東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

昭和、平成を生きる、自分史-5

2013年03月08日 20時16分59秒 | 自伝
東京の住所は芝区三田豊岡町○番地、父の妹の家だ、この一角はごく狭い場所なんだけど不思議に焼け残っていて父の兄、妹と2軒の家に住んでいた、われわれが割り込むにはあまりに狭く、まもなく近くの大きい家に移った、その家はたくさんの部屋があり(勿論一階の一室を借りた)2階には当時の有名アナウンサー高橋敬三氏も住んでいた、このとき父は例によって広島、北海道に働きに行っていた、

母は裁縫の仕事で夜なべが多かった、しかし昼夜兼行で働いたためかなりの金額をためたと思う、姉も東京に来てすぐと近所の安田銀行に勤めた、2,3年の後少し余裕が出て、夏の夜は3人で麻布十番までお散歩をして欠き氷を食べるのが楽しみであった、

母の妹一家は小石川水道町で、洋服屋をやっていた、だんなはオートバイが趣味という飛んだ人、この店は当然焼け出され、その前に新潟県高田市に疎開していた、夏にこの疎開先に2度遊びに行った、当時の信越線は、日本一の急勾配碓氷峠をアプト式で上る、これが楽しみだった、この小母一家は東京の豊岡町のすぐそばに越してきて店を開いた、繁盛していたのだが、おじさんは若くてなくなってしまった、

小学校は御田小学校、三田と書かなかったのはいわれがあるのだろう、この学校は焼け出され、高輪台にある高輪台小学校に間借りをした、この小学校は関東大震災の復興に立てられた何校かのひとつで鉄筋コンクリート、大変大きな窓のあるモダンな建物だった、私が通った頃は迷彩色にむられていたなあ、間借りだから運動場は使えず屋上である、ボールが落ちると大変である、ここからは12時に勝鬨橋のあがるのが見えた、この学校には4番の都電で通った、三の橋ー二本榎間の電車通学は大変楽しみで、入り口にがんばっていた私たちは運転手のドア開閉を手伝った、ブレーキをかけて止まる寸前に掛け金をはずすと、反動でがちゃんとドアが開く、運転手もありがたいと思っていたのだろう、なんともいわれなかった、

姉がお嫁に行った、京王線代田橋のちかくである、当時の京王線は都電みたいな車両であったが、夏は3両連結の全部の車両がドア開けっ放しで走るのだ、涼しかったね、しばらくして2600型という大型車3両連結ができて、これはさすがにドアエンジンがついていた、当時の鉄道ファンはMTM編成なんていった、モハ(モーターつき)+サハ(付随車)+モハという意味である、

さて、クラス一組(二組まであった)にはKという女性がいて、学年で一番大きく、うつくしかったようである、集合写真ではちょっと首をかしげてまるで高校生みたいだった、(だから女の子の間ではあまり好かれていない)この子と私と二人で警察まで出かけることになった(なにか章をもらいに行ったのだ)二人は道路の左右に分かれて、なんとも気まずくあるいたものだ、この子はその後近所のS会病院に勤め、私が会社に就職して少したったころ、この病院に一週間入院したことがあって、毎日見舞いに来てくれたな、もしかしたら、この子と、なんていうことを考えていたんだけど、

組み分けは6年まで変わらなかったので、みんな仲良しであった、今でも年一回は会うようにしている、Y新聞のK君は親友で、この間なくなったときは弔辞を読んだ、彼は健康で、検診なんか一回もいっていないというのが自慢だった、日本テレビの午後のニュースで今の評論家桜井よし子さんとでていたな、

6年のころかな、父が、道でばったりと、満州国時代の会社の社長にあって、東京の、しかも近くのDというこの会社に勤めるようになった、父と母は久しぶりに同居するようになり、喧嘩は次第にすくなくなっていった、
それでも仲がよい訳ではなく、二人が一緒に出かける場合でも必ず別々に帰ってきたものである(はぐれて)