ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

2015大晦日

2015年12月31日 | 日記

2015年、平成27年12月31日午後2時

泣いても笑ってもあと10時間で今年も終わりますね。

皆様にとってはどんな一年間だったのでしょうか?

お正月の準備「秩父 両神神社」

 

一年間過ぎるのは早いなと思いつつも日記をひっくり返してみるとそこそこいろいろなことがありました。

今年は芭蕉の足跡をたどって歩いてみました。

道路には自動車がビュンビュン走っていても一歩寺院や山に入ると300年前芭蕉がみた風景とあまり変わりないのかなと思いました。

あれやこれやあっても地球の歴史48億年に比べれば人間の生き様の70~80年なんて幻かみんな夢の中の話になってしまうのでしょうか。

それではよいお年をお迎えくださいね!

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台湾紀行(九份)

2015年12月29日 | 旅行

台湾最後の夜は九份(きゅうふん)で過ごしました。人気の観光地です。

もともと9戸しかなかった小さな集落でした。交通が不便で品物を補充する時はいつも全戸分9セットを買うので9份という名がついたそうです。

台北から約一時間、観光バスは細い道を巧みに対向車をかわしながら高台に到着します。

夜でもすごい観光客です。

昼間だと町とそのむこうに海が良く見えるそうです。

何故かよくわかりませんが屋根の上に猫がいました。

まず昔軽便鉄道が通っていた(鉱山用)軽便路を歩きました。ここはまだ静かです。

九戸茶語の広場の前に出ます。

さてここから階段のある豎崎路そして一番賑やかな基山路をぶらぶら歩いてみました。

ノスタルジックと一言ではかたずけられないほどの気持ちです。

この感覚はここに来て夜歩かないとわかりません。ですから写真だけで余計なコメントは入れません。

台湾に行ってみてください。

 

宮崎駿監督はこの風景を見て「千と千尋の神隠し」の構想を練ったそうです。

4泊5日、バスや鉄道に乗って風のように台湾を一周しました。

今年も今日を入れて3日になりました。穏やかに過ごしましょう。飲みすぎないようにね。

たいして仕事もしていないのに慌ただしい一年でした。これも来月はブログに何処を載せようかと走り回っているからだと思います。

パソコンのおかげでブログが老人の生きがいになっていて感謝しています。

 

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台湾紀行(台北散策)

2015年12月25日 | 旅行

台北は人口268万人。ガイドさんの話によると盆地なので夏はとても蒸し暑そうです。

旅行は夏を外した方がベターです。

台北駅です。

ニュヨークには行ったことがありませんが台北も黄色い自動車はタクシーだそうです。

吉野家やモスバーガーもあります。

朝の通勤ラッシュではバイクの数が半端じゃないほど多いみたいです。

2人乗りしている人もありよく事故起こさないなと思いました。

台北に行ったらまずは故宮博物院です。

ツァー客の中にも何回も来たという人がいました。

中に入ると撮影禁止なので外観だけです。

美術館は好きなのですが博物館はどこでもあまり興味がないのでガイドさんのあとをぶらぶらついて行きました。

肉形石(メノウの天然石)と翠玉白菜というのが2大秘宝だそうです。

このコーナーはすごい人で立ち止まって見ることができませんでした。

白菜(天然翡翠だそうです)の方はキリギリスとイナゴの彫刻をよく見てくださいと言われましたがあまり感動もしませんでした。

 

次はお茶の入れ方のセミナーです。

セミナーといってもお土産屋さんの一画です。

終わったらお土産をたくさん売ろうと後ろの方で日本語も上手な販売員が目を白黒して待っています。

お土産屋さんも何軒も寄りましたがガイドさんが勧めてくれたところは日本に持ち帰ってもわりと満足の出来る物でした。

 

