「鏡よ、鏡」とかいって、自分ちの「ふつーの鏡」を「まほうの鏡」に見立て、
世界一かっけー男子は、だあれ?
などと聞くような趣味はない。
美に執着するものではないし、ナルシストでもないからね。
いや前言撤回、自分の内面が「醜だらけ」だからこそ美(=女子)に執着しているところがあるし、
ナルシストっちゃあナルシストなんだと思う。
ただそれでも、鏡に向かって自分と対峙する時間というものは・・・短め、なんじゃないかな。
バリカンで坊主にするとき。
鼻毛チェックをするとき。
新しいTシャツを着てみるとき。
このくらいだろうか。
24時間で計算してみると、1分も要していないのではないか。
だからけっしてオシャレさんではないが、かといってダサダサ野郎でもないと思う。いや思いたい。
外出しても、とりあえず笑われたりはしないぞと。
写真や映像ではなく「生の自分」を自分自身で見る場合、頼るのは鏡くらいしかない。
自分VS、自分―自分との対峙。
オシャレかそうでないかだけでなく、いろんなことが見えてくる。
いや、見えてしまう。
「老けたなぁ」
これは「あるある」だし、まだいいだろう。
「悪いツラしてんなぁ」
「馬鹿面だなぁ」
しばらく見つめていると、自分の視線に自分が耐えられなくなってしまったりする・・・そんなときは、ないだろうか。
鏡には映っていないはずのイキザマまでもが、見えちゃったりしてね。
恐ろしい。
あぁ恐ろしい。
今宵は、そんな鏡を効果的に用い、キャラクターが自分自身と対峙する映画を挙げてみよう。
なんだか恐ろしいものばかりで、
やはり多用されるAV(=男優「ほらどうだ、こんなイヤらしい格好してるんだぞ」)とはちがうなぁ、映画は凄まじいものを見せてくれちゃうなぁ、、、などと思うのであった。
(1)『タクシードライバー』(76)
このときのトラビスは、もう無敵なんだ。
(2)『太陽がいっぱい』(60)
「なりすまし」映画の最高峰。
友人の服を着たアラン・ドロンが鏡に向かい、キスをする。
あくまでも「モノマネの練習」ではあるが、どことなく同性愛の雰囲気を漂わせていて秀逸。
(3)『ニキータ』(90)
まだ自身の美というものに気づいていないアンヌ・パリローに、ジャンヌ・モローはいう、
「限界のないものがふたつあるわ、女の美と、それを乱用すること」と。
きゃー、怖い。
(4)『燃えよドラゴン』(73)
「鏡の間」での戦い。
簡単にいえばトップ画像のように、パラレルワールド的に見える空間。
(5)『愛を乞うひと』(98)
髪を切るひとと、髪を切られるひと―どちらも原田美枝子が演じているため、鏡に映るのも含めて4人の原田美枝子が存在している。
だからであろうか、女優の対峙、親子の対峙など、じつに様々な側面でドキリとさせられるのだ。
(6)『サンセット大通り』(50)
グロリア・スワンソンが鏡で自身を見つめる映像が、主観演出(=観客側を見ている)で表現されている。
あの、じつに奇妙で恐ろしい表情!!
(7)『女優霊』(96)
鏡を効果的に、いや巧妙に用いたホラー映画。
見えてはいけないものが鏡には映っていて、しかも、それに対する「自身の恐怖顔」も確認出来てしまうから「より」怖いのである。
(8)『ジョニー・ハンサム』(89)
容姿にコンプレックスを持つものにとって、鏡イコール社会の目であって、だから「おおいなる敵」でしかない。
整形で新しい人生を歩み始めた男が、結局は醜い顔に戻ってしまうという哀しいオチは、芥川の『鼻』の清々しい結末とはちがって、いつまでもこころに残る。
あまり評価を得られなかった作品だが、自分は大好き。
いま観返すと・・・ミッキー・ロークにエレン・バーキン、モーガン・フリーマンにエリザベス・マクガヴァン、そしてフォレスト・ウィテカーとランス・ヘンリクセン、、、って、えれー豪華じゃないか!!
そうそう、ライ・クーダーの音楽も絶品。
(9)『ブラック・スワン』(2010)
バレエの世界をホラータッチで描く佳作。
ヒロインが鏡を通し自身と対峙するも、自分自身であるはずの「鏡のあたし」(いや、素のあたし、、、のほうか?)が別行動を取り出す。
内に秘めた彼女の願望を描き出す手法は、監督アロノフスキーの趣味全開で面白い。
(10)『ペネロピ』(2006)
『ジョニー・ハンサム』同様、容姿にコンプレックスを持つキャラクターを描く場合、鏡というものは最大の小道具になる。
なるからこそ、彼・彼女の嘆きだけで終わらせないでほしい。
そういう意味でこの作品は「その先」もスマートに描き、けっこう感心した。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『どこに住んでも』
世界一かっけー男子は、だあれ?
