いちかわ「こん」→「こん」とらくときらー(コントラクト・キラー)
あまりにも、そっけなく。
唐突な死でさえ、自然であるかのように描く。
登場人物たちは笑わず、口数も少ない。
演出も説明的な描写を極力避け、観客の想像によって物語を完結させようとする、、、ような創り。
映画祭のステージに泥酔状態で現れることもあるフィンランドの映画監督、アキ・カウリスマキの映画はいつだって無愛想で辛辣、しかしそれでいてユーモラス。
支持層はけっして広くはないが「確実に」固定ファンがついていて、彼ら彼女らは新作が公開される度に、都心の小さな小さな劇場に集う。
カウリスマキが(兄のミカとともに)注目されたのは90年代初頭で、自分もこのころに知り、タイトルも素敵な『マッチ工場の少女』(90)を観て、新鮮な感動を覚えた。
現在のカウリスマキを「詩情を湛えた人間賛歌」を得意とする―と評することも出来るが、初期作品は必ずしもそうではなく、『マッチ工場の少女』も、孤独で暗~~いヒロインが、ひたすら不幸な道を辿るさまを描く、尖った作品だった。
そのころに撮られた一本が、『コントラクト・キラー』(90)である。
コントラクト(=contract)とは「契約」の意味だから、「殺人者との契約」と訳せようか。
家族も恋人も居ない孤独な男(ジャン・ピエール・レオー)が、会社をクビになる。
人生にこの世に絶望した彼はガス自殺をはかるも失敗、そこで闇の組織に「自分を殺してくれ」と依頼する。
しかし契約した直後、ある女性と出会い一目惚れをしてしまう。
生まれて初めて「生きたい!」と思うようになった彼は・・・という物語。
星新一やロアルド・ダールが手がける短編に通ずるようなところがありそうだが、
山田洋次が監督し、坂本九が主演した『九ちゃんのでっかい夢』(67)という映画があって、設定は『コントラクト・キラー』と「ひじょーに」よく似ている。
似ているのだが、「死にたい思い」「生きたくなった思い」が真に迫っているのは『コントラクト・キラー』のほうだと思う。
それはたぶん、カウリスマキ特有の「そっけない演出」と、演じるレオーの無表情さが「逆に」効いているからだろう。
九ちゃんが悲しそうにしていても、友人が慰めてくれそうだし。
しかし『コントラクト・キラー』の主人公には、ほんとうに友人さえ居ないし。
物語は後半、雇われた殺人者の「切羽詰った人生」まで絡み始め、意外な展開をみせる。
とはいっても大仰な音楽効果はないし、クライマックスといえる描写も「ひたすら」そっけない。
劇的なことが劇的に起こることなんて、そうそうない―カウリスマキは、そういうことをいいたいのかもしれない。
90年代後半―。
カウリスマキの演出はいよいよ「過激に」そっけなくなり、この時代の最高傑作といっていいであろう『浮き雲』(96)を発表する。
ともに失業した夫婦がレストラン開業を夢見る、小さな小さな物語だった。
これが「敗者三部作」の第一部で、
記憶喪失の主人公を、「ありがち」といえるドラマチックな展開を「避けに避け」て綴る『過去のない男』(2002)の第二部はカンヌでグランプリに輝き、
第三部の『街のあかり』(2006)は、孤独な男が美女にいい寄られ、いつの間にか宝石強盗の濡れ衣を着せられる悲喜劇だった。
そして2011年、「こんな世の中だから…」という思いで撮った『ル・アーヴルの靴みがき』で静かな感動を呼ぶ。
不法移民の少年と老人の交流を見つめる、優しい御伽噺といったところか。
寡作のひとで、さらにいえば新作も「満を持して」という感じでは発表しない。
「俺なんかの映画を期待して、、、」という風に、観客に毒づいてみせる一面も。
照れ屋なのだろう、そんな人間性と映画のカラーが見事に合致し、好きなひとは「大」好きになるのだった。
※日本のCMも手がけている
明日のしりとりは・・・
こんとらくとき「らー」→「らー」す・ふぉん・とりあー。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(22)』
