アンドレアス・エッガーという男の生涯は幸せだったというが、読んだ後になって、彼が過ごした年月の跡は心の底に雪のように積もって、思い出すごとにじわっと暖かい思いと感動が湧きあがってくる。
アンドレアス・エッガーという男の物心ついてから死ぬまでの物語。
生まれて死ぬということは命の継承ということから見て自然なことだ。それを運命とか宿命と名付けて生涯の時間の経過に乗せて、様々に人は過ごしていく。そしてこの物語のように一人一人の人生がある。
エッガーは周りの影響を受けない。相対とか絶対という言葉の外で生きていた。人の思惑や環境はどんなものでも彼は向き合うことはない、ただ心に深く焼き付いた出来事は時々浮かび上がっては来るが。
生きていくために、働くことは必要であり、厳しいアルプスの麓では冬の脅威にさらされることもある、寒さの厳しい村では生活の知恵は備えていなくてはいけない。
それだけが彼の暮らしを支えるもので、言葉にするほどの自覚があるかないか内省というものも乏しい本人には定かでもなく、いわば「生きることはそれなりに、なるようになっていく」という素直な流れに沿って歳を重ねていく。
野心や向上心という言葉は多分知らない。記憶もバラバラでとりとめないが時々強烈に思い出す風景もある。
母が死んで私生児だった彼は街からアルプスの麓の農場に連れて来られた。義理の叔父がいる牧場で働きながら成長する。愛情のかけらもない折檻は太いハシバミの枝でつくった鞭で打たれることで、ついに右足を骨折した。
言葉も知らず文字も読めなかったが小学校に入り言葉を覚え、それを並べて少しずつ文章にすることができるようになった。
足のことをからかわれながらも13.4歳になると背丈が延び筋肉がついて力仕事が成人並みに出来るようになる。
エッガーは逞しかったが緩慢だった、ゆっくり考えゆっくり話しゆっくり歩いたしかしその後をしっかり残した。それもその種の跡が残るべきだと考える場所に。
脚は曲がったまま治らず、あたかも右足だけが、体のほかの部分よりも一拍だけ長い時間を必要とするようだった。一歩踏み出す前にまず、そんな苦労をする甲斐があるのだろうかと考えねばならないかのようだった。。
牧場のおばあが言った。「成長するにつれてもとに戻るさ、人生のすべてと同じようにね。」あばあが死んで牧場主が言った「どこへ行ったか分からないが、これでよかったんだ。古いものが死ねば新しいものの場所ができる。そういうものだしこれからもそれは変わらない」
馬が暴れ、おばあの柩が開いて転がり腕が外に突き出してそれがエッガーに別れを告げているように揺れていた。
エッガーは少しずつ貯めた金で谷の向いの石だらけの小さな土地を買う。牧場主には「俺を殴ったら殺す」と言ってそこを出た。
エッガーは、屈強な肉体を持ってはいるがいつまでも片足は不自由だった、心は自由になった、地位も名誉もないが。
星空を見上げながら未来を思った。何一つ期待しないからこそ果てしなく遠くまで広がっている未来のことを。
あの時エッガーは30過ぎ、二月の厳しい寒さで雪が深い日ふと予感がして山羊飼いの小屋に行ってみる。そこでやせ細った山羊飼いのヨハネス(ヤギハネス)が瀕死の状態で横たわっていた。エッガーは山羊を運ぶ籠に乗せて麓に運ぼうとする。すでに死の国に片足掛けていたようなヤギハネスはエッガーが転んだ隙に逃げ出して、山を駆け上っていく。「どこに埋葬されても同じことだ食いちぎるような寒さ、一番に魂を食いちぎられる。骨や心や魂や一生の間しがみついてきたもの信じてきたものぜんぶだ。死は何にも生み出したりはしない!氷の女なんだよ。」
「ひどい話だな」
ヤギハネスが霧に溶けるように消えたことを忘れることはできなかった。
酒場で見かけたマリーに仲間が山に火の文字を書いてくれて求婚した。美しい名前を持った女は優しく未来への夢を彩ってくれた。孤独ではなくなった。
33歳になった。義務を自覚した。村に来た観光開発でロープウエイの敷設仕事があった。鉄塔の基礎づくりで穴を掘り危険な高架線の上で仕事をした。
村に電気がともり人が増え道路が舗装された。ある日事務所に行き「もっと仕事が欲しい」と訴えた。「家庭を作るんだ」事務長は時給を上げてくれた。「身を粉にして働くのだ」
人を箱に入れ、椅子に座らせて山頂に運ぶ、エッガーにすればばかばかしいような工事が完成した。37人の命を飲み込んで。「死んだら死んだ、それだけだ」と腕をもぎ取られたマトルは言って死んだ。
だがエッガーの狭い土地を雪崩がすべてを押し流し飲み込んだ。雪庇が剥がれ大きな塊になって転がり落ち雪崩をおこしたのだ。エッガーは悲しみに硬直し病んだ。
彼は病が癒えたころ機械の保守点検係になった。誰もやり手がなかったのだ。綱から綱へ油かすや鳥の糞を取り除いた。カラビナを付けると山の清浄な空気が徐々に彼を薄れさせ、純粋な悲しみだけが残った。
彼は家と妻を失い起きた戦争に身を投じた。足のせいで遅れ終戦前の人海政策でロシア、コーカサスの前線で爆破に使う発破穴を掘り続けた。終戦になった時彼は捕虜だった。前線で2か月、捕虜で8年以上過ぎた。さらに6年後、解放され服を焼いて駅にむかった。
村に帰ったが昔の会社は無くなっていた。除隊金も使い果たし道に迷った老人夫婦の観光案内をして、山の案内人になった。よくわからないが、観光客にも飽くことのない山への憧れを感じることができた。
若者が言った「どこもかしこもこんなにきれいなのにあなたには見えていないのかい!」エッガーは言った「見えている、だがすぐ雨になる、地面が泥濘んできたらきれいな景色も何もあったもんじゃない」
案内をやめ古い家畜小屋で暮らし始めた。ぼろぼろの木のような体だった。谷で見つかったヤギハネスの死体には腕がなかった。空気が顔を掠め氷の女が見えた。
これからするべきこと考えながら、その後白昼夢を見て死んだ後なにも残さない幸せな一生を送ったと感じていた。
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