万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

堂島商品取引所に見るグローバリストの価格形成主導権掌握の狙い

2025年02月28日 13時31分00秒 | 国際経済
 今般の米価高騰につきましては、誰もが真相に行き着くことができないような迷路めいた状況にあります。煙に巻かれているかのようですが、米価高騰との直接的な関連性については曖昧であるものの、一つだけ、はっきりしていることがあります。それは、昨年8月に大阪堂島商品取引所にて本格的に始動した米の先物取引が、日本国民にとりましては、特に食の安全保障上極めて危険な存在であると言うことです。

 大阪堂島商品取引所は、2021年に株式会社化するに際してSBIホールディングスが株式の凡そ3分の1を占めるSBI系取引所として発足しています。いわば、民間の株式会社なのですが、政府との関係が皆無なわけではありません。何故ならば、同取引所は、2020年に管内閣が内外に向けて公表した「国際金融都市構想」に組み込まれているからです。香港が中国に飲み込まれた現状に鑑みて、日本国の東京、大阪、福岡をアジアの金融センターに育てようとする構想です。この流れにあって、大阪府並びに大阪市も「大阪国際金融都市構想」を策定し、2021年8月には、大阪府と大阪市は、SBIホールディングとの間に事業提携協定も締結されるのです。

 こうした大阪堂島商品取引所をめぐる一連の動きからは、金融グローバリスト、日本国政府、大阪維新の会、SBIホールディングスを繋ぐラインがうっすらと浮かび上がってくるように思えます。SIBホールディングス側の構想は、同取引所を、大阪と神戸に誘致する「クロスボーダー型」の金融センターの中核に据えるというものであり(‘アジアにおけるクロスボーダーハブ型市場’)、将来的には、排出権や暗号資産などの取引も目指しています。実際に、同取引所の設立に際しては、アムステルダムを本拠地とするオランダの証券会社、オプティバーも出資しているのです(アジアでは、2005年以降に台湾、香港、シンガポールでも事業展開・・・)。

 江戸時代にあって世界に先駆けて堂島では米の先物取引が行なわれたため、堂島商品取引所の名称の響きからから受ける印象は日本的です。ところが、その実態を見ますと、極めて‘グローバル色’が強いのです。この文脈からしますと、同取引所における米先物取引の開設も、日本国の米作農家のリスクヘッジ、即ち、収入の安定を目的としているとは思えないのです。

 このように推測される理由は、同取引所で新たに発足した米先物取引の仕組みが海外向けであるからです。例えば、試験上場の期間には現物の受渡しが要件とされていましたが、昨年8月から始まる新制度では、同要件は削除されています。この変更には、重要な意味があります。何故ならば、受渡し条件がなくなったことで、同取引市場は、海外の投資家や金融機関等が容易に参加できるようになるからです。受渡しが条件ともなれば、輸送コストや保管コストもかかりますので、海外勢にとりましては高い障壁でした。そして、ここに、この受渡し義務のない取引とは、一体、どのような権利であるのか、という疑問を湧いてくるのです。

 同先物市場は、農家のリスクヘッジを表向きの設立根拠(存在意義)として強調してきましたので、当然に、農家の側は、自らが生産したお米を将来の限月において契約相手に売却し、引き渡すものと考えられがちです(本ブログの記事でも・・・)。SBI証券をはじめ、お米の先物を扱う証券会社のみに受渡しが免除されていると推測していたのです。ところが、仮に、農家も証券会社を窓口にして先物取引に参加するのであれば、受渡し義務を負わないこととなります。つまり、所有権の移転が伴わない、売買の権利だけが取引されていることになり、全くもって農家にとりましてはリスクヘッジにはならないのです。

 しかも、受渡し義務が解除されたためか、前もって証拠金を納めれば、驚くべきことに同額の50倍のお米を取引(買う)ことができます。シカゴ商品取引所でも、凡そ20倍程度にも拘わらず・・・。仮に1万円の証拠金を預託すれば、50万円分の売買が可能となり、利益も50倍となります。価格が2倍にでもなれば、取引手数料等が差し引かれるものの、レバレッジ(梃子)の効果が働いて1万円が凡そ50万円近くにも膨れ上がるのです。つまり、倍率が高いほどギャンブル性が高く、かつ、一刻千金を夢見る世界中の投機家達を呼び寄せることになりましょう。

 これまで、農協は、先物取引に伴う集荷量の減少に加え、先物取引のギャンブル性を根拠として同市場の開設に反対してきたのですが、ここで再び驚かされるのは、2024年6月に堂島商品取引所の社長に就任したのが、農林中央金庫出身の有我渉氏であったことです。同氏が堂島商品取引所に入社したのは2024年2月のことであり、農林中央金庫は巨額損失の発生で揺れていた時期とも考えられます。同人事は、米先物取引市場開設に対する最大の抵抗勢力となってきた農協の反対を抑えるための露骨なまでの布石なのでしょうが、巨大機関投資家でもある農林中金との癒着も見受けられるのです。

 大阪堂島商品取引所における米先物取引市場の開設の経緯は、日本国の食料の安定性が、巨大なマネー・パワーをもって、日本国のお米を含む全世界の産物の価格形成に対して主導権を握りたいグローバリストによって蝕まれている現状を表しているように思えます。米価高騰の底流で何が起きているのか、日本国民は、これを鋭く見抜くべきではないかと思うのです。

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お米産直型システムが魔を封じる

2025年02月27日 11時45分58秒 | 日本政治
 今般の米価高騰の仕組みを見ておりますと、今日の日本国の米が抱えている様々な問題点も浮かび上がってきます。それは、農家に限られた問題ではありません。お米の消費者である国民もまた、現行の制度にあって不利益を被っているのです。

 生産から小売りを経て消費に至るまでのプロセスにおいて、価格が上がる主たる原因となるのは、言わずもがな、生産と消費との間における卸や小売り等の取引過程にあります。取引の度に取引当事者の利益分が上乗せされますので、回数が多いほどに末端での販売価格は上昇するのです。また、取引者が設定した自己利益、すなわち、卸売段階等での価格によっても販売価格は上がります。このことは、中間取引の回数を減らしたり、中間者が設定する価格を下げれば、消費者は、より安い価格で産物や製品を購入することが出来ることを意味します。

 最近では、農家による直接販売のスタイルが見られるようになりましたが、お米の流通過程の現状を見ますと、それはかなり複雑です。第一の特徴としてあげられるのは、集荷事業者(農家から直接お米を購入する事業者)と卸事業者(お米を小売り業者に販売する事業者)が分離している点です。他の産物や製品分野では、生産者が卸売業者に納品し、当卸売業者が小売りに再販売するケースが多いのですが(もっとも、幾つかの仲卸を経由する商品もある・・・)、お米の場合には、集荷段階と卸段階の二段階があり、その分だけ、価格上昇の原因となる‘中間者’が増えてしまうのです。

 しかも、近年のお米取引の自由化は、お米の流通過程をさらに不透明にしてしまいました。食管制度の下で農協が一切を取り仕切ってきた影響もあり、集荷事業については農協一強状態でしたが、自由化後の今日では、他の事業者も参入しているようです。集荷事業に加え、卸売業も参入自由となりましたので、制度上は、お米は何度でも‘転売’可能な商品となってしまったのです。今般の米価高騰でも、農家の庭先には、これまで見たこともない業者の姿が報告されており(中国人、IT企業、廃品業者などなど・・・)、お米の取引は、公的な許可を要することなく誰でも参入可能、即ち、‘完全フリー状態’のようです。お米取引の自由化とは、お米の流通過程をむしろ迷路のように錯綜させてしまったとも言えましょう。

 そして、極めつけとなるのが、大阪堂島商品取引所において昨夏に本格上場されたお米の米先物取引です。その危険性についてはこれまでも指摘してまいりましたが、先物取引市場の存在は、‘先物買い’による売約済み米の保管をも意味しますので、流通過程に与える影響は少なくないのです。なお、同先物市場では、証券会社を介して資金を投入した‘投機家’は、現物を動かすことなく、何度でも‘転売’ができます。

 以上に述べてきましたように、今日の日本国のお米の流通過程は、価格上昇の機会に満ちています。強欲な人々を引き寄せるだけの、制度的な欠陥が随所に鏤められているのです。この点に注目しますと、先ずもって講じるべきは、お米の流通過程から転売者となる‘中間者’を取り除くことです。政府も経営者も経済学者も、その多くは生産段階における合理化には熱心ですが、流通過程における合理化に対しては関心が薄い面があります。しかしながら、流通の合理化こそ、購入価格の低下効果を発揮するように思えます。流通過程の無駄を省く方が、消費者の利益には適っているのです。

