的レベルの低さ’を指摘することはめったにはありませんので、その暗黙のマナーを破るような質問に驚かされたのです。かくして、知的レベルの問題が、突如として政治の表舞台に登場してくることとなったのですが、実のところ、知的レベルは、国家や国民にとりまして大問題であるように思えます。

 もちろん、政治家の知的レベルが低い場合、全ての国民に被害や損害が及ぶこととなります。法律や政策は凡そ全国民に対して法的効果が及びますので、政治家が杜撰で浅慮な決定を行なえば、国民は愚かな判断の巻き添えとなり、国家滅亡を憂き目にあいかねません。また、知的レベルが低いが故の偏狭さが自己中心となって現れる場合には、私利私欲から権力を私物化してもそれが、国民に対する背任にも当たり、政治倫理に反することに思い至らないことでしょう。そして、さらに恐れるべきことは、知的レベルの低さこそ、最も望ましい‘操り人形’としての素質であり、適性である点です。自分で考えない人ほど操りやすいのであり、それが政治家ともなりますと、国民は、自国の政府が外部の‘傀儡政権’であることを疑わざるを得なくなるのです。これは、国家の独立性並びに民主主義の危機でもあります。

 小泉候補者に対する質問は、国際会議等における他国の首相達とのコミュニケーションに際しての知的レベルの差を問題としたのですが、政治家の知的レベルの問題は、内政外政の両面において国家的な大問題と言えましょう。この点は、国民の誰もが理解するところなのですが、それでは、国民の側の知的レベルはどうでしょうか。

 国民の知的レベルと申しますと、先ずもって、衆愚政治が思い浮かばれます。民主的な国家体制も、国民が感情に流されやすく、愚かであれば自壊してしまいます。政治家が愚かな場合とは別の意味でリスクが高いのは、古典古代の政治哲学者も述べるところです。しかしながら、ここで述べるのは、衆愚とは逆に、国民の知的レベルが高い場合に起きる問題です。政治家も国民も共に高レベルの状態が最も望ましいのは言うまでもありませんが、政治家あるいは‘権力者’のレベルが低く、国民のレベルが高いというケースもあり得るのです。

 とある国際調査によりますと、嘘か誠か、最も平均IQの高い国民は日本国民なそうです(平均を100とすると105なそう・・・)。ノーベル賞受賞者も数多く輩出しており、日本国民は、決して愚かな人々ではないはずです。そして、この国民の知性の高さが、今日、至る所で摩擦を起こし、国民の不安並びに不満を高めているように思うのです。

 例えば、今日、多くの国民から批判が寄せられている皇族の進学問題一つをとりましても、この知性の格差問題が浮かび上がってきます。皇族は、権威とはされていますが、宮内庁は政府の一機関ですし、皇室典範も公法の一つです。今般の進学問題は、東大の推薦入学の資格要件を皇族である悠仁氏が入学し得るように変更させ、かつ、マスメディアを使って‘ご優秀神話’を拡散したことにあります。公的大学入試制度を変えさせたとなりますと、法的根拠もなく‘権力’を行使したことにもなるのですが、果たして、どれだけの国民が、皇族、あるいは、政府の措置を是とし、マスメディアが連日のように報じる‘ご優秀神話’を信じるのでしょうか。

 今日、凡そ全国民が義務教育を受けており、相当数の人々が高等教育に進んでいます(高等学校進学率97%以上、大学進学率凡そ60%・・・)。戦前ならばまだしも、国民の教育レベルが格段に向上した現代にあって、公的制度の公平性を歪めるような特権を認め、政府サイドが流す、あり得ないような神話を事実として信じ込む人は、極めて少数の人となりましょう。もしくは、創価学会や旧統一教会など、皇室との繋がりのある新興宗教に洗脳されてしまった人々なのかも知れません。

 そして、このことは、政府サイドでは、‘国民の知的レベルは低く、プロパガンダを信じるほどの知性しかない’と高をくくっているか、‘フィクションであることが分かっていても信じよ’、という精神的な圧力を国民にかけていることを意味します。あるいは、政府側の知的レベルが低く、本気で国民がプロパガンダを信じるものと‘信じている’のかもしれません。何れにしましても、皇族、延いては象徴天皇制を維持するためには、国民の知的レベルが低いことが要件となるのであり、より知性の高い国民に忍耐を強要しているとも言えましょう(あたかも北朝鮮のよう・・・)。この問題は、皇族の問題に限らず、今般の自民党総裁選挙における小泉政権擁立の戦略も、既に多くの国民に見透かされているのではないかと思うのです。

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グローバリズム対反グローバリズムが最大の対立軸

2024年09月13日 11時53分05秒 | 日本政治
 自民党につきましては、プラザ合意以降、国民に対しては保守政党の看板を掲げ続けながらも、新自由主義を基本方針とする‘グローバル政党’へと変貌を遂げてきました。このため、今日では、その総裁選挙における候補者の顔ぶれは、何れもグローバリスト、即ち、世界権力の息のかかった政治家ばかりです。自民党が保守層を騙す‘偽旗政党’とされるのも、マスメディアが実施した世論調査の結果とネットニュースのコメント等で見られる一般国民の評価とが著しくかけ離れてしまうのも、外観と実態との違いに由来すると言えましょう。さながら‘保守主義者の仮面を被ったグローバリスト’なのです。

 世界権力のネットワークは全世界に張り巡らされているために、同現象は、日本国の自民党に限られたものではありません。アメリカの共和党もグローバリストで占められていますし、世界権力(ディープ・ステート)の存在を公式に認めたトランプ前大統領でさえ、その実、同勢力の一員、あるいは、傀儡である疑いがもたれる程です。保守政党の場合、愛国心を掲げ、国益重視、自国の安全と独立の堅持、国民保護、自国の歴史・伝統の尊重等を旨としてきただけ、元よりグローバリストであった左派やリベラル政党よりも、国民を騙しているという印象が強まってしまうのです。

 保守政党の実態がグローバリスト政党であるという表裏の二面性は、国民が何れの政党を選んでも変わりがないように仕組んだ、世界権力による二頭作戦、あるいは、多頭作戦の結果でもあります。政党間あるいは与野党間の対立は表向きに過ぎず、結局は、グローバリズムに行き着いてしまうのです。しかも、今日のグローバリズムは、経済の分野のみに留まるものでもなくなっています。国境の壁が低くなるように、経済と他の領域との間の境界線も曖昧となり、グローバリズムは、社会や個人の空間にまで及んでいるのです。ダボス会議にあって掲げられた‘グレート・リセット’は、まさにグローバル・ガバナンス、すなわち、人類支配のための計画とも言えましょう。

