ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

法定相続情報証明制度について

2017年08月28日 | 行政書士のお仕事

相続を経験して人にとって亡くなった方の(被相続人)銀行、その他金融機関名義の口座を解約するのに苦労した人もいると思います。

複数の謄本の束を抱えてA銀行、書類を返還してもらってB銀行と走り回る。

そこで、この制度は相続人の負担を少し軽くしようというもので平成9年5月29日から始まりました。

(1)必要書類を集めること

これは従来と変わりありません。

1,被相続人の戸籍謄本。

出生から亡くなるまでの連続した戸籍謄本、除籍謄本。

(相続のことを考えると戸籍はあまり移動しない方がいいですよね。最近はネットで市町村役場の申請書が取れるのでそれに記入して郵送でどんな遠方でも簡単にとれますので)

2、被相続人の住民の除票

被相続人の最後に暮らしていた町の市区町村役場

本籍が記載されたもの。亡くなってから除票は5年間ぐらいで取れなくなる場合もあるのでその場合は最後の本籍地で戸籍の付票を取得。

3、相続人の戸籍謄本か抄本

これは現在のものだけです。

4、申出人(この手続きを進める人)の住所・氏名を確認できるもの。

運転免許所など

(2)法定相続情報一覧図の作成(A4サイズ)

 

亡くなった(被相続人)の法務太郎さんを中心として書きます。もちろん全員が法定相続人です。

この場合長男の法務一郎さんが(申出人)となっています。

一郎さんは促子さんや進さんの承諾入りません。そこで同時に促子さんが別の場所で同じものを作って作成もできます。

プライバシーの観点から相続人の住所は省略できます。記載した場合は住民票も必要です。

相続放棄した人の相続人も記載します。廃除された場合は記載しません。最初から相続分がありませんから。

大事なことは法務太郎さんが亡くなった日時です。その時点で法務一郎さんが存命であって一覧表を作成する時に代襲相続が始まっていても一郎さんを記入します。

逆に太郎さんが亡くなった時にすでに一郎さんがその前に亡くなっていればその子になります。

更に大事なことは

この表には持分や分割などはかきません。

つまりこの一覧図はあくまでも従来の沢山を書類を持っていくことを省略してこの法務局の証明書で済むということです。

銀行に行って相続人のひとりが解約するためには別途他の相続人の譲渡証明書や分割書をつけることになるでしょう。

ご隠居もまだこの仕事をやったことがないのでよくわかりませんが口座のある銀行に相談してみてください。

(3)申出書の記入、登記所への申出

利用目的の「その他」は自動車の名義変更なども考えられます。

被相続人名義の不動産の有無で複数ある場合でも1筆書けばいいそうです。

(2)(3)の書類を合わせて登記所へ申請します。

申出をする登記所

1、被相続人の本籍地

2、被相続人の最後の住所地

3、申出人の住所地

4、被相続人の名義のある不動産の所在地

(郵送も可能です)

 

私の人生は順調で幸福に満たされていたなどと威張っていてもかならず相続には直面しますのでちょっと考えておきましょう。

 

ご隠居の事務所でも「人生相談他あらゆる相談無料です」とプレートを張ってありますが

やっぱり相続の相談、アパートのトラブル相談が多いようです。

「相談」ということで最近話題になったのは

横浜市資源循環局のごみの分別案内でAI(人工知能)が回答しているものです。

Q 旦那を捨てたいのですが。

A 人間は判断力の欠如によって結婚して

      忍耐力の欠如によって離婚する

      記憶力の欠如によって再婚する

      忍耐力をきたえたらどうかな。

 

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僕の細道旅行譚(斎理屋敷)