 もちろん、生産者である農家が不審な事業者には売却しないことも重要なのですが、高値を提示されますと、売却に応じてしまうかも知れません。そこで、第一に考えられるのは、集荷業と卸売業の一体化です。両者が分離した状態では取引回数が増えてしまい、価格上昇の一因となると共に、魔が入り込む隙を与えてしまうからです。最大の集積業者である農協が卸売業を兼ねれば、自然に両者の一体化は進むのでしょうが、果たして、利権漬けともされる農協が現状の変更を認めるのかは未知数です。

 第一の案では、それが農協であれ、中間者が残されることとなります。そこで、第二の案は、生産者と消費者を直接に繋げるというものです。今日でも、様々な農産物において‘契約農家’という形態が存在していますが、スーパーマーケットと言った小売り大手や常時一定のお米を消費する飲食店などが、農家と直接に交渉し、年間あるいは数年分の取引量と価格を予め決定しておくのです。この方法ですと、中間者はゼロとなり、農家は価格変動のリスクから逃れると共に、購入側も安定的な供給が約束されます。直接交渉で価格も決まりますので、農業の‘原価割れ’も防ぐことができましょう。

 第一の案では、直接に購入できる側は、小売りや飲食店などの比較的規模の大きな事業者に限られてしまうかもしれません。そこで、第二の案、もしくは、消費者一般に直接販売の範囲を広げる補完的な案として、農家によるネット販売という手段を挙げることができます。今日でも、米価高騰を背景にお米の通販サイトも登場してきているようですが、無農薬有機栽培等の高級米のためか、消費者の側からは、他の小売店の店頭価格と変わらないとする不満の声もあるようです。そこで、一般の米作農家、あるいは、農村単位で参加する形での直売サイトを設置するという方法もありましょう(農家の共同出資によるサイト運営が望ましい・・・)。このシステムであれば、一般消費者もサイトに掲載されているリストから選択してお米を直接に農家から購入することができます。

 何れにしましても、方向性としては直売方式が望ましく、このシステムを補助するものとして、購入者の近郊農家からの出荷については配送料を軽減する、あるいは、特別価格を設定するなど、地産地消的な手法を組み込むこともできましょう。また、半年ぐらいは家庭でお米を保管・備蓄できる専用ケースなどが開発されますと、取引規模も大きくなり、配送の手間なども軽減されます。

 以上の案は試案に過ぎず、より善いシステムやより賢明な工夫があるはずです。新たなアイディアは、農家あるいは消費者の何れの側から提起されるのが、最も望ましい展開でもあります。自治精神を発揮することが重要であり、農家も消費者も、政府に頼るよりも(もっとも、上記のようなシステムでも経営が成り立たない米作農家に対して公的な直接補償制度を導入するべきかもしれない・・・)、新たなシステムを構築ことによって魔を封じると共に、安定した豊かな生活を目指すべきではないかと思うのです。

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お米の‘産直型システム’が必要では

2025年02月26日 09時52分15秒 | 日本政治
 戦争の最中にあった1942年に制定され、戦後にあっても長らく食糧管理制度を支えてきた食糧管理法は1995年に廃止され、今日では、食糧法に衣替えしています。2018年には減反政策も廃止されたのですが、この自由化によって最も利益を得たのは、お米を生産する農家でもそれを消費者である国民でもないのかもしれません。

 現行の食糧法(「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」)によれば、政府は、お米の供給量について調整し得る権限が認められています。政府の主たる政策手段は、主要食糧(米穀と麦など)の(1)買い入れ、(2)輸入、(3)売り渡しの三者です。需要の増減については民間任せとなりますので、政府の政策手段は、主として供給面での調整となります。つまり、供給過剰の場合には買い入れを実施して価格下落を防ぎ、供給が不足する場合には、逆に売り渡すことで価格を上げて調整するのです。

 因みに、同食糧法に基づけば、小売価格が上昇しているのですから、政府は、備蓄米の放出先を小売り部門とすべきであったと言えましょう。生産段階では十分な供給量がありながら、「買い占め」や「囲い込み」によって供給不足が起きているとすれば、それは、集荷や卸といった小売り以前の段階に問題があるからです。問題箇所に備蓄米を売り渡しても、小売りでの販売量が増えなければ価格は下がらないことでしょう。なお、備蓄米放出に際して、‘備蓄米は災害時や有事等のための備えであり、目的外である’とする主張があります。この主張がどこから出てきているのか不明なのですが、同説は、今般の米価高騰が安全保障にも関連してくる可能性を示唆しているとも言えましょう。

 さて、米価格については、同食糧法は、米穀価格形成センターでの形成を予定しています。同センターは農水省の許可を受けて開設されるものとされ、一先ずは、生産者団体や事業者による自発的な組織と位置づけられているようです。売買取引に参加し得るのも‘資力信用’のある者に限定されていますので、同センターを中心に取引が行なわれていれば、おそらく、今般のような異業種事業者や転売目的の外国人バイヤー等が暗躍する余地はなかったことでしょう。しかしながら、同センターについては、生産団体や卸売業者の参加数が減少したため、解散となった事例も報じられています(農協は参加していないのでは・・・)。現実には、お米の価格形成の主要な場とはならず、同センターは、食糧法が定める機能を果たしてはいないようなのです。毎月農林水産省が公表する相対取引価格も、同センターでの取引価格のみを集計して平均値を算出したものではないようです。

 なお、同法では、政府の供給調整に従った農家に対して無利子の貸し付けを行なう「米穀安定供給確保支援機構」なる機関も設立されており、ここでも金融との繋がりが見受けられます(同業務は、農水省の許可を受ければ、金融機関に委託することもできる・・・)。農家からしますと、政府が実施する供給調整に応じて在庫を増やせば、無利子とはいえ、借金を抱え込むことになりますし、一定の収益となる政府よる買取の方が望ましいことは言うまでもありません。同機構は、政府の備蓄キャパシティーを超える供給調整、つまり、個別に農家が保管しなければならない状況を想定しているとも考えられますが、この貸付制度は、どこか、不自然な感は否めないのです(必要性が疑わしい・・・)。

 以上に述べてきましたように、今日の食糧法とは、半ば空文化しているようにも見えます。そして、米作における政府の存在の希薄化による空白地帯の出現が、“魑魅魍魎”のような業者が‘自由’の名の下で跋扈する今般の米価高騰を招いているとも言えましょう。価格調整の主導権が政府の手を離れ、民間の投機家達が、調整ならぬ‘価格操作’を行なうようになったのですから。

 それでは、現行の食糧法を厳格に適用すれば、全ての問題は解決するのでしょうか。上記の仕組みを見ますと、現行の食糧法が定める仕組みが最適でも、完璧であるとも言えないようです。米価高騰の一連の動きを見る限り、この問題を解決するには、先ずもって生産者と消費者を直接的に繋ぐような産直の仕組み、少なくとも、流通段階において中間者をなくしてゆく方向に新たなシステムを構築すべきなのではないでしょうか。‘危機はチャンス’とも申します。そして、可能であれば、この作業は、今年の作付けが始まる前までに行なうべきなのではないかと思うのです(続く)。

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米価高騰の目的は日本国の米市場開放?

2025年02月25日 09時31分02秒 | 日本政治
 近年、日本国では、政権が交代する度に、‘○○ミクス’という首相の名に因んで命名された経済政策が打ち上げられてきました。新政権による国民向けのアピールの一つに過ぎないと見なされ、誰もが気にも留めなかったことなのでしょうが、考えてもみますと、政権交代にも拘わらず延々と続いてゆく‘○○ミクス’とは、国民向けではなく、グローバリスト向けの一種の‘宣誓’であったのかもしれません。グローバリズムの路線を歩み続けるという意思表示の・・・。そして、今般の米価高騰の背景にも、グローバリストの戦略の介在が疑われるのです。

 岸田文雄前首相が、ロンドンの金融街であるシティにあって‘インベストインキシダ’と述べたのは2022年5月5日のことです。投資の対象としては、「人への投資」「科学技術・イノベーションへの投資」「スタートアップ投資」「グリーン、デジタルへの投資」を挙げていますが、岸田首相のオリジナルな政策ではなく、何れもグローバリストの政策綱領を丸写しにしたようなものです。‘日本国をグローバリストの投資先として開放しますので(岸田首相は自らと日本国を同一視してるいので、‘朕は国家なり’流の国家の私物化意識も伺える・・・)、どうぞ、たくさんお金を儲けてください‘と言ってるようにも聞えます。

 かくして、2024年8月に再開された大阪堂島商品取引所の米先物取引も、SBIホールディングスの背後に潜むグローバリストと岸田前政権との共同作業であったと推測されるのですが、その先には、日本国の米市場の開放というシナリオも見えてきます。ネット上などでも、余りにも高値となった米価を前にして、政府に対して海外からお米の輸入を求める声が散見されるようになりました。‘海外の輸入米も、日本産のお米と遜色がないのだから、家計が圧迫されている国民の生活を助けるためにも、即刻、政府はお米の輸入拡大に舵を切るべき’という意見です。店頭での価格を見て多くの家庭でお米の購入を躊躇するぐらいの高値なのですから、お米輸入の拡大要請には確かに道理はあります。

