たとえば自分は、キチガイということばを多用する。
(トップ画像は、映画『気狂いピエロ』)
多用というか、そう自称する。
好んで自称する。
卑下や自虐ではなく、まるで誇っているかのようにキチガイを名乗る。
クレイジーではダメ、アッパッパーなんて使う気にもならない。キチガイじゃなきゃ、ダメなんだ。
だが。
それが原因で担当者と揉めることがある。
こんな三流ライターでさえ揉める、とっても危険なことばなのだ。
「ウケを狙って誇張気味に書かないでください。これはエロ本です。しかも健全なほうの。読者は、牧野さんが日課として自慰をすることを面白がっているんです。それを、ふつうのことばで書いてください」
エロ本に健全も不健全もあるのか―とも思ったが、問題は「誇張」である。
うんにゃ、キチガイを自称することを誇張とは思っていないのだがね。
たしかに誇張も表現のひとつである。
誇張することによって、見えてくることがあるだろうから。
(似たことばにデフォルメがあるが、意味は同じでもニュアンス的に「軽い」感じがするのよね)
今年の1月に、坂東眞砂子が亡くなった。
児童小説でデビューし、のちにホラー小説を量産した作家である。
あるが、このひとを一躍有名にしたのは2006年8月18日付『日本経済新聞』のコラム、『子猫殺し』だろう。
飼い猫が産んだばかりの子猫を、坂東が崖下に放り投げて殺した―そういう衝撃的な内容だった。
「増えていくと困るから」「育てられないから」捨てる、というか「殺す」。
この告白は、たいへんな騒ぎになった。
自分は「なにか(表現的な)意図があるんじゃないか」と思ったが、
動物愛護の観点から、いやいやそんなレベルではなく、倫理的に「どうかしている」と批判する意見がほとんどだったと記憶する。
ヤフーニュースのコメントも批判の嵐。
日課のブログめぐりをしていても、猫を飼うブログ主が怒りの長文投稿を繰り広げていた。
そうして坂東さんは、表舞台から消えた―わけではないけれど、それ以前よりも「ひっそりと」モノを書くようになった。
自分が坂東さんに会ったのは、あの騒動が起こって5年後の2011年のことだった。
なんとなく聞ける雰囲気かもしれない。
そう感じた自分は、「猫の話、なにか表現上の意図があったんじゃないですか」と問うてみた。
坂東さんはニヤリと笑い、
「まぁ、作家として未熟だったということやね・・・」
とだけいった。
そう、じつは子猫を殺していなかった。
崖というのは1mくらいで、そこに放ったとしても猫は死なない。
「崖下」「殺す」ということばは、つまり誇張である。
誇張して見据えようと思ったことは、なんだったのか―そんな疑問が浮かんだが、身の回りのアレヤコレヤでそのことを忘れてしまっていた。
そして最近、東野圭吾による坂東眞砂子の追悼文を読んでそのことを思い出した。
その全文
http://renzaburo.jp/bando_memorial/
ヒトなんて弱肉強食というジョーシキをいいことに、同じようなことをやっているじゃないか。やりまくっているじゃないか。
要はそういうことらしいが、ただ冷静に評価すると「上手な表現」とはいえない。
意図は別にあったのに、「あの子は大事なときに必ず転ぶ」と発して叩かれたひとに似ているのかもしれない。
面白い試みではあるけれども、反響が予想以上だった、、、ことにたじろいだらしく、弁明の機会だってあったのかもしれないのに、坂東さんはそうしなかった。
結果、このひとを敬遠するものが多くなり、小説は「必要以上に?」読まれなくなった。
小説家としてでなく「猫殺しのひと」として認識されてしまったのである。
『死国』なんて、傑作だと思うのになぁ!
