カタカナ語と和製英語(=造語)の問題点の考察:
実は、この話題は14年の2月に「カタカナ語と和製英語」として一度採り上げてあった。だが、非常に有り難いことに6年を経た今でもブログでは未だに読んで下さっていると知り得たのだった。今になって読み直してみれば、説明不足や例文の明示が少なかった等々の不備な点が多々あったと判明し反省したので、ここに改めて加筆訂正して少しでも皆様方の役に立てるようにしようと思い立った次第。
なお、カタカナ語と和製英語(=造語)との見出しにしたが、読み返せば見えてくることが「我が国の英語教育には行き届いていない点が多々あり、その欠陥がこのような英語そのものとはかけ離れたおかしな言葉を生み出している要因になっていると痛感させられた。これは以前からの私の主張である「学校教育の何処かの時点で『英語とは日本語と発想も違えば文化も異なる外国語である』ということを真正面から正しく教えておくべきではなかったか」が未だに出来ていないということが、残念ながら露呈されていたのだと思う。
カタカナ語排斥論者の弁:
私は我が国ではこのようなおかしな言葉が余りにも数多く日常的に正当な日本語であるかのように使われているのが不愉快だし、何故おかしいと疑わないのががおかしいと思い且つ残念だった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語は融通無碍であるという素晴らしさを見出したのだ。それだけに止まらず、新たな言葉を産み出してきた先人と現代人の優れた知恵と不思議な創造性を尊敬すらすることもあった。
このようなカタカナ語化された言葉を「外来語」と呼ぶとか「和製英語」(私は「英語擬き」だと思う)と称しているようだが、その多くはすでに日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遺憾ながら手遅れなのだ。先頃、渡部亮次郎氏が主宰される「頂門の一針」にこの件を投稿したところ、かなり激しい反論および反対に出会った。すなわち「今更それを否定することはない。このまま使い続けよう」という趣旨のご意見と反対が多かった。正直なところ「何を言っているのか」とは思ったが、遺憾ながら多勢に無勢状態だった。
私の論旨は「これらを使うのは各人の好みと自由裁量で勝手だとは思う。だが使うのは我々同士の日常会話の中に限定すべきだと思う。だが、実態は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという認識だけは持っていて欲しいのである。即ち、間違っても外国人との「英会話」の中で使っても「通じない」と心得ておくべきだ。その前に「これが本当に英語なのかと疑って「英和辞典」くらい見るべきなのだ。
カタカナ語について私が何時も不思議だと痛感していることがある。それは、私が子供の頃からアメリカ人と英語で話していたし20年以上も働いている間に一度も彼らが使うとか、私が使おうとも思わなかった文語というか難しい単語を躊躇うことなくカタカナ語にしてしまった現象は信じがたい思いだ。しかもそのおかしなカタカナ語を遍く国中で使うように広めてしまったいることだ。
このようなおかしいと言わざるを得ない現象は我が国に学校教育における「単語偏重」にも大きな原因があると見ている。ここではこの例を一つだけ挙げておくと、“collaboration”(=コラボ)などは驚愕的ですらあった。私は浅学非才にして「こういう言葉がある」と承知していた程度なのに、テレビ局では日常的に使っているのだ。これは英語にすれば“work together with 誰それ”という意味なので、日本語にある漢字の熟語のように考えて「コラボレーション」という一語を充てたのだろうが、これは私に言わせれば「文語」であり日常会話の言葉ではない。
「英語擬き」の多用を笑っている場合ではないと思う。英語にはそのような言葉はないにも拘わらず、テレビ局では恰も英語であるが如くに使っているのだ。これも例を挙げておくと「グラウンドが滑りやすい」と言いたくて「スリッピー」というのがある。こんな英語の単語はないが“slippery”はある。またアナウンサーも解説者も平気で「キャプテンシー」(=captaincy)と言うが、これは「キャプテンとしての地位または役目」という意味。“captainship”と言えば「キャプテンの資格と統率能力」という意味になると知れ。何でも単語の終わりに“y”を付ければ良いのではない。