 そして、新自由主義を土台に据えた未来の神殿を支える三つの主柱は、環境、デジタル、そして遺伝子ワクチンなのかもしれません。地球温暖化への対応を名目としながら、環境とはエネルギー支配なのでしょうし、デジタルは、組織であれ個人であれ、全ての活動をシステマティックに把握するために必要不可欠なテクノロジーです。そして、遺伝子ワクチンは、人々の健康状態から人口数までをも思うままにコントロールし得る手段なのでしょう。現状を見る限り、与野党を問わず、日本国の政治家達がこの構想に協力、あるいは、その一員として従事してきたことは火を見るよりも明らかあり、日本国民に迫り来るグローバリズムの脅威を実感させていると言えるでしょう。

 一般の国民がグローバリズムを実害を伴う脅威として認識するようになりますと、国民が政府に求める政策も自ずと変わってきます。さらなるグローバリズムの推進ではなく、全世界に吹き荒れるアグレッシブなグローバリズムへの抵抗、並びに、その脅威からの保護こそが、今日の日本国民が必要としている政治の役割となりましょう。

 グローバリズムからの防波堤を要する今日の時代状況からしますと、本来、政治の場にあって出現すべき主要な対立軸は、グローバリズム対反グローバリズムとなるはずです。ところが、マネー・パワーを有する世界権力は、二頭作戦並びに多頭作戦をもってこの真の対立軸の出現を阻止する、あるいは、隠そうとするのです。しかも、保守政党のグローバル政党としての実態が明らかになるにつれ、二頭作戦あるいは多頭作戦は、より巧妙となる可能性も否定はできません。ヨーロッパの極右政党に見られるように、反グローバル政党の看板を掲げながら、その実、世界権力の‘回し者’である可能性もあるのですから(反ユダヤ主義を党是としたナチスの幹部の多くがユダヤ人であったように・・・)。

 自民党総裁選挙の立候補者の政策を見ましても、何れも世界権力から既に命じられているミッションを各自が分担しながらちりばめているとしか言いようがありません。その一方で、もはや自然破壊の域に達しているメガソーラ建設に対する規制や、行政におけるデジタル化推進の必要性や安全性そのものを問う立候補者は皆無に近く、国民の命を危険に晒すレプリコン型ワクチンの接種事業の中止を訴える立候補者もいません。小泉進次郎候補が唱えている雇用規制緩和案については、高市早苗候補との討論において解雇の自由化ではないと弁明したとされますが、代案としたリスキングや再就職支援の企業への義務付けは、ジョブ型雇用と並んでDX化に際してグローバリストが普及を後押ししている手法ですので、むしろ、グローバリスト擁立候補としての同候補の立場を浮き上がらせています。そして極めつけは、立候補者の誰も、国民の多くが厳格化を求めている‘移民政策’について語らないのです。

 どのようにすればグローバリズムから国民を護ることができるのか、この問題は、グローバリズム対反グローバリズムが政治家対国民の対立構図となるため、日本国のみならず、全世界に共通する今日という時代が抱える大問題です。各国の政治が国境を越えて押し寄せてくるマネー・パワーに操られているとしますと、民主的制度のさらなる改善に加え、企業のありかたをも含めた抜本的な経済システムの見直しを要するのではないかと思うのです。

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自民党総裁選における‘おとり作戦’に警戒を

2024年09月12日 12時53分40秒 | 日本政治
 国民が注視する中、自民党の総裁選挙は、本日9月12日に告示されることとなりました。投票日は、15日間の選挙戦を経た9月27日となるそうですが、過去最多の9人が立候補を表明しており、簡単には予測のつかない混戦となる模様です。政党内部の選挙ですので、国民に投票権があるわけではないものの、議院内閣制を採用している以上、事実上、首相の座をめぐる選挙となりますので、国民は、否が応でも目が離せません。

 しかも、今日の政治家に対する日本国民の不信感は、これまでのものとは質的な違いがあります。かつて、‘日本国は、経済は一流、政治は三流’とも揶揄されており、政治のレベルがそれ程高くはなくとも、一先ずは厚い中間層が形成され、国民が豊かさを実感できる時代がありました。言い換えますと、国民が政治に無関心であっても済まされた時代であったのですが、こうした幸運な時代は、プラザ合意並びにバブル崩壊と共に終焉を迎えます。その後は、日本国の低迷の原因はグローバル化の遅れと見なされるようになると、保守党であるはずの自民党も、新自由主義へと舵を大きく切り替え、民営化や規制緩和を含め、グローバルリズムの旗振り役へと変貌してゆくのです。

 今日の自民党は、まさにこのグローバル路線の延長線上にあります。しかしながら、懸命にグローバル化を進めながら、日本国の経済はかつての栄光を取り戻すことはありませんでした。それもそのはず、規模の経済が大きく働くグローバリズムはそもそも日本国には不利であり、羊牧場をオオカミに開放するに近い結果をもたらしてしまうからです(逆効果・・・)。このため、雇用の不安定化、販売や輸出の伸び悩み、賃金の頭打ち、物価高、並びに、強引なDXやGXの押しつけ等を直に感じる国民の多くは、政治家よりも早く、かつ、敏感にブローバリズムのマイナス効果に気がつき、グローバリズム懐疑論が広がっているのです。

 つまり、時代の空気がグローバリズムから反グローバリズムへと変わったのですが、それにも拘わらず、政治サイドは、この変化を無視し、未だにグローバル化の方針を堅持しようとしています。もちろん、その背景は、グローバリズムの総元締めである世界権力によるマネー・パワーを武器とする戦略があり、各国の政治家が同ネットワークに絡め取られている現状があります。そして、政治家と国民との間の方向性の違い、あるいは、基本的な認識の乖離は、前者にあって後者を狡猾に騙そうとする動機となっているのです。つまり、政治家が、国民に隠れてグローバリズム、即ち、新自由主義政策を推進しようとする・・・。

 ‘隠れグローバリズム’を推進するには、世論誘導のためのマスメディアの協力も必要となるのですが、今般の総裁選挙における各候補が掲げる政策の取り上げ方を見ましても、その兆候が伺えます。何れの候補者にも、必ずと言ってもよいほどに、グローバリストのアジェンダが混ぜ込まれています。しかも、できる限り目立たないように。そして、国民の関心がこうした世界権力から要請されている‘ミッション’に向かわないように、‘おとり’とも言える‘争点’が準備されているようにも見えるのです。例えば、小泉進次郎候補が掲げる選択的夫婦別姓や河野太郎候補が突然に提起した共通テスト改革などです。こうした政策は、国民の間で賛否が分かれ、若者層を中心に誰もが議論もしやすいテーマですので、国民の関心が自ずと同テーマに向いてしまうのです。

