万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日英関係の二重性

2022年09月09日 13時15分05秒 | 国際政治
 昨晩、イギリスのエリザベス女王逝去のニュースが全世界を駆け巡ることとなりました。シンプソン事件により急遽王位継承者第1位に浮上し、以後、波乱に満ちた生涯を歩むこととなったのですが、凡そ96年に及ぶ長き人生の最後は静かに幕を閉じたようです。一つの時代が終わったような感を受けるのですが、エリザベス女王の逝去は、謎に多き日英関係の歴史を改めて検証する機会となるかもしれません。

イギリスという国は、遠く地球儀の反対側に位置している日本国にとりましても無縁ではありません。とりわけ明治維新とイギリスとの関係は、イギリスの特定のグループが得意とする二重思考の実験の一つではなかったかと疑われるほどです。明治維新とは、西欧列強による植民地化を防ぎ、志士たちの奮闘と自己改革により日本国が独立性を維持した歴史に稀に見る偉業とされながら、その反面、維新のヒーローたちの背後には、イギリス留学の経歴を有する長州ファイブをはじめ常にイギリス系の金融・経済勢力の陰が見え隠れしていました。日本の偉人伝に常にその名が見え、国民的な人気を博してきた坂本龍馬にしても、武器商人にして、長州ファイブを公私にわたり支援したジャーディン・マセソン商会の代理人であったトーマス・グラバーとの関係は周知の事実です。アーネスト・サトウの暗躍もよく知られています。維新のヒーロー達を育てて背後から明治維新を操り、王政復古の名の下で間接支配体制を敷いたのはイギリス系金融・経済勢力とする見方も成り立つのであり、この側面は、英領に組み込まれたインドやミャンマーほどにはあからさまではないにせよ、日本国の‘植民地化’として理解されましょう。つまり、明治維新には、‘伝統は革新なり’、あるいは、‘独立は従属なり’というダブルシンキングの構図が見えるのです。

同構図の視点から明治以降の皇室を観察しますと、近代日本国のもう一つの姿が浮かび上がっています。例えば、明治天皇から上皇までの歴代天皇は、英国国王よりガーター勲章を授与されています。ガーター騎士団とは、アーサー王伝説に登場する円卓の騎士団に由来し、百年戦争を背景として、1344年にエドワード3世が創設したものです(‘円卓’とは、中心となる国王は別としても、騎士達の立場が対等であることの表現・・)。中世の封建時代にあっては、叙勲は、それを授ける君主を主君とする騎士団に参加する、すなわち、家臣となることを意味します。現代にあっては、ドイツ皇帝のヴィルヘルム1世やオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世も授与されているように、同勲章の授与には封建的な主従関係は伴わないとされてはいますが、明治維新の経緯を思い起こしますと、日本国の天皇は、事実上、英国国王の家臣という立場にあるのかもしれません。ここにも、‘君主は家臣なり’という二重思考を見出すことができるのです。

二重思考を表裏として捉えるならば、近代、否、戦国時代以降の日英関係につきましては、表の部分のみが公式の歴史として描かれてきたように思えます。しかしながら、今日、事実は、むしろ裏面にあるのではないか、とする懐疑的な見方が内外にあって広がってきております。裏面なくして理解し得ない不可解な現象や過去の事実の暴露、並びに、伝統の真逆への変質等を目の当たりにすれば、誰もが権威を疑わざるを得ないからです。既存の権威が凋落する今日、およそ70年間にわたって君臨してきた英国女王の逝去は、同傾向にさらに拍車をかけることになるかもしれません。そして、それは、権威を以て定説化されてきたカバーストーリーとしての過去の‘歴史’を、客観的に見直すきっかけとなるかもしれないのです。

なお、エリザベス2世の逝去の直前に、バッキンガム宮殿の上空には‘二重の虹’がかかったと報じられております。自然現象であるのか、それとも、意図的な演出であるのか、虹が二重であっただけに、この不可思議な現象には興味を引かれるのです。

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‘ダブルシンキング’を国民に強いる安部元首相の国葬

2022年09月08日 13時45分34秒 | 国際政治
安部元首相は、日本国を護る愛国の士であったのか、それとも、愛国者のふりをした希有な売国奴であったのか。この問いは、国葬の日が近づくにつれ、多くの日本国民を日々憂鬱にしています。何と申しましても、安部元首相と日本国の韓国への従属化を公言して憚らない世界平和統一家庭連合(元統一教会)との密接な関係は、陰謀でも何でもなく、否定のしようもない事実であるからです。

