リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

アチチの人

2011-12-13 06:39:40 | オヤジの日記
今年のFNS歌謡祭のことが、ネットの狭い世界で話題になっている。

ジャニーズのアイドルグループ・嵐が持ち歌を歌った時の音響が最悪だった、と非難が寄せられているらしい。

私の高校一年の娘が音楽が好きなので、FNS歌謡祭は見ていた。
しかし、嵐には二人とも興味がないので、その部分は見逃していた。

だから、本当にひどかったかどうかは、わからない。

昨今の、フジテレビといえば韓流絡みで何でも叩くという風潮があるから、私たちは嵐の件に関しては、静観を決め込んでいる。
もともと上手とは言えない嵐の歌に事件が起きても、私は少しも不思議に思わない。

果たして、ほかのテレビ局で同じようなことが起きても、同じように騒いだろうか。
仮定の話をしても意味はないのだが。


それより、娘と私が驚いたのは、郷ひろみ氏である。

その歌の劣化の激しさに、驚愕した。

郷ひろみ氏の歌を聴くのは、アチチアチ(曲名を忘れた)以来である。

アチチアチは、むかし息子と娘が、なぜか気に入っていた。
彼のことを「アチチの人」などと呼んでいた。

二人は、アチチアチの振り付けを覚えて、アチチの人が出るたびに、テレビの前で一緒に踊っていた。

しかし、そんな風に無邪気な子どもたちに向かって、私は言ったのである。

よく聴いてごらん。
ひどいリズム感だと思わないか。

前の言葉を引きずっているから、次にリズムが切り替わっているのに、まったく音が付いていけない。
伸ばした音が曲全体をルーズにするから、全てが間延びして、音程がないように聴こえるんだ。

バックの演奏なしで、ボーカルだけ聴いたら、きっとお経のように聴こえると思うよ。


娘は、当時ピアノを習っていたから、私の言っていることがすぐに理解できたようだ。
それ以来、アチチアチを歌うのをやめた。

そして、後日、私に向かっていったのである。

「ねえ、この人もアチチの人と同じだよね」
娘の指差す先には、テレビがあって、近藤真彦氏が歌っている姿が映っていた。

娘が言うように、その歌唱方法は、アチチと一緒だった。
というより、もっとヒドイものだった。

前の音階を引きずっているから、歌が、まったくリズムに乗らない。
そして、喉を使うだけの発声方法だから、高い声を出そうと思うと「叫び声」にしかならない。
だから、とても耳障りだ。

さらに、叫んでいることにより音程が不安定になる。
歌が一本調子になって、抑揚がない。

ワンコーラスを聴くのに、かなりの忍耐を要する。

「アチチより、ヒドイか」
娘が、苦笑した。

それ以来、近藤真彦氏の歌は、聴いていない。
聴くのが、怖い。


今回FNS歌謡祭で、アチチの人の歌を聴いたとき、思わず娘と顔を見合わせた。

娘が言う。
「チャンネル、変えたほうがよさそうだな」

無言で頷いた。


おそらく、娘と私は、アチチの人の歌は、二度と聴かないだろう。



J-POPになろう

2011-12-09 11:43:49 | オヤジの日記
K-POPというと過剰に反応する人がいる。

無理はないかな、とは思う。

例えば、韓国では、反日教育や反日キャンペーンが国を挙げて繰り広げられている。
その中で、韓国内の親日派への風当たりが強いことは、想像がつく。
少しでも日本寄りの発言をした人は、韓国内世論に袋叩きの目に遭う。

その種の現象に敏感な人には、韓国憎しが、K-POP憎しに変わってもおかしくはない。

日本でも、ネットの一部を中心に、反韓キャンペーンが繰り広げられている。
その現象につられて、嫌韓になる人も、いるだろう。

ただ、韓国における親日派は肩身が狭いが、日本における親韓派は、それほど肩身が狭い状態とは言えない。
特定のテレビ局へのデモ行動くらいでは、親韓派に楔を打ち込むまではいかないだろう。

嫌韓派は、K-POPブームは作られたもの、一部のメディアのゴリ押しだ、という。
ただ、私は、商売とは基本的にゴリ押しが伴うものだという見解を持っている。

たとえば、アメリカ映画の話題作の封切り前には、テレビでは怒涛の如く「アメリカ興行成績No.1」とか「今年一番の話題作」「泣ける映画」というようなキャッチコピーで、大量のCMをほとんどのテレビ局で繰り返し放映している。
あれも、考えようによってはゴリ押しだ。

あの方式をくどいとは思うが、商売だからと、私はそれを普通に受け入れている。
同じように、韓流も商売なのだから、私は普通に受け入れている。

ショービズの世界で、宣伝は、成功するための大きな要素である。

国家に対する感情論と映画、音楽の善し悪しは、別物だと私は思っている。

私も韓国が、国家ぐるみで韓流をプロデュースするのを鬱陶しいとは思っているし、まるで交戦相手国的な扱いで反日教育をするというのは、他国家に対して礼儀を欠くと思っている。
国家として幼稚である、とも思っている(過去の日本帝国主義の愚挙に対しては申し訳なく思うが)。

