ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(立石寺)

2015年10月31日 | 旅行

石巻から一度仙台に戻り今度は仙山線(仙台~羽前千歳)58.0kmに乗り立石寺(山寺)にやって来ました。

山寺にはE-721系電車に乗ってきました。

山寺駅です。左の櫓は展望台になっていて山寺全体が良く見渡せます。

かなりきつそうです。1000段以上の階段を昇ります。中央に香の岩が見えます。

この赤い橋を渡って右折してまずは本堂を目指します。

本堂(根本中堂)

まずは最後まで登れますようにと参拝。

山寺は正しくは宝珠山立石寺といい860年慈覚大師が開いた天台宗のお寺です。

中尊寺、毛越寺、瑞巌寺、山寺はいずれも慈覚大師が開き芭蕉も訪れています。四寺廻廊と言われています。

ついでに車に着けるステッカーを購入。

ご隠居の車の後ろのガラスには各地の神社仏閣のステッカーが貼ってあるので追突されません。

出羽国山寺総鎮守と書いてありました。

念仏堂

山門。ここで入場料を払います。

約一時間位みておけば大丈夫。5時までには下山してくださいとのことです。

あまり夕方ぎりぎりにいかない方がいいですよ。

芭蕉さん一行も尾花沢の清風さん宅を朝6時30分ごろ出発。

馬を用意してくれましたが道のり約27kmを経て3時に到着。

宿坊に荷物を預けその日のうちに1000段の階段を昇って見て回ったそうです。

健脚ですね。

 

それではしばし苦しい上り道です。

途中にせみ塚があって芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚を建てたといいます。

残念ながら何故かぶれていて見せるような写真になっていませんでした。

仁王門

金乗院

実は30年ぐらい昔山寺には来ていますがその時と景色はそんなに変化がありません。

変化があったのはご隠居の足のほうでした。この辺でガタガタ。さすがにへばって道端の石に腰掛けて下を向いていました。

五大堂から降りてきた老夫婦が隣で休んで「ここまで登ればもう少し頑張ってください」と励まされてやっと腰をあげました。

そうだ芭蕉さんだって3時から昇りはじめたんだから頑張ろうと思いました。

開山堂と納経堂

だいぶ陽が傾き始めました。

 

そしてやっと!五大堂に着きました。

登ってきてよかった!素晴らしい眺めです。あえて登るという字になりました。

人間あきらめてはだめです・・・などっとこのくらいのことでは偉そうに言えませんね。

この景色を眺めながらかなりの余韻を残して今回の旅は終了です。

山形駅19時3分「つばさ194号」で帰路に着きました。

 

奥の細道(立石寺)

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に(ことに)清閑の地也。

山形領内に立石寺という寺があります。慈覚大師が開いて格別静かで清々場所です。

一見すべきよし、人々のすすむるに依て、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかり也。

一度いってみるといいと進めるので尾花沢からは予定と逆方向だが七里ばかりをやってきました。

日いまだに暮ず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。

まだ日も暮れていなかったので宿坊に宿をとって山上の僧堂に登りました。

岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧(しょうはくとしふり)、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物の音きこえず。

岩に巨岩を重ねて山としたような地形で、松や柏も年数が経ち土や石にも苔がなめらかに覆っています。岩上の多くの支院は扉を閉めて物音ひとつ聞こえない。

岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

がけのふちをめぐり、岩の上を這ったりして仏閣を拝めば、周辺の景色はひっそり静まり返って、自分の心は澄みきって行くのが分かった。

 

「清風さんに勧められて予定外の山寺にやってきましたね。翁、かなり険しそうですよ」

「宿坊に今夜の予約してついでに荷物も預けよう」

「山門からいよいよ階段が始まります。1000段以上あるそうです」

「曾良さん、僕を負ぶって行ってくれませんか」

「翁!冗談は顔だけにしてくださいよ。アタシャねえロバじゃないんですから」

「曾良さんは俳句が下手だからロバかラクダのたぐいかと思っていましたよ」

「こんなに立派な顔をしたラクダなんかいませんよ」

「ミーン、ミン、ミン 蝉になって飛んでいきたいね」

「同じ飛ぶならトンボのほうがスイスイ楽そうですよ」

「トンボはすべてを超越しているようで人間を小ばかにしているね。嫌いだよ」

「そんなものですかね。コオロギでもカマキリでもいいと思うんですけど」

「一句できましたよ」

  閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

(岩にしみいるようにセミがないている。この天地を占めているなんという宇宙の静かさろうか)

「うまい!山田君座布団一枚持ってきて」

「おいおい、僕と品のない小遊三なんかと一緒にしないでおくれ」

「翁はセミの話なんかしていましたがただのばかっ話ではなかったんですね。改めて見直しました」

「今後は朝起きたら一番に僕を拝んで賽銭でもください」

「夕方になってそこはかとなく寂しさが漂いますね。それにしても人が勧めることは素直に従った方がいい人生を過ごせそうですね。山寺に来てよかった!!!」

「話をはぐらかすのが上手ですね。曾良さん」

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奥の細道旅行譚(石巻の続き)

2015年10月29日 | 旅行

まだ石巻市内にいます。

芭蕉が「思いもかけず斯かる所にも来れる哉」とその繁栄ぶりに感嘆の声を洩らした街です。

時々東京に行くと2020年東京オリンピックの歓迎ムードです。

千葉で暮らしていても東日本大震災はもう遠い出来事のように感じて時たまNHKの番組の合間に挿入される花は咲くを聞いて思い出すぐらいです。

でもこちらに来てみるとまだまだ復興過程は半分も進んんでいない感じです。

標高56mの日和山公園です。桜とつつじの名所です。

天気の良い日は金華山まで見えるそうです。今回金華山にも行ってみたかったのですがまだ復興の途中で定期的な連絡船も運航されていませんでした。(漁船をチャーターして行く)