この問題は、安部元首相のみならず、自民党の問題でもあります。中国との強い絆を有する創価学会を支持母体とする公明党の問題もあるのですから(反日的言動で知られる中国の王毅外相は、創価大学に留学していた経歴の持ち主・・・)。さらに、野党の中にもロシア、中国、韓国、北朝鮮といった諸国と繋がりがあり、かつ、新教宗教団体との関係が問われている政治家も散見され(民主党の鳩山元首相は、韓国にて土下座をしている・・・)、日本の政界全体の問題とも言えましょう。言い換えますと、これまで日本国民の多くが、左派政党の政治家に対しては凡そ確信し、保守政党の政治家に対しては漠然と抱いていた疑いが、今日、事実として証明されてしまったようなものなのです。与野党問わず、日本国並び日本国民のために尽くそうとしている政治家は、皆無に等しいらしいといっても過言ではありません。

事実が事実であるだけに、国葬を前にして国民の政治家を見る目は厳しさを増す一方です。本日、9月8日、自民党は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係について調査結果を公表するそうですが、内部調査の報告を100%信じる国民はそう多くはないことでしょう。問題行為に対する調査や捜査というものは、警察や検察がそうあるように、独立性が付与された中立的な外部機関によるものでなければ、信頼を置くことはできないからです。国民の批判に対する対応を、自己申告となる党内の内部調査に留めた時点において、既に隠蔽、あるいは、表面を取り繕うとする意図が窺えるのです。

こうした対応からしますと、自民党は、決して安部元首相が世界平和統一家庭連合と結託した偽旗作戦の中心人物であったとは認めないことでしょう。あくまでも保守の旗手としてのイメージを以て国葬に臨むものと予測されます。病身を押して8年8ヶ月にもわたって日本国のために尽力し、アベノミクスを以て日本経済を抜本的に立て直し、かつ、国際的にも‘自由で開かれたインド・太平洋構想’を打ち立てた偉大な政治家であったと・・・。そして、愛国心に満ちた政治家であったにも拘わらず、無情にも凶弾に倒れた悲劇の人というイメージが強調されるものと予測されるのです。若くして暗殺されたケネディ米大統領の国葬も同大統領の歴史的評価を高めるためのイメージ戦略の一環であったとする指摘もありますが、弔意の強制は見送られたものの、安部元首相の国葬も、国民の感情に訴えつつ、愛国者のイメージを押しつける演出が試みられるのかもしれません。

 イメージ戦略は、政治家にとりましては死後の評価にもかかわりますので大変重要なのでしょうが、国民の側からしますと、安部元首相については二つの全く正反対のイメージが重なることとなります。‘愛国者’と‘売国奴’という・・・。そして、この二重性は、ジョージ・オーウェルが『1984年』において描いたダブルシンキング(二重思考)を彷彿させます(イギリスを舞台とした小説には、『ジーギル博士とハイド氏』の二重人格や『大路と乞食』の取り替え物語を含め、二重性をテーマとするものが多い・・・)。小説の舞台となるオセアニア国の独裁政党が掲げる三つのスローガンは、“戦争は平和なり”“自由は隷従なり”“無知は力なり”なのですが、今日の日本国では、‘愛国者は売国奴なり’となりましょう。

二重思考とは、小説のみならず、現実の世界にあっても独裁国家の常套手段でもあります。例えば、共産党員が権力を独占する一党独裁体制を敷く中国の正式の国名は中華人民共和国ですし、北朝鮮の国名に至っては、‘民主主義’さえ加えられています(正式名称は朝鮮民主主義人民共和国・・・)。国家が強いる二重思考が国民に精神的な苦痛を与えるのは言うまでもありません。自らの心に正直であることが許されないどころか、事実の逆の‘認識’を押しつけられるのですから。安部元首相の国葬問題は、世界平和統一家庭連合が反日思想を教義として掲げてきただけに、否が応でも保守が抱える矛盾を暴き出し、この隠されてきた矛盾が、国民に二重思考のリスク、並びに拭いがたい政治家不信として重くのしかかっているように思えるのです。

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行政のフロッピーディスク使用は超先端戦略?-情報セキュリティーの問題

2022年09月07日 13時19分56秒 | 国際政治
 第二次岸田内閣の組閣に際して、一線を退いていた河野太郎議員がデジタル相として返り咲くこととなりました。マスメディアでは、旧態依然としたお役所体質を打破し、行政のデジタル化を進めるヒーローの再登板を歓迎する論調が主流となっているようです。しかしながら、行政のデジタル化は、急ぐべき課題なのでしょうか。

