東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

近所のケヤキ

2011年08月19日 06時57分15秒 | Weblog
深く切ってしまったものだ、
それにしてもこんなにきって大丈夫か、



とおもったら、



やはりかれてしまったのか、
立派な木だったのに、
このところの猛暑のため、
植え込みのちいさい植木が枯れだししている、

近所のひとが水をやってほしい。

戦後一年の暮らし、3

2011年08月18日 09時58分37秒 | Weblog
新京での1年、
政府なし、電気なし、ガスなし、食料なし生活のつづき、

ソ連軍の撤退、国共の戦争のあと、
これがどのくらい続いたのか覚えていないが、

民衆の食料確保の手段など書いてみる、

うちのオヤが作ったのはタバコ巻き機、
たんすを壊して、帯芯などを使い、長さ10センチくらいの機械を作って売った、
当時紙巻タバコはなく、手に入れた葉タバコをコンサイス英語辞書の用紙で巻いてすっていたが、巻きたくなるのが人情だった、それを巻く機械、見本はあったと思うけれども、うまくいっていた、それを露天で売りいくばくかを儲けてシナ人から食料を仕入れるのだ、後に東京でおなじたばこまき機があったが、ずいぶん改良され長さ2センチぐらいになっていた、

友達のM君たちは漬物をつけて売ったそうだ、

M君の家は大きな近代的な住宅で、別棟にボイラー室があり、蒸気を暖房に使っていた、10年ほど前に2家族で新京に行ったら、このうちはまだ使っていた、みせてもらったら、M君は感動していた、まったく改造してない家の主人は昔は日本軍が使っていたんだといっていたが、満州K銀行の社宅だ、

そのような日本人の露天がずらっと並んでいる、当時は珍しいものを持っていたので、シナ人が買いに来る、そのオカネでほそぼそ食べていたのだ、

学校

当時、親和在満国民学校というところに通っていたのだけど、学校の運営はなくなり、ほとんど一年の間学校に行かなかった、21年の春になって、担任の先生の自宅に通い勉強を見てもらうことになった、先生の名前、友達の名前、場所みんな覚えていないけど、あ、友達ヒトリ、長谷川寛治君の名前が出てきた、もしこのホームページを見ていたらうれしい、

子供心に終戦がいかに大きな出来事だったかというと、
それから終戦以前の記憶がまるでなくなったのだ、
すべてがリセットされて、
終戦から人生が始まるようになっていたのだ。


新京へ帰る(終戦時の回想2)

2011年08月18日 06時55分03秒 | Weblog
終戦後一ヶ月ぐらいを北朝鮮ですごしたわれわれは、新京に帰ることになった、
帰りの汽車旅の記憶はない、
その後1年間に及ぶ新京での生活は大変な苦労を伴うものだった、

何しろ自治体というものがない、電気がない、ガスがない、食料がない、
まず、ソ連軍が進駐だ、その少し前から女性がいなくなった、いなくなったのではなく、断髪、男装に姿を変えたのだ、さらに家のドア、窓に頑丈な板を打ち付けて入られないように注意した、こんなことをしてもだめなときはダメだが、すこしでも進入を妨害することにはなる、そして家の中では女の子を隠す、押入れの奥に隠し場所を作った、そういうことをしてもソ連兵が侵入し、女の子を拉致することもある、翌日かえされた女の子(若妻)は半狂乱になっていて共同井戸に飛び込んで死のうとして、みんなに止められたり、タイヘンだった、

その次は中華民国軍と、八路軍(中共軍)の戦争だ、
うちの前の市街地で、一進一退の打ち合いだ、家の壁は弾痕だらけだ、
こんな事態のときでも国内で戦争をしているのだから

満州国をつくった時には中国には統治能力はなく、どこが傀儡政権だ、

その前に思い出したのだが、ソ連軍は満州国のあらゆる品物を持っていってしまった、家の窓からは電話交換局が見えたのだが、その機械もすべて持ち出してしまった、その前は原っぱになっておりわれわれの遊び場だったのだが、国軍、八路軍の戦争の際、負傷して取り残された兵隊が上半身を持ち上げたりしていたが次第におきることがなくなった、

窓からはガスタンクも見えたと思う、次第に高さが低くなっていき、ガスが出なくなった、電気はもっと後まであったが、停電続きであった、

うちでは父親も何とか隠れてシベリア送りにはならなかったが、シベリアに抑留された男たちはひどかった、何万という人々が命を落とし、生き延びた人もソ連の共産教育を施され、日本に帰ってからも赤だといわれ、つらい思いをしている、

