ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(酒田さんぽ)

2015年09月29日 | 旅行

酒田の町を半日ばかり奥の細道から離れてのんびり散歩しました。

まず酒田と言えば倉庫群、山居倉庫(さんきょそうこ)です。

舗道のマンホールにも倉庫の絵が描いてありました。

昔、JR東日本のポスターに倉庫をバックに清楚な吉永小百合さんの写真が映っているのがありました。

山居橋から中に入りましょう。

明治26年に庄内藩主酒井家が米の保存と集積を目的として建造されましたが現在も稼働中なので一部のレストランとか土産物屋さんしか入れません。

1棟だけ「庄内米歴史資料館」になっていて庄内米の歴史を紹介しています。

横浜の赤レンガ倉庫でもレストランとお土産屋さんばかりですが、まあ雰囲気を楽しむということでいいのではないでしょうか。酒田に来た、横浜に来た、港町だなと感じるだけで。

まばゆいばかりの緑陰です。

倉庫内のレストランで麦きりを食べました。

小麦粉をこねて薄く延ばして細かく切ったものだそうです。うどんに似ていますがもっと腰があってしまっている感じです。庄内地方の海岸部では麦きりと呼ばれているそうです。

さて次は本間家旧本邸です。

右側に本間家の理念を表す臥龍の松が見えます。

入場料700円もしたのに内部は撮影禁止なので庭だけ撮りました。

1768年に本間家三代光丘が本陣宿として新築して二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。

次に鐙屋に向かいます。

途中に酒田町奉行所跡がありました。

鐙屋です。

 鐙屋は酒田を代表する廻船問屋で江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たしたそうです。

本性を池田といいましたが1608年領主最上義光から鐙屋の屋号を与えられてからは、鐙屋惣右衛門と称しました。

また酒田36人衆として町年寄役を勤め、町政にも重要な役割を果たしました。

その繁栄ぶりは井原西鶴の「日本永代蔵」にも記されているそうです。

入場料200円でしたが内部は撮影許可でした。

何処に行ってもこの手の人形があります。

 

 石置杉皮葺屋根(いしおきかわぶきやね)が特徴です。

次は本間美術館です。

本館(清遠閣)

6000坪の敷地内に回遊式の庭園、鶴舞園があり鳥海山を借景とし林泉の風致を整えた池があります。

それを挟むように本館と新館(美術館になっています)があります。

「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と歌われた酒田の豪商本間家です。

美術館の方もミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで二つ星の評価を得ていて見どころ沢山です。

 

さて今回の奥の細道旅行譚はひとまず終わりです。

おまえのブログなんか大したことないじゃないかと言われそうですが最近、

盗作だ、コピペだ、エンブレムだ、かぼちゃだへちまだとうるさいので参考にした本を書いておきます。

芭蕉俳句集(岩波文庫)

芭蕉奥の細道(岩波文庫)

入門松尾芭蕉 奥の細道(宝島社)

奥の細道の旅 ハンドブック(三省堂)

奥の細道ーマンガ日本の古典(中公文庫)

その他駅前観光案内書のパンフレットの文章も盗作しました

なお この奥の細道旅行譚は学術的にはなんの価値もありません。また芭蕉さん曾良さん一行を誹謗中傷するものではありません。

当たり前といえば当たり前です。

高校時代は古文は一番嫌いな方に入る授業でしたがブログにしようと読んでいると興味がわきました。

学問は興味がわかないとやらないものだなこの年になって改めて感じました。

帰りは「いなほ14号」酒田発18時2分、新潟からは「とき348号」20時19発、検見川浜に着いたのは24時近くになり長い1日でした。

酒田駅ではお盆の最終日(15日)ということもあって賑やかでした。

都会に帰る若い家族に見送りに来ている爺ちゃん婆ちゃんが孫にニコニコしています。

地元に残って仕事や学校に行っている若いグループが都会に帰っていく同級生と談笑しています。

そしてお盆休みに観光に来ている人たちが自宅に戻ります。

そしていなほ12号やキラキラ羽越が発車して我々が乗る羽越線最終、特急のいなほ14号が出るころには駅も閑散としてきました。

ホームに涼しい風が吹いてきて東北も秋が近いなと感じました。

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奥の細道旅行譚(酒田・日和山公園)

2015年09月27日 | 旅行

酒田にやって来ました。

最上川の河口に開かれた港町です。江戸時代から西廻り航路が整い北前船交易により栄え、見どころも多いようです。

芭蕉一行も陽暦で7月29日から8月9日まで逗留しました(7月31日~8月2日は象潟に出かける)

不玉宅を示す道標「玉志近江屋三郎兵衛宅」跡地

本名、伊東玄順、医師、医号は淵庵、俳号は不玉。

ここに芭蕉一行は逗留したそうです。

安種亭令道寺島彦助宅跡

ここで芭蕉を招いて句会が行われたそうです。

曾良の日記には「寺島彦助亭へ被招(まねかれ)、俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ」と書いてあります。

 