 しかしながら、今般の米価高騰を機にお米の関税率が大幅に引き下げられたり、関税が撤廃されるとなれば、その後の展開は容易に予測が付きます。日本国の農家の大半の経営は立ちゆかなくなり、日本国から水田が広がる風景は消えてゆくことでしょう。将来の日本国の農村とは、外国人労働者によって耕作されるプランテーション型の輸出向けの米農場が各地に出現するか、あるいは、有機無農薬栽培といった超高給ブランド米を生産する農家が点々と残る一方で、日本国内では、一部の富裕層を除く一般国民の食卓には輸入米が上ることとでしょう。 ‘米輸入を自由化し、日本米と海外米との棲み分けを行なうべし’という主張は、こうした未来像なくしては成り立たないのです。

 果たして、このグローバル路線が描く未来は、日本国民にとりまして望ましいものなのでしょうか。この未来像は、やはり、‘植民地もどきの日本’というディストピアのように思えます。因みに、江藤拓農相が、‘年間約77万トンとされるミニマムアアクセスを縮小する方向で交渉を開始した’との情報がありますが、ミニマムアクセスは日本国の米に対する高関税維持とセットですので、この方針は、今後、関税率を下げるということなのでしょうか・・・。

 かつての食管制度のイメージから、米作に対する政府の介入は統制経済的な手法と見なされがちですが、今日のグローバリストや新自由主義者が言う‘自由’とは、自由放任を許す‘野蛮’への回帰と言わざるを得ません。農家も含めて国民の収入や消費活動が安定し、豊かな生活が送れるように政策を行なうことこそが政府の基本的な役割なのですから、それを阻害する自由に対して公的に規制することは当然の対応ですし(刑法の必要性と同じ・・・)、少数の人々の私欲が多くの人々の生活を破壊しないためには、賢明なる仕組みを造る必要があります。日本国政府は、岐路にあって進むべき道を誤ってはならないと思うのです(続く)。

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岐路に立たされた日本国の米作

2025年02月24日 12時45分47秒 | 日本政治
 今般の異常なまでの米価の高騰は、マネー・ゲーム化を伴う投機が絡んでいることは、多くの国民が、薄々気がついているのではないかと思います。一年の間に2倍まで跳ね上がるのですから、単なる供給不足では説明が付かないからです。マネー・ゲーム化については江藤拓農林水産大臣も、昨夏の大阪堂島商品取引所における米先物取引の復活には触れないもの、言及しておりますし、農家の証言やメルカリでのお米の出店などが見られますので、流通過程において高値誘導の買い占めや転売が発生していることは確かなのでしょう。その一方で、安過ぎた米価や政府の減反政策を真の原因として指摘する見解もあります。

 近年、確かに米価は安値が続く傾向にあり、その収益性の低さが稲作離れを加速させる原因ともなっていることは、理解に難くありません。農家の大多数が、毎年の赤字を他の収入、あるいは、副業等で補いなら水田を維持している、つまり、原価割れの状態であったとしますと、高騰以前の安価な米価が適正価格とは言えないことは確かなことでしょう。しかも、しばしば指摘されているように、農協が農家の足元を見て安値で買い叩いているとしますと、これも批判を浴びて当然のことです。ところが、近年の米価の動きも政府の農政も、どこが不自然なのです。

 減反政策は2018年に既に廃止され、価格形成については基本的には市場の取引に任されています。農家を廃業に追い込んでいるのは、安値が続いている米価とも言えましょう(休耕田や耕作放棄地の増加・・・)。つまり、減反政策の廃止後も、お米の生産量は下げ止まらず、作付面積も減少しているのです。市場原理に委ねるならば、供給量の低下は価格の上昇をもたらすはずです。もちろん、消費量、即ち、需要の減少が供給の減少を上回っているとする説明もありましょう。教科書的な説明では、やがて均衡点でバランスするはずなのですが、米価の低迷状態が続いていったのです。

 その一方で、政府は、食糧安全保障を目指す、あるいは、お米の消費拡大を促進するとしながらも、実際には、米作農家の経営や生活を安定させるための政策は殆ど実施していません。このため、米作農家の高齢化と後継者不足が相まって、将来的にはさらなる水田の荒廃も予測される状況に至っています。農家の苦境を放置した政府の農政の失敗が今日の米価高騰を招いたとする説には、一理はあるのです。

 それでは、何故、政府は、米価の安値を放置したのでしょうか。その理由として考えられるのは、保守政党のイメージとは裏腹に、自公政権の実態とは、グローバリストの傀儡にして新自由主義政権であったことに求めることができるかもしれません。日本国政府は、表向きは日本の農業を護るとしながらも、本心では自国の食糧安保や食料自給率などは眼中にはなく、グローバリストが求める方向に日本国の農業を転換しようとしたと推測されるのです。グローバリストは、農産物を含むあらゆる産品のグローバルな生産・販売体制の構築を目指していますので、日本国のお米も日本国民の食卓ために生産されるものとは見なしてはいないことでしょう。つまり、日本国のお米の生産量は、輸出品として全世界の富裕層の需要を満たす程度でよいのであって、大多数の一般日本人消費者は、安価なお米、あるいは、小麦粉を海外から輸入すれば良いと考えている節があるのです(漁業にあっても、海外輸出が拡大するにつれ、海に囲まれた国でありながら、国内では魚介類の高値が続いている・・・)。

 かくして、日本国政府は言行が一致せず、口では日本の農業を護ると言いつつ、実際にはお米の輸出を促進しようとしたため、国内ではお米不足が懸念される状況にありながら、海外では日本国内よりも安価で日本米が販売されるという、本末転倒な事態が発生したのではないでしょうか。そして、岸田政権下にあって開設を許可され、海外の投機家等にも開放されている先物市場こそ、日本国の米価格形成に介入する窓口となった疑いも否定はできないのです(減反政策、安価な米価、先物市場の開設は、見えない糸で繋がっているのかも知れない・・・)。かくして日本国の農政によって最も利益を得たのはグローバリストであり、日本米の海外輸出に成功すると共に、金融面でも、米価高騰は投機的な収益拡大のチャンスともなったのでしょう。

 仮に、上述したシナリオにおいて米価高騰が仕組まれていたとすれば、次なるグローバリストのステップは、日本国への海外産米の輸入拡大への道を開くことです。すなわち、お米不足や米価高騰を理由に、安価なお米を海外から輸入を拡大させるというものです(日本国民の間から輸入拡大を求める声が上がれば最も都合が良い・・・)。‘上げるだけ上げて落とす’がグローバリストの基本戦略の一つですので、今後、米価が暴落するシナリオもあり得ましょう。つまり、暴落が起きれば、日本国の農家の多くが経営困難に陥ります。否、意図的に暴落を起こさずとも、関税率が大幅に引き下げられたり、完全に自由化されれば、時間の経過と共に海外米との価格競争に負けて、日本の農家は淘汰されてしまうことでしょう。今や日本国の農政は、このままグローバル路線を進むのか、それとも、保護主義を選択するのか、という、重大な岐路な岐路に立たされていると思うのです。

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先物取引と‘未来操作’

2025年02月21日 10時17分10秒 | 国際経済
 目下、米価の高騰に国民の多くが憤っている最大の理由は、‘悪徳業者’によって価格操作が行なわれているからに他なりません。お米をため込んだり、転売するだけで利益を得ているのですから、生産者並びに消費者の怒りを買うのは当然のことです。米価が2倍にも跳ね上がったにも拘わらず、日本国政府の対応は後手後手であり、「買い占め等防止法」が存在しながら、これを適用しようともしていません。政府やマスメディアの不審な行動の背景には、常々、グローバリストの陰が見えるのですが、今般も、米先物取引との関連性が強く疑われるのです。

 先物取引という言葉は、一般的には馴染みが薄いのですが、人類史を振り返り、かつ、何故、今日、グローバリストが強大なるマネー・パワーを有するに至ったのかを考えますと、その重要性が自ずと理解されてきます。それは、先物取引、即ち、その本質とも言える‘未来の結末’に対する賭けが、莫大な利益を生むからです。例えば、今日、グローバリストの代表格とも言えるロスチャイルド財閥が巨万の富を得たのは、ナポレオン体制に終止符を打ったワーテルローの戦いにあって、逸早く‘未来の結末’を知り得たからです。「ネイサンの逆売り」と呼ばれるネイサン・ロスチャイルドの作戦は、自らの情報網からイギリス勝利を知りながら同国の国債(コンソル公債)を大量売却し、市場における同債権の投げ売りを誘発した後に、これらを安値で買い漁った上で、イギリス勝利によるコンソル公債暴騰で大儲けをする、というものでした。