2017年08月19日 | 旅行

阿武隈ライン乗船場から町の中心部へは歩いて15分ぐらいかかりました。

したがって丸森駅はかなり町のはずれになります。

蔵の郷土館「齋理屋敷」です。この辺が中心地でしょうか。

仙台銀行、七十七銀行、郵便局、役場などがありました。

豪商「齋藤屋」は江戸時代から明治・大正・昭和とこの辺りの大地主、幾代にもわたる資産家です。

小さな大名になんか負けない宝物が土蔵に眠っています。

地方に行くと都会の小金持ちなんかが比較にならないほどの資産家がよくあります。

昭和61年七代目の当主より土地家屋がそっくり町に寄贈されたそうです。

館内12の建造物が国の登録有形文化財に認定されました。

それでは中に入ってみましょう。

館内入り口から本屋敷に向かいます。建物の偉容とその数に圧倒されます。

現在でいうとピロティというのでしょうか。部屋の前が日差しをよけてくれてこの時期涼しそうです。

ご隠居の好きな顔出し看板がありました。

重要文化財が立ち並ぶ中にちょっとほっとする風景です。

本屋敷の中は豪華な花嫁衣装や沢山の嫁入り道具、その他工芸品が飾られています。

齋理に迎えられたお嫁さんは周辺の娘さんたちのあこがれの的だったそうです。

屋敷は吹き抜けになっていて2階に上がると1階全体が見渡せます。

齋理の旦那はダンポとよばれて新しい物好きで、昭和の初めに丸森町に初めて飛行機を呼んだり仙台で放送が始まる前にラジオを買ったりしたそうです。

どの代のダンポも趣味悠々、道楽三昧。

請われるままに書画骨董を買い取っていたそうです。

この蔵にもお宝が沢山ありそうです。

こちらは時の蔵です。

骨董品などが治められていたそうです。

一時銀行として使われていたこともあったとか。

裏門を出て新屋敷に行ってみましょう。

齋理屋敷開館十周年を記念して平成10年7月に新築したそうです。

観光客もまばらでしたが気持ちよく冷房がきいていて維持費が大変だろうなと思いました。

「齋理幻夜」に使われる手作り灯篭が沢山おいてありました。

「齋理幻夜」は夏の夜、3時間ばかり行われる一夜限りのお祭りです。

大正時代にタイムスリップしたような幻想的気分が味わえるそうです。

一度行かれたらどうでしょうか。

さて列島はお盆も終わって秋に突入します。

関東地方は7月は滅茶苦茶暑くて、8月は記録的長雨と変な夏でした。

皆様は夏のいい思い出をたくさん作ったでしょうか。年後半に向けて気持ちも新たに頑張りましょう。

ご隠居は先日久しぶりに行政書士会の研修会に参加して

「法定相続情報証明制度」というのを勉強して来ました。

来週にもまとめてアップして当ブログは9月初旬まで遅い夏休みとさせていただきます。

ひとまずお元気で。

 

 

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僕の細道旅行譚(阿武隈川舟下り)