鹿島御児神社の鳥居は海に向かっています。

奥の細道の説明と碑

奥の細道300年を記念して芭蕉さんと曾良さんの像がありました。

太平洋まで見渡せますが手前の陸地は津波の前は建物がぎっしりと建っていたそうです。

まだ道だけがやっと出来ています。

まだ復興が手つかずといった感じです。

中央に日和大橋が見えます。それを渡って左に行くと新しくなった石巻魚市場です。

北上川と中瀬です。

白いドーム状の建物が石ノ森萬画館です。

駅の方面、中心街です。

白い建物がみなと小学校です。そこまで津波は行かなかったみたいですがその手前はかなりの被害だったようです。

 

次に住吉神社に行ってみました。

芭蕉一行はこの後宿に入りました。

写真が暗くて恐縮ですが「袖の渡し」の石碑です。

義経が奥州下向の際、船賃の代わりに立派な着物の片袖をちぎって渡したことからの由来です。一行はこれを見学したかったのです。

みちのくの 袖のわたりの 涙川 こころのうちに ながれてぞすむ

             新後捨遺和歌集

奥州の袖の渡りを渡る時の心細さの涙ではないが、私の涙は心の中に澄み切って流れている。

小さな岩が石巻の地名の由来となった「巻石」

この辺りが川の水が渦巻いて流れていたそうですよ。

毎年行われる石巻の夏の花火大会はこの辺で見学するのが素晴らしいとか。

みちのくの豪華な花火大会がこれからも続くといいですね。

 

奥の細道(石の巻)後半部分 

「こがね花咲」とよみて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入り江につどい、人家地をあらそひて、竈の煙立つづけたり。

大伴家持が「みちのく山に黄金咲く」とよんで聖武天皇に祝賀の詩を献身した金華山を海上に見わたし、数百の回船が湾内に停泊して、人家が密集して食事の用意の煙も昇っている。

思いかけず斯かる所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。

おもいもかけずこのような大都会に来たものだと宿を探したけれど泊まるところが見つからない。

漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明ければ又しらぬ道まよひ行。

やっとのことで貧しい小家に一泊して朝になればまた知らない道を歩きつ続けた。

袖のわたり、・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、遥かなる堤を行。

歌枕で知られる袖のわたり・尾ぶちの牧・真野の萱原などを眺めながらはるかに続く堤を行く。

細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどとおぼゆ。

何処までも続くかわからない長々とした沼に沿って歩き続け、戸伊摩というところで一泊して平泉に着いた。その間20里ほどかとおもわれる。

 

「翁は俳句も上手ですが紀行文も盛り上げますね」

「平泉がぐぐっと近づいたという感じでしょう」

「途中で今野太左衛門さんに石巻の宿を紹介してもらったのに宿が見つからなくてやっと小家に一泊したとか書いちゃって!シナリオ作家になってもいいくらいです」

「そんなこと曾良さんの日記に書いちゃだめだよ」

「黄金咲く金華山がでたと思ったら知らぬ道迷うとか心細さを誘ったりすべては平泉にこの文章は向かっているんですね」

「そのとおり!曾良さんもやっと僕の気持ちが分かってきたね」

「日和山から見る海は素晴らしいですね」

「これから300年後に大津波がやって来て壊滅的な打撃を受けるんだからね」

「人生は一瞬先は闇ですね」

「今回は軽口をたたくのはやめて東北の一日も早い復興を願って唱和しよう」

「がんばれ東北! がんばろう日本」 

まだまだ東北の復興は道半ばです。

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奥の細道旅行譚(石巻散策)

2015年10月27日 | 旅行

やっと仙石線の終点石巻駅に着きました。夕方です。

最近全線が復旧しました。途中海岸線に沿って真新しい堤防が出来ています。

電車は海岸線に沿って海沿いを走り素晴らしい景色です。穏やかな海なのに一度怒り出すと人間の手にも負えなくなるのは何故でしょうか。

仙石線の石巻駅です。

こちらは石巻線の石巻駅。ここが終点ではなく最近、全線が復旧して女川駅(おながわ)まで向かいます。

石巻駅前です。

タクシーの運転手さんの話ではこの辺まで1mぐらいの水が来たそうですよ。

石巻マンガロードを歩いてみました。

石ノ森章太郎さんは宮城県登米市に生まれて生前に石巻市長との対談の中でシャッター街になってしまった石巻の中心を活性化させる目的で石ノ森萬画館を旧北上川の中瀬に建設しました。

街の中はまだまだ復興の起重機が働いています。

館の中はらせん状になっていてトキワ荘の模型やサイボーグ009の世界、仮面ライダーの世界と楽しく見ながら3階まで行けます。

あえて漫画ではなく萬画宣言をしています。

萬画は万画です。

あらゆる事情を表現できます。

一から万(無限大の意味を含む)のコマによる表現です。

など6条の宣言を提唱しています。

したがって石ノ森萬画館です。

復興したばかりの石巻魚市場に行ってみましたが休日でお休みでした。残念!

8月には再開のニュースが関東地方にも流れました。

町中にある石巻市復興まちづくり情報交流館です。

新しい未来の石巻の模型がありました。

壁の上部の波の線があるところまで水がやって来たそうです。

いたるところに津波の傷が残っていて本当に大変だったんだなと思いました。

日本製紙石巻工場。

津波の前は老朽化した工場だったそうですが東北のためにもという事でいち早く最新鋭の工場に生まれ変わったそうです。

再び勤務することができた社員、市税が期待できる石巻市、出張で工場にやってくる外部の人達が乗るタクシー、それぞれの人達がホッとしているのではないでしょうか。

しかし民間会社の場合、目的が工場の復興とはっきりいているので再開も早そうです。

役所もつまらない縄張り争いなどしていないで迅速にやってもらいたいものです。

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奥の細道旅行譚(瑞巌寺)

2015年10月23日 | 旅行

瑞巌寺にやって来ました。もちろん芭蕉さん一行も寄っています。

828年慈覚大師が開創して現在は臨済宗妙心寺派の名刹です。

総門を入るとすぐに杉の大木が立ち並ぶ参道の奥に本堂が見えるのですが平成の大修理が行われていて入れません。(平成28年春ごろまで)

日光の陽明門も平成の大修理中です。外国から沢山の人たちが観光に来ているわけでちんたらやっていないで早く修理を終わらせればいいのにと思います。

観光に力を入れようというのですから観光庁の予算を増やして補助金をつけたらどうでしょうか。

参道を迂回する形で歩くと洞窟遺跡群が見学できます。

国宝の庫裡です。

白壁と木組みのコントラストが素晴らしい。

中に入りましょう。

玄関にありました。

更に進むと仮本堂(大書院)です。

廊下から修理中の本堂が見えました。

本堂が修理中のため本堂に安置してあるご本尊、大位牌、三代開山木像が仮本堂で特別公開されていて間近で見ることが出来ました。

ラキッー!