 同事例に留まらず、‘未来の結末’が分からない戦争もまた、先物取引的な要素があり、戦時国債の売買にはギャンブル的な一面があったことには留意すべきです。そして、上述した「ネイサンの逆売り」は、‘未来の結末’を知っていた者には、確実に利益が転がり込むことを示しています。つまり、それは、既に‘賭け’ではなく、謀略の舞台となるのです。この点、昔ながらのサイコロを用いるルーレットなどの方が、余程、偶然の運に任されていると言えましょう。何らの人為的な操作を施す隙がなく、一瞬において勝敗が決まるからです(もっとも、ずる賢いプロのギャンブラーは、サイコロに細工を加えて勝敗率を操作したとも・・・)。

 そもそも、ギャンブルや投機とは、一分一秒でも未来における変化に賭ける行為であり、この側面においては、スポット取引も先物取引も変わりはないのですが、先物取引には、未来を操作するだけの十分な時間が用意されるという違いがあります。ワーテルローの戦いにあっても、ロスチャイルド財閥がその潤沢な資金力をもってイギリスを支援すれば、‘未来の結末’を裏側から操作できたはずです。日本国も、日露戦争に際してジェイコブ・シフ(クーン・ローブ商会)に戦時国債を引き受けてもらっていますが、同戦争での日本国の勝利は、日英同盟を背景としたイギリスの隠密支援が功を奏したとも指摘されていますので(バルチック艦隊の航行を邪魔する・・・)、ユダヤ系金融にとりましては、戦争、とりわけ、‘逆張り’ともなる敗北予測国側の勝利は、一刻千金の利益獲得のチャンスなのでしょう(その後の国債の償還や利払いを考えれば、日本国は、シフにそれ程恩義を感じる必要はないのかも知れない・・・)。

 戦争もまた‘賭け’の対象となったとき、人類は、人為的な‘未来操作’のリスクにも直面することとなります。しかも、この脅威は今日あってもなくなったわけでなく、今般の米価高騰をはじめ、ウクライナ戦争を機とする石油価格や穀物価格の操作疑惑など、様々な場面において同様の‘投機ビジネス’が繰り返されているようにも思えるのです。ヘッジ・ファンドは世界各地でビジネスチャンスを狙っていますし、不可解な出来事や現象の背景には、金融筋の不穏な動きも見え隠れします。そして、巨大地震の発生予測をはじめ、しばしばメディア等で紹介される予測や予言とは、‘未来操作’の一環であるかも知れないのです。

 このように考えますと、先ずもって、人類は、先物取引の存在意義を根底から問い質す必要がありましょう。そして、少なくとも農産物やエネルギー資源等、人々が生活する上で必需品となる品目に関しては、先物取引市場を閉鎖すべきなのではないでしょうか。大多数の無辜の人々が犠牲となる‘未来操作’のリスクから逃れるためにも。

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米先物取引の中国対抗論への疑問

2025年02月20日 10時40分51秒 | 国際経済
 昨年の2024年8月から大阪堂島商品取引所で始まったお米の先物取引については、今日、報道が規制されているためか、国民の多くはその存在を知りません。しかしながら、その影響力を考慮しますと、先物取引の問題は、‘グローバリストの視点’を想定しますと看過できないように思えます。

 農産物の先物取引市場での相場は、価格形成のみならず、将来の作付面積や生産量に対しても多大な影響を与えます。仮に、先物相場での価格が上昇すれば、農家は、当該作物を作付する面積を増やしたり、生産量を拡大するなど、増産の方向に動きます。逆に、先物相場が下落しますと、農家は、その反対の行動を採るからです。もっとも、農家が一斉に同じ方向で作付け期に生産量を調整しますと、数ヶ月から1年後の収穫期には過剰生産による暴落が起きたり、供給不足によって価格暴騰となる事態もあり得るわけですから、必ずしも農家のリスクがヘッジされるとも限りません(この需給調整の側面からも、先物取引の存在意義はますます怪しくなる・・・)。その一方で、この側面は、先物市場に資金を投じる‘投機家’や金融筋にも、自己利益拡大のために需給調整を行なう動機があることを説明するのですが、先物市場の相場が、当該作物を生産する全ての農家や原材料として調達する食品会社、延いては消費者にまで広く影響を与えている現状は、事実としてあることはあるのです。

 実際に、穀物各種の国際価格については、小麦やトウモロコシ等の大生産国であるアメリカでは、農業地帯を背景に中西部のイリノイ州のシカゴ市に、逸早く農産物の先物市場が開設されています(最初の商品は、1898年に始まったバターと卵の先物取引・・・)。今日、シカゴ・マーカンタイル取引所での相場は、将来的な穀物市場の国際的な価格指標として用いられており、アメリカ国内のみならず、その他の諸国の農産物価格や生産量等にも影響を与えているのです。

 シカゴの先物市場の先物価格が国際価格指標と見なされるのは、その取引量の多さに寄ります。この側面に注目して主張されているのが、日本国内での米先物取引の推進論です。実のところ、2019年8月に、中国大連において既にジャポニカ米の先物市場が堂島に先駆けて開設されています。未だに共産主義体制を維持している中国にあって、主食穀物の先物市場が開設されていること自体が驚きの事実でもあるのですが、このままでは、アジアの米市場の価格形成において、中国に主導権を握られてしまうとする危機感から、先物取引推進論が唱えられているのです。

 しかしながら、この見解は、日本産米の輸出入を前提としたものです。国際指標価格とは、当該作物が貿易商品であってこそ意味があるからです。そして、仮に、この説が正しければ、大阪堂島商品取引所の米先物取引の再開には、日本国政府による‘日本米の輸出作物化計画’が隠されていたことにもなりましょう。

 現実には、中国は、お米の生産量も消費量も世界第一位です。2015年前後の生産量が凡そ1億4,450万トンであったところ、2021年には、1億4900万トンまで増加しており、近年、増産が続いてきたことを示しています。しかも、日本米と同種のジャポニカ米の生産量が伸びています。その一方で、日本国のお米の生産量は、2024年で凡そ683万トンに過ぎず、中国で生産されたお米の30%がジャポニカ米としても、日中間では、圧倒的に生産量に差があります。この状態で、先物市場を日本国が開設したとしても、国際価格指標の形成でリードする可能性は殆どないに等しいこととなりましょう。

 以上に述べてきましたように、大阪堂島商品取引所での先物取引については、中国対抗論には無理があるように思えます。むしろ、日本国政府が米価の高騰を放置している理由は、グローバリストの意向にも沿った日本国の先物市場の開放であり、かつ、さらなる米輸入への道を開くことにあるのかも知れません。仮に、中国がジャポニカ米の生産量を今後とも増やしてゆくともなりますと(現状でも、中国からのお米が輸入されている・・・)、将来的には、中国からのさらなる輸入拡大をも視野に入れているとも推測されましょう(日本米は中国人富裕層向けに生産?)。

 そして、先物取引に注目しますと、この問題は、お米に限らないことにも気がつかされます。日本国の電力につきましても、上述したシカゴ・マーカンタイル取引所グループに属するニューヨーク・マーカンタイル取引所やドイツのフランクフルトに拠点を置くEUREX傘下の欧州エネルギ-取引所において先物市場が開設されているのですから。日本国内にも、電力の先物取引所として東京商品取引所が開設されていますが、電力自由化によって電力価格が下がるどころか、今日、上昇を続けている一因も、内外の先物取引市場の開設あるのかもしれません。しかも、近年、米欧では取引所のM&Aが活発化し、大手への集中が進んでいますので、大阪堂島商品取引所や東京商品取引所自体が欧米系に買収される未来も想定される事態なのではないかと思うのです。

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米先物取引は先買いによる‘買い占め’?