次は忠烈祠(ちゅうれつし)です。

色彩が美しい中国宮殿式の建物に国民党政府の将兵など約33万人の霊が祭られています。

毎時正時ごとに衛兵の交替式ががありますが間に合いました。

厳かな雰囲気です。

隣で5,6人のご婦人方がピーチクうるさいので文句言おうかと思って

「アーユーアコーリァ?」と言ったら

「イエス」

無視されるかと思ったので文句の言葉が思いつかずうっかり

「アイム ジャパニーズ・ オジサン」と言ってしまいました。

そうしたらにやにやして日本語で「わかっているよ」と言われました。

ご隠居の場合どこか日本人特有の馬鹿面しているのでしょうか。

青天白日満地紅旗が翻っていました。

孫文先生の「三民主義」の独立・民権・民生を表す青・赤・白となっています。

行くまではあまり期待していなかったのですが結構良かった。

さてこれから夜の九份(きゅうふん)に出かけます。

 

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台湾紀行(太魯閣峡谷)

2015年12月22日 | 旅行

今日は太魯閣渓谷をハイキングしてから再び台北に戻ります。

朝ホテルから見た花蓮の町並みです。

すぐ山並みが迫って来て周辺には大理石が無尽蔵にあり1000年掘ってもまだまだ無くならないそうです。

中央山脈が間近になり渓谷が近くなって来たようです。

この奥が太魯閣渓谷(たろこけいこく)です。

渓谷の入り口のゲートです。

それではバスを降りて渓谷歩きを楽しみましょう。

ご隠居のカメラ技術では雄大さを、お伝えできないのが残念です。

日本の渓谷だったらどこが似ているかなと考えていましたが、大理石の産地でもあり、岩肌全体が大理石からなっているというから独特です。

渓谷を歩いていて断崖に囲まれているある個所では空を見上げると空間が台湾の形をした場所があります。

ご隠居のカメラではうまく入らなかったので記念に売っていたものを買いました。

九曲洞(ジュチュードン)という旧道を歩きます。次から次とツァーの観光バスが来ます。交通事故が怖いようです。

岩肌を縫うように続く素掘りのトンネルが1.2kmが遊歩道となっています。

台湾は漢字があふれています。あたりまえですが。ただ大陸の中国は漢字がやたら略されていてなんのことかわからないと旅行経験者が行っていました。

これはすぐに解りますね。「道が狭くなっていて後ろから自動車が来るからおめえら馬鹿面して歩いているんじゃないぞ!」

右が新道です。

渓谷の名所の一つ長春祠(チャンチュツー)

難工事で命を落とした212名を祭る祠。

絶壁を背にして立ち、すぐ下を長春瀑布が流れ落ちる美しい景観ポイントです。

太魯閣渓谷のハイキングも終わって花蓮駅に戻りました。

駅構内です。

開放的なホーム。ホームの椅子も大理石?

マイナーな話で申し訳ありませんがなんだか房総半島の鴨川駅に似ていると思いました。

ここから特急列車が右に雄大な太平洋を見ながら首都(東京、台北)に向かって上り列車が出ていく風景です。

これから乗る特急自強号です。

ご隠居は鉄道ファンなのでこの外国の特急列車に乗車するのをすごく楽しみにしていました。

年甲斐もなくわくわくしてオシッコちびりそうになりました。

車内です。日本の在来線の特急列車に似ています。

お昼に駅弁が出ました。

80元、約320円。鶏肉が柔らくて味付けも良かった。

台湾の風景を見ながらご飯パクパクやるのは最高!

車窓から立霞渓が見えました。

 

さぁこれから台北のホテルに一泊して市内見物です。

 

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台湾紀行(台東から花蓮市へ)