2017年08月14日 | 旅行

さて東北線の槻木駅(つきのき)にやって来ました。

ここから阿武隈急行に乗って丸森町に寄り道してご隠居の好きな舟下りを楽しもうかなと思っています。

ホームに8100系電車が入線してきました。

「ホリデー宮城おとぎ街道号」のヘッドマークを掲げています。

阿武隈急行(あぶ急)は国鉄時代の丸森線を引き継いだ第三セクターの会社です。

槻木駅~福島駅間の54.9kmの運転区間です。

ご隠居もまだ乗ったことがない区間なので楽しみでした。

車内は綺麗でしたが見事なくらい乗客がいませんでした。気の毒です。

そして丸森駅に到着です。

外に出てみましょう。

駅前です。

タクシーが一台止まっていましたが列車から降りた若い女性が乗って行きました。

迎えの車2台と自販機に飲み物を入れていた青いトラックが行ってしまうと何もいません。

でも期待していなかった町で運営している「るんるん号」というミニバスが止まっていて、運転手さんに聞いたら乗船場に行くとのことでラッキーという感じです。

だいたいコミュニティバスはあっちこっちに最近ありますが地元の人達が行く病院とか役場が中心のようです。観光客にはあまり役に立ちません。

乗船場バス停で下車しました。

すでに阿武隈川からの心地よい風が吹いています。

嬉しいじゃありませんか。「野崎様」の看板です。

せっかく行っても水量が少ないと欠航になるということであらかじめ電話で尋ねた時に予約もしておきました。

堤防を降りると阿武隈川が見えてきました。

更に風が気持ちよくなっています。

船頭さんというか船長さんです。歌がとても上手でした。

後ろは丸森橋です。

今年は水量が少なくて川底を浚渫した土砂が左側に積まれていました。

でも昭和61年8月の台風では水色のラインの所まで水量が上がった大災害だったそうです。

海でも川でも穏やかな表情をしていても何かあると大災害になりますね。

いつもこんなに静かだといいんですけどね。

阿武隈急行の鉄橋が見えてきてここで船はUターンします。

白衣観音です。

舟下りの運行を見守る観音様。

北上川、最上川、阿武隈川、それぞれ東北の香りのする川面だぁと何となく感じますが緑の川岸に観音様をみているとますますみちのくです。

弘法の噴水。

その昔、水飢饉に苦しんでいたこの地方に弘法大師がやって来てのどが渇いていました。

村人が少ない水なのに弘法大師に差し出したそうです。大師はえらく喜んでその後この地に水が噴き出したそうです。

誰にも親切にしておくものですね。

1時間ほど遊覧して乗船場に戻って来ました。

長瀞ライン下りみたいに急流にさしかかって水しぶきを浴びるようなスリルはありませんでした。

でも風情がありましたよ。秋の紅葉時などは舟下りばかりでなく町全体が素晴らしい里山になるんじゃないでしょうか。

 

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僕の細道旅行譚(仙台空港)

2017年08月12日 | 旅行

岩沼駅から名取駅に戻りました。

旅の帰りは別のルートでと思い阿武隈ラインに沿って福島に出ることにしました。

芭蕉一行も通らなかった道をご隠居が勝手にいく(僕の細道)です。

まず仙台空港にちょっと寄り道しました。

あの東日本大震災で、仙台空港のニュースで小型飛行機が船のように波に流されていたのがいたのが衝撃的でした。

もっとも今回の目的は仙台空港線に乗車したことがなかったので乗ることです。

列車は仙台駅を出ると名取駅までJR東北線を走り、名取駅から仙台空港鉄道・仙台空港線(名取駅~仙台空港、7.1km)となります。

全路線を総称して仙台空港アクセス線と言うそうですよ。

名取駅を出ると殆どの部分が高架になっていてニュータウンやイオンモールなどのあ、る区画がよく整理されている間を走行します。

空港駅に到着しました。空港鉄道の車輌ではなくJRの車輌です。E721系ですかね。

羽田でも成田でもアクセス線はみんな地下駅ですがここは地上で明るくて気持ちがいいです。

もっとも今日は天気が悪いようです。

ラウンジに入ってみましょう。

ターミナルビルは東北の玄関口ともあって大きくて立派です。

仙台と言えばやっぱり七夕です。

大震災の時はこの階あたりに避難したんですよね。

今はその傷跡もわからなくて新幹線の仙台駅のお土産屋さんのコーナーと同じくらいこちらも混雑しています。

展望台に出てみました。

遠くあの海のあたりから津波が押し寄せてきたんですね。

全日空の飛行機が離陸の準備をしています。

飛行機に詳しくないのでわかりませんがIBEXという機体(IBEXエアライン、LCC?)が先のようです。

東北の旅も奥の細道の足跡を訪ねるのが目的なので大震災の跡地などには行っていません。

仙台空港のように公共性が高い場所は復興も早いのでしょうが一般住民の暮している土地の復興はまだまだなのかなと思います。

一日も早い復興をお祈りいたします。

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奥の細道旅行譚(武隈の松)