本日2015年8月15日も甚だ暑しでありました。

とりあえず日本海でも見よう日和山公園に行ってみました。

最上川と酒田港が見えます。

なんとなく静岡あたりの港と違って海に輝く光に元気がないような気もします。お盆もそろそろ終わりで陽光も元気が無くなってきているせいでしょうか。

日和山灯台です。

明治28年建築の洋式灯台。木造六角灯台としては日本最古級とパンフレットに書いてあります。「級」という文字が気になりますが日本最古という灯台がどこかにあるのでしょうか。

北前船の1/2の模型。池を日本海に見立てた配置になっています。

芭蕉さんの登場です。凛々しいお姿です。

この公園には沢山の俳句や短歌の碑が立っていました。

 

奥の細道(酒田)

羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重と云物のふの家にむかへられて、一巻有。左吉も共に送りぬ。川船に乗りて、酒田の湊に下る。

淵庵不玉と云医師の許宿とす。

 

羽黒三山から鶴岡市にやって来た。長山氏重という武士(鶴岡藩士)の家で逗留して歌仙を開催した。出立する時には長山の縁者の左吉も一緒に見送ってくれた。船で七里先の酒田港に到着した。

 

「やっと日本海が見える所にやって来ましたねぇ」

「いやぁ羽黒三山にはまいりました。特に月山の寒さには凍え死ぬかもと思いました」

「今日は何日だろうか、本当に暑いねぇ」

「6月13日になりました。夏真っ盛りです」

「それにしても北の海は濃い色をしているねぇ」

「瀬戸内の海とはえらい違いですね。それにしても疲れました。酒田では少しゆっくりしましょう」

「不玉という門下のものがいるからそこで少し飲んだり食ったりしましょう」

「翁は顔が広くていいですね。どういう人ですか」

「藩主の侍医でここの俳壇の中心人物です。お金持ちらしい」

「金持ちはいいや。がんがんやりましょう」

「馬鹿だねぇ。そのかわり句会を開かなくちゃあいけないよ。江戸から実力者が来ているんだから皆を唸らせるようないいものを作らないと笑われる」

「今からプレッシャーを感じているわけですね」

「その通り, 写真入り身分証明書持っていないから句の出来が悪くて芭蕉の偽物だと騒がれると嫌だからねぇ」

「まぁ皆ががたがた言うようだったら(おのおの方これが見えぬか、ひかえおれー)と翁の履いてきた草鞋でも見せて煙に巻きましょう」

「そんなもの見せてどうするんだい」

「まぁなにはともあれ楽しくやりましょう」

「楽しくやるのはいいけど羽目外して飲みすぎないように」

「あまり飲みすぎると川島なお美さんみたいに胆管癌で早死にしそうです」

「美人薄命、川島なお美さんに合掌!」

 

 あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ

はるかに見渡すとあつみ山から吹浦までが一望の下に広がりゆっくり夕涼みができる。

 暑き日を 海にいれたり 最上川

今日は暑さを全部海に流し込んでくれる最上川

「暑き日」の句碑

 

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奥の細道旅行譚(最上川下り)

2015年09月25日 | 旅行

さて新庄駅から出発です。

ここからは陸羽西線(新庄駅~余目駅)43kmです。愛称は「奥の細道最上川ライン」です。

新庄駅は山形新幹線の始発駅なので綺麗で豪華です。地方の人が新幹線の延長に夢を託すのが分かります。

コンコースに新庄祭りの飾りがありました。

新庄祭りは260年の歴史がありくにの重要無形文化財となっています。8月24日から25日にかけ日本一の山車行列があります。

右が陸羽西線、左は奥羽本線の車輌です。

最上川下りの古口港に近い「古口駅」で下車しました。

駅を出て47号線の信号を右に行きます。芭蕉の時代は左に下ったところに乗船場があったみたいです。

最上川舟下りの乗船を受付けている戸沢藩船番所が見えてきました。

ご隠居は船下りが大好きです。どこでも料金は2000円から3000円ぐらいですが絶対に損はしません。

川面に舞い上がる波しぶき、緑の山々、船頭さんの名ガイドに歌がついたりします。水面に鳥が泳ぎ釣りしている人が手を振ってくれます。舟下り評論家にでもなりたい。 

それでは恒例のご隠居の好きな三大何とかです。

日本の三大急流  最上川  富士川  球磨川(熊本県)

日本三大河川(長さ) 信濃川  利根川  石狩川

それでは世界の三大舟歌 最上川舟歌 ボルガの舟歌 ローレライ(またはホフマンの舟歌)

日本にも舟歌は沢山あると思いますが当地のパンフレットではこう書いてありますが本当でしょうか?

はしゃいでつまらない写真を撮りました。

古口港です。いよいよ乗船です。雄大に流れているようですがご隠居の行ったお盆の時は記録的な渇水だったそうです。

紅葉の時が一番素晴らしいとは言ってましたがみどり濃き谷もいいものです。

ガイドさんが名調子で素晴らしい。最上川舟歌を日本語バージョンと英語バージョンで歌ってくれました。

酔っ払いやからむ客もいないし天気もいいしで楽しそうな仕事だなと思いました。

柳巻の急流だったかな?