フラッシュは禁止ですが撮影は良いとのことで太っ腹です。

瑞巌寺ご本尊聖観世音菩薩

さてまた外に出てみました。

トンネルをくぐって修行道場や御霊屋のあるほうに行ってみました。

竹が風にそよいでいて気持ちが良かった。

修行道場

これで松島海岸沿いのビッグな観光地だけは急いで見ました。

芭蕉さん一行もここで夜になり宿泊したようですね。

 

奥の細道(瑞巌寺)

十一日瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其の後に、雲居禅師の徳化に依りて、七堂甍改まりて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。

11日瑞巌寺を参拝する。この寺の32代にあたる昔、真壁の平四郎なる人が出家して中国に渡り、日本に帰ってきて禅寺を開いた。

その後雲居禅師の徳によって七堂ことごとく改築され金色の壁、内陣の装飾がまばゆい光を輝かせ、極楽浄土を再現した大寺院になった。

それにつけても西行法師が書いていた見仏聖の閑居した寺はどこなのかと、慕われてならない。

 

「素晴らしい松島の一日が終わりましたね」

「海に面した旅館がとれ最高の気分です」

「雄島の上に月が出ましたよ。吉永小百合さんの大人の休日倶楽部のCMのようです」

「さて月をご馳走に夕食でも頂きますか」

「こんないい雰囲気なのですから一杯やりましょう」

「いつも大所高所ばかりでは曾良さんもストレスがたまって下着泥棒でもされては困るので少し飲みますか」

「アタシが捕まると監督責任で翁にも責任が行きますよ」

「群馬のほうの女性代議士のように秘書に全部おっかぶせて涼しい顔をするわけにもいかないな」

「それでは当地の銘酒、浦霞でも」

「そういうことはよく知っているね」

「いい気持になってきた。ひとつ昼間から聞こうと思っていたんですがあこがれの松島に来て翁はどうして俳句を読まないんですか」

「この素晴らしい景色と歴史に感動しまくって頭が真っ白です」

「さっきから原安適だ、杉風、濁子だとぶつぶつ言ってますが昔の人が松島で沢山の名句を詠んでいるので比較されるのが嫌なんでしょう」

「君は少し酒癖が悪いね。僕はねそんな小さな人じゃないよ。大所高所の人なんだ」

「わかった!芭蕉というブランドが傷つくのが怖いんですね」

「ますます嫌な奴だね。それなら曾良さんが句を詠んでください」

「いいですよ 松島や 鶴に身をかれ ほととぎす

(ホトトギスの鳴いて渡る姿が、松島の絶景に重なった。でも松島に似合うのは鶴の姿。

だからホトトギスよ、ここでは鶴の姿に借りて飛んでくれ)

「ほらね!せこい注釈つけても曾良さんのはなに詠んでいるのかわからない。猿蓑でもを基にしているんでしょうけど」

「耳が痛い。確かに翁の俳句は300年先の人が読んでも景色の雄大さとか旅の侘しさがすぐに解りますよね」

「ついでに 松島や ああ松島や 松島や は僕の句ではないからね。しっかり日記に書いておいてくださいよ」

「やっぱり松島で句を残さなかったのでつまらない誤解を招くんですね」

「旅が終わって大垣に帰ったら曾良さんを特訓して秀作が出来るようにしましょう」

「部下にあまり期待しすぎると東芝やフォルクスワーゲンみたいにとんでもないことになるので気をつけましょう」

「それもそうですね。夜遅くなってスナックもやっていないようです。寝ましょうか。灯を消してください」

「フッー。・・・・・・・・・・・良い夢を!」

 

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奥の細道旅行譚(五大堂など)

2015年10月21日 | 旅行

松島海岸駅です。石巻に石ノ森漫画館があるせいか電車もカラフルです。

しかし仙石線は読みにくい駅名が多いようです。

榴ケ岡駅(つつじがおか)下馬駅(げば)東名駅(とうな)野蒜駅(のびる)など。

今回は塩竈から松島港に着いてからの散策です。

観光船発着場から海岸線を歩いてみましょう。

みやげ物屋さんが立ち並び松島でもかなり賑やかな場所です。

五大堂です。

五大堂にかかる透かし橋は縁結び橋ともいわれています。

日本全国いろいろ行くと何処にも縁結びの何とかというのがあります。

若い人はスマホにラインにツイッター、パソコンあやつっていても縁だけは神頼みということでしょうか。

五大堂は807年坂上田村麻呂の創建と伝えられています。

その後、慈覚大師が五大明王像を安置したことから五大堂と呼ぶようになったそうです。

現在の堂は1604年に伊達政宗が再建したものだそうです。

東北地方最古の桃山建築です。

反対側を振り返ると松島湾が綺麗に見えました。

さて奥の細道にも記載されている雄島です。

芭蕉さん一行は塩竈からここに到着したようです。

海を見ながら松島グリーン広場を通って雄島までは気持ちの良い散策コースです。

途中にイカの焼く、いいにおいがしていたり、ソフトクリームも美味しそうな売店が並んでいます。

夕方です。ここで何か食べると夜の酒が不味くなるので我慢しました。

赤い渡月橋を渡ります。大震災で流され2013年に再建。コンクリートです。

「悪縁を絶つ縁切り橋」とも言われてそうです。

また 縁 がでてきましたね。

芭蕉の句碑なども経っています。

雲居禅師の座禅堂

中世から「奥州の高野」ともいわれ僧侶や巡礼者の修行上となっていたそうですよ。

雄島は海岸から橋ひとつある突き出た島です。

したがってどこからも松島湾が良く見えます。にほんはこういう島影の風景は本当に多いみたいです。

松島はもっとゆっくり散策したいところです。

曾良の日記によれば最初、雄島に到着。茶を飲んだあと、瑞巌寺、雄島、五大堂など見学したことになっていますが芭蕉は塩竈神社と瑞巌寺の記事が続くことを避け独立性を持たせたようです。

