私が見てきた総合商社とは:
佐藤さんを交えたご意見の交換に刺激されて、永年付き合ってきた商社とは如何なる存在かを、私独自の見方で論じてみます。恐らく「意外」と受け止められるか「暴論では?」となるかも知れません。
私が1972年6月までお世話になっていた日本の紙パルプ産業界の会社時代には「総合商社とは仰ぎ見る存在で(飢餓輸出も含めて)輸出盛んなりし時代の英雄」でした。しかもその頃は「商社金融」なる融資の方式が盛んで、製造業者には銀行が貸し込みたがらず商社の金融能力と信用度を活かして、商社経由でしか設備投資が出来ないと言っても良いような傾向がありました。我が国策パルプでは新規の事業の投資にはA産業とM紅経由となって、既存の販売部門には代理店権も与えないという悔しいことが起きていました。
その頃の商社の機能は勿論輸出入の仲介でしたが、彼等は単に右から左に売り繋ぐだけではなく、金融機関の代行までするほど資金を潤沢に蓄えていました。同時に輸入品を一気に買い切ってユーザーや最終需要家に恣意的に販売するという、言わば配給をを執り行うほどの在庫能力と資金の立て替え能力(金利負担の能力)を持つ存在でした。即ち、現在のような過当競争がない時代には、中間でも十分に利益が挙げられる時代だったのです。
それが時移り人変わり、私が1972年にアメリカの会社に転出した頃には、一部の需要家には「商社不要論」が声高に唱えられるようになっていて、中間のマージン率を縮小するを要求する傾向が出始めていました。即ち、製造業界に供給過多の傾向が出始めた為に、商社が取るマージンが中間の加工業者等の(国際的?)競争能力(=competitiveness)を弱体化すると公然と言い出す需要家が増えてきたのです。この傾向が「中間で売り繋ぎをするだけの商社機能の冬の時代」の始まりでした。
これは何故かと言えば、それ以前は輸出入の業務は小難しい専門語だらけの輸出入関連の書類(ドキュメンツと言いました)は英語が使われており、これが解らないとL/Cの開設も発注も通関業務も出来ないと思われていたのですから。だが、時代の進歩と共に「需要家や最終ユーザーでも英語くらい解る組織も個人も出てきて「何も商社に依存することはない。自社でやって利益率を改善し、コストを引き下げよう」となってきたのです。
私の担当範囲内でも、最大の需要者だった客先はいち早く1%程度の総合商社のマージンが余計な負担だとばかりに、アメリカのサプライヤーからの直接の輸入に強引に切り替えてしまいました。我々サプライヤーとしては信用限度に不安がないユーザーとは徐々に直接取引に切り替えの要求を受け入れざるを得ないように変わって行きました。私はこの種の要求を謹んでお受けしただけで「彼は商社無用論者だ」という芳しくない評判が立てられました。正直に言って心外でした。言うなれば、世に言う「バイヤーズ・オプション」に過ぎないのでしたから。
この頃に最も苦労したのが、「その永年お世話になった商社に恩義は感じるし能力を評価しているが、競争がここまで激化した時代の変化の前にあっては、世界的な流れである中間業者を排除するのは止むを得ないのだ」と強硬に主張される大手ユーザーと、そのユーザーと共謀しているのではないかと疑われた我々の立場を如何にして商社に納得して貰うかでした。そのユーザーに商社と縁を切っては彼等が将来持ってきてくれるだろう新たな商機を失う危険性をご考慮を」とも説得した過程だった。結局は商社は納得した形になってしまった。
この次に商社に現れた現象が「単なる輸入代行業者の地位から離れて、海外をも含めて自社のプロジェクトを企画して、自社で製造した原料や最終商品を買って貰う方向に移行」とでも言えば良い「プロジェクトの時代」がやって来ました。この傾向は大手商社の間にアッという間に広まっていきました。しかも、成功した商社がいたのは当然でしたが、大小の失敗の例が出ました。何処とは言いませんが、失敗の結果で10大商社の中には不幸にも消滅してしまった所すら現れました。同時に、財閥系を中心にしてグループ化も強化されたという気もしたのです。
続く)