しかし、私の中では、音楽や映画、ドラマは別なのだ。
スポーツも別だ。

優れた音楽や映画、そして優秀なスポーツ選手は、やはり尊敬に値するものだと思う。

たとえ彼らが、ガチガチの反日思想を持っていたとしても、彼らの優れた能力まで否定したくはない。


BoAという女性歌手がいる。

日本デビューして、今年10年になるという。

BoAは、今現在のK-POPアーティストとは比べ物ならないくらいに、日本で成功した。
シングルもアルバムも日本の人気アーティストと同程度に売れたと記憶している。

しかし、誰も、BoAのことをテレビ局やレコード会社の強引な韓流押しとは言わなかった。
その後、東方神起が売れたときも、嫌韓派は増えたかもしれないが、ゴリ押しと騒ぐことはなかった。

いまほど、世間は騒々しくなかった。


それは、なぜかと考えたときに、私はひとつのヒントを見つけたのである。

9月に東京ドームで、韓国のプロダクション・SMエンターテインメントの歌手が集まって「SM Town」というコンサートが開かれた。
そのコンサートをK-POP好きの我が高校一年の娘とヨメが、観に行ったときのことだ。

コンサートは、かなり盛況だったらしく、どのアーティストが出ても歓声が途絶えることなく、観客のボルテージは上がりっぱなしだったという。

そのコンサートには、BoAも出ていた。
ただ、BoAが登場すると、観客が作る空気が若干変わったというのだ(あくまでも娘の感想だが)。

今まで立って歓声を送っていた女の子たちのうちで、BoAが出てくると座ったり、トイレに席を立つ子が、少なからずいたという。

これを見て、娘は頭にきたという。
「失礼だ」と思った。

我が家は、大学三年の息子、高校一年の娘、ヨメ、そして私を含めて、家族全員が、BoAのファンである。

だから、その話を聞いて、皆が怒った。

BoAの歌で、席を立つだとぉー!

失礼にもほどがある! 責任者出てこい!

と、家族全員が憤った。


だが、怒りながらも私は、そのとき思ったのだ。

最近の風潮に流されて俄かK-POPファンになった人たちにとって、BoAは、感覚的にJ-POPと捉えられているからではないか、と。

例えば、日本人や韓国人、中国人のアーティストが、アメリカにわたって全編英語の曲をリリースしたとする。
曲を聴く限りでは、アメリカ人が歌っているように思える。

そんなとき、その歌は、日本人が歌っていたとしてもJ-POPとは言われないだろうし、韓国人が歌っているからといってK-POPとは言われないだろう。C-POPとも言われないはずだ。
その歌は、アメリカの歌として認識されるはずである。

BoAも同じなのではないか。
BoAが日本語で歌う曲は、日本ではK-POPではなくJ-POPと捉えられている。

つまり、「K-POPに憧れている」最近の俄かファンたちにとって、BoAはJ-POPなのだから、興味の対象ではないことになる。

彼女たちは、K-POPには熱くなれるが、J-POPには熱くなれない。
K-POPを聴きに来た彼女たちに、J-POPを聴く理由はない。

だから、K-POPファンの一部は、BoAに興味をなくしたのだ。


私からすれば、K-POPアーティストが日本語で歌う歌は、J-POPに分類されるべきだと思うのだが、盲目的に「K-POPに憧れている」ファンにとっては、ブームとしてのK-POPだからこそ、強い興味が持てるのだ。

J-POPであるBoAは、きっと、そんな彼女たちのブームからは、外れた人なのだろう。


そう考えると、今のK-POPアーティストたちが、BoA並みに日本語が上手くなったら、みんながJ-POPのジャンルに入って、今ほど反発は受けなくなるのではないか・・・・・と。



そんなことは、ないか。



ヒラヒラ

2011-12-06 13:21:44 | オヤジの日記
一年の終わりには、NHKの歌番組のほかに、存在理由がわからない「レコード大賞」というのがあって、白けた空気を作り出している(私だけが、そう感じているだけ?)。

なぜ存在理由がわからないかというと、何を基準に選ばれているか曖昧だからだ。

一番売れた曲が、選ばれているわけではないようだ。
一番優れた曲が、選ばれているわけでもないようだ。

その年、一番話題になった曲?
あるいは、レコード会社かプロダクションの力関係?
または、大物プロデューサーの鶴の一声?