 ITが発達した今日、時代の最先端を行くのはデジタル化と信じられています。行政のみならず、企業一般に対してもDX化こそが急ぐべき経営改革の軸として喧伝されており、既に同技術を積極的に導入している企業も少なくないことでしょう。デジタル技術は、管理の効率性や経営の迅速性を飛躍的に高めますので、経営者の立場からすれば、願ってもないテクノロジーなのです。こうした高い効用や利便性が認められながらも、デジタル化には、無視できないそれ固有のリスクがあります。

 デジタル化に伴うリスクとは、セキュリティー確保が常に後手にまわるというものです。今日、インターネットの世界はネット犯罪に満ちており、パソコンも、しばしばコンピューター・ウイルスに感染したり、ハッカーからの攻撃を受けています。一般企業からの顧客情報の流出も日常茶飯事な事件となり、誰もが、セキュリティーに不安を感じる時代を生きているのです。このことは、IT技術にあっては、常にセキュリティーが、人々の経済活動や日常生活における利便性や実用性に追いついていないという、由々しき現実を示しています。そして、実用技術とセキュリティー技術との間のタイムラグ、あるいは、‘いたちごっこ’は、現状にあっては、完璧なるセキュリティーは実現し得ないという厳しい現実をも物語っているのです。

 しかも、IT分野において最先端の技術を有しているのは、軍事大国でもあるアメリカや中国と言った超大国です。また、サイバー攻撃、情報盗取、バックドア技術と言った犯罪まがいの技術については、ロシア、イスラエル、北朝鮮と言った諸国、あるいは、民間のIT大手も、既に日本国を凌いでいるかもしれません。仮に、日本国の支配、あるいは、世界支配を目論むような他国や外部勢力があったならば、国民の個人情報をも収集し得る政府レベルでのデジタル化は、何としても推進したいところとなりましょう。個人情報を含む情報の一元的、かつ、全面的な管理を実現し、自らを命令者とする支配体制を構築する上で、国境を越えて繋がるデジタルネットワークの敷設は、不可欠な情報インフラとなるからです。

自国よりも高度な技術を有する国や勢力が存在する場合、安易なデジタル化は、情報漏洩のリスクを高めるのみならず、安全保障をも揺るがす事態を招きかねません。言い換えますと、セキュリティーが万全ではない状態でのデジタル化は時期早々なのであり、仮に、デジタル化を進めるならば、全面的な導入に先立って、外部からの攻撃や侵入を100%防ぐ技術の開発に多額の予算を投じるべきと言えましょう。

それでは、ITにおいてセキュリティー技術が他者に劣る場合、どのように対処するべきなのでしょうか。その答えの一つは、敢えて旧式の技術を使い、ガラパゴス化する、というものです。河野デジタル相は、官公庁においてフロッピーディスクでの提出が義務づける法律が多々見られることを問題視し、デジタル化推進の‘目玉’としてその一掃を訴えています。しかしながら、もしかしますと、フロッピーディスクの継続的使用は、日本国の政府機関によるセキュリティー戦略の一環であるのかもしれません。この想定が正しければ、遅れているようにみせて、その実、最も効果的なセキュリティー対策を実施していることとなりましょう。

河野デジタル相は、管政権においてワクチン接種推進大臣の任にあった際、ワクチン・リスクを全てデマと決めつけて否定した過去があります。現在、リスクの多くが事実であったことが判明しているのですが、猪突猛進型の政治姿勢は、リスク軽視と同義ともなりましょう。あるいは、リスクを知りながら、外部者による日本支配を手助けするために、デジタル化を進めているのかもしれません(河野家は、日本端子などを介して中国と関係している一方で、真偽不明ながら、世界平和統一家庭連合との関係も指摘されている・・・)。何れにいたしましても、デジタル化に伴うリスクは日本国の独立性にも関わる重大問題ですので、セキュリティーを確立するまでは、独自路線を選択すべきではないかと思うのです。

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政教分離は国家の独立性を護る-蘇る江戸時代の鎖国・禁教の意味