急流下りの途中に売店がありました。

川のコンビニと言そうです。ガイドさんが売り上げが目標に届かないと船頭さんは船を出しませんと冗談を言ってましたが一時間ぐらいの乗船時間で買う人いるのかなと見ていました。

ところがビールにジュース、玉こんにゃく、アユの塩焼き、かき氷にラムネ、飛ぶように売れていたのでたまげました。

人間は綺麗な景色見ているだけでは飽き足らず口をパクパクしないと気が済まないみたいです。

安倍総理が見たら生活が苦しい苦しいと国民は言ってるけど結構金持っているなぁ、消費税一気に20%にするかなどと思うかも。

そういえば東京湾の納涼船も花火が終わると途中からスーッと佃煮屋の船が来て、お土産を販売すると結構売れています。商売は手を変え品を変え営業努力です。

ライバル会社の義経丸が回送して来ました。こちらは芭蕉丸。

芦ノ湖でも小田急の海賊船と伊豆箱根の双胴船が競争していますが独占よりはサービスが良くなっていいですね。こちらは小田急の方が圧倒しているような感じですが。

白糸の滝は水が少なくて迫力がありませんでした。

草薙港に到着です。

リバーポート最上階から見た最上川の流れです。

 

奥の細道(最上川)後半

最上川はみちのくより出で、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云うおそろしき難所有。板敷山の北を流れて果ては酒田の海に入。

最上川はみちのくから流れ出て山形が上流である。碁点・隼などという恐ろしい難所がある。川は板敷山の北側を流れ、最後は酒田の海にそそいでいる。

 

左右山覆い、茂みの中に船を下す。これに稲つみたるをやいな船いふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨み立つ。水みなぎって船あやうし。

川の両岸には山が覆いかぶさるように迫り木々の茂っている中を船は進む。この稲を積んだ船を「稲船」というようだ。白糸の滝は青葉の間に見えながら流れ落ち仙人堂も見える。川の水はみなぎり船はいまにも転覆しそうだ。

 

「翁が楽しみにしていた舟下りがやってきました」

「曾良さんよ、ファーストクラスがないか聞いてみてください。タイタニックでも料金が高い方が早く救助されたみたいだから」

「自分で尋ねたら!世話が焼けるな」

「僕は大所高所の人だから細かいマネージメントはやってください」

「全員に救命具を着装するので転覆した時は岸まで自力で泳いでそこで流れ解散だそうです。料金は返してくれるのか聞くの忘れました」

「ずいぶん大ざっぱな話だね」

「流れがだんだんきつくなってきました。ここが隼というところでしょうか」

「念仏でも唱えましょうか」

「深い場所では10m以上あるそうです」

「じぇじぇじぇ!」

「ずいぶん古いギャグつかいますね。ところで能年玲奈は最近テレビで観ないけどどうしているんでしょうか?」

「たちの悪い霊媒師に騙されて勝手にプロダクション自分たちで立ち上げ業界から干されているみたいだね」

「翁、よくそんな世間話みたいなこと知っていますね」

「歯医者の待合室で「週刊元禄時代」を読んでいたら書いてあったよ」

「そういえば最近かんぽ生命のCMで観ましたよ」

「簡保と言えば11月に郵便局会社が東京市場に上場するようだ。曾良さん小金持っているという噂だから新規公開株申し込んであるんじゃないかい」

「儲かりますかね」

「昔NTT株というのがあって第一次公開の時は皆儲かったよ。あの頃は日本のバブルが始まってジュリアナ東京とかみんな元気良かった。郵便局も2次、3次の公開があるから最初から損させるとみんな呆れるから頑張るんじゃないかな」

「そうですかねぇ」

「だいたい皆と同じことやっておけば自分だけ儲からなかったと泣くこともないし損した時は皆と同じで欲深かったと反省するんだ」

ドバッー!  「大きな波が来てずぶ濡れだ」

「せこい財テクの話なんかしているから罰が当たりましたね。俳句でも考えたら」

「ウム、 五月雨を あつめて涼し 最上川  五月雨を あつめて早し 最上川  どっちがいいと思う」

「大所高所の人だから自分で決めたら」

   五月雨を あつめて早し 最上川

降り続く五月雨で大小の河川から雨をあつめた最上川は水をたたえて走り下っていく。清涼感が感じられますね。

 

さて芭蕉一行は下船後羽黒三山に向かいます。我々は再び陸羽西線に乗車、酒田を目指します。

何回も最上川を渡ります。

余目駅(あまるめえき)に到着です。陸羽西線はここが終点ですが列車は羽越線に入り酒田駅まで直行です。

車窓から雲をかぶった鳥海山が見えました。明日もいい天気でしょう。

 

おまけ

何処の川下りでも山の上の方から写真を撮って下船する頃にはできているところもあります。

ここは1700円とばかに高かったけど記念に買ってしまいました。

 

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奥の細道旅行譚(封人の家)

