真理と実存人文書院このアイテムの詳細を見る |
真理とは二律背反的な性格を持つ。
「閉じられていると同時に、開かれている。真理は即自それ自身の現前として、視線を閉じる意味作用の円環的な地平とともにあら現れる。そして同時に真理は、その意味作用が検証されておらず、ただ推定されているだけだというかぎりにおいて、また、それゆえ、〔未来の自分である〕他の自分や、後の時代の他者たちがこの真理をどのように使うかは不確定なものにとどまるという意味で、開かれている。(中略)つまり、真理は全体的なものとしてしかありえない(定立)―部分的な諸真理がありうるのでなければならない(反定立)。」(133頁)
というようなものだ。
ここでの記述は大変興味深い。
「実存は本質に先立つ」という命題を再度取り上げると、
サルトル、実存主義は本質を、神性をあらかじめ措定しはしないという意味において、本質は形づくられるものとなるということを思い出す必要がある。
サルトルにおける本質とはないものであり、あろうとするもの、つまりは、ここでいう真理というのが、本質というものであるといえなくもないという性格を帯びている。
真理は全体的であり、部分的である。
こういう性格があるからこそ、「私が真理を他人に与えるとき、彼がそれを見ているという直観を私はもちうる」(135頁)というここと同時に、
真理の「私の真理であり、他者にとって生成した真理であり、普遍的な真理」(同)という性格をもちうることがあるわけだ。
「見ているという直観」を持つということ、見られているということは、存在と無の対他観のところで述べたが、即自として受け取られていることを述べているにすぎない。
真理が「私の」真理にすぎないし、部分的であるだけであるゆえに、そこに互酬性というものが生じ、私の心理として対他的に贈与された真理は他者にとっても、私の真理を渡すことを促すこととなる。
「他者と交流すれば、彼が私よりうまく見てとったものを指摘してもらい、盗まれたものを私に返してもらうことができる。しかし、彼はまた返さないこともできる。」(136頁)
というように、真理を贈与することはある種の危険性をも伴う行為であり、
「他者たちの好きにさせるために、真理は与えられる」(135頁)という性格が重要となるのである。