 選択的夫婦別姓については、保守系の人々からも家系維持の立場からの賛成論もありますので、必ずしもリベラルな政策とも言い切れないのですが、立法化を目指す側の狙いが家族制度の破壊であったり、富裕男性に有利となる実質的な一夫多妻制へ導火線である可能性もありますし、共通テストの複数回実施案についても、真の目的は、入試試験のデジタル化による国民の能力に関するデータ収集・管理にあるのかもしれません。何れにしましても、グローバリストの思惑が隠れている気配はありますが、これらは優先度の低い政策なのでしょう。国民の関心を‘おとり’に惹きつけておく一方で、候補者各自に対しては、最優先で実行すべき政策が伝達さているとも推測されるのです。

 ‘おとり作戦’の可能性を考慮しますと、小泉候補に対しては、知的レベルを問題にするよりも、東京メトロ株の売却や上下水道の民営化問題など、民営化に対する具体的な政策について問うほうが、余程、国民にとりましては判断材料となりましょう。また、国民からのワクチン被害の声に頑なに耳を塞いでいる河野候補に対しても、先ずもって10月に予定されているレプリコン型ワクチンの接種事業について問い質すべきです。こうした触れて欲しくない事案については、本人から言い出すとは思えませんので、‘おとり作戦’にかからないためにも、立候補者に対しては、メディアであれ、一般の国民であれ、チャンスがあれば、国民が真に懸念し、政治家の正体を暴くような質問をすべきではないかと思うのです。

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小泉候補の返答から読む日本国の危機

2024年09月11日 11時56分21秒 | 日本政治
 先日、自民党総裁選挙の立候補会見における小泉進次郎氏と記者との間の質疑応答が、メディア並びにSNSにおいて物議を醸すこととなりました。質問者はフリーランスの記者ということですので、比較的自由な立場からの質問であったようですが、その内容が、小泉候補の知的レベルの低さを懸念するものであったことから、先ずもって‘同候補に対して失礼ではないか’とする批判と、‘核心的な問題をよくぞ言った’とする、記者に対する賛否両論が湧き上がることとなりました。次いで現れたのが、小泉候補の返答の妙を評価する声です。しかしながら、同候補の返答内容を読みますと、思わず頭を抱えざるを得なくなるのです。

 知的レベルの低さをストレート、かつ、突然に指摘された場合、大抵の人は侮辱されたとして怒りに気色ばむか、あるいは、狼狽して返答に窮するものです。しかしながら、立候補会見での小泉候補の反応は、これらの何れでもありませんでした。顔色一つ変えることも、うろたえることもなく、自らの至らなさ、並びに、今後の成長の必要性を素直に認めた上で、「しかし、その足りないところを補ってくれるチーム、最高のチームをつくります。そのうえで今まで培ってきたものを一人、一人、各国のリーダーと向き合う覚悟、そういったものは私はあると思っています」と述べたからです。自らの‘さわやか’なイメージを壊すことなく、冷静沈着に対応する姿を見せたことで、相手の発言を逆手に取る形で評価を逆転させたこととなりましょう(小泉候補は、本当は、賢いのではないかとする評価へ・・・)。

 記者との質疑応答を見る限りでは、確かに、小泉候補の対応には、自らに降りかかってきた難題をそつなくかわす、政治家としての巧みな技が身についているように見えます。この点が、賢さの評価に繋がったのでしょうが、その内容は、と申しますと、必ずしも国民が安心できるものとは言えないように思えます。何故ならば、知的レベルを補う方法が、‘最高チームの結成’というのですから。

 第一に、政治家の能力の低さが‘最高チームの結成’によって補えるのであれば、誰でも日本国の首相になれることを意味します。総裁選挙への出馬会見であるならば、自らが首相に最も相応しい候補者であることを積極的にアピ-ルすべきところを、小泉候補は、‘他者の助力があれば自分でも大丈夫’という、消極的、かつ、最初から他力本願の姿勢を示してしまっているのです(‘開き直り’とも言える・・・)。これでは、国民の不安は募るばかりですし、首相とは、他人任せのかくも‘楽な仕事’なのか、ということにもなりかねません。

 第二に、記者の質問は、各国の首脳が集うG7等の国際会議を念頭に置いているため、小泉候補の返答も、‘チームを結成した上で、一人一人のリーダーと向き合う覚悟’があるというものです。しかしながら、このチーム方式ですと、‘小泉首相’は、国際会議の場では常にチームと一緒に行動し、会話や歓談の場面も、外国の首脳一人対小泉チームという滑稽なシーンともなりかねません。あるいは、事前に台詞付きのシナリオを準備する必要が生じます。外国の首脳からアドリブで話かけられたり、質問を受けるような場合には、その場で凍り付いてしまうかも知れません。

 第三に指摘すべきは、「最高チーム」のメンバーとは、誰が、どのような基準で、如何なる方法で選ばれるのか、という重要な諸問題については何も語っていない点です。‘小泉首相’が、個人的な人脈から恣意的に自らに近い政治家仲間や‘有識者’を選び、「ブレーン集団」とするということなのでしょうか。同候補は、自らの能力不足を認めていますので、首相の権限、あるいは、主導権は、事実上、同「ブレーン集団」に握られてしまう事態も想定されましょう(将軍が‘お飾り’であった江戸時代の幕府のよう・・・)。二重権力ともなりかねない同事態は憲法に抵触する可能性もありますし、日本国の民主主義の危機ともなりましょう。

 そして第三点と関連して第四に懸念されるのは、「最高チーム」は、政治家であれ、民間人であれ、日本国民であるとは限らない点です。父小泉純一郎元首相が進めた郵政民営化は、グローバリストへの利益誘導であったとする強い疑いがあります。実際に、小泉候補が1年以内に実現するとした3つの改革も、解雇規制の見直しや選択的夫婦別姓の導入、ライドシェアの全面的な解禁などを見ますと、国民世論の声ではなく、グローバリスト、即ち、世界権力の要請を受けたものと推測されましょう。

 今年の10月に‘小泉政権’が誕生するとすれば、それは、グローバルにマネー・パワーと組織を展開する世界権力からのミッションを実行するだけの、傀儡政権に過ぎないのかもしれません。そしてこの懸念は、自民党の総裁選挙に出馬している全ての立候補者にも言えます。‘小泉政権’においては、ダボス会議の常連でもある河野太郎氏の入閣も予測されておりますので、「最高チームを」とは、自民党が一丸となってグローバル路線に邁進することなのかもしれないのです(小泉候補の後ろ盾とされるのもグローバル色の強い菅義偉善首相・・・)。このように考えますと、小泉候補は、出馬会見にあって、図らずも日本政治の実像を語ってしまったのではないかと思うのです。

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皇族の存在と日本国民の精神性

2024年09月10日 12時14分38秒 | 日本政治
 封建時代にありましては、主君に対する家臣の忠誠心は美徳として賞賛されていました。主君は家臣達の領地を保障し、報償や俸禄をも与える存在でしたので、家臣は、自らの命を擲ってでも主君を護るべきとされ、主君に誠心誠意奉仕する忠臣こそが家臣の鏡とされたのです。君主と領主との堅い絆は保護・被保護の関係、あるいは、非対称ながらも相互依存の上に成り立っており、家臣の忠誠心は、運命共同体とも言える同関係を精神面において支えていたこととなりましょう。