2025年02月19日 10時07分58秒 | 日本政治
 今般の米価高騰については、様々な要因が指摘されながらも、同時期に大阪堂島商品取引所で再開された米先物取引の存在は無視できないように思えます。既に、米価は2倍にも跳ね上がっていますので、仮に、再開時に先行きの米価高騰を予測して「買いヘッジ」に資金を投入した‘投機家達’は、今月で6ヶ月の限月を迎える場合、投資額が2倍に増えたことになります。‘笑いが止まらない’という状況なのでしょうが、その他の大多数の一般国民は、上昇し続ける主食の価格に悲鳴を上げています。

 先物取引が米価に影響を与える仕組みについては、限月までの間に需給バランスを自らの利益となる方向に操作できる時間的な猶予から説明も説明されます(その他については、本ブログの12月18日付けの記事で説明・・・)。将来的な価格上昇に賭ける「買いヘッジ」の場合には、供給量を減らす動機となる一方で、将来的な価格下落に賭ける「売りヘッジ」の場合には、供給量を増やす動機が働くからです。今般、「買い占め」の実行者として異業種企業や外国人バイヤーの暗躍が指摘されている背景にも、供給不足を意図した需給操作が疑われるのです。

 また、先物市場における契約の成立自体が、「買い占め」効果をもたらしかねません。何故ならば、限月が到来するまでの期間は、先物市場にあって‘先買い’されたお米は、売約済みの‘塩漬け’状態となるからです。言い換えますと、先物市場において投機資金が集まれば集まるほどにお米の出荷が滞り、供給量を減少させてしまうのです。同供給不足は、さらなる‘米不足’を引き起こし、なお一層米価が高騰するという悪循環に陥ることでしょう(もっとも、「買いヘッジ」に賭けて投機家達からみれば‘好循環’・・・)。

 この懸念に対しては、先渡契約等を締結すれば、限月に至らない時点で現物を引き渡すことが出来るとする反論もありましょう。しかしながら、上述したように、お米の価格が上昇し続けている局面にあって、それを良心的に市中に放出する買い手はそれ程には多くないことでしょう。米価が上昇する程に利益も上がるのですから、たとえ現物で受渡されたとしても、直ぐには手放さず、倉庫に眠らせようとするはずです。お米の放出は、自己利益に反するからです。結局、お米の保管場所の移転に過ぎず、大多数の消費者の食卓にはお米は届かないか、不当に釣り上げられて高値のお米を買わされることになるのです。

 以上に、先物取引と「買い占め」について問題点を述べてきましたが、この懸念については、重大な情報が欠けていることは、認めざるを得ないところです。それは、先物取引に参加した生産者である農家が誰にお米を引き渡しているのか、これが謎なのです。証券会社を経由して先物取引に資金を投入している投機家達は、現物の受渡しには全く関与しません。先物市場が開設されている大阪堂島商品取引所も、決済所に過ぎないとされています。商品先物取引事業者のリストの殆どは証券会社なのですが、証券会社についても、法律によって異業の事業は規制を受けているはずです(もっとも、SBIホールディングスのような企業グループであれば、子会社や関連会社等を利用できるかも知れない・・・)。それでは、先物で買い取られて農家のお米は、一体、どこに行くのでしょうか。

 おそらく、仲介業を営むブローカー的な存在が想定されるのですが、この点が、どこか不明瞭なのです。先物取引が出現したことで、お米の流通過程がさらに複雑になるようでは、米価安定どころか、混乱要因でしかなくなります。少なくとも今般の米価高騰を見る限り、先物市場が農産物の価格安定に寄与するとする説は説得力を失いつつあります。

 先物取引がお米の価格形成に影響を与える以上、生産者から消費者までのお米の流れの全プロセスを含む先物取引の仕組みは、国民が知るべき情報と言えましょう(消えた21万トンのお米とも関連するかも知れない・・・)。日本国民の主食が投機の対象となるような決定を、政府の一存に任せるのは望ましいことではなく、国民も農家も共に考えるべき重大問題であり、米先物市場の開設を方針とする政党は、国政選挙にあって自らの公約に掲載すべきであったのではないかと思うのです(つづく)。

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農家の要望なき米先物取引の罪

2025年02月18日 12時00分27秒 | 日本政治
 農産物の先物取引については、一般的には‘天候等による価格変動のリスクをヘッジする’として、その必要性が説明されています。収入が安定するので、農家のためにこそ存在するとする説です。しかしながら、本ブログの2月7日付けの記事でも述べましたように、農家にとりましては極めて不利な制度です。

 そこで、昨年2024年8月から大阪堂島商品取引所での米先物取引再開の経緯を見ますと、やはり疑問ばかりが沸いてきます。先ずもって、取引復活に際しては、SBIホールディングスの強い要請があったことは疑いようもありません。同社は、大阪堂島商品取引所の株式公開時に凡そ3分の1を取得しており、市場の運営者がプレーヤーを兼ねる状態となります。中立・公平であるべき取引所が自社企業に有利になるように運営する懸念が高まるのですが、実際に、米先物取引の再開と同時に、SBI証券が米の先物取引市場に参入し、主要プレーヤーとなっています。SBI証券のビジネスとその利益のために米先物取引を再開させたことは、誰の目にも明らかと言えましょう。しかも、農林中金の巨額損失が明らかとなった、まさにその時期に。

 加えて日本国政府にも、民間の一企業、あるいは、投機筋への利益誘導政策として米の先物取引を再開に許可を与えた疑いが生じます。内外に市場を開放した形での先物取引は今般の米価高騰の一因とも推測されますので、これは、大問題となりましょう。第一に、先物市場の開設は、農家からの要望ではないのですから。冒頭の説明のように、仮に農家には農産物価格の変動リスクをヘッジする必要があるならば、農家の側から開設を求める強い要請があったはずです。しかしながら、農協は一貫して先物取引反対の立場にありましたし、一般の農家の人々が先物市場の開設を政府に求めた形跡もありません。農家としては、先物取引によって自らが生産した農産物を‘得体の知れない事業者’に売り渡すことには二の足を踏むことでしょう(因みに、堂島商品取引所のホームページでは、投資家に対して受渡しの必要はないとしつつ、契約が成立した際の農家、あるいは、集荷事業者や卸売り事業者の‘受渡し先’に関する説明がない・・・)。

 となりますと、先物市場農家必要説は崩れ、そこに現れるのは、投機マネーを集めて賭け事をするマネーゲームの場としての先物市場です。そして、この現実は、農産物の先物市場の実態はカジノと同じであり、一刻千金を夢見る者や富裕層の遊びの場でしかないことを示しています。しかも、一般の国民にとりましては、カジノより遥かに有害であり、実害も発生します。カジノでは、賭に負けても勝っても、それは、賭けた人の自己責任であり、その資産をもって決済されますが、先物市場では、市中の農産物価格にも影響を与えます(現物取引よりも時間的な余裕があるので、価格操作という‘魔’が入り込む余地もある)。言い換えますと、一般の消費者も、マネーゲームの巻き添えにされかねないのです(なお、農産物市場に限らず、一般の人々は、バブルとその崩壊など、常に、金融筋の投機的な行動の犠牲者となる・・・)。今日に至るまで、日本国にあって米先物取引市場が設けられてこなかった理由も、この点にあると言えましょう。マネー・パワーに迎合、あるいは屈して、先物取引のリスクを国民に負わせた政府の責任も重いということになります。

 そして、この問題をさらに突き詰めてゆきますと、農産物の生産者でもなく、また、集荷業者でも卸売業者でもない無関係な個人や事業者が、自らの私的利益のために農産物の売買を行なう正当なる自由や権利があるのか、という疑問に行き着きます。もちろん、証券会社は、農産物の売買を手がけているわけではありません。農家にリスクヘッジの機会を提供していると抗弁するのでしょうが、その必要性が乏しいことは先に述べたとおりです。否、農家に対するリスクヘッジの手段の提供と見せかけながら、その実、全体から見れば、先物市場は、一部の投機家たちの私的欲望のために一般の人々にその数万倍ものリスクをもたらすという、リスク増幅装置として作用しているように思えます。国民の生活を危険に晒すこのような装置こそ、誰も‘ヘッジ’できない最大のリスクなのではないでしょうか。

 真偽の程は分かりませんが、大阪堂島商品取引所では、政府による備蓄米放出の方針の発表にも拘わらず、米価下落の効果を願う国民の期待をあざ笑うかのように、先物の価格は今なお上がり続けているようです。岸田文雄前首相が提唱した‘新しい資本主義’とは、マネーゲームのさらなる解禁なのでしょうか。米価対策は備蓄米の放出が全てではなく、日本国政府は、米先物取引に許可を与えた責任をとり、速やかに同取引の許可を取り消し、合わせて「買い占め等防止法」のお米に対する適用を表明すべきではないかと思うのです。

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米先物取引には情報統制がかかっている?