2015年09月20日 | 旅行

さて堺田分水嶺から封人の家(旧有路家住宅)にやって来ました。

封人の家(ほうじのいえ)とは国境を守る役人の家のことです。ここが仙台領と境を接する新庄領堺田村の庄屋の家、つまりこの旧有路家と言われているそうです。

国の重要文化財です。

元禄2年(1698年7月)芭蕉一行は日暮れ頃になってこの家に辿り着いたことになっています。

大雨のため2泊3日したのち山刀伐峠(なたぎりとうげ)を超え尾花沢の鈴木清風を訪ねていきます。

曾良の日記には「十七日快晴、堺田ヲ立ツ」と書いてあります。

中に入ってみましょう。

江戸時代の農家の土間はだいたいこんな感じでしょうか。

最上町は江戸時代中期には「小国駒(おぐにこま)」と言われた馬の産地だったそうです。

「オメェだな。芭蕉の翁の枕元で小便していたのは」

「そんなヒーーーンのないことしていませんよ」

しかし300年以上たってもこうして家が残り、俳句のためにわざわざ木彫りの馬まで置いて沢山の観光客をもてなしています。

やっぱり松尾芭蕉さんは偉大な人です。

一般の旅人はこの囲炉裏の回りで雑魚寝したみたいです。

すでに江戸で有名人だった芭蕉一行はこの床の間つきの部屋で過ごしたのではないでしょうか。

奥の細道(尿前の関)中段

三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

 

「三日も雨に降られて本当に困ったね」

「日記にも何も書くことがありません」

「気象予報士はベラベラどうでもいいこと喋っているが明日の天気予報もなかなか当たらない。おしゃべり男は役に立たないねぇ」

「アタシの方をみて言わないで下さいよ」

「まあ暇なおかげで一句できたよ」

   蚤虱 馬の尿する 枕元 (のみしらみ うまのばりする まくらもと)

蚤や虱に責められて眠れない枕元では、馬が小便をする。

「アラッ!そんなこと書いていいんですか?」

「なにがだい?」

「とぼけちゃって。有路さんには良い部屋に泊めてもらったのにそんな俳句にしたら馬小屋にでも泊まったようじゃないですか」

「これの方が旅の侘しさが出て、そのうえユーモラスの一面も出したつもりだよ」

「のちに朝日新聞みたいにねつ造記事というか俳句で訴えられますよ」

「僕にはね良心があるからね。朝日新聞の記事は宣伝以外はみんなでたらめだといううわさがあるよ」

「そんなこと言っていいんですか。朝日新聞のファンだって沢山いるわけで奥の細道が炎上しますよ」

「おお怖い くわばらくわばら」

 

「蚤虱の」句碑

このあと芭蕉一行は山刀伐峠を越えて大石田、立石寺へと南に向かいそこから今度は北上します。

新庄から最上川下りで再開してその後は羽黒三山に登り鶴岡へ、そこから船で酒田に出てまた我々と再会します。

我々は堺田駅にもどり陸羽東線の終着である新庄駅を目指します。

 

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奥の細道旅行譚(堺田分水嶺)

2015年09月18日 | 旅行

鳴子温泉駅より2つ目の堺田駅で下車しました。

何もコメントしなくてものどかさが伝わりますね。

この時間でも東京では

山手線のホームでは人があふれるばかりに混雑しています。

新宿歌舞伎町では悪質な客引きに騙されて風俗店で法外な請求されている人、それを屋上から見ているゴジラ。

兜町ではFRBのイエレンさんが利上げを見送ったのにどうして東京株式は下がっているんだと怒っている人。

ここは別天地です。

陸羽線の運転手さんが辞令が出て「東京に転勤して中央線の特別快速を運転せよ」などと言われても困るでしょうね。

ホームから外に出てみると増々のどかです。

冬なんか沢山雪が降った夕暮れ時など本当に淋しいでしょうね。

想像しただけでも賑やかな所の好きなご隠居としては苦手です。

さて分水嶺 ご存知ですか?

列島には真ん中に山脈が走っていて東側の谷に降った雨は太平洋に流れます。西の谷では日本海です。

関西では南側の谷では瀬戸内海か太平洋です。北の谷では日本海です。どちらかに流れるかの境目の所が分水嶺です。

山の上にもあれば、平地、地下にあるものもあります。

分水嶺を説明した看板。

ところが高原のような比較的平面な所ではどちらかに流れていくのが観察できます。

ここ堺田の分水嶺は水が東西に分かれる様子が見られるという全国的にも珍しい大分水嶺です。

最初はただの用水路だったのが公園や四阿が整備され名所になりました。

人はそこに己の来し方、往く末などを感じてしまうわけですね。

奥羽山脈の立花峠あたりから流れてきた水路がここで分かれて東に行って江合川から太平洋に、西の水は最上川から日本海にそそぎます。

一緒に流れてきた水も一度そこに下ればもとには戻れないまさに岐路なのです。

岐路進路、人間は生きているといつも悩ませられる問題です。

水は一度決まった進路は変えられませんが人間はやり直しがきくからいいですよね。

東大や一ツ橋大に入れなかったとしてもその後の人生で逆転があります・・・・・

とかいうと「オマエそれ犬の遠吠え」と言われるかな?