いずれにせよわれわれはよく帰ってきたものだ、
一年間の何もない生活は大変だったし、もっと奥地から逃げてきた日本人たちは例外なく何回も匪賊に襲われてそれこそぼろぼろ、一銭でも金になるものは何一つ持っていなかった、子供を殺したり、中国人の家庭に預けたり(しばらく前まで身寄り探しがつづいた)

日本本土では、戦災、原爆、食料不足で、大変な目にあっていたのだが、満州国では終戦まで比較的平穏な生活ができた、終戦を境に上記のようなめにあっていたのだ、

満州国の生活破壊的だった(は快適だった)
新京市には莫大な資金が投資された、
幅80メートルの大通り、
直径1キロのロータリー、
電柱の地下化、
水洗便所、

内地にはないインフラが整備された、
本当に終戦までは快適に住んでいたのに、
これは終戦時一年であった私の回想録だ、
もう少し書いてみよう。

終戦の日など

2011年08月17日 06時44分52秒 | Weblog
終戦の日の数日まえ、
満州国新京市の中心地に住んでいたわれわれは、
明日の朝、南新京駅に集まれとの命令を受けた、
リュックひとつだけでの避難だ、

ソ連が攻めてくるのだ、

列車は北朝鮮の定州というところについた、
起伏のある町の小学校講堂にはいった、いまの避難所とおなしだ、
布団がなくて痛い思いをしていたら、母が、わらを拾い集めて、
藁布団を作ってくれた、
これはすばらしい、痛くなくて眠れた、

定州の小学校には赤とんぼが無数にいた、
きれいな川ではオンナが洗濯をしている、
いまとおなじ暑い夏だった、

数日して終戦の放送があった、
小学校1年生の私たちは理解できなかったが、
おやたちはいろんな心境であったと思う、

町に出てみて驚いた、
このときまで日本帝国民であった朝鮮人が、
各戸に韓国の旗を出している、
日本国旗を改造したのだろうが、
この速さ、

子供心に強い印象であった。

休耕地に太陽光発電はだめ

2011年08月16日 07時11分11秒 | Weblog
自然エネルギーの法律が急に出来上がろうとしている、
いやもう通ったのかな、
かんとそんの密約で、

ひとつの企業がめちゃくちゃもうかり

ほかの国民がみんな損する、かんはリベードをもらえるという構図だ、

そんは休耕地に太陽光発電所をたくさん作り、
40円というべらぼうな価格で作った電気を電力会社に売る、
その価格は電気代金に換算して国民から取る、
太陽光発電装置は韓国から輸入するので、

日本企業は利益を得られないというわけだ、

だけど、この仕組みにはもっとすごい不利益が出る、

休耕地といっても日本の休耕地は雑草が生えている、
その雑草でも現在太陽光の光合成作用で、CO2を酸素に変えている、
太陽光発電装置をつけたら、その作用がなくなってしまう、

さらに、こどもなどが、怪我をするといけないから鉄条網をはって、
立ち入り禁止にしなければならない、
誰でもはいって遊べた休耕地がタイヘンなことになってしまう、

さらに、この休耕地は地方自治体などが斡旋して地主から借りるのだろう、
だけど身寄りのない高齢者の休耕地は死亡に伴い所有権がうやむやになってしまう、
そのさい、構造物を持っているそんたちが手に入れて、日本全体の何%かの地面を、
手に入れてしまうのだ、

この仕組みは全員がよく考え、
休耕地の発電設備設置を禁止しなければならない、

福鮨

2011年08月13日 20時49分08秒 | Weblog
土曜日、

六本木の福鮨でランチだ、
チラシと握りがあるのだが、今日はちらし、

   

茶碗蒸し、おすしの大きな牡丹海老がおいしい、
この海老の頭がお吸い物に入っている、

  

別室でコーヒーとケーキ、

おいしい、シアワセ、

Y(うちの奥さん)が、おすしがおいしかったなあと何回もいう、
ボリュームもあって夕食時まで満腹であった。


日本は暑い

2011年08月13日 11時45分34秒 | Weblog
ひょとして日本の暑さは異常ではないか?

世界の温度を調べてみた、

  

一覧表になっているものがすくにけど、
見ていくと、以外に

バンコックで28度、シンガポールで30度
ロンドンパリで17度だ

これはいけない、
バンコックなどに避暑に行かなければ!!

いつものとおりマクドで避暑、
でもコーラとかのフツーを毎日飲んでたら、

太るかも?