 ヨーロッパの封建制度の場合、両者の封建契約を介しましたので、家臣のモラルという精神面よりも比較的法的義務の側面が強いのですが、こうした関係は、その成立前提としてギブ・アンドテイクの関係を見出すことができます。このことは、武士道や騎士道として現れてきた主君と家臣との間の麗しい主従関係は、その成立時期や範囲において、時代や地域によって限定されることを意味します。それでは、現代の日本国民に対して、皇族に対する封建的なモラルを求めることはできるのでしょうか。

 “超保守系”の言論人による一般国民に対する不敬批判の多くは、上述した封建的なモラルへの違反を咎めるものです。その心理の根底には、戦後にあっても吉田茂が自らを臣と称したように、たとえ憲法上の実態とは違っていても、日本国の国家体制は、天皇を君主とする立憲君主体制であるとする意識があるのでしょう。このため、上述したモラルに照らせば、‘皇族の望みを叶えるのが臣民である国民の当然の務め’、あるいは、‘皇族に対する国民の批判は無礼極まりない’となり、分を弁えていない国民の側に非があることとになるのです。

 ところが、この批判が成立するには、相互的な関係を要します。この成立要件を欠く場合には、両者の関係は、上の者が下の者に対して一方的な忠誠心や奉仕を求めるものとなり、主人と下僕、あるいは、主人と奴隷の関係に限りなく近づいてしまうのです。北朝鮮のような独裁体制に喩えれば、独裁者と国民との上下関係となり、国民は、何らの権利の保障も無しに、常に前者を崇め、忠誠心を示さなければならないという不条理な状態となるのです。日本国の現状は北朝鮮ほどではありませんが、天皇が神的な霊力による国家護持の役割をもはや果たせない以上(皇族に至っては意味不明の存在に・・・)、国民に封建的なモラルを美徳として求めることは、今や下僕のメンタリティー、奴隷の‘行動規範’を持つように訴えるに等しくなっているのです。

 主人にとりましての理想的な下僕とは、主人には一切逆らわず、その命令通りに行動する従順なる従者です。その一方で、下僕の側も、自らに対する自己評価は著しく低く、常に主人のご機嫌を伺い、追従による自己保身ばかりを考えるようになります。言い換えますと、主人・従者関係にあっては、双方共が、一個の人格として自らの人間性や知力を磨いたり、社会全体を客観的に捉える能力を備える機会が失われ、精神的な成長が止まってしまうのです。さらには、皇室の権威を自らの私的な利益のために利用しようとする輩も現れることでしょう。

 実際に、今日の皇族は、あたかも‘主人’のように奉られています。首都東京の中心地の広大な敷地内で多くの‘使用人’に囲まれながら住い、全国各地を訪問すれば、誰もが礼儀正しく深々と頭を下げるのですから。しかも、今般、遂に批判の声が噴出したもの、進学や就職等にあっても公的な特別待遇を受け、メディアも常に‘さま’付けの敬称をもって‘上位者’として報じますので、国民は、否が応でも‘世襲による特別の身分’が存在することを意識させられるのです(国民に対する一種の‘刷り込み’・・・)。

 それでは、こうした皇族という特別の存在を目の当たりにして育つ日本国の子供達は、“超保守派”の人々が主張するように、世界に誇る皇室を頂く最も恵まれた幸せな子供達なのでしょうか。皇室がすっかり世俗化し、神話に由来する神聖性並びにそれに付随する伝統的な役割を失った今日、皇族の存在は、日本国民のメンタリティーを卑屈にこそすれ、伸びやかな精神を育むとは思えません(下僕メンタリティーの育成は、世界権力にとっても好都合・・・)。‘菊のカーテン’と相まって、国民の思考や理性の成長阻害要因となり、国民にとりましては‘菊の天井’ともなりかねないのです。

 民主主義国家にあっては、もはや、為政者と国民との間には身分の違いはなく、一方的な支配・被支配の関係にあるわけでもありません(民主主義とは、本来、国民自治を意味する・・・)。それにも拘わらず、伝統的な権威としての天皇だけは、憲法上の役割をもってその特別の身分が認められてきたのですが、この‘特別の身分’は、一部の人々による単なる個人崇拝、あるいは、外部者による日本国民のコントロール手段に堕しつつあります。果たして、既に形骸化し、かつ、平等原則からも逸脱する現行制度を残すことが、未来の日本国民にとりまして望ましいことなのでしょうか。昨今、政治サイドでは、与野党共に皇位継承の安定性確保を課題としていますが、方向性が真逆なのではないかと思うのです。

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象徴天皇制度こそ議論すべき

2024年09月09日 11時39分55秒 | 日本政治
 目下、秋篠宮家の悠仁氏の東大推薦入学の問題をめぐりまして、国民の多くが今後の成り行きを注視する状況が続いています。これまでにも、ネットを中心として皇族については批判が湧き上がることはあったのですが、今般の一件に関しては、遂に国民の許容の限界を超えてしまった感があります。

 皇族の入学や入試については、特別待遇を疑う同様の疑惑が囁かれたのは、今回が初めてのことではありません。とりわけ、姻族となる小室氏に対する特別の便宜については、日本国内のみならず、アメリカの弁護士資格試験にまで背後から動かした可能性さえあります。このことは、皇室の背後に日本国政府のみならず世界権力が蠢いている可能性を強く示唆しているのですが、東京大学農学部の推薦型選抜の学生募集要項に『国際会議への参加等の活動』が急遽加えられ、第27回国際昆虫学会議が日本国の京都が開催地となったのも、何らかのグローバルな‘裏の工作’が疑われましょう。

 国民からの批判の声の高まりを危惧してか、宮内庁の皇嗣職大夫の方は、「根拠のない情報が流れている」として今般の国民からの批判の声に対してその懸念を否定しています。しかしながら、小室氏のみならず、悠仁氏に関しても、筑波大学附属高校への進学に際して同様の‘手口’が使われた過去もありますので、この説明では人々を納得させることは困難です。過去の事実こそが既に根拠を与えているのですから、‘二度あることは三度ある’として国民の多くが警戒するのも当然のことなのです。

 そして、今般の一件は、少なくない国民が、皇室を脅威として認識する切っ掛けともなりました。防衛、安全保障、外交上の国家的リスクについては、今上天皇夫妻にまつわるリスクとして指摘されてはきましたものの(ロシア(ソ連邦)、中国共産党や創価学会等との接点等・・・)、悠仁氏の進学問題では、‘国家権力’が動いた疑いがあるからです。9月6日付けのデイリー新潮のウェブ記事にあって、反対署名活動に対して‘どこか不穏な動き‘とした上で、「捜査当局も関心を示して」と報じられたのですから。