それではまた奥の細道を読んでみましょう。しつこいけど。

奥の細道(松島)後半部分

雄島が磯は地つづきて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石など有。将(はた)松の木陰に世をいとふ人も稀まれ見え侍りて、落穂・松笠など打ちけふたる

草の菴(いほり)閑(しずか)に住なし、いかなる人とはしられずながら、先ずなつかしく立寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。

雄島が磯は、地続きに海に生まれ出た島である。雲居禅師の別室の跡、座禅石などある。また松の木陰に世のわずらいを避け隠居している人の姿もまれにみえて

落ち葉や松笠を焼く煙がうっすらとただよっているようす、いかにも閑静に住みなしている様子、どういう素性の碑とかわからないけれど

何より先に心を引かれて立ち寄るうちに、いつしか月が上がって海上に映えて昼の眺めとは違った景観だ。

江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ

海辺に帰って宿をとると海に面して窓をひらき二階造りになっていて大自然の風光のただ中に身を置いて旅寝するようで気持ちがいい。

予は口をとじて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり

自分は待望の絶景に接しても、句を読むどころではなく、句作を断念して、眠ろうとしたが感激して眠れない。

旧友素堂が松島の詩を作ってくれ、原安適が松が浦島の和歌を贈ってくれた。頭陀袋をひもとき、それらの詩歌を取り出して今宵の心を慰め友とする。杉風や濁子のほくってくれた発句もあった。

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奥の細道旅行譚(松島湾遊覧)

2015年10月20日 | 旅行

さて奥の細道から離れて現在の松島遊覧を楽しみましょう。

塩釜港から丸文松島汽船の遊覧船に乗りました。

船内では出港する前からアイスクリームやビールが売れていました。

芭蕉の時代でも船に酒樽など積んでそれなりに楽しんでいたみたいで人間のやることはいつの時代も同じです。

この売店の女性ですが船が走り出すとガイドに早変わり、説明がだいたい終わって松島港が見えるころにはお土産品を売りまくっていました。

彼女はお母さんを東日本大震災で亡くし自分も仮設住宅暮らしだそうです。本当に今回の大震災は被害が大きかったんですね。

それでは湾内の遊覧を楽しみましょう。

有名な仁王島です。

長い間の風浪雨雪によって下部の集塊岩は浸食が遅れ、頭部の泥板岩は横縞状に削れ、中間はやわらかい凝灰岩なので浸食が早かった。

昔話になりますがかつて行政書士会の親睦旅行で松島に来たことがありました。一日中バス旅行で何も考えず酒飲みながらうつらうつらしていました。

あの時はつまらない所だなと思いました。しかし今回は自分で調べたり天気も良く潮風に当たっているとなかなか松島も捨てたもんじゃないと思いました。

ただあの時はカモメが観光船を追いかけてきて、船内でも餌のかっぱえびせんなども売られていてどこの観光船にもある風景でした。

今回はカモメが船を見ても知らん顔していました。なんでかなあ?と思っていました。

上陸して公園をぶらぶらしていたら「カモメの糞で松が枯れてしまうので絶対に餌をやらないでください」という看板がありました。

なるほど、カモメも利口だなと思いました。餌をくれないなら乗客に演技しないという事か。

空中から人間の手をめがけて餌をとるシーンは結構迫力あって皆喜んだのですがね。

鐘島

断層の弱い所を波が打って破壌した洞門が4つもあります。

逆光だったので全体的に暗い写真になってしまいました。写真教室の先生にもう少し長いこと授業料払わないとうまくならないかも。

カキだかワカメだかの養殖のいかだです。

福浦橋(出会い橋)が見えてきました。

松島の観光桟橋に到着しました。

仙石線、本塩釜・松島海岸駅間は乗車しなかったので帰りに乗りました。

写真がいまいちで折角の松島湾がもうひとつ盛り上がりませんでした。

気を取り直して読書の秋です。

奥の細道(松島)前半部分を読んでみましょう。

抑(そもそも)ことふりたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡(およそ)洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入れ、江の中三里、浙江の潮をたたふ。

そもそも、多くの先人たちの文章に言いふるされていることだけど松島は日本第一の絶景であって、まずは中国の洞庭・西湖に比べても遜色がない。

その地形は東南の方角から海を入れて湾内3里かの浙江を思わせる満々たる潮をたたえている。

島々の数を尽くして、そばだつものは天を指、ふすものは波に匍匐(はらばう)。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。

島という島をここに集めて、そのうち、高くそびえるものは天を指さす尊大の形を示し、低く横たうものは波の上に葡匐膝行(はらばいになっている)するようだ。

あるいは二重にかさなり、三重にかさなって右に左と連なっている。

負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹たはめて、屈曲をのづからためるがごとし

小さな島を背負っているような形もあれば、抱えているような姿もあり、杜甫の詞にあるようにあたかも子や孫を愛しているようだ。

松の緑も濃く、枝葉は潮風に吹き曲げられて、その曲がりくねった枝振りは、自然のうちに、まるで人が曲げ整えたようだ。

其気色窅然(ようぜん)として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざや。造化の天工、いづれの人か筆をふるい詞を尽さむ。

その景色の美しさは見る人を恍惚とさせ、物静かで美女がいやがうえにも美しく化粧をしたかのようだ。遠い神代の昔大山祗のなしたるわざだろうか。

造化の神の仕業はどんな人の絵筆をふるって描いても詩文でも言い尽くすことはできない。

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奥の細道旅行譚(塩竃神社)

