本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

〈私〉というメディア : 松山情報発見庫#380

2006-01-07 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

人文書院

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哲学者は、おそらく、問題としている何かをあまり露骨に伝えたくない、もしくは直視しないように直視するためにそのような文体をとり、
小説家は、根拠付けるため、もしくは衝動付けるために、そのような文体をとり、
詩人は、訴えるために、そのような文体をとるのだろう。
訴えの届かぬ詩人、
物語の届かぬ小説家
露骨に伝わってしまう哲学者
彼らはあまり幸せとは言えないのではないだろうか。

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さてさて、
上のように感じた今日このごろではあるが、実は上のことは今回取り上げるサルトルのジェネロジテという概念に結びつく。
ジェネロジテとは、フランス語のge´ne´rosite´のことである。
辞書的な意味はここでは、さておき、サルトル的な文脈においては、「贈与性としての自由」(106頁)ということになる。
これまでの呼びかけの部分でも見てきたが、贈与とは、交換とは異なり、互酬性を伴ったものである。
サルトルは、この贈与ということとジェネロジテというものを結び付けて、論じているようだ。
「〔私の〕観念が他人のものになってしまうことを受け入れること。歴史の行為者の徳、それがジェネロジテである。」(『倫理学ノート』,53頁からの引用として本書115頁より)
サルトルによれば、ジェネロジテとは、自分の即自的なもの、観念が他者へと引き渡されること、もしくは、引き渡すことである。

サルトルは、さらに、

「あらゆる創造はひとつの贈り物であり、与えられることなしには、現実に存在することはできない。『donner `a voir(みさせる〔=見えるように与える〕)』という表現があるが、まさにそのとおりだ。私はこの世界を他者が見るために与えるのだ。つまり、ひとがそれを見えるようにと私は世界を実存させるのであり、その行為のうちで私はひとつのパッションとして、自らを失うのである。したがって、ここではモラルは、すでに即自的に存在するものを対我々的に(つまりわれわれにとって)実存させるということである。言いかえると、含意されていた意味に過ぎなかったものを、非共犯的によって、われわれの行為の明示的な主題とすることである。これが絶対的で際限のないジェネロジテであり、それは固有な意味での情念=受難(パッション)であり、唯一の存在の方法なのである。与えるということ以外に存在する理由はない。そして、贈り物であるのは、作品=行為だけではない。性質もまた贈り物なのである。自我とはわれわれのジェネロジテを統一する見出し語なのだ。」(『倫理学ノート』137頁)

これは、『存在と無』において人間存在とは、「存在選択」(1097頁)といっていたことからダイナミックに飛躍したといえる。
存在する方法としては選択すること。その選択は、他者への相克ではなく、他者へ自らを引き渡すこと、自分という即自的メディアとしての存在を対他的に引き渡すこと、それが存在の方法である。
これがサルトルのモラル論の鍵となるジェネロジテである。

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サルトルは、贈与の構造について、
「贈与によって三項関係が成立する。贈与する人と、贈与されるモノと、贈与を受ける人である」(『倫理学ノート』382頁からの引用として本書120頁より)
というように述べている。
それでは、われわれが引き渡すものとは何だろうか?
「他の人との真の関係〔は〕けっして直接的ではない。〔それは〕作品=行為(oeuvre)を媒介とした関係である。私の自由は相互承認を含んでいる。しかし、人は事故を与えることによって自己を失う。ジェネロジテ。愛。
 私の対自と私の対他の新たな関係。つまり作品=行為による関係。私は他者に私が創造した対象物として私自身を与えることによって、自らを定義する。他者が私に客観=対象性を与えてくれるように。」(同,487頁)
といようにサルトルは述べる。

われわれはメディア(=作品)としての自分を周囲の他者に提出することによって解釈を試みられることを期待する。

次に、それでは、このメディアというものは私にとってどういうものかということを見てみよう。


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