本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

ART of Being : 松山情報発見庫#379

2006-01-06 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

人文書院

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実存による呼びかけにより、共同体への可能性が広げていくということについてみたが、澤田氏の指摘で面白いのが、芸術論とモラル論との間での相関関係だ。
サルトルは、『実存主義とは何か』の中で、
「道徳的選択は芸術作品=行為の構築に比べるべきである。〔…〕描くべき定義された絵などはなく、画家は自分の構築のうちに自己を拘束するのであり、描くべきえとは彼が描き終える絵である。」(75-76/71頁)
というように指摘しているようだ。
この指摘は、エーリッヒ・フロムの『よりよく生きるということ』(The Art of Being)という本の題からももろに見えるように。

フランス語においてもおそらくそうであろうが、英語においてArtという言葉が、芸術という意味と、技術という意味を内包しているということと比してみると大変興味深い。
描くべき絵というのが、サルトルのいう即自存在というものであり、この言葉に、澤田氏がプルーストの言葉として引用している

「〔美しい本の偉大ですばらしい特徴のひとつは〕著者にとって書物が〔結論〕と呼ばれうるものなら、読者にとってこれは『うながし』とも呼ばれうるということだ。われわれの叡智は、著者のそれの終わるところで始まる、ということがはっきり感ぜられる。われわれは著者に回答を与えて欲しいと思うのだが、実は、われわれに欲望を与えるということが著者のなしうるすべてなのである。しかもこの欲望を著者は、彼の芸術の最後の独力によって達しえた思考の美を凝視させることによってでなければ、われわれのうちに喚起することができない。しかし精神の視覚の、奇妙な、だが天の摂理のように見事な法則によって(おそらくその法則は、われわれが誰からも真理をうけることができず、それを自分自身で創り出さなければならないということを示しているのであろう)、著者の叡智の終わりはわれわれの叡智の始まりのようにしか見えないから、こうして著者が言いうることをすべていいつくしてしまった瞬間に、われわれのうちに彼がまだ何も言っていないような印象が生じることになる。」(『プルーストの文芸評論』180頁)

というのを加味して考えるなら、それは後に詳述する予定のサルトルの対他存在へとつながるものへとなっていく。
われわれは、他者に対して自分を即自として指し示すことを求め指し示す、しかし、それによって即自としてのあるがままの自分というものは一向に見えはしない。多くのさまざまなタイプの他者とのふれあいの中で、自分の姿が措定されていくという具合にだ。
このように、サルトルの対他観へのつながりを示唆しておいて、
『倫理学ノート』におけるサルトルの呼びかけというものを再確認しておくと澤田氏の構築せんと試みているモラル論へよりボリューム感を与えることができると思う。

「呼びかけとは目的を、他者の前で明確にするために、よりいっそう明らかにしようとする努力であり、目的を設定する行為の延長である。それゆえ、呼びかけとは自分の投企が外面性を持つこと、つまりそれが他者のために存在することの承認である。呼びかけとは言葉の本源的な意味における献身であり、私が自分の企図を他者に捧げることを意味する。私はそれを自由に他者の自由に対して表明する〔…〕この意味で、呼びかけとはジェネロジテである。あらゆる呼びかけには贈与がある。」(293頁)

サルトルのモラル。
それは、対他として自分を贈与することに始まる。
次に、この贈与ということについて第二章を振り返ってみよう。

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