2015年10月16日 | 旅行

塩竈神社にやって来ました。芭蕉さん一行も楽しみにしていた寺院です。

曾良の日記には 快晴 辰の尅、(午前6時頃)塩竈明神ヲ拝。と書いてあって早朝から参拝したみたいです。

陽暦6月25日   さて引続き秋の夜長です。

奥の細道(末の松山)の後半部分を読んでみましょう。前半は前回掲載済みです。

五月雨の空、聊(いささか)はれて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。蜑(あま)の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」

とよみけん心もしられて、いとゞ哀れ也。

五月雨どきの空もやや晴れて、夕月がかすかに照らすなかに、歌枕としてしられるまがきが島もまじかに見える。漁夫たちの小舟が連ねて帰ってきて、

とった魚を分け合う声々を聞いていると、古人が「綱手かなしも」とよんだという、その心もおのずから思い知らされ、いちだんと深い感銘に打たれるのだった。

※「綱手かなしも」・・・古今和歌集(みちのくは いずくはあれど 塩釜の浦 漕ぐ船の 綱手かなしも)から引用                            

其夜盲法師の琵琶をならして、奥上るりと云ふものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど

さすがに辺土の遺風忘れざれるものから、殊勝に覚えらる。

その夜盲法師が琵琶をかき鳴らして、奥浄瑠璃というものを語るのを聞く。平家琵琶でもないし幸若とも違う。いかにも田舎びた調子を張り上げて語るのが、

枕元の近くにひびき、やかましくはあれど、考えてみれば片田舎に残された昔ながらの風儀を忘れずに伝えているものゆえ、奇特なことよ感ぜずにはいられなかった。

 

さて本塩釜駅を降りると綺麗に舗道が整備された塩釜海道に出ます。

登録有形文化財の丹六園  老舗が町並みをさらに盛り上げています。

昔この辺りは浜辺で芭蕉一行はここから船に乗り松島に向かったそうです。案内板だけですが。

海道を歩くと裏坂、七曲坂、そして表坂(表参道)と続きます。

せっかく元気なのだから表参道、202段の階段ですが何とか上りました。

古来より東北を鎮護する陸奥国一宮です。国の重要文化財です。

桜の名所でもあります。

パワースポットとしても注目されています。

文治神燈

奥の細道本文にも紹介されています。芭蕉もこれを見ているのです。感激。

舞殿

志波彦神社

一森山の麓に塩竈人神社に並んで祀られていて農耕・殖産を司られてきました。

境内からは「千賀の浦」がみえます。芭蕉は船に乗り松島を見学しました。

奥の細道碑 字がよく読めません。

塩竈神社博物館に入ってみました。

国指定重要文化財の太刀「来国光」「雲生」など光り輝いていましたが撮影禁止なので皆様には紹介できません。

芭蕉止宿の解説板

博物館を見学して裏坂を下ってくる途中です。「治兵(じへい)」という旅館だったとか。芭蕉が止まったというだけで旅館はなくなっても案内板まで出ています。ご隠居が東横インに止宿してもだれも気にもしませんが・・・

 

「翁、昨日は末の松山では感慨深そうでしたね」

「ウム。人の行く末はどんなに愛し合っても最後は同じだね」

「諸行無常の響きあり ですか?」

「曾良さんよ、福山雅治と吹石一恵だっていずれ夫婦げんかして最後は墓石の下に永眠してしまうのだよ」

「それを言っちゃ身もふたもないですよ」

「そうだね恋の真っ最中だと何も見えないからね」

「翁も深川の愛人と元気なうちは仲良くやってくださいよ」

「そんなのいねぇちゅうの!」

「ばかに塩竈神社に早く来てしまいました」

「期待した通りの素晴らしい所だね」

「少し時間がたったら茶店も開いてきました」

「お茶でも頂いていきましょうか」

「お茶だけとは言わずに団子でも。松島までには遠いので腹ごしらえしましょう」

「投資家のcisさん、あのジェイコム誤発注事件で注目され今や160億円の資産家だよ。彼でさえ昼はカップヌードルだそうです。昼に上天丼なんかでお腹が一杯だと相場観が狂うそうです」

「はいはい。翁はお腹減らしていないといい芸術はできないという主義でしたね」

「返事は一度でいいのです。ところで平成になって我々の足跡を訪ねているご隠居とはうっかり八兵衛とやらもこの茶店に寄ったのかな?」

「あいつらは団子食ったり大福ほうばったり、夜はホテルで大酒飲んでろくなもんじゃないですよ」

「それじゃ糖尿病でそのうちに死ぬでしょう」

「とりあえず芸術的なブログなんかはできないでしょう」

「美味しそうな三食団子ですね。ちょっといただいていきますか」

「さっきのお言葉とだいぶ違うような感じですが・・・・・・・」

「世の景気対策のために少しお金を使うのもいいかな」

「屁理屈は上手なんだから」

 

奥の細道(塩竈)

早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重なり、朝日あけの玉がきをかがやかす。かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。

早朝、塩竃の明神に参拝する。この神社は、藩主政宗公が再建されて、社殿の柱は太く立派に、彩色を施した垂木はキラキラと美しく、石の階段は高々とつみ重なり朝日が朱塗りの玉垣を輝かせて、荘厳極まりない。このような道の奥、国土の最果ての地までかく神霊あらたかに鎮座しますこそ、わが神国の美風なのだと、いかにも貴く拝された次第であった。

神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に「文治三年和泉三郎寄進」と有。五百年来の俤(おもかげ)今目の前にうかびて、そぞろに珍し。

社殿の前に古い神燈がある。鉄の扉の表面に「文治三年、和泉三郎寄進」と彫ってある。五百年来の文字の跡に伝えられたその人の俤も今眼前に彷彿とうかんで、ただ無性に珍しく思われる。

※和泉三郎は藤原秀衡の三男。やがて行く平泉への伏線。

渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りて、したわずという事なし。誠に「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」と云えり。