2022年09月06日 12時49分32秒 | 国際政治
 目下、自民党と世界平和統一家庭連合、並びに公明党を介した創価学会との関係が問題視される理由は、政教分離の原則に反するからに他なりません。それでは、政治と宗教とは、何故、相互に距離を置かなければならないのでしょうか。それには、幾つかのれっきとした理由があります。本日の記事では、歴史を踏まえつつ、国家の独立性の観点から同原則の意義を考えてみたいと思います。

歴史において政治、経済、宗教の各領域が分離されていない時代には、人類は、どのような状況にあったのでしょうか。これらが一元化されていた時代、あるいは、相互の境界線が曖昧であった時代には、一つの分野での混乱や対立等が他の分野へと波及し、内乱や戦争に至ることも稀ではありませんでした。

例えば、宗教改革を期としたキリスト教の分裂により、ヨーロッパ諸国の多くが血で血を洗う激しい宗教戦争に見舞われています。1618年に始まるかの三十年戦争も、フスによる宗教改革の拠点となっていたボヘミアによる神聖ローマ帝国(旧教側)に対する反乱から始まりました。政治と宗教との連続性は、内乱の要因となるのみならず、戦争、あるいは、世界戦争をも引き起こす要因ともなったのです。

 また、アジア・アフリカにおける過酷な植民地支配も、政治、経済、宗教が渾然一体化した状況がもたらした人類の不幸な歴史でもありました。大航海時代の幕開けは、ヨーロッパの列強に勢力圏拡大のチャンスをもたらし、同地を根拠地としていた金融経済勢力にも凡そ無限大のビジネスチャンスを与えたからです。これらと同時に、世界大にキリスト教を広げたい教会、とりわけ新教の登場によりヨーロッパにあって守勢に立たされた旧教側の教団には、布教のための新天地を得ることとなります。かくして各国の東インド会社やイエズス会に見られるように、政治、経済、宗教勢力は、相互に競争と離合集散を繰り返しつつも、相互に利用し合いながら現地において植民地化政策を推進してゆくのです。

 日本国も例外ではなく、16世紀中葉の鉄砲伝来と共にヨーロッパ諸国との交易が始まるやいなや、イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルがいち早く来日して布教を開始します(ザビエルが鹿児島に上陸した1549年の8月15日は、聖母昇天の日であると共にイエズス会創設の日・・・)。ヨーロッパ文明の上陸が、外来の鉄砲が使われた長篠合戦あたりから時代が大きく動き、戦国時代がクライマックスを迎えるのは単なる偶然ではないのでしょう。そして、激動の時代をくぐり抜けて最後の勝者となった徳川家康が、天下平定後に鎖国政策、並びに、徹底した禁教を行なったことにも、それなりの理由があったと推察されるのです。

 江戸時代の鎖国政策、並びに、禁教こそ、実のところ、日本国による政治、経済、宗教の分離政策であったとも考えられます。つい一昔前までには、禁教政策はキリシタン弾圧とセットとなって理解され、内外から批判を浴びてきました。各藩の厳しい取り締まりによって宣教師の多くが磔などの非人道的な刑によって殉教しており、その残虐性については、今日の倫理・道徳の観念からしますと誰もが眉をしかめます(もっとも、キリスト教国でありながら、ヨーロッパ諸国にあっても異教徒に対しては残酷な弾圧が行なわれている・・・)。しかしながら、今日、イエズス会がスペイン等の推進していた植民地政策の協力者であり、表の布教の裏にあって武器や奴隷の売買にも関与していた事実が明らかになるにつれ(アルメイダなどイエズス会士にはユダヤ人が多い・・・)、風向きが変わってきているようにも思えます。とりわけイエズス会に関しては、これを追放しようとしたのは日本国のみではないのですから。

 徳川家康は、布教という名目で入国し、全国的な組織を構築する宗教団体が、海外勢力による自国への介入ルートとなり、武器・弾薬の供給等を介してキリシタン大名をはじめ戦国武将を背後から操る存在となっている現実を自らの経験を通して熟知していたからこそ、鎖国、並びに、禁教を断行したのでしょう。あるいは、新教国であるオランダの東インド会社と清国のみに特権として貿易権を与えつつ、日本人の民間商人達を海外貿易から排除して国家通商体制を樹立しようとしたのかもしれません。植民地化を招きかねないキリスト教の布教を禁じるという条件で・・・。