2017年08月08日 | 旅行

東北線岩沼駅で下車しました。常磐線との分岐する駅です。

駅前はきれいに整備されていて客待ちのタクシーが何台も止まっていてホッとしました。

最近ちょっとした駅でもポツンと一台しかいないような場所もあります。

陸羽街道に出ました。

「第一町びと発見!おじいちゃん何やっているの?」と声をかけたくなりますが誰もいません。

10分ぐらいあ歩くと竹駒神社の大鳥居の前に出ました。大きなお稲荷さんです。

奥の細道のいろいろ解説文を読むまではこの神社が日本三大稲荷のひとつで格式高い、というより神社そのものの存在も知りませんでした。

もっとも三大稲荷の候補地は沢山あるようです。伏見稲荷。祐徳稲荷。笠間稲荷。豊川稲荷。最上稲荷。など

奥の細道には竹駒神社の事は書いてありませんが当然寄っているでしょう。

社前の前に車が並び神官のお祓いを受けています。交通安全の神様なのでしょうか?

ご隠居もステッカー好きなので一枚いただきました。

1000円でした。今までの何処よりも高価です。

中央下のシルバーのものです。

ご隠居の車には山寺、瑞巌寺、那須神社など神社仏閣のステッカーガたくさん貼ってあるので追突されたことはありません。

下取りで売る時、はがすのが大変だと販売店の人が言ってました。

能因法師が陸奥の国を歴遊中、竹駒神社の神が竹馬に乗った童になって表れたと言われています。

社殿は平成2年に焼失しましたが平成6年位再建されたそうです。

さて裏手から4,5分も歩くと「武隈の松」が見えました。

生え際から二股に分かれていて独特の形をしていて平安時代から多くの歌に詠まれていました。

電線が邪魔ですね。

芭蕉にとっては歌枕を訪ねる旅ではがっかりする場所も多かったようですがここでは素直に感激しているようです。

芭蕉の時は5代目、現在は7代目、東日本大震災の影響もなくて良かったですね。

後ろに小さな公園がありました。ここで8代目の松を育てているそうです。

二木の松史跡公園です。二木(ふたき)は武隈の松の別名です。

芭蕉の句碑がありました。

奥の細道、本文中の

「桜より 松は二木(ふたき)を 三月(みつき)越し」

深川から旅立つ際に奥州出身の弟子、挙白から「師が武隈の松」を見られますようにという句をもらっています。

それに対してこの句は

桜が咲く季節から三か月も過ぎてしまったが君の言っていた武隈の松に会えたよ。

二つに分かれた昔ながらの姿にただただ見事だ。

 

武隈の松

岩沼宿す

武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失わずと知らる。

まづ能因法師思い出づ。その昔、陸奥の守にて下りし人、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや、「松このたび跡もなし」とはよみたり。

能因法師が「武隈の 松はこのたび 跡もなし 千歳を経てや 我は来つらん」と歌っています。

昔、陸奥の守に任命されて陸奥に下った人がこの木を伐って名取川の橋杭にしてしまい、能因法師が再度のみちのくの旅で「松はこのたび跡もなし」と詠んでいる。

代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形ととのいて、めでたき松の気色になんはべりし。

長年伐ったりあるいは植え継してここに何百年も経った松の木が端麗な形でみごとな景色です。

武隈の松見せ申せおそ桜

と、挙白といふ者の餞別したりければ

  桜より 松は二木を 三月越

 

今日はいろいろ愕然とすることがあって気持ちが動揺しています。

そこで芭蕉一行のしゃれた会話も思いつきません。あしからず。

また次回。

 

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奥の細道旅行譚(笠島)

2017年08月04日 | 旅行

さて4月には桜の白石城、大河原町の一目千本桜など花を堪能しました。

今回はさらに東北線を下って岩沼駅(武隈の松)、名取駅(笠島)そして仙台へと行く計画でした。

ただし芭蕉一行は先に笠島に立ち寄りその後武隈の松に行っています。

そこで仙台まで新幹線で行き、在来線に乗り換えてまず名取駅で下車しました。

名取駅で西口を見ると駅前にサッポロビール仙台工場があるだけであとは何もない感じです。

反対側に出ましたが写真のように人もいません。(わざと誰もいないところを撮ったわけでもありません)

