10月4日(金)は、静岡県ニュービジネス協議会の会員7人とともに高知市内のタウンウォッチング。
朝一で訪ねたのは、高知市中心市街から車で20分ぐらいの小高い山にある、四国霊場の名刹・五台山竹林寺です。
創建は724年。僧の行基が聖武天皇から、中国の唐の五台山になぞらえた寺を全国に建てるよう勅願を受け、この地を選んだそうで、行基自ら彫った文殊菩薩を本尊としています。日本に現存する最古の文殊菩薩で、京都の切戸文殊、奈良の安倍文殊と並び、日本三大文殊菩薩の一つに数えられ、50年に一度、ご開帳されます。来年2014年がそのご開帳年。一生に1度、運よく拝めるかどうかですよね、こうして知ったのも仏縁ですから、ぜひ行かなければ・・・!詳しくはこちらを参照してください。
その秘仏ご本尊が祀られる本堂(文殊堂)は、江戸時代の1644年、土佐藩2代藩主山内忠義公が造営したもの。美しい茅葺屋根が印象的な室町様式の造りです。
その向かい側には高さ31メートルの堂々とした五重塔。もともと古くから三重塔があったそうですが、明治32年の台風で倒壊し、昭和55年にようやく復興できたとのこと。地蔵群とのコントラストが印象的でした。
境内にある大師堂は、弘法大師がこの寺で修行し、四国霊場第31番札所に定められたことが由縁となり、本堂と同時期に造営されました。この日もお遍路さんの姿がちらほら。観光客メインの京都の寺とは違うなあと思いました。
客殿を取り囲む庭園は、鎌倉後期に夢想国師が作庭したもの。国名勝に指定されています。
宝物館には平安~鎌倉時代の仏像17体、すべて国重要文化財が整然と展示されていました。撮影は出来ませんでしたが、どれも状態がよく、大切に伝承されてきたことがうかがえます。
お寺や歴史にさほど興味がなさそうなニュービジネス会員さんたちも、「こんな立派な寺が高知の街中にあったんだなあ」と感心しきり。静岡市内にも、丸子の柴屋寺、大岩の臨済寺など歴史的に価値ある名刹があるけど、県外から来た人をこういうふうに感動させる要素ってあるのかなあ・・・。
次いで桂浜へ。坂本龍馬像は浜ではなく、小高い丘の上に、「あんた、なんでそんな偉そうに建っとるん?」とツッコミたくなるほど堂々と建っていました。
いや、(龍馬の業績から言えば)堂々としてるのは理解できるんだけど、「着物の着方がだらしないんだよなあ(苦笑)」とツッこむニュービジ会員さん。私も、ふと、東京の皇居外苑にある楠木正成像のカッコよさを思い出し、つい比べちゃって、「言われてみれば、銅像にするならもうちょっとピシッとしまったお姿のほうがよかったかなぁ」と。なまじ本人のリアル写真が残っていると、デフォルメしにくいというか、不利ですね(笑)。楠公の像もリアルとはたぶん、だいぶ違うと思うし・・・そう考えると、歴史教科書に載っている肖像画とか銅像って人物をイメージするのに大きな影響力があります。
桂浜では、前夜、地酒バー「ぼくさん」で知り合った酒徒のお一人から土佐闘犬センターに行くよう勧められたんですが、闘犬ショーの時間が合わず、看板だけ拝見しました。看板、インパクト有りすぎでしょう(笑)。
桂浜から龍頭岬を散策しながら、前日の新事業創出全国フォーラムで講演をされた森館長お勤めの高知県立坂本龍馬記念館へ。
外観はイメージしていたのとだいぶ異なり、マリンリゾート風の建物で、入口にはシェイクハンドポーズの龍馬さん。館内には常設展示、企画展示、図書館、スクリーンコーナー、ミュージアムショップ等があり、子どもたちの歴史教材になりそうな資料がたくさん展示されていました。
展示史料の多くは、複製の文書類。真物は宮内庁や京都国立博物館等に保管されているようです。保存の観点からみれば、複製でも全然構わないのですが、文書ばかりが並ぶフロアはもう少し展示レイアウトを工夫してもよいかも。
それにしても、龍馬さんって聞きしに勝る“筆まめ”な人だなあと実感します。
コピーライターとしてグッときたのは、文久3年6月29日、姉の乙女さんに宛てた手紙(複製)にある、「日本(にっぽん)を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべく…」の一節。有名な言葉ですが、実際に本人の文字を見ると、“日本を洗濯する”って表現のセンスのよさや、途方もないスケール感に、すごいクリエーターだなあと改めて感服します。こういう言葉を、勤皇同志ではなく、身内にサラッと書き残すところも粋ですねえ。
桂浜近くの食堂で鰹のたたき(ステーキみたいに肉厚プルプルで美味でした!)を食べた後、午後は高知城へ。パッと見はこじんまりした造りですが、日本でただ一つ、本丸の建築群すべてが江戸時代のまま現存する国宝の名城です。
高知城、私はお城オタクではないけど、一歴史ファンとして、軍事拠点として造られた城の構造から、当時の政治状況や土佐藩の経済力等を推し量る楽しみ方があります。
追手門から鉄手門、詰門と、各ゲートに張り巡らされた防衛シート。本丸御殿の各所にある武器庫や警護武士の番所。欄間は土佐の荒波を表現したデザインで、1601年から1611年まで10年がかりで築城された創建当時は金箔張りのふすまなど贅を尽くした造りだったそうですが、1727年に焼失した後、財政難で天守閣が復興したのは20年後。・・・戦乱の時代ははるか昔だったのに、やっぱり無理してでも天守閣を再建しなくちゃ、藩として体面がつかなかったんでしょうか。結局、明治維新によって廃城となり、本丸と追手門以外はすべて取り壊されてしまいました。
それにしても、天守閣まで登る急階段のキツさといったら・・・。これを、鎧兜で完全武装して駆け上がるお侍さんたちの体力を考えたら、現代人はとてもかないません。平成の今、静岡から高速バスで13時間、やたら遠いと実感する高知の地に、400年以上前、すべて手作業でこれだけの建造物を造るって、当時の日本人の、身体能力はもちろんのこと、技術力、情報収集能力たるや、とんでもないと想像しちゃいます。この城が、近年に復元再建されたものではなく、江戸時代に非動力で築かれたホンモノだけに、よけいに実感します。
ニュービジネス協議会では、定期的に東京ビッグサイトや幕張メッセで開かれる最先端の技術展示会を視察し、人間の身体能力や感覚に代わるロボットやIT技術のすごさに感心していますが、視方を変えると、人間自身の身体機能はどんどん劣化していくんですね。SF映画に描かれる、手足がもやしみたいに退化した、頭デッカチ&ギョロ眼の宇宙人・・・あれ、間違いなく人間の近未来の姿だ、と切実に思いました。(つづく)