2015年12月20日 | 旅行

今日は高雄市のホテルを出て島の南端を反時計回りに走って平洋側出でます。

台東まで150km(約3時間半のバス)そこで昼食さらには観光して花蓮まで100km(約2時間)かなり長いバスの旅です。

前にも書いたように台湾時間は日本よりちょうど1時間遅くなっています。

ツァー客は大半がご婦人たちのグループでしたがNHKの朝の連続ドラマ「あさがきた」を観られてよかったねと言ってました。

台湾であさがきたが終わると7時15分です。それから荷物を整えて7時45分頃の出発です。

それにしても女性は元気です。男性は会社をリタイヤーすると奥さんと旅行する以外は自宅に閉じこもっているのでしょうか。

♪朝の空を見上げて

今日という一日が

笑顔でいられるように

そっとお願いした♪  主題歌のように元気で出発です。

まずは三仙台へ向かいます。

バスが東海岸に出ると雄大な太平洋が見えてきました。日本よりブルーの色が濃いようです。

今までの台湾とは違った風景です。先住民が半分以上はこちらの地方に住んでいるそうです。

国道を走っていると小さな町が出てくるとまたすぐに畑や林になります。もちろん高層ビルなどありません。

平野は少なくすぐに山になりそこから3000m級の山岳地帯です。海上から見たら本当に緑の島と言った感じでしょうか。

でも海水浴場としてはもってこいのようで日本の海辺の漁村のようです。

三仙台に着きました。ちょっと天気が怪しくなってきました。

江の島のように陸繋島(沖合の島が砂が運ばれて陸と繋がった)と思ったら逆に岬だったものが海水に浸食されて島になったそうです。

橋で島と岬が連絡できますが1時間もかかってしまうので見学だけで終わりです。

 

司馬さんの街道を行くにも書いてあった中村輝夫陸軍一等兵の事を紹介します。

ガイドさんは「浦島太郎の話」として語ってくれました。

昭和18年中村輝夫(アミ族の名はスニヨン)は旧陸軍にすすんで志願しました。当時台湾は日本国でした。

初年兵教育を受け陸軍一等兵としてモロタイ島に上陸して作戦中に終戦になりました。しかし全部隊に通知が徹底されず中村1等兵が発見されたのは終戦から29年もたってからでした。

そして台湾に戻ると妻はスニヨンが出征する時には身ごもっていてその後男子を出産したことを知りました。

その後妻は10年夫を待っていましたがあきらめて別の男性と結婚しました。

その婿はスニヨンの残した妻子を養って21年の間よく働きました。しかし彼はスニヨンの帰国を見届け(彼の哲学で)てだまって家を去った。72歳の時でした。

スニヨンはその後日本政府から補償金をもらって台東に住みましたが4年数か月で肺がんで亡くなりました。

旧日本軍の指導部はこんな日本から遠くの山の中の人達まで運命を変えてしまいました。生きている時はめちゃくちゃ反省してほしかった。

 

次は八仙洞です。

波に浸食されてできた16の洞窟があります。

石器時代の居住跡が発見されて台湾考古学上最大の発見と言われています。

第一級古蹟に指定されています。

洞窟の中には仏様や観音様が祀られています。

そして花蓮市に夕方到着です。

到着後アミ族民族舞踊を鑑賞しました。

ショーの最中は撮影禁止です。始まる前の風景です。

 

この中で豊作の踊りや死者の祀りなど披露しました。

アミ族の男性は勇敢とのことですが比較的小柄な人が多いなと思いました。

日本で活躍していたビビアン・スーもお母さんが台湾の先住民とのことです。

ビビアン・スーに似た可愛い女の子の踊り見とれていたら全体的に何やっているんだか印象に残りませんでした。

まあその程度のショーです。

さてさて今日も一日バスに乗っている時間が多かったのですが疲れました。

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台湾紀行(高雄市)

2015年12月18日 | 旅行

陽が傾きかけた頃ようやく高雄市にやって来ました。

人口約277万人、ハイテク産業の盛んな台湾第二の都市です。

バスはそのまま観光地、蓮池潭に到着です。

夕暮れ時です。ちょっと東京都の水元公園に似ているなと思っていると・・・・

ピッカピカの台湾です。

龍虎塔(ロンフーター)

台湾のパワースポットです。

まず龍の口から入ります。

台湾の人は龍が大好きです。海で生まれて天に上り稲妻を放ちながら雨の恵みを授けます。豪快な動物です。空想ですが。

陶器などでも龍の模様が多いようですが後ろ足の指が5本のものは皇帝など偉い人しか持てないそうです。庶民は3本の指です。

途中でお賽銭を入れる箱がありますがそばにおじさんがいて硬貨を入れると「ありがとう」と言って上の絵葉書をくれました。

虎の口から出てきます。

これで日本に帰っても災いが無くなり福が来るという事なので2016年が楽しみです。

次に反対側にある慈済宮に入ります。

階段の前には果物を売っている出店があります。疲れているせいか水っぽいものを求めて結構観光客でにぎわっています。

我々のツァーの人が沢山モンキーバナナを買って一本貰いましたが甘くておいしかった。

慈済宮はお医者さんの神様を祀っています。

とにかく健康を祈りました。もっともっと海外旅行に行けますように。

屋根の上の飾りも中の彫刻も本当に立派です。

廟の中から龍虎塔を眺めるのも観光の定番。廟がフレームとなってポストカードのようです。

さて本日の旅はまだ終わりません。陽は落ちて暗くなりました。

三鳳宮です。(さんぽうぐう)

