私にとってのアイドルと言えば誰かというと、宇多田ヒカルと椎名林檎だ。
二人ともデビュー曲を聴いて、すぐに気に入った。
アルバムは、すべて持っている。
何をしても許される存在。
そして、どの歌を聞いてもガッカリすることのない存在。
それが、私にとってのアイドルの定義だ。
ただ、宇多田ヒカルさんに対しては、ひとつだけガッカリさせられたことがある。
離婚した前夫・紀里谷さんに関してである。
彼はかつて、宇多田ヒカルさんのプロモーションビデオの数々をてがけ、「映像の魔術師」などと言われた存在らしい。
だが、私はいつも疑問に思っていたのだ。
宇多田ヒカルさんのビデオを観て、いつも「何、これ?」という疑問符しか頭に浮かばないのである。
曲の良さをぶち壊しているだろう、という怒りさえ感じることがある。
色が、うるさい。
私の友人は、そこに彼一流の芸術的な表現があるのだよ、と彼を擁護するが、うるさい色のどこに芸術があるのか、と私はいつも訝しく思っている。
私は、フリーランスのデザイナーだが、三流である。
だから、一流の芸術家の感性が理解できないのかもしれない。
宇多田さんが選んだ人なのだから、彼には絶対に才能があるに違いない。
そのように思って、自分を納得させようとしているのだが、どんなに心を落ち着けても、あの色のうるささを肯定することが未だにできないでいるのである。
その紀里谷氏が、映画監督として、2本の大作を撮った。
彼の才能は、映画にこそ生かされるのではないか、と期待して、DVDを観た。
しかし、そこでも私はガッカリさせられた。
相変わらず、色がうるさい。
表現手法が、独りよがりである。
役者を生かそうと思って撮っていない。
物語や人物像より、映像を優先させている。
そこが、致命的だ。
2本鑑賞して、私は絶えず苛々し、さらに失笑を禁じ得なかった。
これは、たとえば大学の芸術学部の卒業制作レベルの映像である。
優れた役者を揃えたところだけがプロの領域で、ほかの部分に関しては、習作(エチュード)でしかない。
壮大な金の無駄遣いだ。
天才アーティストであり、私のアイドルでもある宇多田ヒカルさんが選んだ人だから、贔屓目に評価したいのだが、評価するべきところが、ない。
そこが、とても残念だ。
二人ともデビュー曲を聴いて、すぐに気に入った。
アルバムは、すべて持っている。
何をしても許される存在。
そして、どの歌を聞いてもガッカリすることのない存在。
それが、私にとってのアイドルの定義だ。
ただ、宇多田ヒカルさんに対しては、ひとつだけガッカリさせられたことがある。
離婚した前夫・紀里谷さんに関してである。
彼はかつて、宇多田ヒカルさんのプロモーションビデオの数々をてがけ、「映像の魔術師」などと言われた存在らしい。
だが、私はいつも疑問に思っていたのだ。
宇多田ヒカルさんのビデオを観て、いつも「何、これ?」という疑問符しか頭に浮かばないのである。
曲の良さをぶち壊しているだろう、という怒りさえ感じることがある。
色が、うるさい。
私の友人は、そこに彼一流の芸術的な表現があるのだよ、と彼を擁護するが、うるさい色のどこに芸術があるのか、と私はいつも訝しく思っている。
私は、フリーランスのデザイナーだが、三流である。
だから、一流の芸術家の感性が理解できないのかもしれない。
宇多田さんが選んだ人なのだから、彼には絶対に才能があるに違いない。
そのように思って、自分を納得させようとしているのだが、どんなに心を落ち着けても、あの色のうるささを肯定することが未だにできないでいるのである。
その紀里谷氏が、映画監督として、2本の大作を撮った。
彼の才能は、映画にこそ生かされるのではないか、と期待して、DVDを観た。
しかし、そこでも私はガッカリさせられた。
相変わらず、色がうるさい。
表現手法が、独りよがりである。
役者を生かそうと思って撮っていない。
物語や人物像より、映像を優先させている。
そこが、致命的だ。
2本鑑賞して、私は絶えず苛々し、さらに失笑を禁じ得なかった。
これは、たとえば大学の芸術学部の卒業制作レベルの映像である。
優れた役者を揃えたところだけがプロの領域で、ほかの部分に関しては、習作(エチュード)でしかない。
壮大な金の無駄遣いだ。
天才アーティストであり、私のアイドルでもある宇多田ヒカルさんが選んだ人だから、贔屓目に評価したいのだが、評価するべきところが、ない。
そこが、とても残念だ。