かれ和泉の三郎は、勇・義を兼ね備えた忠・孝両全の士である。その令名は、今日に至っても、これを慕わないものはいない。いかにも「人たる者はよく道を勤め義をまもらなくてはならぬ。名声はおのずからこれに伴うものである」と古語も行っている。

日既に午にちかし。船を借りて松島に渡る。其間二里余、雄島の磯につく。

日ははや正午に近い。そこで船を雇って松島に渡った。その海上2里余にして、雄島の磯に着く。

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奥の細道旅行譚(末の松山)

2015年10月13日 | 旅行

芭蕉さん一行は多賀城跡を見学したのち野田の玉川・沖の石・末の松山を訪れたことになっています。

しかし現在においては実につまらない所です。

時間がなかったのでタクシー飛ばして見て回ったので省略するのももったいないので簡単に紹介します。

わざわざ行くような場所ではありません。

野田の玉川です。

以前は小川が流れていたそうですが見てのとおり、コンクリートの溝渠となってしまいました。

300年もの昔、芭蕉がこの流れのほとりに佇み何を思ったのでしょうか。

 

ゆうされば 潮風こ越して みちのくの 野田の玉川 ちどり鳴くなり    能因法師

(夕方になって潮風が海の方から吹いてきて、この奥州の野田の玉川では千鳥が鳴いているようだ)

 

沖の石です。

住宅地の真ん中に小さな池があり中に岩があり松が生えていました。

この情景は昔と変わらないのかな。

昔からの歌枕で江戸時代には番人も置かれていたそうです。

 

わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそしらね かはく間もなし  二条院 讃岐

(私の袖は、潮が引いても見えない沖の石のように、あの人は知らないがいつも涙で乾くことはありません)

末の松山です。大きな2本の松(恋する男女か)が生えていました。

裏がお寺になっていて墓石群があります。ここも全くつまらない。

この案内文に

「愛」の歌枕から玄宗と楊貴妃の故事を彷彿とさせ、すべてを無常に沈潜させていく手法は美事(みごと)である。

芭蕉の感動は「末の松山」のもつ歴史の重さを無視しては考えられないが、同時に「おくの細道」のこの行文は「末の松山」の歴史に新しい一ページを加えました。

とあります。

君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなじ

(末の松山は丘になっているので絶対に波は来ない

そこで あなた以外の人を好きになったらあの末の松山を波も越えてしまう)

 

どの歌をとってもあまりピントきませんよね。現在の朝日歌壇の恋歌の方がよっぽど面白い。時代が違いますね。

なにはともあれ歌枕には、古人の風雅の歴史が秘められています。

芭蕉はその歴史の跡を慕いながら「おくの細道」の旅を重ねていったようです。

ただ実際には多賀城跡から塩釜を先に行き、その後このコースをたどったみたいです。それの方が文脈が良くなっているそうです。

 

おくの細道(末の松山)前半部分

それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松寺といふ。松のあひ々皆墓はらにて、はねをかわし枝をつらぬる契の末も、

終にはかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。

 

そこから野田の玉川・沖の石などの歌枕を尋ねる。有名な末の松山は、寺を建てて末松山(まっしょうざん)といっている。松の木立の間々はみな墓原で「末の松山波も越えなむ」

と誓いあった比翼連理の契の果ても、ついにはみなこのように墓石と化してしまうのかと思えば、懐古の念の上に無常の思いも加わり、悲しみの情も

ひとしおさまって、やがて恋の歌・無常のの歌で知られる塩釜の浦に出ると、おりしも無常のひびきを伝えるかのように、寂しい夕暮れの鐘の音が聞こえてきた。

(確かに末の松山で男女の恋の将来を無常に感じてから塩釜の鐘が寂しく聞こえたという方が文脈がいいですね。紀行文と言っても編集が大事です)

新暦6月24日のことです。

 

 

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奥の細道旅行譚(特別史跡多賀城跡)

2015年10月10日 | 旅行

さて「壺の碑(つぼのいしぶみ)」から歩いて10分ぐらい多賀城跡にやって来ました。

「壺の碑」「野田の玉川」「多賀城跡」「東北歴史博物館」は東北本線の国府多賀城駅からの方が便利です。

今回は東北歴史博物館は時間がなかったので行きませんでしたが結構充実しているみたいですよ。

さて前回の奥の細道(壺の碑)後半で山崩れ、川流れて道あらたまり、石は埋もれ土にかくれ・・・は多賀城跡のことを書いているのだと思います。

入口には詳しい案内板がありました。

緩やかな階段を昇って行くと観光協会のテントがあって無料ガイドのボランテァの人に頼むと詳しく解説してくれます。(祝休日だけかもしれません)

広々としていて1300年もの昔、京都や奈良から赴任してきた人々はどう感じたのでしょうか。

昔はこんな配置だったそうです。

多賀城は724年に陸奥の国符および鎮守府として置かれ、約200年もの間、東北地方の政治・文化の中心でした。

802年には坂上田村麻呂によって鎮守府が胆振城に移されましたが国府の役割を果たしました。

        西

多賀城

京を去ること 1500里

蝦夷国界を去ること120里

常陸国界を去ること412里

靺鞨国を去ること3000里

この城は神亀元年・・・・・・・

大野朝臣東人の置くところなり・・・。  多賀城碑冒頭部分

階段を登りきると広々とした空間が現れました。空が大きい!

