ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

東京日和(堀切菖蒲園)

2016年06月29日 | 日記

6月中旬に堀切菖蒲園に行ってみました。

菖蒲園には京成電車本線堀切菖蒲園駅下車が便利です。

平和通を横切ると菖蒲七福神に出ました。

この日はお祭りだったようです。

通りは菖蒲園に行く人で混んでいました。

会場に着きました。入場無料です。舛添さんもいろいろ無駄使いしていたようですが皆が喜ぶところに税金を使うのはいいですよね。

入るとすぐに菖蒲が満開の景観が見られました。

それではしばし花を楽しみましょう。

堀切の菖蒲園は江戸時代の名所として古くから知られていて、その景観は安藤広重や歌川豊国らの題材にもなりました。

花菖蒲がこの地に伝来した時期は明らかではありませんが、一説には文化年間(1804~1817)に当時の農民、

伊左衛門によって栽培されたのが始まりといわれ現在は200種、6000株に及んでいます。

(葛飾区のパンフッレトから)

ランみたいにいい匂いはしませんが風格のある花だなと思います。

全体を見回すとやっぱり都会の菖蒲園だなという感じでマンションもまじかに迫っています。

荒川の土手に出てみました。

堀切菖蒲水門です。

堀切水辺公園(菖蒲田)に降りてみました。

荒川の河川敷にあります。こちらは広々としています。菖蒲園だけ見て帰る人が多いのかこちらは空いていました。

すっかり東京の顔になってしまったスカイツリーが見えます。

 

交通費も安くて少しの時間癒されますね。

 

 

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奥の細道旅行譚(黒塚)

2016年06月26日 | 旅行

安達ケ原ふるさと村から安達ケ原黒塚の岩屋にやって来ました。

芭蕉一行は陽暦6月17日にやって来ました。

岩屋のある観世寺(かんぜじ)の入り口です。

入場料を払ってパンフレットをいただいて入ってみました。

五重塔も見えました。

出刃洗いの池

白真弓如意輪観音堂

本堂です。

右側に宝物殿があります。中に入りましたが特にコメントはありません。

うっかり悪口書くとどこからかクレームがつくといけないので省略です。

裏手に回ると岩屋があります。

「安達ケ原 鬼婆 伝説」

昔、京都の公家屋敷に「岩手」という名の乳母がいて、姫を手塩にかけて育てていました。

その姫が重い病気にかかったので易者に聞いてみると「妊婦の生き肝を飲ませれば治る」ということでした。そこで岩手は生き肝を求め、旅に出て安達ケ原の岩屋まで足をのばしました。

木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、岩手が住まいにしていた岩屋に生駒之助、恋衣(こいぎぬ)と名乗る若い旅の夫婦が宿を求めてきました。

その夜更け、恋衣が急に産気づき、生駒之助は産婆を探しに外に走りました。

この時とばかりに岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ恋衣の腹を割き生き胆を取り出しましたが恋衣は苦しいい息の下から

「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきたのに、とうとう会えなかった・・・」と語り息を引き取りました。

ふと見ると恋衣はお守り袋を携えていました。

それは見覚えのあるお守り袋でした。なんと、恋衣は昔別れた岩手の娘だったのです。気づいた岩手はあまりの驚きに気が狂い鬼と化しました。

以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」として広く知れ渡りました。

鬼婆が住んでいたという岩屋です。

大きな岩の上に比較的扁平な岩が乗って庇のように突き出ています。

古代蝦夷人がこしらえたトーチカではないかと言われています。

観世寺を出て阿武隈川の堤防を乗り越えて河川敷に黒塚がありました。

芭蕉は「かつみ、かつみ」と歩いているうちに夕暮れになった。

読者をおどかそうと日が暮れて薄気味が悪い中を鬼婆の墓に向かった。そして一見しただけでコメントもなく次に行きます。

読者にホラー感覚を味わってもらう趣旨でしょうか。

なお「曾良旅日記」を読むと日が暮れるのにはまだだいぶ時間があって観世寺の岩屋も見ているようです。奥の細道は単なるありのまま書いた紀行文ではなく芭蕉のロマンなのですね。