階段の入り口に愛嬌のある人形がありました。台湾らしい。

幼い頃から武芸に優れていたという道教の中壇元帥を主神に祀り釈迦や観音菩薩の諸仏も祀られているというお寺のデパートみたいな場所です。

なんだか疲れの絶頂の中にいました。

300年余りの歴史がありますが20世紀後半に大火事で廟を焼失、立て直されれて現在に至る道教の聖地ですす。

仏様の使うお金だそうです。これを燃やすとあの世の人が使えるそうです。

人物、動物の細かい彫刻が素晴らしい。また緑、黄色、赤などの色彩がまばゆいばかりです。

さてこれで今日の旅が終わり食事をしてホテルに到着です。

 

ホテルで荷物の整理をしてちょっとくつろいだら9時になってしまいました。

せっかっくだから高雄名物の六合夜市にでも行くかと街に出ました。

舗道を歩くと次々と段差があって転びそうになります。

その上やたらオートバイがあっちこっちに放置されていて歩きにくい。

庶民の入るような飲み屋さんが沢山ありました。

みんな開けっ放しで涼しい風に当たりながら粗末なテーブルと椅子に座って幸せそうに飲んでいました。

やっぱり疲れがどっと出てきて途中で戻って寝ました。長い一日でした。

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台湾紀行(台南市)

2015年12月15日 | 旅行

北回帰線を越えて台南市に入りました。

熱帯です。バスを降りると気温は30℃を少し超えています。

街は街路樹が青々としています。

台南市は人口188万人、最初に首府がおかれ台湾最古の町です。台湾の京都とも言われています。

木陰が気持ちよさそうです。日本では12月。

街角にて派手な看板。台湾でも選挙は一大出来事です。

民進党の宣伝看板。

ガイドの話では国民党の馬英九主席は国民からの人気がないので次の選挙では民進党の蔡英文党首(右側の女性)が総統になるのではないかと言ってました。

まずは赤嵌楼(せきかんろう)に行きました。

台南市では一番歴史のある史跡で1653年台湾南部を占領したオランダ軍によって建てられました。

1661年には鄭成功がオランダを駆逐してこの街を承天府と改名して政治の中心としました。

煉瓦でできた城門と基台はオランダ統治時代のものです。

以下司馬遼太郎さんの「街道を行く・台湾」の文章でオランダの事を引用します。

オランダは16世紀末にスペインから独立しました。

17世紀になるといきなり繁栄に向かい誰もが目が回るほど忙しくなりました。

人口はたった150万人でしたがチームワークの良さで英国をしのぎ世界で最初の株式会社「東インド会社」など設立しました。

もともと海を埋め立てた国家で上下の差があまりなかったそうです。

そしてこの多忙な時代にスピノザのような大哲学者が出ました。

またレンブラント、フェルメールといった大画家が出現しました。

17世紀もオランダの最大の根拠地はインドネシアのバタヴィアでした。

そして日本とも貿易を始め、オランダの商船隊はバタヴィアから台湾を見ながら航海して長崎に来ました。

それまで日本と交易のあった英国やポルトガルを排除する調子の良さですがさすがに明とは勝負にならず台南に入ることを許されました。

そこで鹿皮が日本で高く売れ、砂糖の栽培で大儲け順調のようでした。

しかし海賊の鄭成功が台湾に大挙来襲してオランダ軍を降伏させました。

 