 ここで言う捜査当局とは公安警察と推測されるのですが、その捜査を行なった理由は、‘天皇制に反対する集団が関与しているということなら、それなりの対応を求められるから’としています。同発言については、記事の表記では誰の発言であったのかは不明なものの(発言末に(同)とだけあり、宮内庁なのか、署名活動の発起人なのかわからない・・・)、この記事は、戦後の日本国憲法下にあっても、天皇制して反対する組織や国民は捜査当局のウォッチ対象となっているという印象を与えているのです。

 おそらく、フランス革命やロシア革命に倣って日本国内でも暴力革命を起こそうとして活動してきた日本赤軍と言った極左暴力主義組織を想定しているのでしょうが、天皇制反対を理由として民間の平和的な署名活動をも捜査の対象にしていることが事実とすれば、日本国にも‘政治犯’が存在しかねないことにもなります(今日では、左翼よりも、一般国民のほうが余程天皇制に懐疑的ですので、一般国民が捜査対象となりかねない・・・)。

 日本国憲法の第一条には、象徴天皇の地位については、国民の総意に基づくとされています。この表現は、国民の総意によって同地位を改廃し得ることを意味していますし、第九六条には憲法改正の手続きが定められていますので、日本国民は、合法的に天皇の地位を変更することができます。天皇の地位を含めて自らの将来の国家体制について自由に論じるのは、国民の政治的自由であり、これこそが近現代にあって言論の自由が保障されるに至った主たる理由でもあります。不敬罪等が存在していた時代には、国民は、如何に体制に不満があり、あるいは、より善い未来を求めたとしても、政治犯とされることを恐れて口を噤まざるを得なかったのですから。憲法や現行法律に照らせば、公安警察の捜査は、不法行為、あるいは、越権とも解されるのです。

 国体の護持、すなわち、昭和天皇の地位の保障として設けられた象徴天皇の制度が、三代を経て既に曲がり角に至っている現状を考慮しますと、見直し論が提起されて然るべき状況下にあります。こうした時代状況にあるからこそ、皇族の進学問題において垣間見られた言論弾圧を彷彿させる対応が、より国民の不安と警戒心を高めたとも言えましょう。少なくとも、未来の日本国の体制については、国民が自由に構想し、様々なアイディアを出し合う言論空間こそ望ましく、日本国は、国民が共に‘善き国造り’を目指すことができる国であるべきではないかと思うのです。

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既に象徴天皇制は根底から揺らいでいるのでは

2024年09月06日 10時38分58秒 | 日本政治
 秋篠宮家の悠仁氏の東大推薦入学問題は、象徴天皇制度を根底から問う展開となりました。昨今、ウェブ上で実施されたものの、‘人権侵害’のクレームを受けて閉鎖に追い込まれた署名サイトの文面は、「悠仁様が東大の推薦入試を悪用し、将来の天皇として『特別扱い』で入学されることは、象徴天皇制を根底から揺るがすこととなるため反対します」であったそうです。しかしながら、象徴天皇制は、既に根底から揺らいでいるのではないかと思うのです。

 同サイトの文面は、‘悠仁氏の東大推薦入学を諦めれば、象徴天皇制は今後ともつつがなく維持される’とも読めます。特権の濫用による不当な‘裏口入学’を諦めれば、国民の多くから反発も受けることはなく、象徴天皇制も安泰であろうという意味合いです。言い換えますと、同署名サイトを設けた人は、‘皇室に反対する人’という印象とは逆に、象徴天皇制が今後とも保たれることを望んでいることとなりましょう。いわば、象徴天皇制を守るための、その永続において障害となる行為を排除するための署名活動とも言えます(もっとも、本心であるかどうかは不明・・・)。

 その一方で、秋篠宮家には既に皇籍を離れているはずの小室夫妻をはじめその行状には眉をひそめる国民も少なくなく、皇嗣である秋篠宮の系統に皇位が継承されることに反対する意見もあります。‘将来において秋篠宮家の悠仁氏が即位すれば皇室は終わる’とする説であり、この場合には、今上天皇夫妻の長女である愛子氏の皇位継承を求めていることとなります。こちらの主張は、‘悠仁氏の皇位継承を諦めれば、象徴天皇制は今後ともつつがなく維持される’と読めます。

 これらの二つの主張は、何れも象徴天皇制の継続を、何らかの条件の充足による一種のバーター取引としています。○○が実現すれば、同制度を認める、という条件付きの象徴天皇制維持論です。しかしながら、明治以降の天皇を取り巻く思惑や存在意義を考慮しますと、この問題は、皇位継承や皇族の個人的な資質や言動の問題に留まらず、国家の制度としての存続性が問われているように思えます。一個の人格をもって象徴となるのは不可能である点は、先日、本ブログの記事で論じましたが、象徴天皇制には、現代人の理性や知性に照らして、幾つもの根本的な問いかけがあるからです。

 第一に、必ずしも皇統が神武天皇から維持されているとは限りません。そもそも、背後でイギリス内部の一部勢力が蠢いた明治維新の経緯からしますと、孝明天皇と明治天皇との父子関係も疑われています。大室天皇説はよく知られていますが、世襲、しかも、万世一系の皇統をもって天皇の地位が認められている以上、DNA鑑定等により皇統の継続性が証明されない限り、国民は、頭のどこかで不信感を抱き続けることになります。しかも、古代ならいざしらず、現代にありましても、幼少期からの愛子氏にまつわる別人説や替え玉説は、記者会見に登場した少女とのあまりの容姿の違いによって、国民の記憶に残ることともなりました。天皇や皇族が偽者であれば、天皇家自体の存続は不可能となりましょう。その一方で、皇族の自由結婚により、代を重ねるごとに確実に皇統が半減する一方で、古来、皇別氏族が多数派生していますので、天皇の血は、国民の間に広く拡散し続けています。

 第二に、皇族という特別の身分を認めることは、国民一般の精神にマイナス影響を与えます。国民の中には、自らを卑下して‘下々の者’や絶対に服従すべき‘臣民’と見なす人もおり、これらの人々は、皇室を批判する意見を不敬として憤ります。しかしながら、皇族という身分の存在が、自らを‘下の者’とする意識を国民に植え付ける、あるいは、それが同調圧力であれ強要されるとなりますと、個々の人格を重んじ、対等な人間関係を築こうとする現代人の意識に反します。しかも、‘我々下々の者’という言い方は、このように自己認識していない人々まで勝手に‘我々’に含めようとしますので、余計に自立的な精神を持つ国民に不快感を与えるのです(せめて、個人的な意見として‘私下の者‘と言って欲しい・・・)。