 政教分離の原則は、フランス革命を機に近代国家を支える原則として確立したことから、どちらかと申しますと、宗教が内包する非合理性から個々人の理性を護るための原則として理解されてきました(宗教は理性の敵とする認識・・・)。また、教団の信者との間に成立している強固な‘主従関係’が組織票などの問題をもたらし、かつ、特定の政党や政治家への無償サービスや資金提供が民主主義を歪めていることは言うまでもありません。政教癒着は民主主義に対する重大な脅威なのですが、それに負けず劣らず、民主主義国家が誕生する近代以前の時代にあっても、外部から忍び込む宗教勢力は、それが、外国や海外勢力とも密接に結びついているがために、国家の独立性を脅かす危険な存在であったことにはより注意を払うべきように思えます。

 今日でも、世界平和統一家庭連合は韓国人を教祖として仰ぎ、かつ、その教義においては過激な反日思想が窺えます(CIAやKCIA、さらには、北朝鮮との関係も指摘されている・・・)。創価学会も同様であり、中国との間に密接な繋がりがある上に、その活動は、フランスにあってカルト監視の対象リストに記載されていることを示すように、既にインターナショナル化(世界化)しております。否、これらの新興宗教団体は、世界支配を目論む超国家権力体の下部組織である疑いも濃厚であり、政教分離の原則がなし崩しとなりつつある現状は、日本国の独立性をも揺るがしているのです。超国家権力体が金融・経済財閥連合である点を考慮しますと、今日、真に必要とされるのは、政教分離の原則の徹底のみならず、‘政経分離の原則’という新たな原則であるのかもしれません(あるいは政教経分離の原則・・・)。

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公明党の論点すり替えに注意を-分けるべきは‘カルトと宗教’ではなく‘政治と宗教’

2022年09月05日 12時45分19秒 | 日本政治
 政教分離の原則が憲法第20条に明記されていながら、自民党と世界平和統一家庭連合とが長年にわたって癒着してきた実態は、今日、政治と宗教との関係を改めて問うこととなりました。当然に、同問題は創価学会を母体とする公明党にも波及するはずなのですが、報道によりますと、同一件について自民党の岸田総裁が公明党の山口代表に謝罪したというのですから唖然とさせられます。

それでは、あたかも他人ごとのように振る舞う公明党の居丈高で傲慢な態度は、どこから来ているのでしょうか。まずもって、創価学会員に観察される行動様式の特徴の一つとして、‘自信に満ちた態度をとる’というものがあります。それは、如何なる批判を受けたとしても決してひるんではならず、たとえ内心において動揺していたとしても、決してそれを表に出してはならない、というもののようです。新興宗教団体が、低い自己評価に悩む信者に対して‘自信’を与えているケースが少なくなく(権威主義の一種・・・)、所属する教団はしばしば‘虎の衣’となります。同行動様式は、創価学会に限らず新興宗教団体一般にも見られるのですが、超越的で絶対的な存在である神や仏と自己を同一化し、その名の下で自らの教団の無誤謬を信じる狂信的なメンタリティーの現れなのでしょう。

公明党の‘上から目線’の無反省な態度は、神や仏の権威を借り自らを特別視したい、あるいは正当化したい信者特有の行動様式として理解されるのですが、こればかりが要因ではないようです。昨今の公明党側の発言や説明からしますと、同党は、論点を巧妙にすり替えることで、この問題から逃げおおせることができると考えていると推察されるのです。論点をそれとなく移したり、はぐらかす作戦は、窮地に立たされた政治家が頻繁に用いる詐術的な手法でもあります。今般、公明党もまた、この手法で切り抜けようとしているようなのです。

 それでは、公明党による論点ずらしの作戦とは、どのようなものなのでしょうか。それは、おそらく、論点を、‘政治と宗教の分離’から、‘カルト教団と一般の宗教団体との区別’とにすり替えるというもののようです。本問題が表面化した際に、最初に注目を集めることになったのが、フランス等で制定されている「反カルト(セクト)法」です。公明党は、フランスの手法に着想を得て、世界平和統一家庭連合をカルト教団と認定する一方で、自らは一般の宗教団体とみなして‘問題なし’としたいらしいのです。もっとも、カルト認定の基準次第では、自らもカルトと認定されかねません。そこで、世界平和統一家庭連合において問題視されている‘‘霊感商法’の悪質性を強調し、その有無を唯一の基準に定めようとしたのでしょう。‘創価学会は霊感商法を行なっていない’と主張すれば、創価学会がカルト認定から逃れる道が開かれるのです。しかも、‘何れの宗教にも非合理性が認められるため、カルト教団と一般の宗教団体とを明確に区別するのは難しい’とする専門家の意見も聞かれ、同問題を有耶無耶にする環境は整えられつつあります(基準の設定が不可能ともなれば、世界平和統一家庭連合もカルト教団ではなくなってしまう・・・)。