2025年02月17日 09時44分17秒 | 日本政治
 今般の異常なまでの米価高騰の背景には、昨年の8月から大阪堂島商品取引所で再開されたお米の先物取引が関与している疑いは濃厚です(「コメ指数先物」)。しかも、この米先物市場に関しては、国民の関心を引かないように隠されているのではないか、とする説もあります。実際に、日経新聞の大阪堂島商品取引所の先物市場情報欄を見ましても、トウモロコシについては掲載されていても、何故か、お米については情報がないのです。もしかしますと、既に閉鎖されているか、あるいは、取引の頻度が低いとも考えられるのですが、お米の先物取引を取り上げる大手メディアや雑誌社も殆ど見当たりませんので、情報が規制されているとも推測されるのです。

 先物取引では、「買いヘッジ」であれば、決済時の限月に1円でも契約時の「現物コメ指数」よりも高値となれば利益が出ますので、投資家や投機筋には価格操作の動機が強く働きます。このため、仮に、米先物取引に対して情報統制が行なわれているとしますと、幾つかの理由が考えられましょう。先ずもって注目すべきは、同市場は、海外投資家等にも開放されている点です。

 米価高騰については、ネット上では、中国系の‘事業者’から生産農家に対して高値買取の問い合わせがあるとする情報も散見されます。日本国の米先物市場が中国人富裕層のターゲットになっているとしますと、こうした「買い占め」も、先物市場における投機的なチャイナ・マネーの流入と関連しているのかも知れません(現物取引を含めて、にわか集荷業や卸売業社を造る・・・)。仮にこの推測が正しければ、情報隠蔽の理由はまたしても‘悪しき中国配慮’ということになり、未だに日本国の大手マスメディアが、中国との間の報道協定に縛られているということにもなりましょう。あるいは、日本国政府が、かつての米騒動のような反中暴動とまでは行かないまでも、日本国民の対中感情の悪化を押さえるべく、今般の米価高騰の怒りの矛先が中国に向かわないように情報を隠蔽しているとも推測されます。もっとも、安易に中国系事業者に売り渡してしまった農家も、日本国民に対する手前、同情報は表沙汰にはしたくないのかもしれません・・・(農村では、深刻な‘お嫁さん不足’から中国から嫁いできている農家も多い・・・)。

 第二の推理は、グローバリストの日本攻略戦略の一環でとする見立てです。国民には見えないところで、先物、現物を問わず、お米市場には、チャイナ・マネーのみならずグローバル金融の潤沢なマネーも投入されているのかも知れません。しかも、世界大での‘最適分業’を目指すグローバル視点からしますと、日本国の分担は、‘おいしい日本米’の輸出国であったとしても、その消費国ではないのでしょう。むしろ、日本国は、アメリカ等で大量に生産されている小麦を中心とした安価な輸入穀物の消費国であるべきと考えているとすれば、今般、米価高騰の演出は、一石二鳥にも三鳥にもなるのです。全世界のメディアに対するグローバリストの甚大なる影響力を考えますと、日本国内のメディアに対する情報統制も難しいものではないはずです(もちろん、グローバリストの僕である日本国政府は黙認あるいは協力・・・)。

 そして、第三の推理は、SBIホールディングスの意向が強く働いているというものです。同社は、堂島商品取引所の株式の凡そ3分の1を保有すると共に、米先物取引の再開と同時に、SBI証券が同市場に参入しています。グループ全体としては金融のみならず、情報・通信をはじめ様々なインフラ事業をも手がけていますので(独禁法違反では・・・)、米価高騰に関与したともなりますと、‘ソフトバンク’という企業ブランドのイメージ悪化は避けられません。この事態を恐れて、政界にも繋がる人脈やマネー・パワーを駆使して、情報の拡散を押さえ込んでいる可能性もありましょう(あるいは、グローバリストの‘先兵’の役割・・・)。

 米価高騰に国民の多くが憤る中、政府は、備蓄米放出の方針を示してはいるものの、その原因を明確には説明してはいません。遠因を含めれば複合的な現象でもあるのでしょうが、米先物取引の再開が引き金となった可能性が高いにも拘わらず、意図的とも思える情報の乏しさが、むしろその信憑性を高めているとも言えましょう。先物取引が原因ではないならば、日本国政府、堂島商品取引所、及び、SBIホールディングスは、参加者の構成、成約数、取引量(3トン単位)、限月での現物の受渡しの実態等を公表し、‘あらぬ疑い’であれば、事実による証明をもってそれを晴らすべきではないかと思うのです。

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相互主義関税は保護主義の相互承認への道?

2025年02月14日 12時07分31秒 | 国際経済
 江戸時代も末期となる1858年、徳川幕府は「安政五カ国条約」を結び、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリスそしてフランスとの間の通商を開始します。これらの条約によって輸出入に関する関税も定められたのですが、その内容が不平等であったため、その後、条約改正が明治政府の重大なる政治課題となったことは、教科書の記述等でもよく知られるところです。関税自主権の回復は、1905年の日露戦争での勝利を待たねばならず、日本国の悲願の達成には凡そ半世紀を要したことになります。

 輸出関税率を5%、輸入関税率を20%とする「安政五カ国条約」で定められた関税率は、アロー号事件後に清国と間で締結された天津条約における輸入関税率が輸出関税率と等しく5%であったことを踏まえますと、自国産業の保護という意味においては、確かに「安政五カ国条約」の方が有利であったかも知れません。また、低率の輸出関税率が、日本製品の海外輸出を後押ししたことも確かなのでしょう。しかしながら、喩え日本国側に有利な側面があったとしても、この時、日本国側が強く意識したのが、独立国家としての主権の確立であったことは疑いようもありません。西欧列強の砲艦外交の結果として締結された条約でしたので、日本国にとりましては、半ば‘強制された’条約であったからです。今日の「条約法条約」第52条では、‘武力による威嚇、または、武力の行使による国に対する強制は、条約の無効事由となりますので、日本国側の不服は当然の反応とも言えましょう。日本国の近代史を振り返りましても、関税に関する権限、すなわち、通商に関する政策権限が、現代人が想像する以上に重大問題であったことが分かります。

 さて、前置きが長くなりましたが、第二次世界大戦が、ブロック経済、すなわち、列強による経済圏の‘囲い込み’を要因として発生したとする共通認識から、戦後は、アメリカを中心とした自由貿易体制が構築されることになります。この流れの中で、自由貿易主義=正義とするイメージが浸透し、完全なる関税の撤廃こそ世界の諸国が共に目指すべき究極の目的地とされたのです。かくして、関税を設けること、即ち、保護主義が、あたかも悪事のような後ろめたさや罪悪感を抱かせる程まで、自由貿易主義は‘絶対善’の地位を得てしまうのです。今日の自由貿易体制、延いてはグローバリズムの出発点が第二次世界大戦にあったとしますと、GATTの枠組みにおける交渉ラウンドを経たとはいえ、各国の市場開放にはやはり武力が用いられたとする見方も成り立つようにも思えます。

 しかしながら、誰かを護る、あるいは、何かを保護するという役割を考えた場合、それを‘壁’や‘囲い’を設けることなくできるのでしょうか。自然界でも、放置すれば外来種が在来種を駆逐してしまうケースは珍しくはありません。勢力圏の囲い込みが世界大戦を招いたとする説に一理があったとしても、関税壁そのものを否定するのは、‘羮に懲りて膾を吹く’という諺どおりの過剰反応のように思えます。そもそも、各国が独立的な‘関税自主権’を有していれば、自国の産業構成や生産量等に鑑みて、自由に貿易相手国を選ぶことができるのですから、ブロック化は起きるはずもないのです。この側面からしますと、EUであれ、CPTPPであれ、RCEPであれ、今日、さらなる自由化を目指して世界各地で誕生している地域的経済枠組みの方が、余程、ブロック化の要素が強いとも言えましょう(多角貿易の阻害要因に・・・)。

 今般、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、相互関税の方針の下で関税を復活させております。その具体的な内容についての詳細は不明なものの、今後、アメリカは、自国の関税率と同率の関税を相手国に課すという相互主義を、通商の原則に据えたものと推測されます。この方針は、貿易相手国によって関税率を変えることを意味しており、関税の完全撤廃という、戦後に敷かれた‘一本道’からの離脱を示したことにもなりましょう。

 関税の復活については、自由貿易主義やグローバリズムの流れに反するとする批判もありますが、アメリカの方針転換は、他の諸国にとりまして決して悲劇ではないように思えます。例えば、日本国につきましても、相互主義に基づけば、中国等からの安価な輸入品の一方的な流入を防ぐことができるようになります。現状は、中国側が、自らの都合に合わせて一方的に高い関税を設定する一方で、日本国政府は、グローバリズム原理主義の下でさらなる市場開放を進めているからです。相互主義への転換は、全世界の諸国にとりまして保護主義の相互容認への第一歩であり、やがては各国共に自国の産業を護りながら、相手国にも恩恵となる最適な通商網を選択的に世界大に構築する道を開くことになるのではないかと思うのです。

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グローバリズムの正体は世界戦略では

2025年02月13日 11時32分09秒 | 国際経済
 グローバリストの最終目的が‘もの’、‘サービス’、‘マネー’、‘人’、‘知的財産’、‘情報’の世界大かつ全面的な自由移動であるとすれば、その行く末は、グローバリストが最適と見なした形での国際分業の成立とその固定化であることは、容易に予測されます。そして、自由移動こそが、政治分野における征服や異民族支配に伴う一側面であったことを思い起こしますと、グローバリズムとは、経済理論でも、思想や宗教でもなく、その本質において‘世界戦略’であった可能性が高まってくるのです。