 第三に、天皇の役割、あるいは、存在意義の曖昧性です。伝統的な天皇の存在意義は、その神の子孫に宿るとされる霊力による自然災害や戦からの国家や国民の護持にありましたので、今日、この超自然とも言える能力を要する役割を現代の天皇に期待することは不可能です(伝統的な役割からすれば、自然災害があい継いでいますので、天皇の祈願力が足りないとして退位を求められかねない・・・)。その一方で、国民主権が定着した今日では、明治憲法下のような立憲君主に戻ることもできません。つまり、今日、(1)神聖なる伝統的な祭祀者、(2)立憲君主、(3)象徴天皇という三つの天皇像が混合しており、この曖昧さが、権力や権威の濫用を招いているとも言えましょう。

 第四に挙げられるのは、‘菊のカーテン’の存在です。今般の東大推薦入学の問題でも、誰がどのような経路で働きかけを行なったのか、その情報は明らかにされていません。同問題に限らず、皇室には‘菊のカーテンが’降ろされています。情報化社会にあっては、情報を隠蔽したり、マスメディアを使って北朝鮮風味の礼賛プロパガンダを行なうようでは、民意は離れるばかりとなりましょう(インスタグラムなどを開設しても、逆効果となるのでは・・・)。

 そして、第五の問題点は、皇室を背後から支える存在への懸念です。第一に述べましたように、明治維新の背後には、今日のグローバリストにも繋がる世界権力が蠢いていた極めて強い疑いがあります。言い換えますと、近代皇室は、日本支配のための‘出先機関’として設けられたのであり(尊皇攘夷が‘偽旗作戦’となった理由・・・)、その存続は、日本国が世界権力の頸木に繋がれるままとなることを意味しかねない懸念があるのです(因みに、英ロスチャイルド家の多くは昆虫や動物の研究に熱心であった・・・)。同様に世界権力の配下にある政治家達の皇室堅持の姿勢やマスメディアの個人崇拝的な報道ぶりも、現状を維持したい同権力の意向を伺え、自ずと警戒感が募ります。天皇の‘存在意義’を考えるに際しては、グローバルな視点を要する時代を迎えているのです。

 以上に主要な問題点を述べてきましたが、こうした諸点を考慮しますと、象徴天皇制を含めて天皇については、既に見直しをすべき時期に至っているのではないでしょうか。明治維新から既に150年以上が経過した今日、
、日本国には、再び時代の転換点に直面しているように思えるのです。

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東大も正義を問われている-皇族推薦入学問題

2024年09月05日 12時06分35秒 | 日本政治
 トンボは、古語にて‘あきつ’と呼ばれ、日本国は、これに由来して‘あきつしま’とも称されてきました(『日本書紀』や『古事記』・・・)。このため、枕詞では‘大和’にかかり、『万葉集』にも歌われています。トンボが日本国を象徴しているとしますと、秋篠宮家の悠仁氏が昆虫研究にトンボを選んだのは、秋篠宮家の‘あき’と音が通じることに加え、どこか、日本国を意識してのことなのかもしれません。

 今般、悠仁氏の東大推薦入学問題にあって国民から批判の声が湧き上がることとなったのも、同一件が、秋篠宮家や悠仁氏の私的な領域を遥かに超え、国家的なレベルの問題に発展したからに他なりません。進学における選択の自由が皇族に認められている今日にあって、悠仁氏が国立大学に進学を希望することは全く以て自由です。国民の誰もが、悠仁氏の志望校が東大であることを批判したり、推薦の申し込みや願書の提出を妨害することはできません。この点は、他の受験生と変わりはないのです。

 しかしながら、自由であるのは、受験する学校の選択と受験の段階までです。そこから先に進むには、公正に実施された入学試験の結果に基づいて、他の受験生と等しく大学側の公平な合否判定を受ける必要があります。つまり、入り口までゆくことは自由ですが、その扉が開かれるか否かは、受け入れ側に決定権があるのです。そして、問題が起きる現場は、‘入り口から先’にあると言えましょう。何故ならば、‘入り口から先’は、外部からは見ることができないからです。

 不正入学は、この‘入り口から先’で常に発生します。つまり、表向きは、公平・公正なる競争入試制度を装いながら、その実、学校側の組織内部の見えない部分では、外部からの圧力や介入によって不公正で不公平な合否判定が行なわれ、不合格となるはずの受験生が合格してしまう可能性があるのです。その際には、必ずと言ってよいほどに、合格基準に満たない入学希望者から学校側にお金や便宜が供与されるものです。それ故に、こうした行為は社会的な腐敗行為として認識され、人々から批判されることになるのです。

 秋篠宮家に至っては、入試に先立って、入り口から先に対する事前工作も疑われています。悠仁氏が合法的に合格できるように、東大農学部側の推薦入学の要件を変えたとする疑いがあるからです。しかも、この新要件、条件緩和に見せながら、一般の受験生では殆ど充たすことが出来ないような巧妙な設定です。つまり、赤坂御用地という独占的な場所で自然観察ができ、そこでの‘新発見’に基づいて専門家との共同で論文を執筆し、かつ、この研究成果に基づいて国際会議への出席できるのは、皇族という特別の地位にある悠仁氏、ただ一人であるからです。内部の協力なくして評価基準の変更することはできませんので、この問題は、不当な要求に応じた大学側にも責任の一端があると言わざるを得ないのです。

 入学の合否判定の決定権が東大側にあり、かつ、同校が国立大学である点を考慮しますと、今般の問題に関する国民の猜疑の視線は、自ずと東大側にも注がれることとなりましょう。水面下で内密に進められていた時期には推薦入学の応募要件が変更され、それが悠仁氏の実績作りとリンケージしていることに国民の多くは気がつきませんでしたが、かくも事態が大きくなりますと、公的制度の危機として認識されるようになるのです。

 東大が秋篠宮家の推薦入学作戦に協力した理由としては、相応の‘見返り’を挙げることができます(戦後、大学の自治が尊重されてきましたので、大学側が抵抗しなかったことは不可思議・・・)。東大側が校舎の新築や改修などの便宜を受けていることは昨日の記事でも述べましたが、この場合、秋篠宮家と東大とは、‘買収側’と‘収賄側’の関係となりましょう。その一方で、東大側は、皇族の希望に応えるのは当然である、皇族の要請は断れなかった(半ば脅迫的・・・)・・・といった理由をもって説明するかも知れません。しかしながら、これらの説明をもって国民の多くが納得すると信じているとしますと、それは著しい時代錯誤のように思えます。

 一体、国立大学である東大は、誰のために存在しているのでしょうか。この根本的な問いかけに立ち戻りますと、自ずと東大のなすべきことは決まってくるように思えます。学問をもって世に貢献してきた東大は、自らの名誉を護り、国民からの信頼を保つためにも、正義を貫き、国民のための大学であり続けるべきではないかと思うのです。