 もっとも、この公明党の論点すり替え作戦は、‘やぶ蛇’ともなりかねません。そもそも、「反カルト法」が制定されているフランス等では、カルト認定基準はきちんと明確化されています。しかも、創価学会は監視対象とされるカルト教団のリストに記載されているのです。何故ならば、カルト教団として認定する第10番目の基準に「公権力への浸透の企て」があり、創価学会は、みごとに同基準に当てはまってしまうのです。

 かくして、公明党のカルト認定の基準を‘操作’することで自らを不問に付そうとする作戦は、多くの国民がフランス基準の情報を知るところとなれば、成功する見込みは薄いように思われます。そして、論点のすり替え作戦に気づいたが故に、今般の問題の核心が政治と宗教との分離にあるとする認識を、より一層深めることとなりましょう。そもそも、事の発端は、政治家である安部元首相と新興宗教団体との密接な関係にあるのですから。

政治と宗教との癒着に関しては、信者数を考慮しても、公明党を介して政治権力を公然と行使している創価学会のほうが余程深刻、かつ、一般の国民にとりましては危険な存在と言えましょう。宗教団体による権力行使や教団や信者等への利益誘導を証明さえできれば、法改正を待つまでもなく、現行の憲法や公職選挙法上の違反行為を罪として問うことができるレベルなのです。日本国の民主主義を歪めてきた要因を一つずつ取り除かないことには、国民を軽視し、社会をアンフェアなものとし、さらに、自国の富を海外に貢いでしまう悪しき政治は終わらないのではないかと思うのです。

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急がれる公職選挙法等の改正-新興宗教団体の組織票対策

2022年09月02日 11時25分12秒 | 日本政治
 メディアの報じるところによれば、自民党と世界平和統一家庭連合、並びに、公明党と創価学会との癒着は、政治家サイドの‘組織票ほしさ’に起因していると説明されています。そのさらに深奥には、カルト的世界支配の構想や巨大な利権が潜んでいるのでしょうが、信者を束ねる組織票という存在についても、今一度、考えてみる必要があるように思えます。

 新興宗教団体の組織票については、それが既成事実化しているだけに、国民多数が疑念を抱くことなく今日に至っています。政党も政治家も、新興宗教団体の組織票とは最も安定した固定票であり、選挙戦においてこれを確保しますと当選確率が上がると信じていることでしょう。組織票の存在は、伝統宗教と新興宗教とを区別するメルクマールでもあり、前者にあっては、信者に対して特定の政党や政治家に投票するよう支持することは殆どありません。多くの国民は近隣の神社の氏子であったり、先祖代々、縁あるお寺の檀家であったりするのですが、伝統宗教団体の薦めに従って自らの投票先を決めるわけではないのです。有権者の30から40%を占めるとされる無党派層が、伝統宗教団体が投票行動に殆ど影響を及ぼしていない現状を示していると言えましょう。

 それでは、何故、宗教団体は、鉄壁の組織票を纏めることができるのでしょうか。安部元首相は、世界平和統一家庭連合の組織票の割り振りを行なっていたとも報じられていますが、信者の票は組織の票として自動的にカウントされています。新興宗教団体が信者の個人的な票を‘自らのもの’とし得るのは、言わずもがな、教団と信者との間に命令者とその忠実な実行者という関係が成り立っているからです。教団、否、教祖の指令は絶対であり、信者は、教祖の指令のままに、何らの疑いをも抱くことなく一致団結して行動するのです。この側面は、宗教団体の影響力の源泉ともなる大量動員においても見られます(‘さくら’活動?)。

 こうした教団による信者に対する投票指令は、政教分離を定める憲法第20条に照らしますと、違憲と判断される可能性があります。憲法違反の問題について、政府は、政党は、たとえ与党として政府の一角を担っても憲法が禁じている「政治上の権力の行使」に当たらないと解釈しているようですが(1988年の竹下内閣時における質問主意書への内閣の回答・・・)、日本国は政党政治を基盤とする議院内閣制を採用しておりますので、同政府解釈は詭弁としか言いようがありません。そして、議会選挙、とりわけ衆議院議員選挙は国民による政権選択の役割をも担うのですから、宗教団体による信者に対する投票支持は、宗教政党による「政治上の権力行使」を間接的に導くものとなります。