そしてオランダ本国もその繁栄に嫉妬する英国から執拗な海上攻撃を受け、フランスからも1672年陸上から攻撃をうけ、衰退に向かいました。

オランダの人口150万人、たいして英国は500万人、フランスは1000万人以上、とにかく人口が少なすぎました。

オランダは17世紀の栄光の時代の最盛期に台湾にやって来て、衰退が始まるころ台湾を去り「ました。

ご隠居の考えること。

オランダも海洋国家であり小さいながらも世界史で一度は脚光を浴びました。スペインも、英国も、ポルトガル、古くは(紀元前)イタリアも。

日本も約30年前経済のバブルで世界を席巻して歴史上脚光を浴びました。その後人口が少ないのではなく政治的失敗から衰退にむかっています。

先進国と言われている国々は一度は世界史上で活躍しその後巡航速度で生きていけばいいのではないでしょうか。

 

いまでもオランダ人は冬季オリンピックではものすごく背の高い選手がスピードスケートで活躍し、世界の紛争地には平和維持軍として義務を果たしキラリと光った民族だと思います。

 

さて次は延平郡王祠に行きました。

大きな公園になっています。

延平郡王祠(えんぺいぐんおうし)は鄭成功を祀る廟です。

鄭成功は赤嵌楼で出てきました。その一生について、生い立ちなどの紹介もしています。

大きなガジュマルの木。

鄭成功の父は鄭芝龍といって海賊の親方でしたが明の政府がほかの海賊をまとめるようかれに官位を与えました。

ついには都督になりました。

彼の得意先は日本でした。

日本に書籍、絵画、骨董などを売り、日本から金銀や銅を得ました。

日本の倭寇貿易を一手に引き受けていたのが平戸の(長崎)大名松浦氏でした。

鄭芝龍は松浦氏と結び平戸城下に屋敷を構えました。

やがて平戸の武士田川七左衛門の娘をめとり児をもうけました。のちの鄭成功です。

鄭成功の母はマツという。気品のある写真もありました。

鄭成功は6歳の時に平戸を離れて福建省平鎮に移ります。

彼が20歳の時明は清に滅ぼされますが父と共に明の残された王族「唐王」を擁して福州に移りました。

そして母田川氏を平戸から呼びます40歳半ばでした。ところが父鄭芝龍が清に寝返ります。

清軍は戦わずして城郭を落としました。唐王は殺されました。

母親は城郭に登り身を投じ死にました。

鄭成功は戦場にあって父の奔敵と母の死さらには君主が敵に拉致されたことを知りました。

彼は名将でした。

その後アモイ、金門島などを根拠地としてやがて大艦隊をもって台湾に進出、オランダ人を駆逐して根拠地としました。

そしてその生涯は38歳で終わりました。

歴史の教科書などでは習ったかどうか忘れましたがこういう場所に来てみると日本も改めてアジアの国家であり近隣諸国とつながりがあるだなと思いました。

さて本日の旅はこれで終わりません。さらに50km離れた台湾第二の都市高雄に向かいます。(約1時間)

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晩秋の本土寺

2015年12月12日 | 日記

もうすぐ冬至というのに暖かいですね。

写真教室で本土寺(松戸市平賀)に行ってきました。

先生いわく「最近はスマホでも綺麗な写真が撮れます。みんなは立派な一眼レフでパチパチやっているのだから何を撮りたいかよく考えてアングルを決めましょう」

でも結局は紅葉の風景写真になってしまいました。

同じカメラという機械を操っているのにどうして違うのでしょうか。

それでは本土寺の晩秋の風景です。

仁王門です。

まだ黄色の黄葉のほうが色が落ちていませんでした。

宮沢賢治の短編小説で(題名は忘れた)山の上の一本のイチョウの木の銀杏と黄葉した葉が一夜の北風で丸坊主になったという話がありました。

短い話ですがちょっと感動しましたがこのイチョウを見て思い出しました。

先生はこの写真がちょっといいと言ってくれました。

これからも各地を旅行していい写真をブログに載せたいと思いました。

 

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台湾紀行(日月潭)

2015年12月10日 | 旅行

台湾観光だと必ず行くのが故宮博物館と日月潭です。

その日月潭にまず向かいます。

朝の台中市内(ホテルの前の通り)