鬼婆の墓です。大きな杉の木の下にありました。

 

奥の細道(浅香山・信夫の里) 前半部分

等窮が宅を出て五里ばかり、桧皮(ひわだ)の宿を離れて、浅香山あり。道より近し。このあたり沼多し。

「かつみ刈るころもやや近うなれば「いずれの草を花がつみといふぞ」人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし

昔、籐(とうの)中将実方が古歌からアヤメの代わりに花かつみを刈らせた。そのかつみを刈る端午の節句も近いので「どの草が花かつみというのか聞いたが誰も知らない。

沼を尋ね、人に問い「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ。

「かつみ、かつみ」と尋ねているうちに夕方になってしまった。

二本松より右に切れて、黒塚の岩屋を一見し、福島に泊まる。

 

さて奥の細道も少し飽きてきましたね。この旅は今回で一応終わりです。この次は夏休みに前後しますが出羽三山を歩いてみたいと思います。

 

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奥の細道旅行譚(二本松市)

2016年06月23日 | 旅行

東北線の普通列車で二本松駅で下車しました。

二本松駅前はよく整備されたロータリーになっていて二本松少年隊の像がありました。

 二本松市は人口約5万7千人、安達太良山と阿武隈川の雄大な流れで有名です。

 

芭蕉は等窮の家を出て檜皮(ひわだ・郡山市日和田)の近くあさか山に行き「どの花が花かつみですか」と人々に尋ねて歩くが知る人はいなかった。

古今集の「みちのくの 淺香の沼の 花かつみ かつ見る人に 恋ひやわたらむ」から探したのでしょう。

安積山公園があるのですが写真で見るとたいしたことないのと時間もないので割愛して二本松にやって来ました。

 

 

 二本松といえば菊人形が有名です。

毎年10月下旬から11月中旬まで霞が城公園を中心に行われます。

 それでは町を歩きながら二本松城跡に行ってみましょう。

二本松少年隊群像

東北地方といえば戊辰戦争、その時の12歳~17歳の少年62名が明治政府軍との戦いに加わりました。

その中で木村銃太郎以下25名が有名で大壇口での戦いで多くが亡くなり負傷して称念寺に運ばれた者もいたがやがて息絶えた。

政府軍が二本松城を陥落させて舞台は東北各地に戦火が拡大、特に会津では白虎隊もまた同じ運命になって行きます。

相生の滝

 

箕輪門

初代藩主丹羽光重公入府間もなく、城内整備のため御殿と共に最初に建造された櫓門。

本丸跡を目指して丘陵を登ると二本松市内の一部がよく見えました。

二本松城は別名霞が城・白幡城ともいわれ平成19年二本松城跡として国の史跡に指定されました。

石垣は近年になって再構築されたそうです。

最上部の本丸跡に登ってみると何もない広場でしたが眺めは素晴らしい。

安達太良連峰です。

安達太良山といえば高村智恵子(二本松市油生れ)ですね。

市内には智恵子の生家(智恵子記念館)などもあります。

また時間があったら郊外の岳温泉にも行ってみたいですね。

市内全域

本丸跡を下って本来の目的である黒塚・岩屋などに行きました。

バスの停留場の前に「安達ケ原ふるさと村」がありました。

地元の物産館です。

物産館奥に行くとトンネルがあり抜けるとテーマパークになっています。

その一つ「先人館」に入ってみました。

場内は高村智恵子や関屋敏子など地元の有名な人の歴史が紹介されていました。

ここから奥の細道でも書かれている黒塚の岩屋です。

しかしご隠居はこのところ法務省主催の「社会を明るくする運動」の準備や個人的に「まちを楽しく歩く会」に参加など多少疲れているので黒塚は次回にします。

申し訳ありません。

 

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奥の細道旅行譚(須賀川市内)

