“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論人文書院このアイテムの詳細を見る |
続いては、Ⅱのモラルとエクリチュールのまずは、第一章呼びかけとは何か という部分についてみていこう。
ここでまず指摘されているのは、ハイデガーとの違いということだ。
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一つ目に、ハイデガーにおいては、呼びかけというのは、一方向的なものであるが、サルトルにおいては、双方向的なものであるという点。
これは、ハイデガーの『存在と時間』からの次の3つの引用との比較で述べられている。
①
「呼ぶことをわれわれは語りのひとつの様態として捉える。語りとは、了解可能なものごとを分節するものである。両親を呼び声として性格づけることは、たとえばカントが良心を法廷として描いたような、たんなる『比喩』に尽きるものではない。ただ、ここで見逃してはならにことは、語りには-したがって呼び声には-発声的な表現が本質的な条件ではないということである。むしろ、いかなる発生的な言明や叫びも、すでに語りを前提にしているのである。」(本書80-81頁より『存在と時間』(以下SZ)272頁)
②
「呼ぶものは誰かという問いをこと改めて提出する必要が、そもそもあるだろうか。この問いは、呼び声において呼びかけられているものが誰であるかという問いと同様に、現存在の中ですでに一義的に答えられているのではあるまいか。すなわち、現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいるのである。」(SZ275頁)
③
「現存在は呼ぶものであるとともに呼びかけるものでもある」(SZ275頁)
まず③は、ハイデガーにおいては、十分ではない、とされており、サルトルにおいては、この双方向性こそが重要であるとされている。
ハイデガーにおいては、現存在が良心の呼び声によって呼びかけられるものであるとしているようだ。
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二つ目は、世界内存在としてハイデガーにおいて捉えられているいわば共同体についての違いである。
ハイデガーにおいては、共同体というものは出発点になるというようである。これは、先のSZにおいて、
「運命的な現存在は、世界内存在たる限り、本質上、ほかの人々の共同存在において実存しているのであるから、その現存在の生起は共同生起であり、共同運命という性格を帯びる。それはすなわち、共同体の、民族の生起のことである。共同運命はさまざまな個別的運命から合成されるものではない。このことは、相互存在が、いくつかの主観の集合的出現という意味のものではないのと同様である。個々人の運命は、同一の世界の相互存在において、そして特定の可能性への覚悟性において、初めからすでに導かれていたのである。その共同運命に備わる威力は相互伝達と戦いとの中で、初めて発揮される。」(384頁)
というように述べられている。
しかし、サルトルにとってこのような共同体というものは不在である。
先にも述べたように、「実存は本質に先立つ」という命題からも見えてくるように、実存の上位概念として共同体というものを置くのではなくて、実存が呼びかけにより相互に形作るものとして共同体の可能性は示唆されている。