佐藤さんを交えたご意見の交換に刺激されて、永年付き合ってきた商社とは如何なる存在かを、私独自の見方で論じてみます。恐らく「意外」と受け止められるか「暴論では?」となるかも知れません。
私が1972年6月までお世話になっていた日本の紙パルプ産業界の会社時代には「総合商社とは仰ぎ見る存在で(飢餓輸出も含めて)輸出盛んなりし時代の英雄」でした。しかもその頃は「商社金融」なる融資の方式が盛んで、製造業者には銀行が貸し込みたがらず商社の金融能力と信用度を活かして、商社経由でしか設備投資が出来ないと言っても良いような傾向がありました。我が国策パルプでは新規の事業の投資にはA産業とM紅経由となって、既存の販売部門には代理店権も与えないという悔しいことが起きていました。
その頃の商社の機能は勿論輸出入の仲介でしたが、彼等は単に右から左に売り繋ぐだけではなく、金融機関の代行までするほど資金を潤沢に蓄えていました。同時に輸入品を一気に買い切ってユーザーや最終需要家に恣意的に販売するという、言わば配給をを執り行うほどの在庫能力と資金の立て替え能力(金利負担の能力)を持つ存在でした。即ち、現在のような過当競争がない時代には、中間でも十分に利益が挙げられる時代だったのです。
それが時移り人変わり、私が1972年にアメリカの会社に転出した頃には、一部の需要家には「商社不要論」が声高に唱えられるようになっていて、中間のマージン率を縮小するを要求する傾向が出始めていました。即ち、製造業界に供給過多の傾向が出始めた為に、商社が取るマージンが中間の加工業者等の(国際的?)競争能力(=competitiveness)を弱体化すると公然と言い出す需要家が増えてきたのです。この傾向が「中間で売り繋ぎをするだけの商社機能の冬の時代」の始まりでした。
これは何故かと言えば、それ以前は輸出入の業務は小難しい専門語だらけの輸出入関連の書類(ドキュメンツと言いました)は英語が使われており、これが解らないとL/Cの開設も発注も通関業務も出来ないと思われていたのですから。だが、時代の進歩と共に「需要家や最終ユーザーでも英語くらい解る組織も個人も出てきて「何も商社に依存することはない。自社でやって利益率を改善し、コストを引き下げよう」となってきたのです。
私の担当範囲内でも、最大の需要者だった客先はいち早く1%程度の総合商社のマージンが余計な負担だとばかりに、アメリカのサプライヤーからの直接の輸入に強引に切り替えてしまいました。我々サプライヤーとしては信用限度に不安がないユーザーとは徐々に直接取引に切り替えの要求を受け入れざるを得ないように変わって行きました。私はこの種の要求を謹んでお受けしただけで「彼は商社無用論者だ」という芳しくない評判が立てられました。正直に言って心外でした。言うなれば、世に言う「バイヤーズ・オプション」に過ぎないのでしたから。
この頃に最も苦労したのが、「その永年お世話になった商社に恩義は感じるし能力を評価しているが、競争がここまで激化した時代の変化の前にあっては、世界的な流れである中間業者を排除するのは止むを得ないのだ」と強硬に主張される大手ユーザーと、そのユーザーと共謀しているのではないかと疑われた我々の立場を如何にして商社に納得して貰うかでした。そのユーザーに商社と縁を切っては彼等が将来持ってきてくれるだろう新たな商機を失う危険性をご考慮を」とも説得した過程だった。結局は商社は納得した形になってしまった。
この次に商社に現れた現象が「単なる輸入代行業者の地位から離れて、海外をも含めて自社のプロジェクトを企画して、自社で製造した原料や最終商品を買って貰う方向に移行」とでも言えば良い「プロジェクトの時代」がやって来ました。この傾向は大手商社の間にアッという間に広まっていきました。しかも、成功した商社がいたのは当然でしたが、大小の失敗の例が出ました。何処とは言いませんが、失敗の結果で10大商社の中には不幸にも消滅してしまった所すら現れました。同時に、財閥系を中心にしてグループ化も強化されたという気もしたのです。
続く)
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