2016年06月16日 | 旅行

牡丹園から乙字の滝に行きました。芭蕉は須賀川から二本松に向かう途中立寄っています。

曾良の日記には29日「石川瀧(乙字の滝)見ニ行。須か川より辰巳の方壱里半計有。・・・」とあります。

木陰に芭蕉と曾良の石像がありました。

滝見不動

滝不動を参拝して河原に降りてみました。

昨夜雨が降って阿武隈川も濁っています。

阿武隈川では唯一の滝だそうです。

小ナイヤガラの滝と言われているそうです。ちょっと本家のナイヤガラの滝に悪いんじゃないかと思いますがまあいいでしょう。

 

そして再び駅前に戻ってきました。

須賀川の町は江戸時代から町人文化が大いに栄えた奥州屈指の宿場町だったそうです。

その町の中心は四方から一段高い「馬の背」と呼ばれる地形上にあって、多くの坂が市街地に残っています。

駅前から広い松明通りを歩いて行くとウルトラマンのモニュメントがありました。

特撮の神様とも呼ばれた円谷英二監督は須賀川の出身だそうです。

須賀川市とウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」は姉妹都市だそうです。いろいろなイベントもあるそうです。

また円谷幸吉さんが昭和15年に須賀川に生まれました。

東京オリンピック、マラソン。昭和39年10月21日曇り空、円谷選手は国立競技場のバックストレートでヒートリーに抜かれましたが3位で銅メダルを獲得しました。

期待されていた君原健二さんはメダルを逃しましたが次のメキシコオリンピックでは銀メダルを獲得してリべンジを果たしました。

日本人がひたむきに頑張っていた時代です。日本人の誰もが心より喜んで自信を持った大会でした。

そして2020年東京オリンピック。開催される前からスキャンダルまみれ。前回の東京オリンピックより金銭的には豊かになりましたが日本人の質は落ちたのでしょうか。

それともこれが普通の先進国の状態でしょうか。妙に高ぶらないで平静な大会。

 

芭蕉が須賀川で世話になった等躬(奥の細道では等窮)宅の跡に行ってみました。

NTTの一画に標識だけがありました。

また敷地の中に芭蕉記念館がありました。

中は見やすく芭蕉ゆかりの掛け軸など資料がきれいに整理されていました。無料です。

芭蕉は白河超えを果たして須賀川では俳諧の先輩である相楽等躬(さがらとうきゅう)の世話になりました。

等躬に「どんな気分で白河の関を超えましたか」尋ねられてようやく関の句を詠みました。

7日間滞在中に連句の会が盛り上がり、また等躬の友人の可伸という僧侶を訪ねたりします。

可伸庵跡(軒の栗跡)

小さな小さな公園です。

可伸は大きな栗の木陰に質素な庵室をこしらえて、欲のない生き方は芭蕉に感銘を与えたそうです。

西行法師も

山深み 岩にしたたる水とめん かつかつ落つる 橡(とち)拾ふほど

と詠んでいます。

(山奥に住み、岩から垂れ落ちるわずかな水を飲みとちの実を食べて生活する)

最近TVで第二の人生を田舎暮らしで楽しむといった話がありますが仙人のような生活ではないので近所の人も巻き込んで賑やかですね。

相楽等躬の菩提寺である長松院にも行ってみました。

相楽等躬の墓

人間それぞれ懸命に生きて名を残しても最後には墓に入って誰もが同じ道をたどるのかなと思いました。

それにしても芭蕉は長い旅路の中でも須賀川での逗留は思い出に残るひとときだったのでしょうね。

 

奥の細道(須賀川)

とかくして超え行くままに、阿武隈川を渡る。

左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山連なる。影沼といふ所を行くに、今日は空曇りて物影映らず。

須賀川の駅に等躬という者尋ねて四五日とどめらる。

まづ「白河の関いかに超えつるにや」と問う。

「長途の苦しみ、心身疲れ、かつは風景に魂奪われ、懐旧に腸を断ちて、はかばしう思いめぐらさず。

「長い道中の苦しみに心身ともに疲れた上に、一方では風景の素晴らしさに魅了され幾多文人墨客の往時を追懐しては断腸の思いに迫られて句を思いめぐらすこともできませんでした。