 政教分離の原則に加え、民主主義の観点から本質的な問題となるのが、教団による信者票の‘囲い込み’は、国民の政治的自由、並びに、政治的権利の侵害に当たるのではないか、という問いかけです。特定の教団への入信が、信者個人の参政権の自由な行使を著しく制約し、国民としての権利の教団への事実上の移譲を意味するならば、民主主義の基盤を揺るがしかねないからです。国民の政治的自由、並びに、政治参加の権利の保障なくして民主的国家体制は成り立ちません。信者の方々は、この点を、一体、どのように考えているのでしょうか(洗脳されている、あるいは、‘背信者’や‘裏切り者’と見なされるので、協力せざるを得ない?)。新興宗教団体は、憲法でも保障されている信教の自由を盾にとって自らの政治活動を正当化していますが、信者個人の自由については全く眼中にないようなのです。

しかも、拝金主義に堕した教団が、票を提供した‘見返り’として、政党や当選した政治家を介して政治的利権を信者に配っているならば、これは、公職選挙法第221条並びに第222条において禁止されている‘買収および利害誘導罪’の様相を呈してきます(第222条は多数人を対象とした規定・・・)。今日、減少傾向とは言え、創価学会の信者数が増加したのも、政府調達等に際して信者やその周辺の人々が、何らかの政治的・経済的な恩恵を受けてきたからなのでしょう。

 以上に述べたように、新興宗教団体の組織票には、民主主義を歪めかねない様々な問題が潜んでいます。政治レベルでの早急な対応が望まれるのですが、こうした諸問題点に対しては、新たに反カルト(セクト)法を制定するよりも、現行の法律を改正したほうがより迅速に解決できるかもしれません。例えば、公職選挙法を改正し、宗教団体による信者への投票支持や運動員の派遣等を違法とすれば、宗教団体の組織票は消滅します。あるいは、所轄官庁による宗教法人の認証審査の基準として非政治性を設けると共に、仮に、教団による投票指示と言った行為が行なわれた場合には、認証の取り消しや解散を命じ得るといった方向での宗教法人法の改正も考えられましょう。

 今日、新興宗教団体の組織票、並びに、動員力が民主主義を脅かす存在として国民の多くが認識するところとなっております。それは、迫り来る世界支配の脅威でもあるのですが、政治的自由も含めた国民の基本的な自由や権利を護ることこそ、政治本来の使命なはずです。真に国民のための政党並びに政治家であるならば、先ずもって上述した法改正に着手すべきではないかと思うのです。

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ポスト冷戦時代の‘挟み撃ち作戦’-新興宗教団体の利用

2022年09月01日 12時08分29秒 | 統治制度論
 昭和の時代が幕を閉じ年号が平成に代わる頃、即ち、冷戦構造の崩壊期でもある1990年あたりから、日本国の政治も大きく変貌してゆくことになりました。グローバリズムの本格化とも重なるこの時期を境として、上下による「挟み撃ち作戦」のターゲットも、中間層を形成する一般国民へと移り、同作戦は、いよいよ一般の日本国民に対して牙をむくようになるのです。そしてこの流れが、創価学会や世界平和統一家庭連合といった新興宗教団体の政治的台頭と軌を一にするのは、単なる偶然とは思えないのです(もっとも、第一次世界大戦や第二次世界大戦の戦死傷者のほとんどが中間層であったことは、当初より、超国家権力体のターゲットは中間層であったのかもしれません)。

 冷戦終焉が予め計画されていたのか、それとも、計画失敗によるシナリオの変更であるのかは定かではありませんが、超国家権力体は、ポスト冷戦期にあって‘挟み撃ち作戦’の第二ステージに移行する、あるいは、抜本的な再編を試みたようです。日本国にありましても、戦前から冷戦期にかけて「やくざ」を含む極右団体の暴力を対共産主義勢力の口実の元に利用してきたのですが、これらの団体は、ポスト冷戦期にあってはもはや同作戦遂行に適した‘下部’ではなくなります。グローバリズムを推進するに際して、映画や芸能人などによるイメージ操作等によって大衆的な人気を得ており、かつ、‘愛国者’のポジションにある「やくざ」は、一般的な国民との間に心理的な繋がりがある故に‘不適格者’の烙印を押されるのです。

