本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

<私>の可能性 ③ :その後@5

2006-01-22 00:00:00 | その後
存在と無 下巻

人文書院

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以下に述べることは、卒論提出時には、頭脳的な疲労の蓄積ということもあり、詩的できなかった、『実存主義とは何か?』の中におけるサルトルの議論との接合を試みることになる。ここでの対自-即自の神性というのは、これまで述べようとして、まだそこまで解釈が進み切れていなかった故に、述べれていなかったサルトルの対自-即自という概念の一つの極地であるということができる。

【即自存在 神格化。そのモラル論的意味あい】


 ここまでで、対自-即自存在のまなざし論における相互性というものを見てきたわけだが(同じく、ここでは未述)、重要な点はようやくここまで述べて論じることが可能になった。対自が、自らの即自存在を告げ知らせるということは、どういうことであろうか?このことが、本論で対自-即自存在ということに関して最も述べるべきことであろう。

 あらゆる人間存在は、彼が存在を根拠付けるために、また同時に、それ自身の根拠であることによって、偶然性から逃れでているような即自すなわち宗教では神と名づけられている自己原因者を、構成するために、あえて自己を失なうことを企てるという点で、一つの受難である。それゆえ、人間の受難は、キリストの受難の逆である。なぜなら、人間は、神を生れさせるために、人間としてのかぎりでは、自己を失うからである。 (『存在と無』1119頁)

人間存在は、神となる。対自-即自の究極的な原理は、自ら、を自らの無化により根拠付ける、自己原因を、自ら構成するということである。ということは、「存在は存在をしか生みだすことができない。」 (同,84頁)という『存在と無』最初での命題に照らし合わせて考えると、この自己原因、もしくは、神性としての対自-即自存在というものは、サルトルモラル論の偉大なるマニフェストであるともいえる。神なき時代において、神がなくとも、われわれは、意味を見出すことができる、それゆえ、無化ということこそ挫折することがあれども、われわれは絶望することはない。

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(以下、卒論にては未述)

 より、厳密に、このサルトルの対自-即自による人間存在の神聖化という概念は、私たちは、自らの根拠を自らで打ち立てうる、それゆえ、つねに、無化作用を施すことでつねにある程度挫折すべき存在であるといえる。つねに挫折すべき無様な神の模倣者。神なき時代において神を模倣するという荒唐無稽な離れ業を成し遂げるわけだから、成し遂げれないわけだから、私たちは万事挫折する。
 しかし、この挫折は、輝かしい挫折である。私は神ではないという意味で神である。私が神であるという意味合いと同じ意味合いにおいて、周囲の人間存在も神である。
 このことは、サルトルが、『実存主義とは何か?』において、「私の行動は人類全体をアンガジェする」とか「自分自身の選択によって人類全体をアンガジェする」といっていることの真意が宿っている考えであるといえる。神が、絶対者であり、超越者であるならば、その行動は全体的であり、絶対的で超越的であるというのは、それほど奇異な考えではないだろう。しかし、私たち人間存在は、「それがあるところのものであり、あらぬところのものである」という即自存在的な意味合いでの神である。
 そのことにより、絶対的であり、絶対的でない、という選択をひび行う。それは、自分ではなく、他者に対しても同じことである。これ以上の解釈は敢えてほどこそないが、このことがサルトルのモラル間のもっともコアな部分であるといえる。真性を帯びた人間存在として生きる私たち、それがモラルを導き出す<私>可能性ということだ。
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