 

ここから「封人の家」までは遊歩道が綺麗に整備されていました。

畑、畦には夏の草花、奥羽山脈の緑濃き山々、秋を告げるトンボのホバリング、強い日差しを浴びながら歩いてみました。

誰にも会いませんでした。

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奥の細道旅行譚(尿前の関)

2015年09月16日 | 旅行

尿前の関(しとまえのせき)にやって来ました。

鳴子駅方面から47号線を2km程行くと右にそれる旧道がありました。

何となく汚らしい名前です。

源義経一行が連れてきた子供がここでオシッコをしたとか「シト」とは湿地とか窪地という意味もあるそうです。

確かに階段を下ると大きな窪地になっています。

面積1760坪、周囲は切石垣の上に土塀をめぐらし、屋敷内には役宅を始めとして10棟もの建物があり規模が大きかったようです。

出羽街道の中山越えは交通の要所で警備が厳重だったそうです。

曾良の日記にも「尿前関所有断六ヶ敷(ことわりむつかしきなり)出手形ノ用意可有之(これあるべき)也」とあります。

芭蕉一行も手形がなかったので疑われたようです。

こんな山深い所で毎日怪しげな奴が通るかなどと過ごしている検断の人は普通の人でも少しいじめてやるかなどという気分になるかもしれませんね。

この時の検断は九代甚之氶という人でした。

いよいよここから中山峠越えです。中でも大深沢は出羽街道最大の難所だそうです。

尿前の関から山形県との県境までは8.9km、芭蕉一行は雨に打たれながら三時間ぐらいはかかったのではないでしょうか。  

我々はここで撤収です。駅まで戻り磐越東線に乗って西を目指します。

 

奥の細道(尿前の関)中ほど

此道旅人稀なれば、関守にあやしめられて漸(ようよう)として関をこす。大山をのぼって日既に暮れれば、封人の家を見かけて宿を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

 

この道は旅人稀な所なので関所の番人に怪しまれてやっとのおもいで超えることが出来た。大きな山を登って行くうちに日も暮れてしまったので国境の番人の家を見つけて宿を頼んだ。

 

「いやぁ!ねちねちやられてまいりましたね」

「義経一行もこの辺りを逃げてきたので誰彼見ても疑うのかもねぇ」

「こんな立派な顔した我々を何だと思っているんだ」

「君はさっきはシュンとしていたが災いが過ぎると急に元気が出るね」

「確かに曾良さんはともかく僕は押し出しの良い顔していると思うだが」

「なに言ってるんだか。最近自分の顔を鏡で見たことないんじゃないですか。私以上じゃありませんよ」

「君は口が達者なんだから弁慶みたいに空白の勧進帳でも朗読して役人を煙に巻いてくれるかと思ったよ」

「すみません。強いものヘイコラで」

「ところで急な坂道の上に雨が降ってきました」

「・・・・・・・・・」

「小深沢というところです。一休みしよう」

「・・・・・・・・・」

「いつもこまめに記録したりたのみもしないのにベラベラ喋っているのにお腹でも痛いのかい」

「いやぁ、実の所本当に疲れてぐうの音も出ませんよ。コンビニでコーヒーでも飲むとかタクシーでも呼びたい気分です」

「しかしここだけ空白にしておくとおかしいよ」

「そうだ!翁は後世の人が隠密だったのではないかという説があります。少し空白にしておいてこの間、伊達藩の隠し金山を探していたとか想像するようなことチョッコト書いてみましょうか」

「君は俳句よりシナリオ作家にでもなった方が向いているかもね」

「さあさあ雨の中を頑張りましょう」

 

封人の家は後日紹介します。

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奥の細道旅行譚(鳴子峡)

2015年09月12日 | 旅行

今回は「奥の細道」をお休みして鳴子温泉駅周辺を歩いてみましょう。

というのも毎回芭蕉さんと曾良さんの会話を考えるのもしんどいのでお休みです。

まず潟沼(かたぬま)に行ってみました。

約1200年前の爆発によってできたカルデラ湖です。日本有数の強酸性湖なのでエメラルドグリーンの輝きが神秘的です。

秋の紅葉の頃、山々の色彩と沼の碧さが絶妙だそうですよ。

理科の実験などでもいろいろ試験管に混ぜていてこんな色が出るとわくわくします。

もっとも下北半島の恐山の麓の宇曽利山湖も

こんな色していますが周辺が殺伐とした石の河原で水子供養の風車(かざくるま)が回っていたりすると不気味な感じがします。

同じ色でも環境によって全く印象が違います。

 

次は名勝鳴子峡です。

鳴子峡レストハウスからの展望がいいようです。

お馴染み、どこのポスターでも見かける大深沢橋が見えます。

陸羽東線鳴子トンネル

自分なりにポスターに真似して撮ってみました。紅葉の時ほどのインパクトはありません。

とにかく列車の本数が少ないので一時間以上粘ってやっとキハ100系の写真が撮れました。

紅葉シーズンではないのであっという間に愛想なく行ってしまいました。

鳴子駅に貼ってあったプロが紅葉の時撮ったポスターです。右後ろに小さくキハが見えます。このくらいの角度がいいのかも。

鳴子峡遊歩道は100mもの高さのある崖を見ながら大谷川に沿ってV字谷を歩くことができますが現在は落石のため通行止めになっています。

残念!