何故私がこのような主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が非常に強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語だと思って使ってしまう結果になるのは極めて宜しくない」と考えているから。この際、何も知らずに使っているテレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響も無視できないことも言っておきたいのだ。ミーハーは知らずに真似るものだ。
そこで、「カタカナ語と和製英語(=造語)」の生い立ちを考えて見る。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、漢字のような「表意文字」も使っている日本語との違いがある。そこに文法の違いが加わるのである。更に、日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、しかも「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする方針があることが中途半端に英語を学ばせられて結果で、無用な誤用と混乱を生じさせているのだと見ている。
具体例を挙げてみよう。先ずは「文法無視」で、その昔にテレビ漫画に「エイトマン」というのがあった。無理矢理英語でスペルすれば“Eight man”となる。これを見たアメリカ人が「8人ならば“men”ではないか?」と疑問を述べた。すると作者は「8番目の男」という意味であると答えた。アメリカ人は「それならば“8th またはEighth man”ではないか?」と追いかけてきた。すると作者は「もう、これで十分通用しているのだから、どうでも良い」と答えて終わったそうである。これぞ、我が国の誤った英語教育の芳しくない成果である。
次が「単語を並べた」例を挙げたおこう。困った使われ方に「ヒーローインタビュー」がある。これはテレビのプロ野球中継に屡々出てくる用語。私はこれを「英語は話せないが、兎に角単語を並べたら何とか通じた」という範疇に入れておきたい。同時に文法無視でもある。だが、我が国の野球ファンでテレビ中継を見ていて、これが何のことか解らない人はいないだろうと言って誤りではないほどに、日本語としての「戸籍」を得てしまった。
文法的に批判すれば「目的語であるヒーローが先に出て来る日本語の語順で言葉を並べてしまった例であって、学校教育の主眼点のはずの英文法はアッサリと無視されていた」のである。強いて英語にすれば「“interviewing the hero”となる」と思う。ここには漢字を幾つか重ねて熟語を作り出す日本語の感覚が応用されているのではないか。何故「ヒーローに聞く」ではいけないのかな。尤も「ヒーロー」だってカタカナ語だ。発音記語彙通りならば「ヒアロウ」に近いと思っているが。
次が「ローマ字読み」である。いや私に言わせて貰えば、それが問題なのである。「頂門の一針」や自分のブログで「ローマ字の功罪」、特に「罪」を論じた際の反響は凄まじかった。「ウルトラマン」という有名なテレビ漫画がある。英語で書けば“Ultra man”である。英語では間違っても「ウルトラ」とは読まずに「アルトゥラ」に近く、アクセントは「アル」に置く。私が近頃忌み嫌っているローマ字読みに“security”を「セキュリティー」と言い、そう表記している悪い例がある。原語のままにカタカナ表記すれば「セキュアラテイー」なのだ。
そして恐ろしいのが「言葉の誤用」である。多くの方は何ら躊躇わすに「無邪気か純真」を「ナイーブ」と言われる。この言葉を語り合っている相手に“You are naïve.”等と言えば、殴られても仕方がないくらいの誤用である。英語の感覚では、ほとんど「バカ」という意味であると覚えて置いて貰いたい。「プライベート」には「私生活」という使い方はない。ジーニアス英和にも「試用の」とか「個人に属する」と「私有の」とは出てくるが。他には「兵卒」という意味はあるが。「プライベートは当人に任せている」などは意味不明ではないかな。
最後に「発音」の問題を。“Sit down, please.”を絶対に「シット・ダウン」のように発音しないことである。「シット」を素直に英語として綴れば”shit”となる。これは松本清張が誤解・誤認識していた「スラング」ではなく「汚い言葉」=“swearword”に分類されて、アメリカの支配階層にある者や教養ある知識人が絶対に公共の場では使わない、使ってはならない言葉の代表的な表現の一つである。こういう発音を教える学校の先生方の猛省を促したい。“shit”が何を意味するかはここには書かないことにする。
この件を語り始めれば終わりがないので、今回はここまでに止めてまたの機会に譲ろう。