 経済学にあって、グローバリズムが全人類にもたらす効用や恩恵を論理的に説明する理論が登場せず、行き詰まってしまった理由も、それが不可能な命題であったからなのでしょう。国境の消滅とそれに伴う全ての生産要素の自由移動の帰結が、全ての諸国の経済成長であり、全ての人々の生活レベルの向上であると断言することには、誰もが躊躇するはずです。逸早く市場統合を試みたEUでも、当初に予測されていた高い経済効果が全ての加盟国にもたらされた訳ではありませんでした。ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクといったかつての‘西側先進国’は、低成長と経済停滞に悩まされていますし(マイナス成長を記録した年もある)、加盟当初は投資に沸いた中東欧諸国でも、今ではマイナス成長が目立ってきています。その一方で、企業レベルでは、インフラ分野を含めて規模に優るドイツ企業の‘一人勝ち’が指摘されており、欧州市場やユーロ誕生の際の浮かれたような熱気は今では嘘のようなのです。現実が証明しているのですから、グローバリズムにつきましても、経済的な繁栄を描く理論や理論を提起しても、自ずと説得力が乏しくなるのです。

 かくしてグローバリズムの理論武装の路線は半ば放棄された状況に至ったのですが、それに代わって頻繁に用いられるようになったのが、プロパガンダやイデオロギー化で合ったように思えます。理屈では説明を付けられない、あるいは、論理的帰結を誤魔化したい場合、イメージ操作や洗脳という手段がしばしば使われるものです。グローバリズムも、人類の理想郷としての根拠のないイメージが拡散されるようになるのです。例えば、今日、マスメディアや経済空間では、DX、GX、再生エネ、AI、メタバースといった近未来テクノロジーの言葉が飛び交い、日本国政府もファンタジーのようなムーショット計画を打ち上げています。グローバリストの本山とも言える世界経済フォーラムが描く未来像もこの一種であり、臆面もなく‘グレート・リセット’の名の下で‘グローバル・ガバナンス’のヴィジョンが公開されているのです。グローバリズムはあたかも新興宗教のようでもあり、多くの人々が洗脳されているかのようです。

 しかしながら、グローバリズムとは、元よりグローバリストの世界戦略であったとすれば、以上に述べてきた奇妙な現象も説明が付きます。‘グローバリズムは金融財閥でもあり、膨大な利権とマネー・パワーを握る極少数の私人達による世界戦略である’とする仮定の下で経済現象を分析すれば、経済学にあってもより合理的に現実を説明できたことでしょう。陰謀論として同仮定をはじめから排除しているからこそ、出口のない迷路にはまってしまっているようにも見えるのです。

 それでは、人類は、グローバリズムの罠から逃れることが出来るのでしょうか。少なくとも今日の日本国の政治家やマスメディアを見ておりますと、あたかもグローバリストの‘僕’のようです。その一方で、グローバリズムの行く先が、中間層の消滅を経て貧富の格差の拡大し、最終局面では経済面における‘世界分業体制’であるとしますと、AIの普及促進も、中間層の消滅という意味において最終段階に差し掛かってきている証であるのかもしれません。しかしながら、現時点にあっては、既に引き返しのできない段階に達しているとも思えません。グローバリズムは‘世界戦略’である、とする認識が人々の間に広がれば、やがて洗脳も解けてゆくことでしょう。

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グローバリズムの格差拡大メカニズムとは

2025年02月12日 13時38分03秒 | 国際経済
 1980年代後半以降、米ソ冷戦時代の終焉をもってグローバリズムが全世界に広がることとなります。とりわけ、2002年に中国がWTOに加盟すると世界経済の状況は一変し、同国が、経済大国として躍り出ることにもなりました。この流れに平行するように、経済格差の広がりも顕著となり、かつての先進国でも中間層の崩壊に伴う貧困の増加が深刻な問題として持ち上がることにもなったのです。結局、グローバリズムが国家間の貿易において相互に利益をもたらし、全ての人々の生活を豊かにするとする宣伝文句とは逆の方向へと向かったことになります。それでは、何故、グローバリズムは‘嘘つき’となってしまったのでしょうか。

 その理由は、昨日の記事でも指摘したように、国境を越えた生産要素の自由移動が、経済学において自由貿易主義者が主張してきた比較優位による互恵的な国際分業の根拠を崩壊させると共に、現実においても、堰きを外すと水が高きから低きに流れるが如く、あらゆる領域にあって最適な箇所への集中が起きてしまったからなのでしょう。ヘクシャー・オーリンモデルでは、資本が潤沢な国での知識集約型、労働力が豊富な国での労働集約型の産業への特化による国際分業が説明されていますが、国境の壁が消失しますと、資本の自由移動により労働力の豊富な国における知識集約型の製品の製造が可能となります。つまり、資本も労働力も特定の国に集中してしまうのです。言い換えますと、自由貿易論は、その前提が崩れることにより、皮肉なことに、グローバリズムにおける格差拡大の必然性を説明しているとも言えましょう。

 技術レベルが国際競争力の源泉となる現在では、資本のみならず、製造拠点の移転と共に先端的なテクノロジーや情報も特定の国に集まります。中国が短期間で世界第二位の経済大国まで成長したのも、豊富、かつ、安価な労働力という国際競争上の有利な条件に加え、外部から国境を越えて資本やテクノロジーが集中的に流入したからに他なりません。その一方で、日本国は、勤勉な国民性に支えられた製造拠点としての優位性を失うと共に、テクノロジーの多くも中国に移転されたのですから、産業が衰退するのも当然の成り行きであったとも言えましょう。しかも、アメリカの場合、安価な移民労働力も流入してくるのですから、一般国民の所得水準が低下し、中間層の崩壊が他の先進工業国よりも早くに訪れたことになります。そして日本国も、今や移民労働力の大量流入により、アメリカと同じ轍を踏もうとしているように見えるのです。

 もっとも、貧富の差が開き続けているアメリカがそれでもなお、日本国にはない経済的なアドバンテージあるとしますと、国際決済通貨としての米ドルの強みやIT大手をはじめとしたデジタル分野での優位性などを挙げることが出来ましょう。そして、さらにグローバル時代の強者と言えるのが、グローバリストの母体とも言える金融勢力なのではないでしょうか。上部あるいは外部の視点から全体を見渡し、最も利益率の高い最適な投資、否、国際分業のパターンを見出す位置にあるからです。近年、しばしば経営のスローガンとされる‘選択と集中’とは、実のところは、対象となる産業分野であれ、事業であれ、国であれ、金融グローバリストの戦略なのです。しかも、資本ほど‘逃げ足の速い’要素もありません。焼き畑農業の如くに、賃金水準の上昇等により利益率が下がれば、他の国や地域に逸早く投資先を変えてしまうのです。

 経済学者の多くは、資本の自由移動についてその調整力に期待する向きがありますが(資本の相互融通により不足と過剰を平準化する・・・)、高い利益率が期待できる国や地域のみが‘選択’され、投資がこれらの国や地域にのみ‘集中’してしまうのが現実なのではないでしょうか。しかも、集中的な投資先となった諸国も巨額の負債を負う一方で、債権者となった金融勢力は、これらの諸国に対して自らの利益増進に貢献するように、さらなる市場開放や規制緩和等を求めつつ(政治家もマネー・パワーで籠絡・・・)、利権の獲得、利払いや配当金等によってさらにマネー・パワーを強大化してゆくのです(格差拡大のメカニズム・・・)。

 結局、グローバリズムとは、何れの国にとりましても、金融グローバリストに選ばれなければ経済発展を望むことができない、過酷な環境に身を置くことを意味します。そして、‘選ばれる’ために払われる犠牲も多大であり、屈服をも強いられかねないのです。以上に述べたように、グローバリズムを特定の勢力の利権集団のための世界大の仕組みとして捉えますと、人類は、この枠組みからの離脱こそ目指すべきと言えましょう。この意味において、日本国を含む各国共に、中間層の貧困化を防ぐためにも、自国経済の発展を基礎とした自立的な経済成長をめざし、速やかに方向転換を図るべきではないかと思うのです。

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自由貿易論の限界とグローバル理論の不在

2025年02月11日 11時34分01秒 | 国際経済
 自由貿易主義の非現実性は、垂直であれ、水平であれ、自由競争の結果とされる国際分業なるものが、全ての諸国にとりまして満足するとは限らないという事実をもって容易に理解されます。しかも、 ‘最も効率的な国際分業’である以上、たとえ自国が担うことになった‘役目’に不服があったとしても、半ば永遠に固定化されてしまうかもしれません。ITやAIなど先端技術の分野にあって圧倒的にテクノロジーの差が生じてしまっている今日では、過去の時代よりも遥かにキャッチアップが難しい時代でもあるからです。否、キャッチアップが可能な国は、中国やインドと言った人口並びに資源に恵まれた大国に限られているのが現実とも言えましょう。グローバル時代には、‘規模の経済’が優位要因として極めて強く働くからです。

