marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(69回目)

2016-07-27 21:17:49 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 障害者施設19人刺殺 7/27の地方新聞に記事が上がった。世界の多くのテレビ局ニュースにも平和な日本で悲惨な事件があったと取り上げられていた。26日午前2時45分頃相模原市の障害者施設に元職員26歳の男が包丁を持って押し入り26人が重軽傷、19人が死亡と。容疑者は大麻の陽性反応が過去に出ていたらしいが、衆議院議長に重度障害者の抹殺を計画の手紙を持参使用としていたりと変調をきたしていたらしいがあってはならないことが起きてしまった。いや、悲惨なことは世界のあちこちで起きていると言っていいかと思う。悲惨な事故で人が亡くなることを聞くととても悔しく残念な気持ちになる。亡くなられた方のご冥福を祈りたい。僕がなぜこのような記事を取り上げるのか、どうこの日記の内容に関係あるのか。
◇イエスは言った。(8:44)「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立っていない。彼のうちには真理がないからである。」そして、今の我々にはこうも言っているのではないか。「悪魔は、今も働いているのだ、なぜこのようなことが起こっているのにわたしの話していることが分からないのか」と。
◇「・・・あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを求めて歩き回っている」(ペテロの第一の手紙第5章8節)。
悪魔が堕天使であると、聖書の中に推量できるところが沢山書かれている。神の最高傑作として創造された人間を死滅させるのが悪魔の願望なのである。本日はヨハネ伝の学びから脱線し、パウロの手紙を掲載したい。エペソ人への手紙第6章10節から17節まで
◇10節:「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい」。11節:「悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい」。12節:「わたしたちの戦いは、血肉に対するものでなく、もろもろの支配と、権威とやみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」。13節:「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅くたちうるために、神の武具を身につけなさい」。14節:「すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ」、15節:「平和の福音の備えを足にはき」、16節:「その上に信仰の盾を手にとりなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう」。17節:「また、救いのかぶとをかぶり、御霊(みたま)の剣、すなわち、神の言(ことば)を取りなさい」。
◆わたしたちが共に学ぶヨハネ伝はプロテスタントの開祖M.ルターがこの福音書にイエスの言葉がすべて書かれていると推奨したものである。イエスの言(ことば)は永遠の命か永遠の死かのいずれかなのである。・・・Ω

世界のベストセラーを読む(68回目)

2016-07-24 21:23:54 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
新約聖書でヨハネ伝第9章は僕の一番好きな話。一人の生まれつき罪の中に生まれて来たとされてきた盲目の男(青年)、であるから職業などにつけず物乞いをしていた。当時は、このように生まれてくるとどのような決定をされていたか少し調べると分かる(旧約にも書かれいわば生きる価値無しの人間)。かたや、当時の尊敬されるべく知識人でばりばりの律法を守るパリサイ人。しかも、イエスが第5章に38年間も病で苦しんでいた男を癒したようにその日は、安息日であった(14節)とある。まるで、人を生かすのが神のみこころであるとの状況かまわず実行ありきの行動をイエスはこの時も行った訳だ。
◆現代医学から言えば、先回に述べたような盲目となった事情はある程度推察できそうだ。しかし、イエスはこう言う。(3節)「本人が罪を犯したのでもなく、また、両親が犯したのでもない。ただ、神のみわざが、彼の上に現れるためである。・・・」このイエスの言葉、僕は感動しますね。そして、盲目の青年の目を開ける(光を感じさせる)・・・(5節)「わたしは、この世にいる間は、世の光である」と宣言する。この言葉は、第8章の姦淫の女の解放後にも語られている。(8:12)「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者はやみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
◆どうか、想像しながらこの章は何度も読んで欲しいと思う。表にでもまとめるとわかりやすいだろうが、この時の状況と当時の背景、罪人、律法学者などのコントラスト。そして、今まで盲目であったが故の怖さを知らないこの癒された青年の会話。そこにあるのは、癒されたという動かしがたい事実であった。おそらく、もともと目が開いていれば怖くてパリサイ人とは対等には会話など到底できない状況だっただろうが、感情を込めて書かせてもらえば、どんなにか嬉しかったことだろうな。人として見られてないような有様だったのだから。しかし、今や彼は、目が見える、この事実は見たら分かるように動かしがたい。周囲の人々から人違いではないかとも言われだす。しかし、・・・
◆どうです。生まれつき盲目で人とも見られず乞食をしていたが、癒された青年は言うわけです「わたしがそれだ」(9節)・・・”I am the one ” 実に重い返答だ。これこそは僕が言っている自分の言葉だ。そして、人々はパリサイ人につれて行くのだった。22節の会堂から追い出すとは村八分にされるということ。個人と組織、宗教的組織に胡散臭さを感じるのはこういうところからきているんだ先の回に書いたけど。(歴史では、組織に背くと火刑にあって殺されるまでしたからね)。先理解(旧約聖書、先祖以来の律法主義者)のスペシャリストであるユダヤ・パリサイ人らは、頑強に先祖伝来の言われ、書かれた文字に固執するのだった。
◆自分が体験した事実ほど確かなことはない。青年は言う(25節)「・・・ただ一つだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。」(アメージング・グレースというとても有名な讃美歌がありますがこの箇所が英語歌詞でそのまま歌われている)これ淡々と読んでいるけれど当時の時代背景からは、実に驚くような境遇差の会話をしている訳だ。対等に人とも見られないような罪の中に生まれてきたと思われた青年が、おそらく生涯では声も掛け合わせないであろうばりばりの雲の上の人々、パリサイ人に対して、対等に会話をしているのだから。しかも、しかも・・・この青年はその人々に説教までし始める!
◆(31節)「わたしたちはこのことを知っています。神は罪人(つみびと)のことはお聞き入れなりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞き入れてくださいます。(32節)生まれつき盲人であった者の目を開けた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。(33節)「もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
◇この罪人の青年はどこで仕入れたんだこのこと。罪人呼ばわりで乞食をしていたんだよこの青年。どこでいつ?・・・それは両親が出てくるでしょ(19節~)。どんな思いでこの青年を育ててきたのだろうね。生まれてから全く罪人のレッテルを貼られていたわけだから、よほどの信仰心というか神様に不可能はないのだよ待っていなさいと31節から33節で青年がいったことを教えられてきたんだと思うね。
・・・これはスゴイ逆転劇だった。しかし、青年は外へ追い出されてしまった。つまり村八分。
◆しかし、この話の第9章の話の山場は終わらず、次ぎにあるのです。村八分になってしまった青年をイエスはそのままほったらかしにしなかったのだ。イエスは、外に追い出されたことを聞いて、捜して発見し言う(・・・having found him、said・・・)(35節)「あなたは人の子を信じるか」シロアムの池に行きイエスと離れたので青年にはイエスはどのような顔形かわからなかったのだ。(36節)
◆イエスは青年にいう。(37節)「今、あなたと話しているのが、その人である」。青年は答える「主よ信じます」と言ってイエスを拝した。<結論>3節の「神のみわざが彼の上に現れるためである」の「彼の上に現れる」とは、彼のこの信仰告白にあると僕は思うのである。イエスの救い、神のみわざとは奇跡を起こしてShowを露わにすることではなく、ひとりの命、永遠の命を与えることにあるのだから。どうですこれを読まれたあなた・・・Ω