実は、この話題は14年の2月に「カタカナ語と和製英語」として一度採り上げてあった。だが、非常に有り難いことに6年を経た今でもブログでは未だに読んで下さっていると知り得たのだった。今になって読み直してみれば、説明不足や例文の明示が少なかった等々の不備な点が多々あったと判明し反省したので、ここに改めて加筆訂正して少しでも皆様方の役に立てるようにしようと思い立った次第。
なお、カタカナ語と和製英語(=造語)との見出しにしたが、読み返せば見えてくることが「我が国の英語教育には行き届いていない点が多々あり、その欠陥がこのような英語そのものとはかけ離れたおかしな言葉を生み出している要因になっていると痛感させられた。これは以前からの私の主張である「学校教育の何処かの時点で『英語とは日本語と発想も違えば文化も異なる外国語である』ということを真正面から正しく教えておくべきではなかったか」が未だに出来ていないということが、残念ながら露呈されていたのだと思う。
カタカナ語排斥論者の弁:
私は我が国ではこのようなおかしな言葉が余りにも数多く日常的に正当な日本語であるかのように使われているのが不愉快だし、何故おかしいと疑わないのががおかしいと思い且つ残念だった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語は融通無碍であるという素晴らしさを見出したのだ。それだけに止まらず、新たな言葉を産み出してきた先人と現代人の優れた知恵と不思議な創造性を尊敬すらすることもあった。
このようなカタカナ語化された言葉を「外来語」と呼ぶとか「和製英語」(私は「英語擬き」だと思う)と称しているようだが、その多くはすでに日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遺憾ながら手遅れなのだ。先頃、渡部亮次郎氏が主宰される「頂門の一針」にこの件を投稿したところ、かなり激しい反論および反対に出会った。すなわち「今更それを否定することはない。このまま使い続けよう」という趣旨のご意見と反対が多かった。正直なところ「何を言っているのか」とは思ったが、遺憾ながら多勢に無勢状態だった。
私の論旨は「これらを使うのは各人の好みと自由裁量で勝手だとは思う。だが使うのは我々同士の日常会話の中に限定すべきだと思う。だが、実態は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという認識だけは持っていて欲しいのである。即ち、間違っても外国人との「英会話」の中で使っても「通じない」と心得ておくべきだ。その前に「これが本当に英語なのかと疑って「英和辞典」くらい見るべきなのだ。
カタカナ語について私が何時も不思議だと痛感していることがある。それは、私が子供の頃からアメリカ人と英語で話していたし20年以上も働いている間に一度も彼らが使うとか、私が使おうとも思わなかった文語というか難しい単語を躊躇うことなくカタカナ語にしてしまった現象は信じがたい思いだ。しかもそのおかしなカタカナ語を遍く国中で使うように広めてしまったいることだ。
このようなおかしいと言わざるを得ない現象は我が国に学校教育における「単語偏重」にも大きな原因があると見ている。ここではこの例を一つだけ挙げておくと、“collaboration”(=コラボ)などは驚愕的ですらあった。私は浅学非才にして「こういう言葉がある」と承知していた程度なのに、テレビ局では日常的に使っているのだ。これは英語にすれば“work together with 誰それ”という意味なので、日本語にある漢字の熟語のように考えて「コラボレーション」という一語を充てたのだろうが、これは私に言わせれば「文語」であり日常会話の言葉ではない。
「英語擬き」の多用を笑っている場合ではないと思う。英語にはそのような言葉はないにも拘わらず、テレビ局では恰も英語であるが如くに使っているのだ。これも例を挙げておくと「グラウンドが滑りやすい」と言いたくて「スリッピー」というのがある。こんな英語の単語はないが“slippery”はある。またアナウンサーも解説者も平気で「キャプテンシー」(=captaincy)と言うが、これは「キャプテンとしての地位または役目」という意味。“captainship”と言えば「キャプテンの資格と統率能力」という意味になると知れ。何でも単語の終わりに“y”を付ければ良いのではない。