などと聞くような趣味はない。
美に執着するものではないし、ナルシストでもないからね。
いや前言撤回、自分の内面が「醜だらけ」だからこそ美(=女子)に執着しているところがあるし、
ナルシストっちゃあナルシストなんだと思う。
ただそれでも、鏡に向かって自分と対峙する時間というものは・・・短め、なんじゃないかな。
バリカンで坊主にするとき。
鼻毛チェックをするとき。
新しいTシャツを着てみるとき。
このくらいだろうか。
24時間で計算してみると、1分も要していないのではないか。
だからけっしてオシャレさんではないが、かといってダサダサ野郎でもないと思う。いや思いたい。
外出しても、とりあえず笑われたりはしないぞと。
写真や映像ではなく「生の自分」を自分自身で見る場合、頼るのは鏡くらいしかない。
自分VS、自分―自分との対峙。
オシャレかそうでないかだけでなく、いろんなことが見えてくる。
いや、見えてしまう。
「老けたなぁ」
これは「あるある」だし、まだいいだろう。
「悪いツラしてんなぁ」
「馬鹿面だなぁ」
しばらく見つめていると、自分の視線に自分が耐えられなくなってしまったりする・・・そんなときは、ないだろうか。
鏡には映っていないはずのイキザマまでもが、見えちゃったりしてね。
恐ろしい。
あぁ恐ろしい。
今宵は、そんな鏡を効果的に用い、キャラクターが自分自身と対峙する映画を挙げてみよう。
なんだか恐ろしいものばかりで、
やはり多用されるAV(=男優「ほらどうだ、こんなイヤらしい格好してるんだぞ」)とはちがうなぁ、映画は凄まじいものを見せてくれちゃうなぁ、、、などと思うのであった。
(1)『タクシードライバー』(76)
このときのトラビスは、もう無敵なんだ。
(2)『太陽がいっぱい』(60)
「なりすまし」映画の最高峰。
友人の服を着たアラン・ドロンが鏡に向かい、キスをする。
あくまでも「モノマネの練習」ではあるが、どことなく同性愛の雰囲気を漂わせていて秀逸。
(3)『ニキータ』(90)
まだ自身の美というものに気づいていないアンヌ・パリローに、ジャンヌ・モローはいう、
「限界のないものがふたつあるわ、女の美と、それを乱用すること」と。
きゃー、怖い。
(4)『燃えよドラゴン』(73)
「鏡の間」での戦い。
簡単にいえばトップ画像のように、パラレルワールド的に見える空間。
(5)『愛を乞うひと』(98)
髪を切るひとと、髪を切られるひと―どちらも原田美枝子が演じているため、鏡に映るのも含めて4人の原田美枝子が存在している。
だからであろうか、女優の対峙、親子の対峙など、じつに様々な側面でドキリとさせられるのだ。
(6)『サンセット大通り』(50)
グロリア・スワンソンが鏡で自身を見つめる映像が、主観演出(=観客側を見ている)で表現されている。
あの、じつに奇妙で恐ろしい表情!!
(7)『女優霊』(96)
鏡を効果的に、いや巧妙に用いたホラー映画。
見えてはいけないものが鏡には映っていて、しかも、それに対する「自身の恐怖顔」も確認出来てしまうから「より」怖いのである。
(8)『ジョニー・ハンサム』(89)
容姿にコンプレックスを持つものにとって、鏡イコール社会の目であって、だから「おおいなる敵」でしかない。
整形で新しい人生を歩み始めた男が、結局は醜い顔に戻ってしまうという哀しいオチは、芥川の『鼻』の清々しい結末とはちがって、いつまでもこころに残る。
あまり評価を得られなかった作品だが、自分は大好き。
いま観返すと・・・ミッキー・ロークにエレン・バーキン、モーガン・フリーマンにエリザベス・マクガヴァン、そしてフォレスト・ウィテカーとランス・ヘンリクセン、、、って、えれー豪華じゃないか!!
そうそう、ライ・クーダーの音楽も絶品。
(9)『ブラック・スワン』(2010)
バレエの世界をホラータッチで描く佳作。
ヒロインが鏡を通し自身と対峙するも、自分自身であるはずの「鏡のあたし」(いや、素のあたし、、、のほうか?)が別行動を取り出す。
内に秘めた彼女の願望を描き出す手法は、監督アロノフスキーの趣味全開で面白い。
(10)『ペネロピ』(2006)
『ジョニー・ハンサム』同様、容姿にコンプレックスを持つキャラクターを描く場合、鏡というものは最大の小道具になる。
なるからこそ、彼・彼女の嘆きだけで終わらせないでほしい。
そういう意味でこの作品は「その先」もスマートに描き、けっこう感心した。
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明日のコラムは・・・
『どこに住んでも』