東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

昭和を生きる

2013年03月05日 17時24分08秒 | Weblog
自分史を書いている話を近所のWさんに話したら、彼は昭和2年1月の生まれで、昭和元年はほんの少ししかないので、実質昭和を全部生きた人だ、すこし暇になったら彼の自分史を書きたいなと思った、それにしてもWさんはお若い、お顔の色艶がよく、髪は黒々としている、10歳若い私が髪では完全に追い越されている、代謝がいいのだろう、風邪を引くこともない、

東町小学校を卒業して、山口瞳と同級生だ、山口の息子正介の

「麻布新堀竹谷町」

という本(確か私も買ったかしら)はこの辺の幼きころの物語である、古川が、金杉橋から天現時まで両側が強制疎開で原っぱになった話、Wさんの軍隊の話、サッカリンで大もうけした話、そういえば、このあたりは機械(金属加工などの)屋さんが多くあって、戦後はこれも大もうけした話、彼らの中には焼けた機械を修理して売ってクレームになった話などを聴いた、

正介より面白い小説が書けるかな、

山口瞳と同級生の人と友達の東京老人の作ですとかいって、

昭和、平成を生きる、自分史-2

2013年03月05日 08時39分21秒 | 自伝
順序として父、母のことである、

この2人は本当に仲が悪かった、若いとき父はほとんど長期出張をしていて、時々帰ってきた、だから小さいときは母子家庭みたいなものであった、兄弟は姉が2人それぞれ10、11くらい年が違った姉弟である、私が生まれたのは父が46、母が41位のときで、高齢出産である、考えると父は10年ごとにやっと帰ってSEXをして、2番目の姉ができ私ができた、不思議なものだね、たった一回のそういうことで、私の人生が出来上がったんだもの、

父の留守の間母は何をしていたのかというと、和裁、その前は富山県伏木(今で言う高岡市伏木)で、学校の先生をしていた、新しい学校ができると、転勤があったらしい、だから、勤務地の城端、小杉、という名前は記憶している、当時開通したばかりの鉄道越中線で通勤していた、あるとき、降り遅れて汽車から踏み切りに飛び降りた話を何回も聴いた、当時の教え子の一人は死ぬときまでお手紙をくれていた、

その母は女ばかりの姉妹の一番上であった、父は兵庫県明石の出身で婿である、その後父の転勤で東京へ、そして静岡に、母は教員を辞めて父の元についていったのだけど、父は仕事とか家に関する考えがめちゃくちゃで、それが元でけんかが絶えなかった、私は静岡で生まれた、その後父は新しい世界を求めて満州に行き、満州国新京特別市和光胡同1111という場所のアパートに落ち着いた、ここでも父は外に出がちで、母の和裁が生活の大部分を支えたようである、

私は4才だったが、一番上の姉は女学校を卒業して保険会社につとめていた、満州国にいく事に関しては大変な夫婦喧嘩の種を作ったに違いない、上の姉は聡明な人だったようである、母はこの人に期待を寄せていたのだが、大事なときに満州に行くなど変化があってうまくいかなかった、あるとき感染症にかかりあっという間に死んでしまった、姉がもっていた大きなエンパイアステートビルの写真は今でも覚えている、真ん中の姉は満州に関してはいい思い出がないらしく、後に私が新京(今の長春)にいって、姉の錦が丘高等女学校の写真などを見せてもけして真剣に見ようとはしなかった、そうだろうね、終戦のとき、われわれは大変な思いをした、私と同年代の子供のうち多くが、中国人に預けられ後に残留孤児として日本に帰ってきた、これは後で書いてみたい、

満州国に行った後、2,3回母と東京まで帰ってきた記憶がある、汽車は一日がかりで鮮満国境の新義州まで、さらに朝鮮半島を横断して釜山へ、関釜連絡船に乗り下関へ、それから東京へ帰った、連絡船は米軍の攻撃に対して全員救命胴衣をつけて訓練した記憶がある、

新京特別市の近代的な生活に慣れていた私は、はじめてみる朝鮮鉄道、下関についてさらに小さく、トロッコのような日本鉄道の小ささにびっくりしたものである、満州国にはそれほど資材をつぎ込んでいた、

首都である新京特別市では、80メートル幅の大道路、途中大同広場には円周1キロに及ぶ巨大な広場があり、すべて新しく設計した街で、電力は地中線になっており電柱がなく、下水が完備し、水洗便所が普及していた、勿論ガスも、アパートではペーチカがあって二重窓ガラスで寒くはなかった、私は鉄道が好きだったので、3日に及ぶ片道の間熱心に外を見ていた、下関に上陸すると、あと2日もかかるのに、もう東京に戻ったような気がしたものである、

走り始めた新京の市電も最初からビューゲルをつけた大型車で、都電のポールつき単車や、木造ボギー車がいかにも古臭い感じだった、学校では冬に校庭を氷らせてスケートをする、私は運動神経に乏しくほとんどすべれなかったが、姉二人はフィギアの靴で凍った道路を帰ってきていた、


ついこの間まで、終戦時の記憶があまりにも鮮烈で、その前のことは全部忘れたようになっていた、終戦の事も次に書いてみたい。