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皇族の東大推薦入学の補助金問題

2024年09月04日 11時44分00秒 | 日本政治
 秋篠宮家をめぐる東大推薦入学の問題は、公平であるべき国立大学の入試制度を私心によって自己に有利になる方向に歪めた不当介入に留まりません。もう一つ、極めて重要な問題を挙げるとしますと、それは、入学を認めた大学に対して‘見返り’が用意されていたのではないか、とする疑惑です。しかも、国家予算による・・・。

 どのようなルートを使うことで、秋篠宮家、あるいは、宮内庁が東大の推薦入学制度を変更させることが出来たのか、これも謎です。秋篠宮家が個人的な人脈やコネクションを頼りにして同作戦を進めたのか、同宮家の意向を受けた宮内庁が大学側に働きかけを行なったのか、定かではありません。宮内庁等の公務員には、創価学会や元統一教会と言った新興宗教団体の信者が数多く‘配置’されているそうですので、こうした巨大宗教団体が‘横の繋がり’をもって動いた可能性もありましょう。何れにしましても、学問の自由の観点から大学の独立性が尊重されてきた経緯を考えますと、今般の介入には、何らかの強い力、あるいは、‘組織力’が働いたことは疑い得ないのです。

 そして、ここに、補助金疑惑が浮上してきます。ウェブ上には、‘悠仁氏が推薦入学を希望した場合、東大は断ることができない’とする主旨の記事もあります。その理由として挙げられたのが、入学の許可に伴って国から支給される東大への多額の補助金、あるいは、助成金です。否、同見返りは、事実上、既に支払われているとも言えるかもしれません。悠仁氏の入学時期に合わせるかのように、農学部の1号館が改修されるとともに、教養課程の駒場キャンパスでも、新校舎一棟の新設と1号館の改修が行なわれているというのですから。

 この情報が事実であれば、昨今、東大の授業料値上げ問題が議論を呼び、経済的に苦しい立場にある少なくない学生さん達の負担増が懸念されている中、皇族ただ一人の入学ために、国庫から多額の予算がつぎ込まれたこととなります。しかも、文部科学省の予算の一部からの支出ともなりますと、その真の負担者は納税者である国民となるのです。東大も、この‘お金に目がくらん’で公平性を曲げるのでしょうか。

 皇室費はおよそ年間で126億円とされており(内廷費、皇族費、宮廷費)、決して少ない額ではありません。表に見える皇室費の他にも、内外各地の訪問や警備費など、他の省庁や地方自治体が負担している皇室関連の支出もあることでしょう。そして、今般の皇族の進学に際しては、表向きは大学に対する補助金や助成金の形であったとしても、実質的には皇族の入学の‘見返り’が支出されています。これでは、岸田政権下、並びに、次期政権下における増税ラッシュに戦々恐々する国民の理解を得られるとは思えません。全ての国民に公平であるべき大学の入試制度を腐敗させるために要した費用は、国民自身が負担させられていることになるのですから。皇族の私欲による特権濫用によって損害を被るのは国民ですので、被害者が加害行為のコストを払うという本末転倒の構図となるのです。

 皇族の進学問題が深刻化する中、皇族は無条件に‘高貴’であって‘偉い’と思い込んでいる国民は、創価学会や元統一教会と言った新興宗教団体の信者や高齢者を中心に、多少はあるのでしょう。しかしながら、法的に皇族の身分にさえあれば、如何なる私的な要求も許される、と考えるならば、日本国の皇室も、北朝鮮の金王朝と何らの変わりはないこととなります。本ブログ記事のような批判的な意見は、不敬として眉をひそめる方もおられることでしょうが、むしろ、皇族による公的制度への不当介入は、日本国の名誉と品位を深く傷つけ、腐敗指数の上昇による国家のレベルの低下を意味しているのではないでしょうか。そして、この問題、皇族と一般国民との間の‘意識’や倫理観のずれを露呈すると共に、今後の日本国の在り方をも問うているように思えるのです。

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皇族は国民が同情すべきほどに不自由なのか?

2024年09月03日 11時50分01秒 | 日本政治
 皇族の大学進学問題は、入試における公平性原則をも損ないかねない社会的な危機をもたらす事態に至ってしまいました。その主たる責任は、国民が声を上げざるを得ないレベルの権力濫用を行なった皇族の側にあるのですが、何故か、皇族に対する同情論をもって‘特別入学’を擁護する意見も聴かれます。

 同擁護論とは、皇族は、一般の国民とは比べものにならないほどの我慢を強いられており、自由も大幅に制限されているから、皇族は、まことに国民が同情にあたいする立場にある。それ故に、一般の国民は、窮屈な皇族の立場を慮り、その私的要求を受け入れるべきある、とする論理です。言い換えますと、公的立場に伴う皇族の不自由さの代償として、国民は、皇族の自由を認めるべきである、ということになります。この説、もっともなようにも聞えるのですが、深く考えてみますと、今日の皇族は、同論拠を既に失っているように思えます。

 何故ならば、皇族は、婚姻や進学については既に自由が認められています。男子皇族の婚姻には、皇室典範により皇室会議の議を経ることが義務付けられていますが(第一〇条)、婚姻の制約が有名無実であり、皇室会議の議が事後承諾となることは、既に国民の多くが知るところです。むしろ、皇室典範では、一般国民と婚姻した皇族女子は皇族の身分を離れるとされているにも拘わらず(第一二条)、宮内庁等が何かと便宜を図っている小室夫妻を見る限り、皇室典範の範囲を超え、かつ、国民に保障されている基本的自由を越えた‘自由’を特権として享受していると言えましょう(厳密に言えば、法的根拠のない不法行為に・・・)。

 そして、進学についても皇族には一般の国民と同様に自由が認められています。この意味において、悠仁氏は、最高学府とされる東大を含めて何れの大学に進学を希望してもよいこととなります。進学の自由は認められているのですから。そして、この‘自由’に、今般の進学問題に際しての国民からの批判や反発が正当である理由を見出すことができます。皇族の進学の自由は、国民一般に認められている自由と同等のものですので、一般の国民と同様に、公平に実施される試験や審査に受からなければならないからです。皇族だけが、特権的な地位をもって入学が許可されれば、それは、自由の限度を超えた特権となりましょう。この観点からしますと、先の‘不自由を自由で補うように’という主張は、そもそも皇族の進学自体は自由ですので、この論理は通用しなくなるのです。

 それでも、擁護論者の人々は、プライベートな婚姻や進学ではなく、公務において著しい制約を受けていると主張するかもしれません。皇族には、職業選択の自由がないとして。しかしながら、皇族の公務は、国民が同情しなければならないほど、不自由で苦痛を伴うものなのでしょうか。そもそも、現行の法律にあって天皇以外の皇族には法的な義務を伴う公務はありません。国民の多くが‘公務’と見なしているのは、式典や行事への隣席やテープカットなどであり、これらの‘お仕事’も慣例や主催者側の招待に因るものです。行事に出席すれば、直立不動で整列した主催者側からの恭しい出迎えが待っていますし、スピーチの原稿も本人が執筆しなくとも準備されていることでしょう。