 比較優位説に基づく自由貿易体制における分業については、ヘクシャー・オーリンモデルというものがあり、資本が潤沢な国と労働力が豊富な国との間の分業をモデル化しています。前者では、知識集約型の製品が製造輸出され、後者では、労働集約型の製品が製造輸出されると説明されます。この理論は戦前に唱えられたものですが、逆説的には、供給される生産要素の違いであれ、何であれ、国によって輸出製品に価値の差が生じることを認めているとも言えます。もちろん、前者の価値、すなわち、単価の価格は前者が遥かに高くなるのですが、このことは、比較的に価値の低い後者を製造する国は、前者が製造する最先端の高付加価値の商品を輸入することができないことを意味します。つまり、輸出品において価値に差がある場合には互恵関係が成立しないのです。植民地主義も、アジア・アフリカ諸国が商品作物の生産に特化する一方で、欧米諸国が工業製品の生産を担ったとすれば、国際分業として是認されてしまいます。

 輸出製品の価値差は、これらの理論に頼らなくとも、途上国の経済成長が遅れがちである現実を説明しています。途上国は、輸入に際しての決済(支払い)に必要となる外貨を十分に入手することができないからです。そして、この側面こそ、外国為替を無視したリカードの比較優位説の弱点でもあります。通貨においても国による価値差が存在する場合、価値の低い製品を輸出している国が外国からより価値の高い先端的な製品を輸入しようとすれば、決済通貨が外貨であれば、自国通貨を売って決済通貨(外貨)を買わなければならないのです。となりますと、輸入が増えるほどに自国通貨売りによる為替相場の通貨安が生じ、ますます国内における輸入品の価格が上昇すると共に、互恵関係から遠のいてゆくのです。

 もっとも、為替相場の下落については、輸出には通貨安が有利なため、輸入量の減少と輸出量の増加によって自動的に調整されるとする説もあります(逆に、通貨高の国は輸入が増加し輸出が減少・・・)。しかしながら、この調整力は、国際分業が成立し、かつ、輸出品の価値に差がある場合には、効果が限定されてしまいます。低価格の商品の輸出量が増えたとしても、そこで獲得される外貨は微々たるものだからです。しかも、リカードは、貿易に際して要する決済通貨についても、全く関心を払っていません。第二次世界大戦末期にあってIMFが設立され、兌換通貨としての米ドルを事実上の国際基軸通貨とするブレトンウッズ体制が構築されたのは、貿易決済の円滑化であったのですから、経済学者がまず先に関心を寄せるべきは国際決済通貨であったにも拘わらず・・・。

 因みに、ヘクシャー・オーリンモデルの発案者であるエリ・ヘクシャーは、スウェーデン国籍ではあるものの、リカードと同じくユダヤ系の経済学者でした(ベルティル・オリーンはその弟子・・・)。ヘクシャーもまた、一国の国益に囚われないグローバルな視点の持ち主であったことは想像に難くありません。国際分業とは、あらゆる国を自由貿易体制に組み込むこと、即ち、世界、否、全世界の諸国に関税を撤廃させることによって実現するからです。国際分業の観点からすれば、今日の日本国に期待されている役割は、日本国政府の政策方針を見る限り、富裕者向けの農産物や水産物の生産、並びに、観光であるようにも思えてきます。

 以上に、自由貿易理論の非現実性を概観してきましたが、そもそも、自然科学における理論が、一つの例外事例をもって崩壊してしまうにも拘わらず、経済理論の多くが、非現実的な条件を付していることには大いに疑問があります。例えば、ヘクシャー・オーリンモデルでは、生産要素は地域間では移動しない、としていますが、現実には、資本であれ、労働力であれ、国家間を移動するからです。そして、この生産要素の国境を越えた移動自由化こそ、自由貿易主義とグローバリズムとの違いを意味します。前者は、あくまでも、現在の国家間の貿易を前提としている一方で、後者は、未来における国境なき世界市場の出現を想定しているからです。

 実のところ、ここから先にあって、グローバリズムを肯定的に擁護する理論が現れず、移動の自由化をもって破綻してしまう自由貿易論がなおも持ち出されるのは、その論理的な帰結が一般の人類にとりましてはディストピアであるからなのではないでしょうか(つづく)。

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関税壁の復活は内需復活へのチャンスでは?

2025年02月10日 10時24分10秒 | 国際経済
 国内政治にありましては、弱い立場の人々を扶けることは、政府の役割の一つとしされています。このため、所得や収入が低いといった恵まれない立場にある人や世帯に対しては、税を軽減したり、特別に支援金や手当を支給すると言った措置がとられています。所得レベルに比例して税率を上げてゆく累進課税も、弱者に配慮した制度と言えましょう。経済政策の分野でも、大企業と中小企業とは区別されており、一律に同一条件で法を適用するのではなく、後者に対しては条件を緩和するといった措置がとられることも珍しくはありません。こうした政策の根底には、全てのメンバーの生活を維持し、豊かさをもたらすという、公権力の存在意義があるからなのでしょう。

 それでは、今日の自由貿易主義やグローバリズムはどうでしょうか。今日に至るまで、これらの自由主義思想の基礎的な理論は、リカードが唱えた比較優位説に求められてきました。ところが、この説に従えば、競争力において劣位する‘弱者’は、当然に淘汰されることになります。否、完全に淘汰しなければ、最適で理想的な国際レベルでの分業も資源の効率的配分も成立しないのですから、劣位産業を潰すことは当然に通過すべき‘プロセス’となるのです。

 そして、このリカードの視点において注目すべきことは、貿易を行なう双方国における淘汰を肯定的に認め、特定の国家の立場や利益に立脚しているわけではない点です。あるいは、客観性や中立性を装いながら、その実、当時自由貿易主義で最も利益を得たイギリス、もしくは、同国に内在化したユダヤ勢力に貿易利益がもたらされる体制を理論武装しようとしたとも言えましょう。何れにしましても、国家を主体とした二国間の貿易を論じているように見せながら(従来の一般的な見解)、リカードは、上部あるいは外部から国際経済を捉えようとしていたことになりましょう。

 さて、自由貿易主義やグローバリズムの方法論はいたってシンプルであり、それは、国境を越えてあらゆる要素を自由に移動させることにあります。障壁となる国境が消滅すれば、広域的な競争が始まり、自動的に規模や技術に劣る側が中小国の産業やより規模の小さな企業が淘汰されてしまうからです。現実には、人口、国土の面積、地理的条件、気候、国家機構、技術レベル、教育レベルなど、様々な面において国家間には格差がありますので、この状態で自由競争を強いますと、柵を外して羊さんとオオカミを同じフィールドで闘わせるようなもので、‘弱肉強食’となるのです。保護壁として国境が消滅すれば、より規模が大きくよりテクノロジーにおいて先進的な諸国のみが勝ち残るのは目に見えているのです。もちろん、敗者に対するフォローはありません。上述したように、国内政治では、規律ある自由主義経済を基調としつつも、それでも経済的に弱い立場の人々が生じた場合には、上述したように公的な支援を行なうものなのですが、グローバリズムにはそれもないのです(あるいは、淘汰された側の国に弱者救済の責任や負担を押しつける・・・)。

 リカード並びにその後継者たるグローバリスト達に淘汰に対する罪悪感が全くないのも、国家の利益やその国の国民生活は、全く視野に入っていないからなのでしょう。そして、今日、グローバリストや新自由主義者達が日米をはじめ多くの諸国から批判に晒されているのも、その冷酷なまでの淘汰容認にありましょう。淘汰とは、社会一般ではこの世からの追放を意味しますので、道徳観や倫理観を持ち合わせていないサイコバスにしか見えないのです。‘世界レベルで最適の分業体制が成立するのだから、何が悪い’ということなのでしょう(しかも、同体制においては利益の殆どは永続的にブローバリストに集中する・・・)。

 アメリカではドナルド・トランプ大統領が関税を復活させ、アメリカ産業を護る方針を打ち出しています。日本国内では、メディアを中心に自由貿易主義に反するとして反対の声で溢れていますが、むしろ、関税の復活とは、経済面においても、政府が保護的な役割を取り戻すことによる‘正常化’を意味するように思えます。日本国政府も国民も、‘関税壁のある時代’の到来を危機とは見なさず、農業を含めた自国産業の復活に努め、新たなる内需型経済を構築するチャンスとすべきではないかと思うのです。

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