そして都会から赴任してきた人達がこの美しい自然を歌に詠みました。そして都人はこの歌を読んではみちのくに憧れを増しました。

この時代の和歌に詠まれて全国的に知られた名所は「歌枕」と呼ばれ、芭蕉さんも道々のガイドにしていたのではないでしょうか。

とにかく広い。宮殿跡の礎です。

むつのくの おくゆかしくそ おもほゆる つおのいしふみ そとのはまかせ

   山家集  西行法師

この礎の石に触って願い事すると成就するとガイドさんが行っていたのでご隠居も早速願いごとをしました。

何気ない石碑にも歴史を感じます。

 

「翁がこんなに感動したのは平泉以来ですかね」

「多賀城の栄華の日々を思い、人間の歴史の織り成す無常さが身にしみました」

「今日はいつもより饒舌ですね」

「本当は僕もおしゃべりなんですよ。ただ寡黙にしていた方が利口そうでしょう」

「あら!翁は役者ですねぇ。つねっちゃおう」

「何を馬鹿なこと言っているのかね。政庁跡を吹き渡る風の気持ちよさ。少し口を閉じて感性を磨きなさい」

「翁、この礎の石に触れて願い事すると叶うそうですよ」

「そうかね。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「ずいぶん長いこと願い事していましたねぇ」

「ウム。又吉みたいに奥の細道がベストセラーになって印税が沢山入るようにお願いしました」

「さっきの無常の話とは一線を画しますね」

「いいだろう。やっぱり年取って金持っていないとスナックなんかに行っても若い女に相手にされないよ」

「おれおれ詐欺に騙されないようにしてくださいよ」

「僕はね、お利口さんだからそんなバカな話には引っかからないよ」

「無防備でただ威張っている人があぶないらしいですよ」

「うるさい!」

「それはおいて、お彼岸ですね」

「馬鹿だね。奥の細道では今日は陽暦6月24日だよ」

 

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奥の細道旅行譚(壺の碑)

2015年10月07日 | 旅行

9月のシルバーウィークも芭蕉の足跡を訪ねて東北を旅しました。

今回は「はやて331号」東京駅8時32分発で出かけました。

名前のとおり早くて大宮を出ると仙台までノンストップです。10時28分仙台駅に定刻滑り込みました。

車両内に入ると90%が女性でびっくりしました。なぜかな?それは・・・・

こんな鉄道標識も旅の気分を高めてくれます。

 

さて9月19日~23日に嵐のコンサートが「ひとめぼれスタジアム宮城」で開催され1日約5万人が集まったといいます。

市内の宿泊施設は約2万9千人の受け入れ能力しかなくネットカフェからラブホまで超満員です。ご隠居もはるか石巻の、それも駅からタクシーを利用する3月にできたばかりのルートインに予約をやっととりました。

福島や山形のホテルまでも満員でこんな連休に大々的にやらなくてもいいのにと思いました。

仙台駅構内にはメンバーの巨大な垂れ幕もありました。

女性がみんな写真を撮っていました。ご隠居も写真を撮っていたのでファンと思われたかな。ブログに載せるために撮っているだけだぞー。

嵐の櫻井翔さんはお父さんが総務省の事務次官だということぐらいしか知りません。みんなでどういう曲を歌っているのでしょうか。

ご隠居の好きな「東京だョ おっかさん」みたいな歌じゃないですよね。

 

さて仙石線(あおば通~石巻)50.2kmに乗って旅します。5月に全線が復興しました。

始発駅が仙台駅でなくて市内に500mぐらい入ったところの独立した駅です。

かなり昔は地上を踏切でキンコンキンコン鳴らしながらとろそうに走っていた記憶がありますが現在は綺麗な地下駅になっていました。

あおば通。欅の緑が輝いています。

ここを降りるとホームです。

まずは多賀城駅まで乗りました。

さて芭蕉さんは仙台を出発すると「壺の碑(つぼのいしぶみ)」「野田の玉川」「沖の石」「末の松山」と尋ねます。

今回尋ねてみると多賀城跡を除いては全くつまらない場所です。

ギャップを感じましたが現代人が芭蕉の足跡を訪ねて歩くように芭蕉もまた平安時代に歌に詠まれた有名な名所旧跡を訪ねて行ったのでしょう。

そして時間が過ぎてつまらない場所になってしまったのでしょうか?

「壺の碑」とは坂上田村麻呂が東北遠征をした際に大きな石の表面に矢じりで文字を書いたと伝えられる石碑のこと。

西行法師など名だたる歌人が歌に詠んでいるため芭蕉のあこがれの一つだったとのことです。

長らく「壺の碑」は行方不明だったのですが江戸時代初期に多賀城跡付近から石碑が発見されこの多賀城碑こそが「壺の碑」ということになりました。

しかし現在では「壺の碑」と「多賀城碑」は全く別物とされています。したがって芭蕉は別物を見て感動したことになります。

秋の夜長、読書の秋でもあります。ちょっと奥の細道をゆっくり読んでみましょうか。

 

(壺の碑)

かの画図まかせてたどり行けば、おくの細道の山際に十符の菅有。(とふのすげあり)今も年々十符の菅菰(すがごも)を調え国守に献ずと云えり。

壺の碑 市川村多賀城に有。

仙台で知り合った加右衛門が描いた名所絵図に従って旅をしていくとおくの細道の山際に(このおくの細道は仙台市の岩切付近の七北田川沿いの道)「十符の菅」があった。

「十符の菅」は編み目が10筋ある菅菰。古歌に「見し人も とふの浦かぜ 音せぬにつれなく消える 秋の夜の月」がある。

いまでも年々十符の菅ごもを造って伊達家に献上している。

壺の碑 市川村多賀城にある。

つぼの石ぶみは、高サ6尺余り横3尺計●  苔を穿ちて文字幽也。四維国界之数里(しゆいこくかいのすうり)をしるす。

「此城、神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人の所有也。天平宝字6年参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣●修造。12月朔日」と有。

聖武天皇の御時に当れり。

つぼのいしぶみは鷹さ80cm、よこ90cmまるで苔に文字を刻んだという程に苔むしていてはっきり読めない。

ここから四方にある国境までの距離が書いてある。

「この城は神亀元年、あぜち鎮守府将軍大野朝臣なりとある。天平宝字6年、参議東海東山節度使同じく将軍恵美朝臣朝●が碑を建てた。12月1日。

聖武天皇即位のときに当たる。

むかしよりよみ置ける歌枕、おほく語りつたうといえども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれて、木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて

其跡たしからぬ事のみを、爰に至りて疑いなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労を忘れて、泪も落ちるばかり也。

 

ここは昔から数多くの歌枕が語りつがれてきた。しかし山は崩れ、川は流され、道は改まり、石はうもれて、時は移り、代は変じ、その跡の不明なものばかりだ。

それなのにこうして紛れもない千年の歴史遺産を前にして古人の心を感得したい思いがある。旅すればこその果徳、生きていることの悦び、旅の苦しさを忘れて涙を流すばかりであった。

新幹線でビュッと来るとどんなにいい所でもこんなに感動しませんね。

それにしても疲れた。これからもらった芋焼酎で一杯やりましょうかね。北風が吹いているのでお湯割りで!

