万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

全ての立候補者に平等・公平な公職採用システムを

2024年07月11日 12時13分47秒 | 統治制度論
 民主的選挙における投票とは、国民による人事権の行使に他なりません。最適の人材を選んで採用する制度でありながら、今日の選挙制度はあまりにもその目的から離れており、統治機構の政治ポストにあって、国民が適任者を選ぶことができない状況が続いています。国民は、いわば、‘採用担当者’の立場にありながら、蚊帳の外に置かれているようなものなのです。この問題は、‘採用担当者’である選ぶ側、すなわち、有権者のみが不利益を被っているわけではありません。本日の記事では、選ばれる側となる政治家を志す立候補者の立場からの制度改革の必要性について述べてみたいと思います。

 先日の記事でも触れておりますように、現行の制度では、一般の人々の負担能力を超えた莫大な選挙費用が候補者の肩に重くのしかかります。事前に選挙管理委員会に寄託する供託金の準備のみならず、雇用した選挙運動員やスタッフ等に支払う報酬(人件費)、事務所の経費、選挙カーの賃貸料金、チラシやビラの印刷代金、大型メガホンやのぼりなどの選挙道具一式の費用などは、合計しますと相当額に上ります(選挙費用は、人口規模等に比例して膨れ上がる・・・)。採用システムという観点からしますと、エントリーする側が費用を負担するというのは、本来、あり得ないことです。先ずもって、でき得る限り立候補者の負担を軽減すべきと言えましょう。

 もっとも、政党に所属している立候補者の場合には、通常、政党助成金等から選挙資金が‘軍資金’として支給されます。この場合、個人的な負担は軽減されるのですが、それでも、選挙資金の分配が政党の幹事長の‘党内パワー’の源泉になっているのが現状です。このため、政党所属の立候補者は、有権者よりも政党内の‘有力者’の顔色を伺わざるを得ません。言い換えますと、政党内部にあって候補者達は、予め‘ふるい’にかけられ、政党内の序列や利権を含めたしがらみ等に縛られてしまうのです。これでは、真に国民のための政治を目指す政治家が出現するはずもありません。

 政党内の資金配分を介した事前選別の問題に加えて、マスメディアの影響力も、知名度において選挙の公平性を著しく歪めています。この側面は、’マネー・パワーによる政治家支配をもたらす主要な原因でもあります。今日、全世界の諸国にあってグルーバリズムを強力に推進している世界権力は、大手メディアの事実上の‘支配者’でもあるからです。自らの配下にあるメディアを使って、世界経済フォーラムがヤング・グローバル・リーダー達をインフルエンサーとして育てるのと同様に、選挙の場も、自らが選んだ‘政治家’を、メディアを舞台に‘売り出す’場でもあるのでしょう。加えて、マネー・パワーによって動員された政治団体や振興宗教団体のメンバー達が、‘人気’や‘’○○フィ-バー‘を演出するのですから、‘選ばれし候補者’は、はじめから特権を付与されているようなものです。何れにしましても、マスメディアへの出演が選挙における当落に多大なる影響を与えている現状は、‘選外’となる他の立候補者にとりましては、最初から勝てないことが決まっている競争を強いられるに等しいのです。

 とは申しますものの、マスメディアについては、政見放送がありますので、特定の候補者のみが有利とは言えないとする意見もありましょう。しかしながら、日本国では、1996年以降、衆議院議員選挙における小選挙区制の導入に伴い、無所属の候補者や政党要件を充たしていない政治団体の候補者には政見放送のチャンスは与えられていません。しかも、放送の時間帯が決まっている上に、放送時間は一人当たり衆議院小選挙区で9分、比較的長くても参議院比例区で17分に過ぎませんので、その影響は限られているのです。

 採用システムであれば、本来、エントリー時にあっては、全応募者のスタートラインは同一にすべきです。しかしながら、上述したように事前のスクリーニングが働きますと、エントリー以前の段階で、一般の応募者も採用担当者達も与り知らぬところで、外部者による選抜が行なわれていることになります。採用システムの観点からしますと、選挙の現状は、‘適任者’が事前に排除され得る、あるいは、スタートラインの違いから不利な状況を強いられる不公平この上ない制度となりましょう。最初から勝ち目がないのですから、自ずと国民の立候補に対する意欲を失わせ、結果として、被選挙権を暗黙裏に制限してしまうのです。

今日、選挙権にあっては、憲法訴訟に発展するほどに一人一票同価値の原則に対しては厳密性が求められる一方で、被選挙権の不平等については関心が薄い傾向にあります。しかしながら、民主主義の国民自治としての本旨からしますと、参政権を有する国民の立候補のチャンスこそ、平等かつ公平に保障されるべきです。被選挙権に関わる制度的な欠陥を放置しますと、統治権力が一部の特権的な私人や外部者に掌握されてしまうのですから。むしろ、被選挙権に対する制度的な制限こそ、合憲性が問われるべきかもしれません(奇妙なことに、衆議院小選挙区における政見放送の不平等・不公平については、1999年11月10日の最高裁判所大法廷判決では合憲と判断されている・・・)。

しばしば、民主的選挙制度とは、‘誰でも平等に政治家になれる制度’として理解されがちですが(同定義であれば、むしろ、抽選の方が適している・・・)、人事制度なのですから、‘国民の誰もが平等・公平に政治家になる機会が保障された上で、国民が政治家としての適任者を選ぶ制度’として再構築すべきと言えましょう。そして、ネット上に公設の選挙候補者サイトを開設するという案は、候補者並びに有権者の双方に見られる諸問題を解決し得るのではないかと思うのです(つづく)。

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