どこの地方都市にも似た広くてきれいな舗道が整備されているのに食事する場所もありません。

10分ぐらい歩いて仙台バイパスの交差点にでると左側の遠くにかっぱ寿司の看板が見えました。

お腹が空いていたので入ってみました。友人が最近かっぱ寿司も美味しくなったと言ってましたが確かにそのようでした。

しかし仙台まで来てかっぱ寿司が美味しくなったのを感じてもどんなものでしょうか。

まずは籐中将実方の墓に行ってみました。

この奥に墓があります。

朽ちもせぬ その名ばかりを とどめおき 枯れ野の薄 形見とぞ見る

(すっかり荒れ果てて実方の名前だけが残っている。このススキは実方の形見のようだ)

西行法師

それにしてもちょっとなんだかなという光景です。これだけ見るのに新幹線に乗ってきたのだったら金返せ!と叫びたくなります。

芭蕉の俳句の碑がありました。

芭蕉は歌人藤原実方に思慕の情を抱いて、また西行法師が詠んだススキを見たかったのでしょう。

暗い森の中を歩いて行きます。蚊が沢山寄ってきて落ち着いて写真も撮っていられません。露出不足。

結局芭蕉はここには寄りませんでした。「雨で道が悪く疲れていた」と無念さが書かれています。

曾良の旅日記には「三ノ輪(蓑)、笠島と村並びて有由(あるよし)、行き過ぎて不見(みず)」とそっけない。

立派な解説板がありました。

やっとたどり着きました。藤原実方の墓です。

当たりは竹林で森閑としていました。僅かばかりの土を盛り、四方を木の作で囲ってありました。

平安時代の実力者、プレイボーイの墓です。

更には道祖神社に行ってみました。

藤原実方がこの神社の前を通った時に村人が下馬しろと言ったのにそのまま通り神の怒りをかって落馬して亡くなったそうです。

傲慢な人にありがちな行為ですね。

道祖神というから小さいのかと思っていましたがなかなか広大な敷地です。

もっともご隠居のような物好きな旅行者はこの日は誰もいなくて静かでした。

静かなたたずまいの本殿です。

でも怒らせたら怖い神様なんだなと思い奮発してお賽銭を100円入れました。

馬に乗って旅行しているわけではありませんが交通事故なんかに遭わないようにお願いしました。

 

笠島

鐙摺、白石の城を過ぎ、笠島の郡に入れば、籐中将実方の墓は行づくのほどならんと、人にとへば

「これより遥か右に見ゆる山際の里を、みのわ、・笠島と云ひ、道祖神の社、かたみの薄、今にあり」と教ゆ。

この頃の五月雨に道いとあやしく、見疲れ侍れば、よそながら眺めやりて過るに、箕輪・笠島も五月雨の折りにふれたりと

(日頃の五月雨で道が極度に悪く、体も疲れていたので、遠くから眺めてとおりすぎた。箕輪、笠島のちめいは蓑、笠と今日の雨に良く合っている。)

笠島は いづこ五月の ぬかり道

籐中将の墓や道祖神はどのあたりだろうか。五月雨でぬかるみを行くのも大変で悔しい。

 