47号線出て少し歩きまた散策路に入り日本こけし館の前に出ました。

こけしは江戸時代末期(1804~1830)にお椀やお盆を挽く木地師たちが、わが子に玩具として与えたのが始まりで東北各地の温泉地で発展したそうですよ。

館内には沢山のこけしが展示されていますが撮影禁止なので残念でした。

実演販売の場所だけは撮影OKでした。

鳴子町では毎年こけし祭りも開催されています。興味のある方はどうぞ。

さて日本こけし館の前の道を下っていくと奥の細道にも記述のある問題の「尿前の関(しとまえのせき)」があります。

次回に紹介します。

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奥の細道旅行譚(鳴子温泉)

2015年09月10日 | 旅行

鳴子温泉駅に到着しました。

駅を降りると早速温泉地特有の硫黄のにおいがします。

駅前には旅館の送迎バスが何台も止まっていて東北有数の温泉地だなと思いました。

駅の待合室も映画館みたいに階段状になっています。ちょっとお洒落ですがなんといっても列車の本数が少ないので人はまばらなようです。

外に出るとすぐに足湯がありました。

「ペット」はご遠慮くださいと注意が書いてあります。当たり前ですよね。

最近の若い人で朝っぱらから「犬が死んだんで忌引き休暇取れますか」と冗談でなく普通の声で言ってくるんで怒るよりたまげてしまうと知人が言っていました。

奥州三名湯とはどこでしょう。鳴子温泉飯坂温泉秋保温泉です。

下駄ばきで温泉街を廻る「下駄も鳴子」というキャッチフレーズで売り出しています。

湯元の夜はいつだって カラッコカラコ下駄の音 ふたり三人通っている お湯から帰る誰かです。

昔からある日本の温泉街のノスタルジックの雰囲気が良く残っているようです。

温泉に入った後はほろ酔い気分でお土産屋さんでこけしでも見て回るのも楽しいですね。

手湯もありました。この中にこじんまりと温泉が流れていましたが人もいませんでした。

「湯めぐりチケット」を買うとか各旅館内の温泉や共同浴場にも浸かることができます。

駅前通り。反対側がこけし通り。

こけし屋さんが何軒か並んでいました。

いつもならビジネスホテルですが鳴子に来たので温泉旅館に泊まりました。

鳴子温泉幸雲閣です。

お盆やお正月以外は観光バスツアーのバスが何台も連ねてやってくるホテルらしくて収容人数はすごいようです。

朝の食事はバイキングでワァワァやっていました。

翌日鳴子峡までタクシーに乗ったら運転手さんが鳴子温泉は小さな宿に泊まった方が鳴子の良さがわかるよと言っていました。

今回はお盆で小さな旅館ほど予約が取りにくくて早く計画立てないとだめだなと思いました。

 

さて奥の細道では なるごの湯より尿前の関にかかりて・・・・

としか書いてありません。

曾良さんの日記でも シトマエへ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。とだけの記述です。

想像するしかありません。

「翁、鳴子の湯にやって来ましたね」

「なるほど。温泉の湯煙が旅情をかきたててくれるね」

「さすがに賑やかでほっと(ホット)します」

「つまらない冗談言っていないで先を急ぎます」

「こけし通りなんて言うのがありますよ。深川の愛人に器量のいいこけしでも買っていくと喜びますよ」

「何を言っているんだね。君は。僕はねそんなに経費がかかるような代物は持っていませんよ」

「それじゃ気の利いた旅館に泊まってコンパニオンでも呼んでみちのく二人旅を盛り上げはしゃぎましょう。旅も1/3ぐらいも過ぎたのを記念して」

「かさねがさね馬鹿者。寂しさやはかなさを追求しているものはそんなことしては良いものが書けないのです」

「またまた。懐がさびしいのでかっこいいこと言ってごまかしているんじゃないですか」

「なにがまたまたですか。股広くとってどんどん歩きなさい」

 

鉄道で奥の細道を旅している

ななきたの隠居(右)と おぎくぼのうっかり八兵衛(左)

これから一杯気分で温泉街に繰り出すか!

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奥の細道旅行譚(有備館)

2015年09月07日 | 旅行

陸羽東線の有備館駅で下車しました。

有備館駅は(東北の駅100選)に入っています。

駅構内に北朝鮮のプロパガンダのようなポスターがありました。

有備館駅が開業したのが1996年だそうなのでこの絵からすでに10年も経ているのでしょう。

駅前にある有備館に行ってみました。

江戸時代に岩出山伊達家の家臣子弟の学問所となった建物で、1677年ごろ建てられたそうです。

それ以前に1591年伊達政宗が豊臣秀吉の奥州仕置により岩出山にやってきてここに10年余り治府を置いたそうです。(岩手沢という地名を岩出山と改めたそうです)