風流の 初めや奥の 田植え歌

白河の関を超えて耳にした鄙びた陸奥の田植え歌、これこそ本格的に奥州路に入って最初に経験した風流です。

むげに超えんもさすがに」と語れば、脇・第三と続けて、三巻となしぬ。

まるっきり一句も詠まず関を超えるのも心残りなのでやっとこんな句をつくりました」と話せばこれを発句に脇・第三と続けて三巻の連句を仕上げました。

この宿の傍らに、大きな栗の木陰頼みて世をいとふ僧あり。

橡(とち)拾う太山(みやま)もかくやと閑(しずか)におぼえられて、もの書き付けはべる、その詞(ことば

西行法師の歌がいかにも閑雅にゆかしく感ぜられて懐紙に書き付けた。

栗といふ文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生杖にも柱にもこの木を用ゐたまふとかや。

栗と云う木は西の木と書き西方浄土に縁があるというので行基菩薩が一生頼りにして、杖にも柱にもこの木を用いたそうです。

世の人の 見付けぬ花や 軒の栗

世の中の人が観賞もしない栗の花。その栗の花を軒近くに植えて楽しんでいる草庵の主はひっそりと閑寂な生活をしているのだろうか。私は限りない共感雄覚えます。

「乙字の滝はナイヤガラの滝に似ているのでしょうか?」

「あたしもかの国の滝は見たこともないんで何とも言えませんね」

「かの国では銃乱射事件とかで騒いでいるね」

「花札だかトランプだかしらないが次の大目付になる男が危ない政策かかげています」

「海の向こうの話はよくわかりませんが等躬さんにはいろいろ世話になって楽しかったよ」

「翁は顔が広いので何処に行っても安心です。それに懸案の白河の関にかんする一句も出来て良かったですね」

「等躬さんのところでちょうど田植えをやっていたのでひらめきました」

「やっぱり実際に見聞して俳句も作らないと納得できませんよね。能因法師のとっつあんに一矢むくいましたね」

「僕はね大所高所の人だから他人は気にしませんよ」

「またまた。能因法師の事は文春にでもたれこみたいですね」

「文春を怒らせると怖いからわれわれも真摯な態度で旅を続けましょう」

「文春といえば今朝の瓦版に出ていましたが江戸おもてではかの升添なんとやらが辞職したそうですよ」

「江戸ですか。早く帰って日高屋の野菜たっぷりタンメンでも食べたくなりました」

「馬鹿だね。旅はまだ半分も来ていません。仙台のずんだ餅でも食べるのを楽しみにしてその短足を動かしなさい」

「アモーレ・翁!!!!!」

 

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奥の細道旅行譚(須賀川牡丹園)

2016年06月12日 | 旅行

須賀川駅にやって来ました。

仙台とか盛岡に行く時には東北新幹線で行くので在来線の途中駅にある須賀川とか二本松とかは下車したことがありませんでした。

須賀川駅

構内に綺麗な観光案内所があり女性スタッフも何人か常駐しているようです。

乙字ヶ滝の行き方を尋ねたら牡丹園が見頃で素晴らしと勧められたので行ってみました。

途中福島空港への案内がありました。須賀川市にあるんですね。

福島市内にあるのかと思っていました。

関東地方からだとまず飛行機で福島空港へは行かないのでちょっとびっくり。

駅から約3.5kmも走ると牡丹園です。

牡丹園の入り口にありました。訪問日の入った看板の前で写真を撮るおなじみの風景です。

牡丹の切り花でしょうか。いい値段です。

ぼたん園は明和3年(1766)この地で薬種商を営んでいた伊藤祐倫という人が牡丹の根を薬用にするために摂津の国から持ち帰り栽培したのが始まりだそうです。

その後明治の初期に柳沼家が引き継ぎ柳沼源太郎は家業を離れ牡丹園内に移り住み、寝食を忘れ牡丹の手入れに没頭して観賞用牡丹園に作り上げました。

まさに牡丹に一生を捧げ、世界一の牡丹園にしました。

ちょっと真似もできません。

 

それでは牡丹の花を観賞しましょう。

 

牡丹園は10hAもある日本庭園で牡丹以外でものんびり初夏の自然が楽しめました。

うこん桜でしょうか?