世界のベストセラーを読む(67回目)

2016-07-24 08:55:23 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
今日はとても良い天気です。「死生学」を伝授しておられるアルフォンス・デーケン先生(上智大)が「雨の日でも(晴)ハレルヤ、晴れても(雨)アーメン」とのお言葉、それから亡くなられた妹さんの秋田聖霊短期大学にお勤めだったアンネリーゼ・デーケン先生は「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙一16,17,18節)をいつも心していたとのこと、いつも変わらずイエスが側におられて語りかけられていることを思わされるものです。(友人に司祭がいるが僕は、カトリックという組織(人ではなく、宗教組織というものの人に与える心理というのが)はあまり好きではない。デリケートな問題でいつか書きたいと思うがこれからの第9章に関係があるかもしれない。)
◆ここまで、読まれていた方がおられれば、時々でも・・・この地上が終わったとき、それらの方々と話ができるであろうとを僕は心から喜ぶ者です。(ちょっと護教的になってくると面白くなくなるが)。どうぞ、スタート時点から述べてきた「自分の言葉(自分ということを知るにも何冊も本が書けそうな気がするがまあ常識範囲での普段着の自分と言うことで)で聖書を読んで見ましょう」と言うことで始めてきましたが現代は人の頭数ほど、イエスとの対話の言葉が出てきます。そうであるからこそ自分の言葉でイエスの言葉を捕らえていきたいと思うのです。第8章37節「わたしの言葉が、あなたがたのうちに根を下ろしていない」と言われないように。「わたしの言葉を守るなら、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」(51節)と言われている訳であるから。
◆さて、ヨハネ伝第9章。僕が、新約聖書の中での一番気に入っている物語である。今を生きている者にとって、親を選んで生まれてきた者はひとりもいない。理由や判別など優位をつけることの一般化などはされてはいけないが、我々が生き物である限り自らを選べない制約はその本人の選択の余地がなく遺伝的気質を持って生まれて来ているということだ。(これも何冊も本が書けるだろう。)あの親の遺伝的欠陥はこの子に来てますね、DNAの位置NOでは○□○番です。ですからこの機能の方面は生物学的には望めません、と言うような事は今では調べようと思えば簡単なことではある(お金は掛かりますけど)。人もその制限があるだろうが、神の似姿に創造されたが故にというか、特に生物学的領域を人に当てはめるのは御法度のようなのである。過去には有能な人間だけを残せばいいのではないか(過去には赤子の内に処分とか本当にとんでもない歴史もあったのである。むろんこれはどこにでもということではない。理屈から言えば、一般の人間にとって幸せになるとは、まずはその選択から始めて見るのが道理のようにも思うが、ところがどのような欠陥人間でも神の似姿に創造された神の最高傑作なのであると・・・ここに「人権」とういう概念が歴史の中で生まれてくるのだ・・・Ω

