![]() | “呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論人文書院このアイテムの詳細を見る |
私は与えられる。
メディアとして、そのメディアとは、いかなるものであろうか?
このメディアとは、後に存在と無について述べる際に詳述するが、〈私=自分=即自的存在〉を発見するために対自的存在としての<私>が構築したものであろう。
ということは、このメディアとは、<私>にとってのその時点での真理であろう。
「真理は他者に対する私の要請としての規範である。私は真理を他者に与える。私は、贈与するものとしての私の自由を彼が承認することを要求する。つまり、それが真理であることを要求する。」(『真理と実存』180/37)
対自的に私が懸命にこさえてきた<私>を対他として引き渡す際のメディアそれは、私にとっての真理である。
これは、即自の神性という『存在と無』で結論付けられていることを参照しなければならないが、神なきニヒリズム的な時代においてはこの即自的な<私>が神性を帯び、これが<私>を脆くも根拠付けるものであるということを述べておこう。
呼びかけの関係であるゆえに、引き渡さなければならない。
サルトルにおける<世界-内>の人間存在は、ハイデガーにおけるそれと違い、人間存在がたち現れたからといって世界が現れるわけではない。(ハニーさん解説を(爆))
サルトルは、『存在と無』におけるそれとは趣は異なるが、世界内存在ということに関して、
「人間はジェネロジテであり、人間の出現は世界の創造なのだ。人間はまず存在し、それから創造するのではなく(神の場合はしばしばこのように考えられる)、その存在自体いおいて世界の創造なのである。」(『倫理学ノート』514頁、本書122頁より)
というように、
世界は他者への呼びかけとして構築していかなければならないものとして捉えられている。
なぜ、呼びかけなければならないのか?
それは、サルトルをして、人間存在の対自-即自の関係がアプリオリなものであるといってしまうように、アプリオリだからであろう。
「あらゆる真理は、私が知ることのない外部を持っている。ここで問題となっているのは、私の真理を構成している乗り越え不可能な無知である。」(『真理と実存』,117-,本書129頁より)
というように、
あくまでも、真理は<私>の「真理」であり、無知に基づいた「真理」でしかない。
それは、われわれが擬似<神>ともいえる即自的な<私>でしかないからであり、そのような様態においてしか存在し得ない存在欠如であるからである。
(奇妙なことに存在欠如ということを想定する時点でニヒリズムは破綻してしまうのではないかと思う。)
澤田氏自身はこの本では指摘していないが、サルトルが『真理と実存』で述べている真理とは、即自存在の外面性、対他性というものに過ぎない、それゆえ、あえてジュネ論を参照するまでもなく、ジェネロジテという概念が絶対性を帯びないものであることは自明である。
しかし、だからといってそこにモラルが成り立たないというようには、先に述べたのと同じくならない。
ニヒリズム的状況においてのなお、生きなければならない、懸命にも真理と呼ぶまでに、ニヒリズムでありながら、寄りかかろうとする人間存在のけなげさというか、儚さ・・・
その生のむず痒さ・・・
それこそが、モラルでありえよう。
向き低のむず痒さ、それこそ人間存在の生の「真理」ではないだろうか。
(という即自的記述)