粗末なベンチに座りながら「おーいお茶」を飲んで花を見ていると夏が近いなと思いました。

もちろん立派なレストランも園内にあります。こちらの方が花が観賞できます。

こうして余暇を楽しんでいても時間がどんどん過ぎていきます。

まさに初夏の林間です。

まさに東北の花の季節は移り変わって行きますね。

やっぱり人が勧める場所は来て良かったと思いました。

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奥の細道旅行譚(白河の関)

2016年06月09日 | 旅行

それでは白河の関に行ってみましょう。

芭蕉一行は陽暦6月7日に訪れています。

白河駅前より関のある白河関の森公園行きのバスは一日2本です。

10:10 13:40

バス会社はどんなマーケティングで時刻表を作っているのでしょうか?でも廃止になっているよりはましですね。

13;40のバスの時間に合わせて乗車。このバスは終点の公園で1時間位待機して折り返しの最終白河駅行きになるので時間的にもちょうどいいようです。

テレビ東京の「路線バスの旅」なども事前に綿密にスケジュール合わせていて出発前から目的地まで行けるか否かはわかっているのでしょう。

この不便さだから最初から行き当たりばったりなら半分もいけないで番組にならないでしょう。

終点のひとつ前の白河の関バス停下車。きれいに整備された関の跡に着きます。

能因法師が

「みやこをば 霞とともに たちしかど 秋風ぞふく 白河の関」

という和歌が有名ですね。

能因法師は白河には行かず、行ったふりをしてこの歌を残したというのも有名な話です。

自宅で日焼けして旅帰りのふりをしたといいます。昔の人はわかっていても文句つけるようなクレーマーはいなかったのかも。

平兼盛の歌

「便りあらばいかで都に告げやらむけふ白河の関超えぬと」(今日有名な白河の関を超えたので都の知人い知らせたい)

白河神社への参道

それでも芭蕉は本文最初に

「春立てる霞の空に白河の関こえんと・・・・」と楽しみにしていたようです。

また

「古人はこの関をこえるとき、冠を正して衣装を改めた」と言われるぐらい由緒正しい場所だったのでしょう。

この故事から本文で曾良がふざけてはしゃいだ句を残しています。

「古関蹟」の碑

白河の関がどこにあったかは諸説がありました。もちろん芭蕉が来た時もすでに関はありませんでした。

1812年まで白河藩主であった松平定信がこの旗宿(福島県白河市旗宿)の地に白河の古関があったと断定した碑です。

鬱蒼とした森の中神社への階段を上って行きます。

まだ2時ちょっと過ぎです。

矢立の松

源義経が平家追討のため平泉から鎌倉への途中にこの地により戦勝を祈願して松の矢を射たてた場所。

根株しか残っていません。

本殿に出ました。

可愛らしい神社ですがパワーがすごく感じられます。

なんか陸奥(みちのく)だなという感じです。

宮城県に「河北新報社」という新聞があります。

これは「白河から北は一山三文」という言葉に反発してつけたそうです。

それでは境内を通って整備された関の森公園の方に行ってみましょう。

白河神社の境内はカタクリの自生地として知られているそうです。花の見ごろは4月中旬。

カタクリは「かたたご」とも言って大伴家持の歌が有名です。

「物部(もののふ)の八十少女(やそおとめ)らが汲みまがう 寺井の上の堅香子(かたたご)の花」

綺麗に整備された「白河関の森公園」の案内図

御一行様の碑がここにもありました。

この公園が都会の真ん中にあったら素晴らしい緑地なのでしょうが回りを見ても滴り落ちる新緑の山々が取り囲んでいるのでどこまでが公園なのかという感じです。

もっともまわりの風景と一体化されているといえばそのとおり。

気持ちのよい遊歩道になっていて古民家やお土産物屋さんがありました。

公園のロータリに行くとバスの、終点の停留所です。

時間がなかったので走って行くと先ほどのバスの運転手さんがニコニコして「来ないからどうするのかなと思っていた」と声をかけてくれました。

この辺は泊まる所はないですよねと尋ねたところ「見てのとおり旗宿まで行かないと民家もないよ」

タクシーなんか呼んだら金かかるし第一ここまで来てくれるかなと思いました。

 