「曾良さんよ。雨は降っていて道は悪いし体調も良くない。まいったねぇ」

「翁、省略して先に進みますか」

「君の旅日記にくだらない真相を書かないでおくれ」

「竹林を抜けて籐中将の墓の前で涙したとか、ねつ造記事を書かないでくださいよ」

「馬鹿だねぇ。実物を見なくても読者が自由に実方に思いを馳せられるように書くのが大作家というものですよ」

「そうですか。たんなる疲れて山奥まで行くの面倒くさくなったんじゃないんですか」

「うるさい!」

「藤原実方は名門の出で出世コースを歩み美男子、歌がうまい。宮中では女性がほおっておかなかったでしょうね」

「たしかに清少納言や源満仲女など20人以上の女性と関係を持ったとフォーカスされていますね」

「曾良さん羨ましいでしょう。世の脚光も浴びないままそんな汚い爺さんになってしまって」

「なんの、あたしぁ俳句一途の人生です。色恋など俗世界の事です」

「そのわりには俳句もうまくならないねぇ」

「チガウダローーーー。このハゲ。とか師匠さまにいってはいけないですよね。お言葉ですがあたしなりに勉強しているんですけど」

「しかし最近江戸表の方でも記者会見中に激高した若年寄がいると聞いたよ」

「最近我慢できない人が多いのでしょうか」

「ピッカピカの出世街道を歩いていた藤中将が陸奥の守になって東北になんかに何故左遷させられたか知っていますか」

「やっぱりねたみなんかじゃないですか」

「激高です。ある時、殿上人が東山でお花見をしていたら突然雨が降って来ました。

みんな雨宿りをしたのに実方だけが桜の下で雨に濡れたまま風流に歌を詠んでいました」

「かっこつけますねぇ」

「でしょう。そこで能書家の藤原行成という人が(歌は面白いけど馬鹿じゃないの)と言ったのを実方が聞き激怒して行成の冠をつかんで落し庭に投げ捨てました」

「ほいほい」

「合いの手がいいねぇ。行政は侮辱を受けたにもかかわらず宮中の役人を呼んで冠を拾わせ頭にかぶった。

そした(これはこれは、ご乱暴な。どうしてこのようなひどいことをするのかご意見を聞かせてください)と穏やかに言いました。

実方は瞬間湯沸かし器的行動を恥じたか?逃げてしまいました」

「はぁ。どうした。どうした」

「陰で見ていた一条天皇は行政の冷静沈着な行動をたたえ、いっぽう実方の軽率さを不快に思い左遷させたという説があります」

「そしてみんなの忠告を聞けばいいのに道祖神の前を下馬しないで通って神様の怒りをかって死んだんですね」

「最後まで鼻っぱしの強い男だったんですね」

 

道祖神なんか関係ないなどと強がり言わないで世間の人の言うことに素直に耳を傾けた方が長生きできそうですね。

 

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8月

2017年08月01日 | 日記

  暑中お見舞い申し上げます

向暑の折りくれぐれもご自愛お願いいたします。

    2017年  盛夏

 ななきたのご隠居  野崎 幸治

 

7月初旬、中旬の猛暑に比べればいくらか涼しいような気もしますが皆様の地方では如何でしょうか。

まぁ暑さを楽しみながら夏を過ごしましょう。

 

今年も検見川神社の夏祭りです。

毎年同じ頃に同じ行事があるのはいいものです。一年間が過ぎたんだな、そして昨年の夏は大変だったとか思い出されます。

検見川神社の大きな森の中ではいつもより平日でも賑わっています。

セミの鳴き声がすごい。どこの神社もセミだけは豪勢です。

こちらでは夕方から雨の予報ですが(8月1日)神輿はかつがれるのでしょう。

ブログを見てくれているみんなが今年の夏、元気で過ごせるようにお参りしました。

あわせて例年通りほおづき市も行われています。

浅草寺、四万六千日のほおずき市に比べればささやかです。あたりまえですね。

でも一鉢1500円とリーズナブルでひと夏病から守ってくれればいいのです。氏神様のほおづきです。

一鉢いただいてきて事務所にも置きました。

「ほおづきは夏の病の薬草として珍重されています」とオレンジの短冊に書いてあります。

病は事務所に入ってこないで大金でも飛び込んでくれと願うばかりです。

 

かなり前から評判になっていた「応仁の乱」をやっと読んでみました。

分かりやすい内容でとか書評に書いてありましたが登場人物が沢山いてけっこう難解でした。

この本を読むと応仁の乱なんて何も知らなかったのがわかります。

学生時代に歴史を受験科目に取っていなかったので上の空だったので罰が当たりました。

でもいつの世にもリーダーが優柔不断だとついて行く部下が大変なのは同じだなと思いました。

 

暑い夏!難しい本など読まないで平尾昌晃さんを偲びながら昔の歌でも聞いたりして

ビールでも飲んで2017年夏を楽しく過ごしましょうね。すぐに秋がやって来ますよ。突然に。

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