潔いといえば、潔い。
自分のことば・表現を、きっちり背負ったということだものね。
誇張の自覚はないので別の話になってしまうけれど・・・
キチガイを多用しそのことで何遍も怒られ、「傷つくひとが居るかもしれないじゃないですか!」と、年下の担当者にいわれたこともある自分に、その潔さはあるのかなぁ、、、いや、あるさ。あるとも!! などと考えた、陽春の晩であった。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(225)段田安則』
(トップ画像は、映画『気狂いピエロ』)
多用というか、そう自称する。
好んで自称する。
卑下や自虐ではなく、まるで誇っているかのようにキチガイを名乗る。
クレイジーではダメ、アッパッパーなんて使う気にもならない。キチガイじゃなきゃ、ダメなんだ。
だが。
それが原因で担当者と揉めることがある。
こんな三流ライターでさえ揉める、とっても危険なことばなのだ。
「ウケを狙って誇張気味に書かないでください。これはエロ本です。しかも健全なほうの。読者は、牧野さんが日課として自慰をすることを面白がっているんです。それを、ふつうのことばで書いてください」
エロ本に健全も不健全もあるのか―とも思ったが、問題は「誇張」である。
うんにゃ、キチガイを自称することを誇張とは思っていないのだがね。
たしかに誇張も表現のひとつである。
誇張することによって、見えてくることがあるだろうから。
(似たことばにデフォルメがあるが、意味は同じでもニュアンス的に「軽い」感じがするのよね)
今年の1月に、坂東眞砂子が亡くなった。
児童小説でデビューし、のちにホラー小説を量産した作家である。
あるが、このひとを一躍有名にしたのは2006年8月18日付『日本経済新聞』のコラム、『子猫殺し』だろう。
飼い猫が産んだばかりの子猫を、坂東が崖下に放り投げて殺した―そういう衝撃的な内容だった。
「増えていくと困るから」「育てられないから」捨てる、というか「殺す」。
この告白は、たいへんな騒ぎになった。
自分は「なにか(表現的な)意図があるんじゃないか」と思ったが、
動物愛護の観点から、いやいやそんなレベルではなく、倫理的に「どうかしている」と批判する意見がほとんどだったと記憶する。
ヤフーニュースのコメントも批判の嵐。
日課のブログめぐりをしていても、猫を飼うブログ主が怒りの長文投稿を繰り広げていた。
そうして坂東さんは、表舞台から消えた―わけではないけれど、それ以前よりも「ひっそりと」モノを書くようになった。
自分が坂東さんに会ったのは、あの騒動が起こって5年後の2011年のことだった。
なんとなく聞ける雰囲気かもしれない。
そう感じた自分は、「猫の話、なにか表現上の意図があったんじゃないですか」と問うてみた。
坂東さんはニヤリと笑い、
「まぁ、作家として未熟だったということやね・・・」
とだけいった。
そう、じつは子猫を殺していなかった。
崖というのは1mくらいで、そこに放ったとしても猫は死なない。
「崖下」「殺す」ということばは、つまり誇張である。
誇張して見据えようと思ったことは、なんだったのか―そんな疑問が浮かんだが、身の回りのアレヤコレヤでそのことを忘れてしまっていた。
そして最近、東野圭吾による坂東眞砂子の追悼文を読んでそのことを思い出した。
その全文
http://renzaburo.jp/bando_memorial/
ヒトなんて弱肉強食というジョーシキをいいことに、同じようなことをやっているじゃないか。やりまくっているじゃないか。
要はそういうことらしいが、ただ冷静に評価すると「上手な表現」とはいえない。
意図は別にあったのに、「あの子は大事なときに必ず転ぶ」と発して叩かれたひとに似ているのかもしれない。
面白い試みではあるけれども、反響が予想以上だった、、、ことにたじろいだらしく、弁明の機会だってあったのかもしれないのに、坂東さんはそうしなかった。
結果、このひとを敬遠するものが多くなり、小説は「必要以上に?」読まれなくなった。
小説家としてでなく「猫殺しのひと」として認識されてしまったのである。
『死国』なんて、傑作だと思うのになぁ!
潔いといえば、潔い。
自分のことば・表現を、きっちり背負ったということだものね。
誇張の自覚はないので別の話になってしまうけれど・・・
キチガイを多用しそのことで何遍も怒られ、「傷つくひとが居るかもしれないじゃないですか!」と、年下の担当者にいわれたこともある自分に、その潔さはあるのかなぁ、、、いや、あるさ。あるとも!! などと考えた、陽春の晩であった。
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明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(225)段田安則』