今日は暑かった、厚木行き

2011年08月11日 18時39分58秒 | Weblog
今日は本当に暑かった、

その中で厚木に行ってきた、
今日も横浜経由、

   

泉岳寺駅のエレベーターが完成した、ここの階段はいったん下がって上がる、というふざけた設計なので、エレベーターはとてもよい、これからもお世話になりそうだ、
10:35についたのだけど泉岳寺発快速がなく、都営線からの直行だった、それならそれでよい、この電車のシートは全国一ふっかふかだ、電車の中央に座ると、クロスシートよりよいかもしれない、昔の特急ツバメの一等車並みである(ちょっといい過ぎか)

横浜の地下道がすべて出来上がって、とてもよい、とはいえないけど、まあまあだね、
みなみ東口、みなみ西口とは?みなみ南口もあるのだろうか?

  

最後の写真は京浜急行横浜駅のホームだ、「 ○、ト 」という見慣れない標識が出ている、何だろう、都営直通とそれ外の電車の区別だと思っていたのだが、違うんだって、ト というのはドア閉めOK ○は発車OKだそうだ、最近読んだ本で知った、

相鉄線に乗ると当然車内に鏡がついている、
この鏡がないとカガミ鉄道でなくなってしまうという重要な部品だ、

このまえ食べ損なったお店でランチ、ハンバーグだが、あちあちに焼きあがっている、野菜も多くいいところがあうけど味がいまいちだった、

さて、厚木市の健康診断の結果だが、まずまず、肺、胃などさらに診断してくださいとのことだった、前立腺、大腸ほか異常なし、このあと、20日に東大の検査がある、9月2日には、厚生中央病院で、N先生の診断だ、N先生は先日出産をされて、8月まで休んでおられた、どちらかの病院で精査してもらおうと思う、それらが終わらないと9月のアメリカ旅行がいけない。

帰り、横浜の海を見てこようと思っていたのだけど、あまりの暑さで、そのまま帰った、




かなり直ってきた、

2011年08月11日 06時50分57秒 | Weblog
6:25

テレビ体操の時間だ、
恐る恐るやってみる、
かなりできるのがわかった、

今回のぎっくり腰は最初は最もひどかったけど、
最短期間で直りそうだ、
今後気をつけねばならない、

今回やったことは直後の

安静
入浴

であった、
皆様ご心配掛けて済みませんでした。

わづかにいい方向に、

2011年08月10日 17時31分29秒 | Weblog
土曜日にぎっくり腰をやったのだが、
相当いい方向に行っている、

最初と2日目、
じっと寝ていたのがよかったのであろう、
最初は安静だ、それからしだいに動いたのだが、だいぶ状態がよくなった

3ヶ月もかからないでなおりそうである、



いつものように麻布十番のマクドで冷たいもの(100円)
ありがたい、これは9月1日までだって、


M君の冥福を祈る

2011年08月09日 17時30分56秒 | Weblog
会社の同期の中では一番元気だったM君が、
突然なくなったとの知らせがきた、

彼は60台半ばになってから、8000メートルクラスの山に、
何回も登っているのだ、

信州の山で登山中に落石に会うという不幸な事件だった、

M君のご冥福をいのる。

歯科の診療

2011年08月09日 11時02分21秒 | Weblog
このところ代謝というか、
免疫というかがうまく行っていて、
めったなことでは風邪を引かなくなった、
同時におなかを壊すこともない、
(ぎっくり腰はどうしようもないが)

歯も痛いことはないのだが、膿が出るらしく、
夜中にoshikkoにいくとき、うがいして水を飲んでいる、

そこで、膿が出るのを、治療してもらいに行くと、
その膿を飲み込むと、血管などに悪いことが起こるので、
徹底的に歯の傷を治療したほうがいいとのこと、

先生は、今年の春に、2番目の子供もできたそうで、
おめでたいことである、
さらに美しくなり、雑誌にも2ぺージの記事が出ていた、


もっともだと思うのだが、この辺の治療費は自費だそうで、
少し時間とお金がかかる、

夜中にoshikkoで3回も起きるのは、
悪いことだけではないとおもった。

テレビ体操を椅子で、

2011年08月07日 06時51分51秒 | Weblog
朝のテレビ体操、

がんばってやってみようと思ったのだけど、
立ち上がりがどうしてもだめである、
(きのうぎっくり腰になったのだ)

ついベッドに腰掛けて上半身の運動をやった、
テレビではいかにも健康な女性が椅子に座って運動をしている、
椅子に座ってもうまく動けないのであった、


そのまえ、5:15の演芸図鑑
こんなひどい時間に、
と思ったけど、

かんがえてみたら、ロージンだ、
早起きは慣れているね、
NKHは考えているのか。