 中間層を挟撃する実行部隊として、次に白羽の矢が立てられる、あるいは、事前に準備されていた組織こそ、新興宗教団体であったのかもしれません。戦前にあっても、大本教や天理教のように新興宗教団体が盛んに設立された時期があったのですが、戦後の冷戦期にも新興宗教団体は数多く設立されています。もっとも、戦後に制定された憲法が定める政教分離の原則もあって積極的な政治活動は控えており、創価学会が1964年に公明党を設立したものの、地方議会並びに国会にあって若干の議席を得るに留まっていました(1964年に公明党を政治団体として許可されるにあたっての経緯が疑わしい・・・)。

 ところが、1990年以降になりますと、新興宗教団体は、箍が外れたかのように積極的に政治の世界に進出してゆきます。1993年には、非自民連立政権が誕生すると、公明党は、与党として政府の一角をなすようになるのです。オウム真理教が衆議院議員選挙に候補者を擁立したのも1990年のことです。その一方で、冷戦期において反共勢力として元より自民党の保守勢力との間に‘共闘関係’のあった世界平和統一家庭連合(元統一教会)は、ポスト冷戦時代に合わせて衣替えを行なっています。1994年5月1日に統一教会の時代の終焉を宣言し、世界平和統一家庭連合と名称の新組織を設立するのです。因みに、5月1日は、イエズス会士であり、かつ、インゴルシュタット大学の教授であったアダム・ヴァイスハウプトが1776年に秘密結社イルミナティを創設した日であり、労働者の祭典であるメーデーであると共に、日本国の今上天皇が2019年に即位した日でもあります。世界平和統一家庭連合のグローバル化、並びに、同時期に推進された創価学会のインターナショナル化は、挟み撃ち作戦の実行部隊として、超国家権力体が両者をバックアップしてきたことを強く示唆していると言えましょう。

なお、極右団体は、神道と言った日本固有の伝統宗教を信奉する傾向にありますので、国家の消滅を目的とする超国家権力体の視点からしますと、なおさらに不適任です。フィリップ・ポンス氏の『裏社会の日本史』は90年年代初頭までの状況しか追っていないのですが、平成の時代に至ると、日本国内の‘裏社会’でも中国系の蛇頭などが台頭すると共に、日本国内の暴力団内部では在日韓国・朝鮮系の勢力が伸張してトップの座につくケースも出現します。すなわち、かつて‘下部’を担った組織も、一般の日本国民との間の距離が開き、グローバルな犯罪マフィアと化してゆくのです。

 このような観点から1990年代以降の日本政治を観察してみますと、二期に及ぶ長期安倍政権を含め、積極的なグローバル化、否、日本国の植民地化政策を可能としたのは、上部の政権に‘代理人’を据える一方で、絶大な動員力を有する新興宗教団体を下部組織とする‘挟み撃ち作戦’であったのかもしれません。自民党は保守政党の看板を掲げる‘偽旗作戦’によって保守層からの支持を保持する一方で、超国家権力体から命じられた売国的な政策については、連立を組む公明党への配慮という口実を得ることができます。連立相手の公明党も、国土交通相のポスト独占によって巨大な利権及び組織票を得ていることは言うまでもありません。信教宗教団体に属する下部の信者達は、周囲の一般国民に関する情報収集のみならず、特定の行動に向けて同調圧力をかけたり、政府に対して批判的な国民を密かに排除しようとしてきたと推測されるのです。もっとも、同権力体が強力にデジタル化を推し進めている現状からしますと、‘挟み撃ち作戦’は今や最終段階を迎えており、もはや新興宗教団体を下部として利用する必要性もないのかもしれません。
 
 果たして、以上に述べてきた本ブログの作業仮説は現実を説明しているのでしょうか。今日の政治状況を見ますと、同仮説を陰謀論として葬り去ることこそ危険なように思えます。安部元首相の暗殺も、その意図がどのようなものであれ、世界平和統一家庭連合が関わっているだけに超国家権力体の関与が強く疑われます(一発で弾丸を6発発射できる手製の散弾銃によって、安部元首相の身体に著しい損傷を負わせることも、周囲の人々を被弾させることもなく、山上容疑者が単独で暗殺を実行することはどのように考えても不可能・・・)。現実世界では、あまりにも不自然、かつ、カルト的な現象ばかりが頻発しているのです。

日本国が健全性、否、正気を取り戻し、民主主義国家として再出発するためには、水面下で進められてきた‘挟み撃ち作戦’の発動を停止させるしかありません。そして、人類が挟撃に遭い、超国家権力体の厳格な支配・監視下に置かれてしまう危機は、日本国のみの問題ではないと思うのです。

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