何故私がこのような主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が非常に強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語だと思って使ってしまう結果になるのは極めて宜しくない」と考えているから。この際、何も知らずに使っているテレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響も無視できないことも言っておきたいのだ。ミーハーは知らずに真似るものだ。
そこで、「カタカナ語と和製英語(=造語)」の生い立ちを考えて見る。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、漢字のような「表意文字」も使っている日本語との違いがある。そこに文法の違いが加わるのである。更に、日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、しかも「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする方針があることが中途半端に英語を学ばせられて結果で、無用な誤用と混乱を生じさせているのだと見ている。
具体例を挙げてみよう。先ずは「文法無視」で、その昔にテレビ漫画に「エイトマン」というのがあった。無理矢理英語でスペルすれば“Eight man”となる。これを見たアメリカ人が「8人ならば“men”ではないか?」と疑問を述べた。すると作者は「8番目の男」という意味であると答えた。アメリカ人は「それならば“8th またはEighth man”ではないか?」と追いかけてきた。すると作者は「もう、これで十分通用しているのだから、どうでも良い」と答えて終わったそうである。これぞ、我が国の誤った英語教育の芳しくない成果である。
次が「単語を並べた」例を挙げたおこう。困った使われ方に「ヒーローインタビュー」がある。これはテレビのプロ野球中継に屡々出てくる用語。私はこれを「英語は話せないが、兎に角単語を並べたら何とか通じた」という範疇に入れておきたい。同時に文法無視でもある。だが、我が国の野球ファンでテレビ中継を見ていて、これが何のことか解らない人はいないだろうと言って誤りではないほどに、日本語としての「戸籍」を得てしまった。
文法的に批判すれば「目的語であるヒーローが先に出て来る日本語の語順で言葉を並べてしまった例であって、学校教育の主眼点のはずの英文法はアッサリと無視されていた」のである。強いて英語にすれば「“interviewing the hero”となる」と思う。ここには漢字を幾つか重ねて熟語を作り出す日本語の感覚が応用されているのではないか。何故「ヒーローに聞く」ではいけないのかな。尤も「ヒーロー」だってカタカナ語だ。発音記語彙通りならば「ヒアロウ」に近いと思っているが。
次が「ローマ字読み」である。いや私に言わせて貰えば、それが問題なのである。「頂門の一針」や自分のブログで「ローマ字の功罪」、特に「罪」を論じた際の反響は凄まじかった。「ウルトラマン」という有名なテレビ漫画がある。英語で書けば“Ultra man”である。英語では間違っても「ウルトラ」とは読まずに「アルトゥラ」に近く、アクセントは「アル」に置く。私が近頃忌み嫌っているローマ字読みに“security”を「セキュリティー」と言い、そう表記している悪い例がある。原語のままにカタカナ表記すれば「セキュアラテイー」なのだ。
そして恐ろしいのが「言葉の誤用」である。多くの方は何ら躊躇わすに「無邪気か純真」を「ナイーブ」と言われる。この言葉を語り合っている相手に“You are naïve.”等と言えば、殴られても仕方がないくらいの誤用である。英語の感覚では、ほとんど「バカ」という意味であると覚えて置いて貰いたい。「プライベート」には「私生活」という使い方はない。ジーニアス英和にも「試用の」とか「個人に属する」と「私有の」とは出てくるが。他には「兵卒」という意味はあるが。「プライベートは当人に任せている」などは意味不明ではないかな。
最後に「発音」の問題を。“Sit down, please.”を絶対に「シット・ダウン」のように発音しないことである。「シット」を素直に英語として綴れば”shit”となる。これは松本清張が誤解・誤認識していた「スラング」ではなく「汚い言葉」=“swearword”に分類されて、アメリカの支配階層にある者や教養ある知識人が絶対に公共の場では使わない、使ってはならない言葉の代表的な表現の一つである。こういう発音を教える学校の先生方の猛省を促したい。“shit”が何を意味するかはここには書かないことにする。
この件を語り始めれば終わりがないので、今回はここまでに止めてまたの機会に譲ろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます