日本人がタイに嵌るのはしばしばで別に驚きもなく、またやられたか!・・・で終わりであるが、タイ人がタイに嵌る事例も存在する。その嵌る構造は双方同じように思えるのだが・・・。
それはバーンクルアットのナイジアン古窯址見学の後の出来事であった。同じバーンクルアット郡のワット・シーサワンに辿り着けないのである。合わせて十数カ所で尋ねたのだが、尋ねれば尋ねるほど嵌りこんでしまった。多い時には100mほどでたずねるのだが、右へ行けという。100m手前で尋ねると左と云ったのだが・・・。
嫌な予感はタクシーの運ちゃんから始まった。タイ語は4声があり、発音が難しいので書き物をかざしてワット・シーサワンと告げた。下の写真は、かざしたものではないが、同じタイ字を記入したメモを渡した。
案の定、知っていると宣う。遠くても10km圏内であるので安心した。混迷のスタートである。何カ所か右往左往するうちに、寺の事は寺に聞けとばかり、寺によって僧侶に聞くと、もっともらしく地図描いてくれた。地図といっても棒が4本書かれているだけ、こんなもの役立ちそうもないが、忠実に300m行って諦めた。ということで1時間半もウロウロしたであろうか。ついに諦めた。タイ人がタイに嵌った事例である。
そのワット・シーサワンである。それはBlog”の~んびりタイランド2”氏に送信して頂いた資料にワット・シーサワンの、多分布袋と思われる像をみたことによる。
それは、何と周辺から出土した陶片が貼り付けられているではないか。つまりナイジアン周辺のブリラム窯でどのようなクメール陶が焼成されたか・・・理解できるのではとの思いからである。う~ん残念。
噺は飛ぶ。タイの寺院の本尊は立像であれ座像であれ、ほとんどが釈迦牟尼像である。それ以外には写真のように布袋などの弥勒菩薩像や観音を見ることができる。そしてブログによっては、布袋と観音を見かけたら、中国寺院だとおもって間違いないと断定的に記している・・・これもどうかと思うが。
当該ワット・シーサワンはどうであったろうか?しかし、この布袋は近年の物ばかりではなさそうである。
それはラームカムヘーン国立博物館で見た。シーサッチャナーライ陶で、少なくとも500年の時を経ている。このような事例を無視して、ほぼ中国寺院でもないが、中世の代にも布袋信仰が存在していたことになる。とすれば南伝の上座部仏教ばかりでなく、北の中国仏教も影響を受けたか。
シーサッチャナーライの陶工が中國から云々は、近代にチャムロン親王が纏めたタイの年代記集成に収録され、中国側資料には記載なく、信を置けないと一貫して考えてきたが、シーサッチャナーライの当該青磁布袋像を見るにおよび、残念ではあるが、持論の外堀が埋められた思いである。
当該閑話休題は、タイ人がタイに嵌った事例で、それがブリラム陶と布袋に関することであり、忘れることはなさそうである。
それはバーンクルアットのナイジアン古窯址見学の後の出来事であった。同じバーンクルアット郡のワット・シーサワンに辿り着けないのである。合わせて十数カ所で尋ねたのだが、尋ねれば尋ねるほど嵌りこんでしまった。多い時には100mほどでたずねるのだが、右へ行けという。100m手前で尋ねると左と云ったのだが・・・。
嫌な予感はタクシーの運ちゃんから始まった。タイ語は4声があり、発音が難しいので書き物をかざしてワット・シーサワンと告げた。下の写真は、かざしたものではないが、同じタイ字を記入したメモを渡した。
案の定、知っていると宣う。遠くても10km圏内であるので安心した。混迷のスタートである。何カ所か右往左往するうちに、寺の事は寺に聞けとばかり、寺によって僧侶に聞くと、もっともらしく地図描いてくれた。地図といっても棒が4本書かれているだけ、こんなもの役立ちそうもないが、忠実に300m行って諦めた。ということで1時間半もウロウロしたであろうか。ついに諦めた。タイ人がタイに嵌った事例である。
そのワット・シーサワンである。それはBlog”の~んびりタイランド2”氏に送信して頂いた資料にワット・シーサワンの、多分布袋と思われる像をみたことによる。
それは、何と周辺から出土した陶片が貼り付けられているではないか。つまりナイジアン周辺のブリラム窯でどのようなクメール陶が焼成されたか・・・理解できるのではとの思いからである。う~ん残念。
噺は飛ぶ。タイの寺院の本尊は立像であれ座像であれ、ほとんどが釈迦牟尼像である。それ以外には写真のように布袋などの弥勒菩薩像や観音を見ることができる。そしてブログによっては、布袋と観音を見かけたら、中国寺院だとおもって間違いないと断定的に記している・・・これもどうかと思うが。
当該ワット・シーサワンはどうであったろうか?しかし、この布袋は近年の物ばかりではなさそうである。
それはラームカムヘーン国立博物館で見た。シーサッチャナーライ陶で、少なくとも500年の時を経ている。このような事例を無視して、ほぼ中国寺院でもないが、中世の代にも布袋信仰が存在していたことになる。とすれば南伝の上座部仏教ばかりでなく、北の中国仏教も影響を受けたか。
シーサッチャナーライの陶工が中國から云々は、近代にチャムロン親王が纏めたタイの年代記集成に収録され、中国側資料には記載なく、信を置けないと一貫して考えてきたが、シーサッチャナーライの当該青磁布袋像を見るにおよび、残念ではあるが、持論の外堀が埋められた思いである。
当該閑話休題は、タイ人がタイに嵌った事例で、それがブリラム陶と布袋に関することであり、忘れることはなさそうである。