みなさまも秋の夜長をお楽しみください。

 

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天空の蜂

2015年10月03日 | 読書

天空の蜂を読んでみました。

東野圭吾さんの本は結構好きでいろいろ読んでいます。特に「麒麟の翼」「容疑者Xの献身」「真夏の方程式」など映画やドラマになりました。読んでも観ても面白い。

理系のエンジニアで勤務しながら書いていただけあって他の推理小説とは違った面白さがありました。

しかし「天空の蜂」は文庫本でも630pもあり本屋さんで中をペラペラめくってみても難しそうな原発の話であまり読む気がしませんでした。

ところが今度映画になったのでそれを観に行く前に読んでみました。

まあ登場人物が多くて閉口します。物語は朝5時に始まって15時には終わってしまいますがシーンがあっちこっちに飛びます。

しかし15年も前に日本の原発がすべて止まったらどうなるか、また政府はそんなことは絶対にさせないという主張、などよく考えられたなと思います。

新聞で「高速増殖炉」という言葉が良く出ていますが内容まで読む気がしませんでした。この小説ではわかりやすく書かかれていますよ。

 

高速増殖炉は、日本の商業用原発で採用されている軽水炉とは大きく違っている。その大きな違いは燃料だろう。

軽水炉は使われるウラン235という物質で、高速増殖炉ではプルトニウム239というものが使われれる。

なぜプルトニウムを使うのか。それはウラン235は天然ウランの中に0.7%しか含んでおらず恒久的に必要量を確保できる保証はない。

天然ウランの残り99.3%はウラン238という物質だが、これは殆ど燃料としては役に立たない。そして原発が増えウラン235が燃やし続けると75年で枯渇する。

プルトニウム239は自然界に全く存在しない。プルトニウム239はウラン238が中性子を吸収した時になり変わる物質プルトニウム239なら燃料として使えるのだ

「高速炉」・・・プルトニウム239を核分裂させるのに中性子の速度は落とさない。水の代わりに液体ナトリウムを入れてある。飛び交う中性子は高速のままです。一方従来の軽水炉で水の中ではウラン235を核分裂させるためには、燃料間を飛び交う中性子の速度を落としてやる。そして水が減速材になる。

「増殖」・・・・プルトニウム239の周りにウラン238を並べた状態で、原子炉の中で核反応を起こさせる。プルトニウム239は核分裂して、熱と高速中性子を出す。その中性子をウラン238が受け取ってプルトニウム239に変身する。最初にセットしておくウラン238の量を増やせば消費した以上にプルトニウム239は生みだされる。

つまり役たたずの99.3%のウラン238をうまく燃料に使用するかの技術です。

しかし福井にあるもんじゅもいろいろトラブル続きで、世界的にも研究が中止されていつみたいで能書き通りにはいかないみたいですね。

さて映画を観ました。

小説とは違った脚本になっていて(あたりまえですが)視覚を大事にしています。物語の進み方も早い。

ビッグB(超巨大ヘリコプター、この映画の主人公かも)から少年が救助される場面なんかはさすがに迫力があってドキドキします。映画なんです。

刑事が犯人を追いつめてアパートに行くと突然・・・はっとします。小説にはない場面です。

最後、このヘリコプターが海に墜落していく場面も見どころです。

映画化など絶対に不可能と言われていましたが堤幸彦監督が映像にしました。

堤監督はテレビなんかで観ていると映画監督という感じが全然しません。でも鬼才なんですよね。

 

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10月

2015年10月01日 | 日記

10月になりました。

北海道ではボチボチ雪の便りも聞こえてきます。

しかし本州以南では5月と10月はもっとも過ごしやすくて誰でも好きな季節ではないでしょうか。

四季バラ

それに行楽シーズンとしても最高ですね。

オマエなんかいつも行楽シーズンじゃないかと言われそうです。

しかしこれでもたまにはお客さんの所にヘラヘラでかけて仕事もらっているんですよ。

今日から中国では国慶節の休暇でで日本に爆買いにやってくるんでしょうか。我々も負けずに出かけましょう。

前回にも紹介した隣のはなちゃんです。

一回お菓子をあげたら私の顔を見ると吹っ飛んできてワァワァやっています。

わかりやすい動物ですね。

その点、猫はたまに庭先にそっと来てしゃがんでいて、いつの間にかいなくなります。

何か神秘的で可愛がってあげると幸運が来そうな感じがします。

うちの招き猫のたまはやる気がないので金運を持ってきません。

 

  夕焼けが こんなにキレイな まちだから

     お嫁に行くのは  もっと先でいい

 朝日歌壇 永良伊都子 さんの作品です。

ご隠居の住んでいる千葉市美浜区も夕陽の美しい町です。それだけは皆に自慢しています。

特に冬のちょっと風の強い日、美浜大橋から見ているとゆっくりと太陽が沈んで富士山が真っ黒なシルエットになって見えます。

三浦半島や秩父の山々も寒々として見え、さあ散歩も切り上げて湯豆腐で一杯やるかなという気分になります。

 

 

さてベンチャーズが日本での最終公演が先日ありましたね。日本での公演は53年間3000回以上になるそうです。

最初からメンバーだったドン・ウイルソンも80歳を過ぎ指が良く動かなくなったそうです。

日本にエレキブームをつくりひとつの文化を立ち上げました。本当にご苦労様でした。我々も年を取りました。

京都の恋もベンチャーズの作曲で万博を記念して作られました。

紅葉の京都もいいですね。

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