関ヶ原の戦い後家康から新しい領地として政宗は仙台に城を築きこの地は4男の宗泰に任せたそうです。

有備館の名称は中国の「史記」の中の「有文事者必有武備」から引用しています。

「文」と「武」の両道を備えた武士を育てたのでしょう。

庭園は回遊式になっています。

庭園は1715年仙台藩の茶道頭石州流3代目清水道竿によって作られました。

5月に行った会津の御薬園もそうですが城下町には素晴らしい庭園があります。昔から文化が日本の隅々まで広まっていたのでしょう。

小さな神社がありました。

池から見る風景はやっぱり素晴らしいですね。

時間がなくて歩けませんでしたが大崎市岩出山地区は竹細工、凍り豆腐の特産品、また街路が整備された城下町のようです。

「伊達の小京都」とも言われています。

桜の咲く頃ゆっくり来てみたいと思いました。

 

奥の細道(尿前の関)冒頭

南部道遥にみやりて岩出の里に泊まる。小黒崎、みづの小島を過ぎ、なるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に超えんとす。

南部(岩手県)に続く道をはるか遠く眺めて岩出山の里に泊まった。小黒崎や美豆の小島(地名)を通り過ぎ鳴子温泉から尿前の関にやって来て出羽の国を越えようとしている。

 

曾良の旅日記によると陽暦7月1日宮と鍛冶屋沢の間に「黒沢・水ノ小嶋有」と書いてありこの辺りが荒雄川(江合川)沿いの名勝地であり昔から歌枕でも有名だそうです。

芭蕉さんと曾良さんは松島、石巻そして平泉まで行き逆V字のように岩出山の街に戻ってきました。そして47号線を西に向かいます。

 

「曾良さん、平泉では感動しまくってまだ魂が抜けたようです」

「その年で心から魂が揺さぶられるようなことがあってよかったですね。」

「さて奥州も遠くなって急に元気が無くなった」

「岩出山という城下町に入ってきました。この辺に宿泊して美味い物でも食べて元気出しますか」

「元気のないついでにもう少し先を急ごう」

「へそ曲がり!」

「歌枕で有名な おぐろさき・みつのこじま(古今集)という場所だとガイドに書いてあります」

「感動した後はこじんまりとした風景もいいものだねぇ ところで鳴子まではまだ距離があって泊まるところもなさそうだ」

「だから言わんこっちゃない、岩出山まで戻りましょう」

「僕はね大所高所の人だから細かいことは判断を間違えることがあるんですよ」

「要するに大ざっぱな人なんですよ。石坂屋という旅館がありました。そこに泊まりましょう」

「やれやれ」

 

さて有備館駅で下り列車を待っていると快速リゾートみのりがやって来ました。

快速と言っても仙台・新庄間を直通運転しており全席指定、窓も大きくて豪華な座席で綺麗なお姉さんがお酒を造ってくれたりの観光列車です。ちょっと過剰サービスで照れてしまいそう。

ご隠居的には「しなの」「あずさ」「ひたち」など在来線の長い編成の特急の方が好きです。てきぱきした車掌さん、車内販売の女性の入れてくれたホットコーヒー、仕事の人、観光の人、それぞれの思いを乗せて走っています。

このあとは鳴子温泉に向かいます。

 

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奥の細道旅行譚(緒だえの橋)

2015年09月03日 | 旅行

8月のお盆休みに東北地方を旅行して芭蕉さんの余韻を感じてきました。

東京駅8時56分発「やまびこ129号」で出発です。

前方にはつばさ129号山形行きを連結しています。(写真では手前)

新幹線にはいろいろ方面ごとに名称がついていますが「やまびこ」という名前が一番好きです。

緑深い列島の山奥をピーポ、ピーポとのんびり走っていく感じがします。ほかの新幹線と同じスピードなのですが。

今回は7号車の7番、ちょっといい番号で旅に期待が持てます。

仙台駅には11時に到着。東北線の普通列車に乗り換えます。

小牛田駅(こごた)に到着です。

お昼にしようと駅前を歩いてみると道路は広く歩道は気持ちよく整備されていますがとにかく人がいないので活気がありません。

食堂に入ると地元の企業の人達がまとまってランチしながら賑やかに話をしていたのでほっとしました。

小牛田駅からは陸羽東線の旅が始まります。(奥の細道湯けむりライン)

小牛田駅~新庄駅94.1km

そして古川駅にて下車。新幹線の停車駅ですが陸羽東線を全線乗りたいので遠回りしました。

 

奥の細道<石の巻>冒頭

十二日、平和泉とこころざし、あねはの松・緒だえの橋など聞き伝えて、人跡稀に雉兎蒭襄(ちとすいじょう)の往かふこともわかず、終に路ふみたがえて石の巻という湊に出。

とあります。

(歌枕で有名な緒だえの橋やあねはの松に寄り道して見学しようと思ったが猟師やきこりの通るような道に迷い込み気がついたら石巻港に出てしまった)

古川駅より10分ほど歩くと小さな川のほとりに緒絶橋の碑が建っていました。

みちのくの おだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす

左京太夫道雅

由来の文章

平安時代に嵯峨天皇に寵愛された「おだえ姫」が都を追われて会えずに過ごすうちに毎日を悲観してこの川に身を投じたそうです。

平安時代「緒絶橋」は悲恋の枕詞になったそうです。

いくら好きでも死んだら終わりだから、天皇陛下ような雲の上の人でなくても美男子の馬番でもみつけてやり直せばいいのにとご隠居なら考えますが如何なものでしょう。

最近ではこんなけなげな女性は山奥に分け入っても棲息していないのではないでしょうか。

そういえば週刊誌に書いてあったけど深田恭子はいまだに王子様が白馬に乗って迎えに来てくれるのを待っているそうです。

だれか古道具屋で勲章でも買って服にピカピカつけて白いベンツにでも乗って求愛したらどうでしょうか。

市民ギャラリー緒絶の館は休館中でした。

 