あまりにも、そっけなく。
唐突な死でさえ、自然であるかのように描く。
登場人物たちは笑わず、口数も少ない。
演出も説明的な描写を極力避け、観客の想像によって物語を完結させようとする、、、ような創り。
映画祭のステージに泥酔状態で現れることもあるフィンランドの映画監督、アキ・カウリスマキの映画はいつだって無愛想で辛辣、しかしそれでいてユーモラス。
支持層はけっして広くはないが「確実に」固定ファンがついていて、彼ら彼女らは新作が公開される度に、都心の小さな小さな劇場に集う。
カウリスマキが(兄のミカとともに)注目されたのは90年代初頭で、自分もこのころに知り、タイトルも素敵な『マッチ工場の少女』(90)を観て、新鮮な感動を覚えた。
現在のカウリスマキを「詩情を湛えた人間賛歌」を得意とする―と評することも出来るが、初期作品は必ずしもそうではなく、『マッチ工場の少女』も、孤独で暗~~いヒロインが、ひたすら不幸な道を辿るさまを描く、尖った作品だった。
そのころに撮られた一本が、『コントラクト・キラー』(90)である。
コントラクト(=contract)とは「契約」の意味だから、「殺人者との契約」と訳せようか。
家族も恋人も居ない孤独な男(ジャン・ピエール・レオー)が、会社をクビになる。
人生にこの世に絶望した彼はガス自殺をはかるも失敗、そこで闇の組織に「自分を殺してくれ」と依頼する。
しかし契約した直後、ある女性と出会い一目惚れをしてしまう。
生まれて初めて「生きたい!」と思うようになった彼は・・・という物語。
星新一やロアルド・ダールが手がける短編に通ずるようなところがありそうだが、
山田洋次が監督し、坂本九が主演した『九ちゃんのでっかい夢』(67)という映画があって、設定は『コントラクト・キラー』と「ひじょーに」よく似ている。
似ているのだが、「死にたい思い」「生きたくなった思い」が真に迫っているのは『コントラクト・キラー』のほうだと思う。
それはたぶん、カウリスマキ特有の「そっけない演出」と、演じるレオーの無表情さが「逆に」効いているからだろう。
九ちゃんが悲しそうにしていても、友人が慰めてくれそうだし。
しかし『コントラクト・キラー』の主人公には、ほんとうに友人さえ居ないし。
物語は後半、雇われた殺人者の「切羽詰った人生」まで絡み始め、意外な展開をみせる。
とはいっても大仰な音楽効果はないし、クライマックスといえる描写も「ひたすら」そっけない。
劇的なことが劇的に起こることなんて、そうそうない―カウリスマキは、そういうことをいいたいのかもしれない。
90年代後半―。
カウリスマキの演出はいよいよ「過激に」そっけなくなり、この時代の最高傑作といっていいであろう『浮き雲』(96)を発表する。
ともに失業した夫婦がレストラン開業を夢見る、小さな小さな物語だった。
これが「敗者三部作」の第一部で、
記憶喪失の主人公を、「ありがち」といえるドラマチックな展開を「避けに避け」て綴る『過去のない男』(2002)の第二部はカンヌでグランプリに輝き、
第三部の『街のあかり』(2006)は、孤独な男が美女にいい寄られ、いつの間にか宝石強盗の濡れ衣を着せられる悲喜劇だった。
そして2011年、「こんな世の中だから…」という思いで撮った『ル・アーヴルの靴みがき』で静かな感動を呼ぶ。
不法移民の少年と老人の交流を見つめる、優しい御伽噺といったところか。
寡作のひとで、さらにいえば新作も「満を持して」という感じでは発表しない。
「俺なんかの映画を期待して、、、」という風に、観客に毒づいてみせる一面も。
照れ屋なのだろう、そんな人間性と映画のカラーが見事に合致し、好きなひとは「大」好きになるのだった。
※日本のCMも手がけている
明日のしりとりは・・・
こんとらくとき「らー」→「らー」す・ふぉん・とりあー。
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