そのあたりが、不透明だ。

私が、最後にレコード大賞を見たのは、ピンクレディーが大賞を取ったときだったから、もう30年以上見ていないことになる。

なぜ見なくなったのかというと、下らない理由からだ。

受賞した歌手の両親や恩師を連れてきて、歌手を無理やり泣かせようという演出が嫌いだからである。
私は、両親や親への報告や感謝などは後にして、賞を取った心境を歌手が自分の言葉で語るのが、ファンへの礼儀であると思っている。

押し付けられた涙などは、見たくない。

その演出が嫌いだから、見るのをやめた。


それ以後は興味がなくなったので、誰が受賞したのか、私は全く知らなかった。
しかし、先日ネットで今年のレコード大賞のノミネートをEXILEが辞退したという記事を見て、驚いた。

EXILEが、3年連続で大賞をとっていたというのである。

私は、極端な聴かず嫌いのタチなので、EXILEの歌は、ワンコーラスも聴いたことがない。
だから、EXILEの評価が、そんなに高いのを知って、驚いたのだ(売れているのは知っていた)。

聴いたことがないのに、批評をするのはフェアでないとは思う。
ただ、私が5、6年前に少しだけ聴いた記憶によると、それほど際立ったグループではなかった、という印象が強い。

当時は、7人か8人のグループだったと思う。
ボーカルが二人いて、他はダンサーだった。
ボーカルの二人は、体をほとんど動かすことなく、歌に専念していたと記憶している。

そのとき私が聴いたのは、バラードだった(曲名は忘れた)。

ボーカルがスローな曲をしっとりと歌っている後ろで、ダンサーたちが、ヒラヒラと踊っていた。
私には、そのヒラヒラが、目障りに見えたのである。

バラードに踊りは必要か?
バラードは、落ち着いて聴くものではないか?
あれは、邪魔じゃないか?

それはもちろん、私の了見の狭い言いがかりだから、EXILEは悪くない。

ただ、バラードを歌っているボーカルの後ろでの「ヒラヒラ」を受け付けない私が悪いのである。
しかし、一度気になってしまったものを脳細胞から消すのは、年を取ればとるほど難しくなる。

あの「ヒラヒラ」は嫌だ。

その固定観念が頭から離れなくなった私は、申し訳ないが、EXILEの歌を聴く(見る?)のを避けるようになった。

だから、今のEXILEが、どれほど素晴らしい歌を歌っているか、私には想像がつかない。

3年連続でレコード大賞を取るのは、並大抵のことではないはずだ。
きっと私が聴かない間に、彼らは進歩して、優れた楽曲を世に送り出したのだと思う。

それは、偉業だ。

だが、もしも、まだボーカルがバラードを歌うその後ろで「ヒラヒラ」が続いていたとしたら、私は絶対に聴かないだろうと思う。

それが、どんなに優れた歌だったとしても、あの「ヒラヒラ」は嫌だ。

年末に、あのマル・モリは聴きたくないが、あの「ヒラヒラ」も年末には見たくない。


ファンの方には、申し訳ありませんが・・・・・。


年末恒例の

2011-12-03 12:30:44 | オヤジの日記
年末恒例のNHKの歌番組を見ないという人は、多いと思う。

私の友人の演歌好きは毎年見ているようだが、私はもう20年以上見ていない。

見ない理由は、色々ある。

私の場合は、まず演歌が嫌いというのがある。
そろそろ年も明けようかというときに、あんな陰気で、しかも汚い声の歌は聴きたくない。

それに、それぞれの歌手の歌の持ち時間が短すぎる。
おそらく、ほとんどフルコーラス歌っていないのではないだろうか。
私は、歌はフルコーラス歌ってこそ、歌世界の全てを表現できると思っているから、歌を軽んじる、その演出方法に疑問をもっている。

それに、これを言ってしまったら、企画が成り立たないのはわかっているのだが、男と女に分かれて歌う意味が全くわからない。
男も女も同じ数だけ揃えて、歌を競いましょうなどという学芸会的発想に、ついていけない。

また、全く進歩のない懐かしのメロディが並ぶ演歌と、最新ヒット曲を同一の音楽番組でやるには、無理があると私は思っている。
見ていて、居心地の悪さを感じる。

司会者の進行も台本通り、型通りで、意外性がない。
司会が型どおりだから、歌手の受け答えも型通りになって、まるで官僚の答弁を聞いているような気がして、味気なく感じる。

今年は、おそらく震災復興というのが、テーマになるだろう。
それは、とても意義深いテーマだとは思う。

それは、有意義なことだと思うが、それでも私は絶対に見ないだろう。

不適切な言い方になるが、年末の歌番組で台本通りの「復興キャンペーン」を見るより、自分の家族とともに、今年一年を顧みて、同じ時間を共有するほうが、私には、遥かに意味のあることのように思える。

パターン化したショーとしての「復興キャンペーン」は、その意義を認める人が見れば、とても面白く感動的かもしれない。
私は、それを否定はしない。

しかし、新しい年に繋がる貴重な時間を大切な家族とともに過ごしたい私にとっては、意味のないものだ。



そんな風に思う私は、被災地の少しでも早い復興を願いつつ、今年も家族との会話の中で、新しい年を迎えることだろう。