奥の細道(白河の関)

心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかり旅心定まりぬ。

なんとなく不安な心せかれる日数が過ぎていったが白河の関にかかって落ち着いた気分になった。

「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。

昔、平兼盛がこの関を超えたという感動を京都の人に知らせたいと気持ちもよくわかる。

中にもこの関は三関の一にして、風雅の人、心をとどむ。

都に残してきた人達に感銘を伝えたい場所は沢山あるが白河の関は東国三関のひとつで多くの歌人雅客が残したところです。

秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢なほあわれなり。

あの能因法師の秋風の音を耳朶に残して、頼政が詠んだ紅葉の景色を思い出して、今青葉の梢を仰げば一段と感銘深い。

卯(う)の花の白妙(しろたへ)に、茨の花の咲き添ひて、雪にも超ゆる心地ぞする。

古歌に詠まれた卯の花が真っ白に咲いている。さらに茨の花が白く咲き誇って雪景色の中を超えていくような気がする。

古人冠を正して衣装をあらためしことなど、清助輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。

昔、竹田の太夫国之がこの関を超えるにあたって、能因法師の歌に敬意を表して冠を正し衣装を改めたという清輔朝臣の書いたものを書きとどめたとか。

卯の花

「ようやく白河の関にやって来ましたね。4月20日です」

「感動がたかまり、ぐうの音も出ないね」

「そう言わずに能因法師の向こうを張って素晴らしい句でもひねってくださいよ」

「ぼくはね大所高所の人だから昔の秀作と比べられるのは嫌だな」

「いざとなると引っ込み思案なんだから。この翁は!」

「曾良さん!適当に一句詠んでください。奥の細道本文に載せましょう」

「曾良さんの辞書に適当などと言う文言はないとか威張ったりして」

「だいたい能因法師のとっつあんも実際に旅に出ていないんだから捏造文章みたいなものですよ」

「旅行記や事件だってその通り書いていたらちっとも面白くない。編集が大事なんです」

「能書きは多いですね」

違法ではないが一部不適切なもの でなければいいです。曾良さんですからそんなに立派なものでなくて結構」

「どこか江戸の方で聞いたせりふですね」

卯の花を かざしに関の 晴れ着かな  曾良

(卯の花を頭に飾って関を越えよう。それが責めての晴れ着、私たちなりの敬意の表し方です。着替える服や冠など持たない質素な旅人だから)

「お粗末。穴があったら入りたい」

「穴に入るのはいいけれどその辺の山ん中入って迷子にならないでくださいよ。自衛隊だって捜索してくれませんよ」

「わかっていますよ。こんなこ汚ねぇ爺さん誰も探してくれませんよ。

それにしても函館の男の子の精神力は素晴らしいですね」

「うん。将来は博士か陸軍大将だね」

「言ってることが時代がかっていますね」

 

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奥の細道旅行譚(白河小峰城)