「曾良さんよ、平和泉(平泉)には急ぐ旅でもないので歌で有名な緒絶橋にでも寄り道していきましょう」

「翁、その橋とやらはなんですか?」

「きみはモノを知らない男だねぇ」

「アタシが目から鼻に抜けるような鋭い男ならじいさんの後ついてみちのくの辺鄙なところを旅なんかしてませんよ。今頃深川で俳句学校の理事長でもしてます」

「君は俳句はへただけど口だけは相変わらず達者だねぇ」

「翁、ぶつぶつ歌枕の講釈垂れているうちにどんどん山奥に入ってきましたよ」

「君ちゃんとナビしてくれないと困るよ」

「急に言われても衛星から情報得ているわけでもなく手持ちの地図には何も書いてないですよ」

「なんだか海が見えてきた。石巻という湊にでたみたいだ」

「なるほど」

「なるほどじゃないよ、僕はね、大所高所からもの考えているんだから細かいことはマネジメントしてよ」

「何言ってるんだか。無給ですよ」

緒絶橋の隣に「みちのく食の蔵 醸室(かむろ)」という小さなテーマパークがありました。

江戸時代に建設された酒蔵を改装した大小10棟ほどの蔵の中にはレストランや雑貨店がありました。

 

さて芭蕉さんと曾良さんは石巻へと北上しましたがご隠居は古川駅に戻り再び陸羽東線で西に向かいました。

 

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9月

2015年09月01日 | 日記

9月になりました。お元気でしょうか。

先日までの暑さがウソのように涼しくなり過ごしやすくなりました。

季節はどんなに暑くても時間がくれば必ず次の季節がやってくるので安心です。

それに比べると日々の生活では嫌なことが続くといずれ反転するのですが永久に続くのではないかとめげることがあります。

もっとも嬉しいことは長続きせず映画の予告編と同じですぐに終わってしまうので気をつけましょうね。

毎日ぶつぶつ言って暮らしていますが地球は24時間で一回転して365日で太陽を一周して元に戻ります。

それをもう48億年も続けているわけで人間の喜怒哀楽などたわいのないことかもしれません。

 

道端の花も元気が無くなってきました。

透き通った秋の青空が待ち遠しいですね。

 

ただひとつ 遅く咲きたる 蓮の花 塩からトンボが ホバリングする

           (朝日歌壇 内山豊子さんの作品)

 

隣の家の「はな」ちゃん

今年の春、子犬でやって来て磯辺の住人(犬)になりましたが半年でずいぶん大きくなりました。

自宅がドッグランみたいにしてあるので馬鹿ずらして走り回っています。

(最初)

ご隠居を見たときにはワンワンと遠慮がちに吠えていました。

(2回目)

隣のクソじいさんみたいだから吠えたら悪いかと思ったらしくて黙って尾っぽをゆっくりパタパタと振っていました

お利口さんだね

(庭で植木に水をやっていたら)

尾っぽを強く振っていたので顔に水を少しかけてあげたら水が好きらしくべろ出してウッウッと言っているので身体にもかけてあげたら滅茶苦茶喜んで庭を走り回っていました

(次に庭に水をやっていたら)

喜んで飛んできてフェンス越しにつらを出していたので黒い鼻をグイとつまんだらグォグォグォと言って逃げていきました。

(いつも楽しいことばかりないんだぞ)と教えてあげました。

(その次に水をやっていると)

嫌な顔して少しスタンスを置いて立っていました。少し顔に水をかけてあげると警戒しながら近づいてきました。

今度は頭を撫でてあげようと手を出すと鼻をつままれるんじゃないかと思ったらしくワンワンと噛みつかれそうになりました

急いで家に戻り不二家のホームパイがあったのでそれを2,3枚投げてあげました。

顔が和んできたので「いい子だねぇ」と猫なで声を出して手の甲の方を見せながら優しくなでてあげて和解しました。

それにしても自分の犬だと雨が降っても槍が降っても朝から散歩させないといけないけどよその犬は気の向いた時だけかまっていればいいので楽です。

 

関東地方では今日から学校が始まりました。

年を取ると一日が早いけど子供の頃は本当に一日が長かった。夏休みなんか特に長く感じて、朝起きると一日何をしようかと思ったものでした。

ご隠居も子供の頃学校で先生の授業を机に座ってじっと聞いているのが苦手でした。

理科の実験かなんかが始まると俄然元気が出てきて指示されていない物質をビーカーに入れて突然泡が吹きだしてあわてたりしたものでした。

野外実習で植物の観察とか石の採集なんかも好きでした。友達と遠くまで行き時間になっても帰らないので先生が探しに来て怒られました。

いたずらガキでした。  はるか昔の少年時代です。

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