 こうした皇族の‘お仕事’は、国民が強要したわけではなく、民間行事の場合には、相当額の謝礼も支払われているとされています。そして、マスメディアも揃って敬語をもって礼賛記事を掲載してくれるのですから、耐えられないような精神的な苦痛を与えているとする説は疑わしい限りです。国民には、確かに職業選択の自由はありますが、就きたい職業に就くには一生懸命に努力しなければなりませんし、入試や入社、あるいは、資格を得るためには厳しい競争を経なければならないこともあります。このため、必ずしも、国民の誰もが自らの望んだ職業に就けるわけでもなく、ましてや生まれながらにして約束されているわけでもありません。職業選択の自由とは、自らの思い通りの職業に就けることを意味しませんので、国民が皇族の特権を認めるほどの根拠とはならないのです。

 しかも、日常の生活については基本的には国費によって賄われていますので、生活に窮する心配はありません。都心の中心部にある宮邸にあっては宮内庁職員がかいがいしく面倒を見てくれます。東大推薦入学の実績作りとされる悠仁氏のトンボ研究も、赤坂御用地の広大な皇居の森を自由に使える立場なくしてはあり得なかったことでしょう。

 仮に、皇族を公募したとしたら、応募者が殺到することでしょう。こうした恵まれた生活が保障されていながら、皇族の不自由をもって特権の承認を国民に求めたとしても、多くの人々はこの論法に納得するとは思えないのです。そして、仮に、皇族が自由になりたいから皇族であることを辞めたい、と申し出ましても(皇族のままであって欲しいならば国民は特権を認めよ、を含意・・・)、一部の皇室利権に与る人や熱狂的な信者を除いては、大多数の国民は、翻意を懇願したり、反対したりはしないのではないかと思うのです。

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開き直りの皇族東大推薦入学擁護論

2024年09月02日 11時29分10秒 | 日本政治
 報道に因りますと、昨今、オンライン署名サイトにあって「悠仁さまの東大進学に反対する署名活動」が設けられ、1万筆を超える署名を集めながらも、ユーザーからのガイドライン違反の通報を受けたため、同活動は中止されたそうです。同署名活動がガイドライン違反とされたのは、皇族に対する人権侵害に当たるからなそうです。

 確かに、皇族であれ、誰であれ、自らが学びたい学校を選ぶのは本人の選択の自由の範囲に含まれます。他者が、当人対して‘○○大学には進学してはいけない’、あるいは、‘○○大学を受験してはいけない’として、入学希望を断念させることはできません。この側面のみを捉えれば、‘人権侵害’という主張にも一理があるように聞えます。大学ジャーナリストの石渡嶺司氏に至っては、ウェブ上の記事において、「仮に報道のとおり悠仁さまが東大への推薦入学を希望されているとして、名門校の学内では推薦を受けるのも高いハードルがあり、そのために論文執筆など努力を重ねて何が悪いのか。ネット上で匿名参加できるのをいいことに騒ぎ立てる行為はあまりに悪質ではないか」と述べ、怒り心頭に発しているようです。

 しかしながら、皇族の東大推薦入学問題の核心は、国民の皇族に対する‘人権侵害’にあるのではなく、被害者と加害者の立場からしますと、真逆なのではないでしょうか。国民の多くが、皇族による不当な権利要求、すなわち、社会的不正義を敏感に感じ取ったからこそ、1万人を越える反対署名を集める結果となったのではないかと思うのです。

 それでは、皇族による推薦入学制度の利用が、何故、国民に危機感をもたらしたのか、と申しますと、‘他の一人の受験生の入学チャンスを奪うから’とするゼロサム的な説明もあるものの、公的制度に対する皇族による私的介入に起因する権威、あるいは、権力の濫用問題に他ならないからです。しかも、濫用対象、あるいは、介入対象が、入学の選考に際して公平・中立性が強く求められる国立大学であったからこそ、国民の関心も高まり、事が大きくなってしまったとも言えましょう。

 コンテストやスポーツといった如何なる競争を伴う選考にあっても、公平性が揺らぎますと、結果そのものが無意味となります。無意味とどころか、不正行為の結果として、同結果が人々の怒りを買うことも珍しくはないのです。例えば、ある特別の大会に出場するウェイトリフティングの選手選考に当たって、ある特定の選手に限って他に数人が手伝ってバーベルを上げても良い、とするルールが外部圧力によって導入されれば、同選考は、全く意味をなさなくなります。しかも、リフティングの全国チャンピオンが手伝っても問題なし、ともなりますと、同全国チャンピオンを補助者として取り込んだ選手が選ばれるに決まっています。皇族の推薦入学問題もこの事例に類似しており、皇族だけが周囲や専門家による特別の支援の下で入学が許可されるとしますと、制度そのものの崩壊にも繋がりかねないのです。

 石渡氏は、上述したように「名門校の学内では推薦を受けるのも高いハードルがあり、そのために論文執筆など努力を重ねて何が悪いのか。」と凄んでおりますが、推薦を受けるために、皇族が特権を利用したことは、常識的な倫理観から申しまして明らかに‘悪いこと’です(どう考えても正当化できないのでは・・・)。制度の公平性を保つことこそ、公共善なのですから。この問題は、皇族の私益と国家の公益(公共善)との二者択一の問題でもあり、前者のために後者を犠牲にすることはあってはならないことなのです。 ‘論文執筆の努力’は、自らが一人でなした場合にのみ人々に対して説得力を持つのであり、‘何が悪い’という言い方は、‘開き直り’か‘逆ギレ’に聞えてしまうのです。国民の側からしますと、‘悪質’なのは、署名活動ではなく、自らの私的願望のために推薦制度や入試制度を歪めようとした秋篠宮家と言うことになりましょう。

 もっとも、同問題において国民的な反対の署名活動を行なうとすれば、悠仁氏の東大進学ではなく、皇族による東大入試制度に対する私的介入に反対する、あるいは、入試制度の公平性の維持を求める署名とした方が、適切であったかも知れません。‘個人攻撃的’とはならず、人権侵害とする批判を浴びたり、クレームを付けられなくても済んだかもしれないのですから。

 こうした皇族による公私混同や私事の優先問題は、秋篠宮家に限ったことでも、今に始まったわけでもなく、また、天皇や皇室をめぐっては、進学問題の他にも様々な問題が山積しています。何れにしましても、皇族の欲望によって社会の健全性や公平性が損なわれるのでは、その存在意義は改めて問われて然るべきですし、既に末期的症状を呈する今日、国民的な議論を要するのは、皇位継承の安定化ではなく、天皇の地位は国民の総意に基づく以上、国民の意向に沿った抜本的な見直しなのではないかと思うのです。

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