2016年06月05日 | 旅行

遠くを走っていた東北新幹線がぐんぐん在来線に近づいてきたと思ったら新白河駅です。そして次が白河駅(在来線)です。

平安時代の昔から白河といえば陸奥(みちのく)の始まりとある種の夢を描いたのでしょうか。

駅のホームからも端正な三重櫓(やぐら)の小峰城が見えました。

「白河の関」は後にしてまずはご隠居の好きなお城に行ってみました。

白河駅も豪華です。しかし駅員は一人しかいないのかお昼の時間は不在の張り紙がありました。

洋館造りの駅舎は大正10年の建築で全国でも数少ない大正時代の木造の駅舎だそうですよ。

スイカの機械もないので精算もできません。

ただ駅構内に綺麗な喫茶店、外に出ると観光案内所があって親切に対応してくれました。

駅横のガードを通り抜けると城山公園に出ます。

江戸幕府成立後、白河地域が会津領であった頃に整備された城郭や城下町を、寛永4年(1627)に初代藩主となった丹羽長重が大改修を行って白河の町の基礎が出来ました。

この辺も昔は会津の一部だったのですね。駅前から今大人気の観光地、会津大内宿行の高速バスが出ていました。

前御門

小峰城は4年の歳月を費やして「奥州」の押さえにふさわしい石垣を多用した梯郭式(ていかくしき)、つまりはしご状に郭が設けられている平山城です。

現在はこの三重櫓と前御門だけが復元されています。

東北地方のお城では多いのですがここも慶応4年に戊辰戦争に巻き込まれました。

新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が攻防を繰り返して、小峰城は5月1日の大規模な戦いで落城、大部分が焼失しました。

三重櫓に上がってみました。入場は無料でした。偉いですね。微力ながらわがブログでも宣伝しておきましょう。

「小峰城は立派だから見に来てね!」

全体が木造造りになっていて空間を醸し出す色合いが素晴らしい。

階段は狭いので交互に昇り下りするので時間帯によっては混雑するかもしれません。

全国に復元されたお城は沢山ありますが全体が木造で復元されているのは少ないのではないでしょうか。

ご隠居の行ったところでは掛川城とか白石城とか・・・・・・・。

白河の町並み。ちょっと黒い雲が出てきました。まだ昼です。

集古苑

徳川譜代大名の阿部家などに伝えられた貴重な古文書や美術工芸品を保存、展示してあります。

二の丸茶屋

お土産屋さんも立派でした。

 

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6月

2016年06月01日 | 日記

6月になりましたね。

今年も折り返し地点が近づきました。2016年前半は如何だったでしょうか?

今日は千葉でも薄曇りで蒸し暑く梅雨が近いようです。

どうせ梅雨になれば雨降りの日が多くなるので積極的に雨を楽しみましょう。

 

 銀色の やかんを出して 香ばしく 麦茶沸かせば 夏近づけり

  ( 朝日歌壇 奈良市 山添聖子 さんの作品 )

夏の飲み物はTVのCMを観ていてもこれでもかというくらい綺麗なお姉さんが魅力的にいろんなものを飲んでいます。

最近はオレンジーナのCMも女性になりましたね。

入道雲湧く夏空に氷の入ったやかんが外まで水滴をつけています。見るからに美味しそうです。

これぞ究極のアナグロ的夏の飲み物です。冷えたスイカなどがあればもっといいですね。

5月26日井之頭公園のアジアゾウの「はな子」が死にました。

はな子は1949年(昭和24年)にタイから来日しました。日本はまだ戦争に負けて4年です。混乱の中47年生まれのはな子です。

まだ2歳のピッカピカのお嬢ちゃん。ずいぶん日本人を楽しませてくれたことでしょう。

ご隠居も2回見に行きましたが2回目は数年前で弱っていたようで暗いゾウ舎の中でじっと立ってていました。

2歳からほかのゾウとも会うこともなく69年間異郷の地で過ごし寂しかったかなと思いました。飼育の人に大事にされて許してねという感じでしょうか。

ご冥福を祈ります!

さて笑点が51年目を迎えましたね。子供の頃からよく見ていた番組です。50年で終わりなどということにならなくて良かった。

歌丸さんもいいタイミングで司会をバトンタッチしました。どこでも要職にしがみついて離さない人が多いのが現実です。

が。元気のうちに惜しまれつつ、笑ってそして涙があっていつものように和気あいあいでの50周年です。歌丸さんは利口です。

昇太さんの司会もテンポが速くて良かったし、新メンバーの林家三平の安定感がありました。

まだまだ日曜日の夜を楽しませてほしいものです。

 

それでは6月も一生懸命生きていきましょうね。

そして雨もちょっぴり楽しみましょう!

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