ホテルのロビーで今日の予定と注意事項を聞きます。

台中から80km、約1時間半のバスの旅です。

日月潭

湖の東側が太陽、西側が三日月に似ていることからこの名がついたとか。

周りは2000m級の山々に囲まれていますが何となく名勝地でもあり芦ノ湖のようです。

しかし振り向くと

文武廟の狛犬だか獅子だかの石像がそびえたっています。約8m、台湾最大とか。

台湾だなぁ~

廟門です。

一生に一度しか来ないかもしれないのに晴れてよかった。

前殿です。

孔子が祀られていたんだったかな。

写真なんかを一生懸命撮っていてガイドさんの近くに行くと説明が終わっています。

1938年に日月潭のダム工事で水没する水社村の竜鳳宮と益化堂を現在の位置に移転して文武廟としました。

石に彫った彫刻が見事です。

煌びやかです。

とにかく明るい色使いです。

1999年9月の台湾中部大地震の震源地がこの近くだったこともありこの辺もかなり被害を受けたそうですが見事に立ち直りました。

中殿です。

明るくて開放的、写真は撮り放題、おおらかだなあと思いました。

日本のお寺は暗くて慇懃無礼でその割にはお賽銭箱が大きくてお札だ御朱印だと商才はたけています。

ここはおみくじも無料です。

廟です。

台湾旅行で最初ともいうべき観光地に来て天気も味方してくれて思っていた以上に素晴らしかったなと思いました。

湖はどこでも同じような感じですが文武廟の屋根を入れると台湾だなという感じです。

日月潭には観光船が航行していてロープウェーイやサイクリングも快適そうです。

ゆっくりして玄奘寺などにも足を延ばしたい。

しかしツアーです。このあと昼食を摂り190km離れた台南に向かいました。(バスで3時間)

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台湾紀行(とりあえず台北へ)

2015年12月05日 | 旅行

千葉も寒くなってきたので少し暖かい所に行ってみたいと思って台湾に行きました。

気温はとんでもないことになっていました。

羽田空港国際線ターミナル。ここから飛行機に乗るのは初めてです。

千葉の田舎者です。

出国審査も終わって搭乗口へ。ちょっと一安心です。

エバー航空189便にて(10時45分発)台北に向かいます。

なんだかやたらにキティちゃんが目立ちます。

台湾娘の客室乗務員が機内食を持ってきてくれました。

ファストクラスはどんな美味しいもの食べているのかな?

こちらは貧乏人のエサみたいです。

13時30分定刻台北松山空港に到着です。(日本時間だと14時30分。ちょうど一時間の時差)

空軍共有空港ですがこじんまりしていてすぐに市内に出られました。

気温27度。薄手のセーターをすぐに脱ぎました。

早速バスで台北101へ向かいます。

ガイドの李さんです。

台北は自動車はトヨタ、日産が多い。101のエレベーターは東芝。

クーラーは会社はダイキン、個人は日立が多く使われている。

台湾の人達は親日的でみんな日本人好きです。

とまずはリップサービス。でも最後まで話が面白かった。

日曜日の昼下がり。台北は活気がありました。

バスの中から何かの宗教的なパレードをやっているのが見えました。

さて台北101です。

高さ508m、台湾のランドマークタワー。

信義区といって台北の新都心で昔は畑ばかりだったそうです。

今は幕張新都心なんか足元にも及ばないほど賑わっています。

5階まではルイビトン、シャネルなどブランド品の店が沢山ありました。

5階のチケット売り場から世界最速のエレベーターで89階の展望台に向かいます。

本当に早くてあっという間に展望台です。

台北の町が見渡せます。

このあと91階の屋外展望台にも行きましたが風が強いだけで眺めは同じです。

ご隠居の好きなスタンプもありました。

折角だから何か口にしようと売店でオレンジフロートを頼みました。

180元 約720円、ちょっと高いけど美味しかった。とにかく必死でみんなについて行ったらのどが渇きました。

台湾歴104年というのは孫文先生が中華民国政府を樹立して今年で104年になるそうです。

台北の町から4泊5日の貧乏人の旅が始まりました。

この後高速道路で台中に向かいました。(160km、2時間30分)

途中で客家料理の夕食をとってホテルに着いたのが9時30分(ここからは台湾時間)

疲れた~ぁ。

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