世界のベストセラーを読む(66回目)

2016-07-23 20:38:52 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
キリスト者は何かにつけアーメンという言葉(「その通りです、真実です、信じます」の意)を言うが、どうしてか? 特に第8章ではそのことが言われ続けて行かねばならないであろうことが書かれた内容でした。我々、人間がそもそも理解する、納得するという行為は、頭の中に先理解の知識や体験があって、それが目の前に示されたり理解されるであろう内容で話されたりするとき、初めて理解したということが言えるであろうと思う。それは頭の中で自分にあったもの(先理解)と言われたことがつながった、整理されたという時に・・・。ところが、第8章でイエスの言葉は、旧約聖書の専門家たちにも「分からないであろう」を連発する。14節:しかし、あなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知らない」19節「あなた方は、わたしをもわたしの父をも知っていない」21節「わたしの行く所にはあなた方は来ることができない」23節「あなたがたはこの世のものであるが、わたしはこの世の者ではない」24、28節「そういう者であること」「わたしの事を信じなければ罪の内に死ぬことになる」
◆正直言えば、「相手が知らないことを分かっているのに、まだ分からないのか」と言われてもねぇ・・・という感じ。しかし、イエスは自分が父といて聞くままを語り行っていているのだから信じなさいと言われる訳です。旧約から時代が下り、イエス自身が当たり前のように見ている天の行き来の真理を語っているのにどうして信じないのかと。まして殺そうとしていると。こと人が信じる宗教というものは何となく理解→体験→納得ですべてが同時性のものであるようだ。
◆イエスの宣言はここに見られる。(42節)「神があなた方の父であるならば、あなた方はわたしを愛する筈である。わたしは神から出た者、また神から来ている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神から使わされたのである。」(51節)「よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るなら、その人はいつまでも死を見ることがない。」(55節)あなた方はその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないというならばあなたがたと同じ偽り者である。しかし、わたしはその方を知り、そのみことばを守っている。」(58節)「よくよくあなた方に言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしはいるのである。(つまり永遠なる天の父の元で共におられたという意味)」
◆最後に僕の好きな言葉を書いて第8章を終わることにしよう。(32節)「真理はあなた方を自由にする」・・・Ω

世界のベストセラーを読む(65回目)

2016-07-22 23:27:42 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
いよいよ第8章に入ります。前の回の八木誠一さんの著作「新約聖書の構造(岩波書店)」には「ユダヤ人」を悪魔の子と断じているのはこのヨハネだけである、とあります。史実優先より、広義のキリスト論になっていると(ちと難しい)。他の福音書は共観福音書と言われるくらいだから史実が反映されている(一番最初はマルコの福音書が書かれ、それを元にマタイ、ルカは史実面を採用されたと言われてます)。ところで、新約聖書の中で一番最初に文字になったのは、パウロさんの「テサロニケの手紙」であったと記憶してます。で、その断じている記事がこの第8章にありますね。イエスの言葉で44節です。イエスが話す相手のユダヤ人を人殺しとまで言っている・・・。
◆ところで、今読んでいるのは、口語訳で国際ギデオン協会贈呈の文庫版サイズですが、この8章の1節から11節までの英語がイタリック体になっているの。丁度、姦淫の女の話のところだけ、タイプミスなのかな、意図があってなのか、12節から話が違うからなのか。いずれ、(7節)「あなた方の中で罪の無い者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」その後に、有名なというか知っている人もおられるイエスの言葉「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」(12節)の言葉がある。本来は、7節から15節にそのまま飛ぶのが分かりやすい→(15-16節)「あなた方は肉によって人を裁くが、わたしはだれもさばかない。さばくとすれば、さばきは正しい。なぜならわたしは使わされた方と一緒だから。」
◆けれどヨハネは、「わたしは世の光である」のイエスの言葉に対してユダヤ人が、自分のことをあかししているのは真実ではないだろと言う。(13節)これに対してイエスは14節で答える「わたしのあかしは真実だ。どこから来て、どこへ行くのか知っているからだ。しかし、あなたたちは知らない」。(余談:ポール・ゴーギャンというタヒチの島でこんな題名の絵を描いてますでしょ。いつもそのことを思ってしまうのですね、調べてみて!)それから、イエスが言われた「あなたたちは知らない」という言葉を覚えておいてください(19節にも)。更に55節にも「あなた方は神を知っていないが・・・」と出てきます。そこで 43節にもどり「どうしてわたしの話すことが分からないのか」とイエスは言ってます。人が知識を理解する道理は? キリスト者が「アーメン(確かです。その通りです。信じますの意)」ということは何故なのかの理由がここに書いてます。そもそも常識と、ユダヤ人たちの伝統ある先理解の知識では困難では・・・これ後で考えることにします。
◆先、13節のユダヤ人の問いに19節までに、イエスは自分のあかしは、自画自賛ではないのだ、父なる方が共におられ、その方もあかししておられるのだと返答します。(18節)・・・今日は19節まで・・・Ω