東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

戦後一年の暮らし、3

2011年08月18日 09時58分37秒 | Weblog
新京での1年、
政府なし、電気なし、ガスなし、食料なし生活のつづき、

ソ連軍の撤退、国共の戦争のあと、
これがどのくらい続いたのか覚えていないが、

民衆の食料確保の手段など書いてみる、

うちのオヤが作ったのはタバコ巻き機、
たんすを壊して、帯芯などを使い、長さ10センチくらいの機械を作って売った、
当時紙巻タバコはなく、手に入れた葉タバコをコンサイス英語辞書の用紙で巻いてすっていたが、巻きたくなるのが人情だった、それを巻く機械、見本はあったと思うけれども、うまくいっていた、それを露天で売りいくばくかを儲けてシナ人から食料を仕入れるのだ、後に東京でおなじたばこまき機があったが、ずいぶん改良され長さ2センチぐらいになっていた、

友達のM君たちは漬物をつけて売ったそうだ、

M君の家は大きな近代的な住宅で、別棟にボイラー室があり、蒸気を暖房に使っていた、10年ほど前に2家族で新京に行ったら、このうちはまだ使っていた、みせてもらったら、M君は感動していた、まったく改造してない家の主人は昔は日本軍が使っていたんだといっていたが、満州K銀行の社宅だ、

そのような日本人の露天がずらっと並んでいる、当時は珍しいものを持っていたので、シナ人が買いに来る、そのオカネでほそぼそ食べていたのだ、

学校

当時、親和在満国民学校というところに通っていたのだけど、学校の運営はなくなり、ほとんど一年の間学校に行かなかった、21年の春になって、担任の先生の自宅に通い勉強を見てもらうことになった、先生の名前、友達の名前、場所みんな覚えていないけど、あ、友達ヒトリ、長谷川寛治君の名前が出てきた、もしこのホームページを見ていたらうれしい、

子供心に終戦がいかに大きな出来事だったかというと、
それから終戦以前の記憶がまるでなくなったのだ、
すべてがリセットされて、
終戦から人生が始まるようになっていたのだ。


新京へ帰る(終戦時の回想2)

2011年08月18日 06時55分03秒 | Weblog
終戦後一ヶ月ぐらいを北朝鮮ですごしたわれわれは、新京に帰ることになった、
帰りの汽車旅の記憶はない、
その後1年間に及ぶ新京での生活は大変な苦労を伴うものだった、

何しろ自治体というものがない、電気がない、ガスがない、食料がない、
まず、ソ連軍が進駐だ、その少し前から女性がいなくなった、いなくなったのではなく、断髪、男装に姿を変えたのだ、さらに家のドア、窓に頑丈な板を打ち付けて入られないように注意した、こんなことをしてもだめなときはダメだが、すこしでも進入を妨害することにはなる、そして家の中では女の子を隠す、押入れの奥に隠し場所を作った、そういうことをしてもソ連兵が侵入し、女の子を拉致することもある、翌日かえされた女の子(若妻)は半狂乱になっていて共同井戸に飛び込んで死のうとして、みんなに止められたり、タイヘンだった、

その次は中華民国軍と、八路軍(中共軍)の戦争だ、
うちの前の市街地で、一進一退の打ち合いだ、家の壁は弾痕だらけだ、
こんな事態のときでも国内で戦争をしているのだから

満州国をつくった時には中国には統治能力はなく、どこが傀儡政権だ、

その前に思い出したのだが、ソ連軍は満州国のあらゆる品物を持っていってしまった、家の窓からは電話交換局が見えたのだが、その機械もすべて持ち出してしまった、その前は原っぱになっておりわれわれの遊び場だったのだが、国軍、八路軍の戦争の際、負傷して取り残された兵隊が上半身を持ち上げたりしていたが次第におきることがなくなった、

窓からはガスタンクも見えたと思う、次第に高さが低くなっていき、ガスが出なくなった、電気はもっと後まであったが、停電続きであった、

うちでは父親も何とか隠れてシベリア送りにはならなかったが、シベリアに抑留された男たちはひどかった、何万という人々が命を落とし、生き延びた人もソ連の共産教育を施され、日本に帰ってからも赤だといわれ、つらい思いをしている、

いずれにせよわれわれはよく帰ってきたものだ、
一年間の何もない生活は大変だったし、もっと奥地から逃げてきた日本人たちは例外なく何回も匪賊に襲われてそれこそぼろぼろ、一銭でも金になるものは何一つ持っていなかった、子供を殺したり、中国人の家庭に預けたり(しばらく前まで身寄り探しがつづいた)

日本本土では、戦災、原爆、食料不足で、大変な目にあっていたのだが、満州国では終戦まで比較的平穏な生活ができた、終戦を境に上記のようなめにあっていたのだ、

満州国の生活破壊的だった(は快適だった)
新京市には莫大な資金が投資された、
幅80メートルの大通り、
直径1キロのロータリー、
電柱の地下化、
水洗便所、

内地にはないインフラが整備された、
本当に終戦までは快適に住んでいたのに、
これは終戦時一年であった私の回想録だ、
もう少し書いてみよう。