ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(飯坂温泉)

2017年04月27日 | 旅行

飯坂温泉駅に着きました。

医王寺駅からは1000系電車(東急電鉄1000系)に乗って来ました。

車内も賑やかなペイントです。

 

さて夕方になったので駅前の観光案内所で温泉旅館を紹介してもらいました。

ご隠居は旅行ではだいたい東横インとかルートインなどビジネスホテルが多くて温泉はどうでもいい人です。

いつもはあっちこっち見て回って遅く着くので温泉旅館だと夕食は最後になっていて、せわしなくお客はもう卓球などやってくつろいでいます。

しかし今回は久しぶりで露天風呂など入りゆっくりしました。

 

翌朝温泉街を少し散策しました。

やっぱり芭蕉さんの像がありました。

駅のわきを流れる摺上川には砂防ダムらしきものがあったりしてかなり山の中なのかなと思いました。

十綱橋から見た温泉街。

川沿いに温泉宿が立ち並んで典型的な日本の温泉地という感じです。左の建物が波来湯(はこゆ)です。1200年の歴史がありますが老朽化していたので2011年に立て替えて日帰り温泉になっています。

川沿いに少し歩いて行くと花水館があります。

「俳聖芭蕉ゆかりの地入り口」の標柱の脇の小道の石段を降りていきます。

小さな公園があり碑には「・・・・芭蕉は5月2日に飯坂に泊まりました。

その頃はすでに温泉地として栄えていましたが芭蕉は土間にむしろを敷いたような、貧しい家に一夜を過ごしました。

その場所が滝の湯であったと伝えられています。

今この滝の湯跡に記念碑を建て・・・・」と書いてあります。

少し戻り鯖湖神社の方に歩きます。

道路が綺麗に整備されていて散策しやすいようになっています。

昔はどこの温泉地でも射的場や古い台を置いたパチンコ屋、ストリップ小屋などゴチャゴチャしていましたが最近は温泉リゾートという感じです。

土産物屋さんなんかも少なくなりました。巨大なホテルの中の売店で買ってしまうのでしょうか?

ちょっと昔が懐かしい感じもします。温泉入った後、ほろ酔い気分で浴衣に下駄をはいてカラコロカラコロ・・・・。

今や夜散歩するにもシャネルの浴衣でも着て(あればの話ですが)出かけるようでしょうか。

鯖湖神社(さばこじんじゃ)。この辺が飯坂の古い元湯があったといわれています。

左側にお湯かけ薬師如来像が立っています。

鯖湖の碑の由来を記した説明板です。

この頃どこでも足湯がありますね。朝早いので誰もいません。

鯖湖湯(さばこゆ)、共同浴場になっています。日本最古の木造建築共同浴場だそうです。

平成5年に改築され御影石の湯船とヒバの香りが素晴らしいそうです。朝っぱらから温泉に入ると疲れそうなので入るのは止めました。

芭蕉も元禄二年にここで入湯したそうですがどんな感じだったのかな?

 

更には「旧堀切邸」に寄ってみました。

立派な屋敷ですが入館無料です。ボランテァの案内する人もいました。

旧堀切邸は江戸時代から続いた豪農・豪商の旧家です。

邸内はきれいに整備されていて掃除なども行き届き気持ちのよい空間です。

主屋。

近代国家に尽くした堀切家の人々。

堀切善兵衛(衆議院議長、イタリア大使)は我国の近代政治史に名を残しました。

堀切善次郎は(東京市長、内務大臣)は関東大震災後の東京復興に尽力しました。

堀切久五郎(衆議院議員)は福島経済界に大きな役割を果たしました。

1775年建築の県内で現存する最大最古の土蔵(十間蔵)。(外壁はリニュアルしています)

中の蔵。道具蔵。

ここにも足湯がありました。

維持費が大変そうですがどこから予算が出ているのかガイドの人に訊くのを忘れました。

 

気持ちのよい町です。もう少し歩いてみました。

町中桜が綺麗です。

芭蕉は「雷が鳴り、雨が降り、寝ている上から漏れ、蚤や蚊がつつき回り眠るどころではない」と書いています。

医王寺で感動した後なので贅沢なことは表現できなかったのでしょうがそれにしても飯坂温泉の人達には気の毒です。

ご隠居が飯坂温泉を褒めてあげたいのですが世間に影響力のない爺さんなのでしょうがないですね。

八幡神社。ちょっと写真がまがってしまいました。

この神社の秋の例大祭は、その激しさから「けんか祭り」と言われています。

神輿を先頭に入り乱れると、神輿の宮入りをはばむ屋台が激しくぶつかりあうそうです。

(飯坂温泉のパンフレットから)

境内に堀切家をたたえる碑がありました。桜によく合っています。

なんだか懐かしい看板です。栄川は福島の銘酒ですよね。ネットの広告より暖かい感じです。

こちらは古い伝統に新しい感覚です。

楽しい街歩きでした。旅は楽しいですね。

 

飯塚の里(後半)

その夜、飯塚に泊まる。

飯塚は飯坂温泉のこと

温泉あれば湯に入りて宿を借るに土坐にむしろを敷きて、あやしき貧家なり。

灯なければ、囲炉裏の火かげに寝所を設けて臥す。

夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊せせられて眠らず、持病さえ起こりて、消え入るばかりになん。

短夜(みじかよ)の空もやうやう明くればまた旅たちぬ。

なほ夜のなごり心進まず。

まだ昨夜の苦痛が尾を引いて気分も進まない

馬借りて桑折の駅を出づる。

遥かなる行く末をかかへて、かかる病おぼつかなしといへど、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なりと、気力いささかとり直し、道縦横に踏んで、伊達の大木戸を越す。

はるかなる前途を控えて心もとないが元来が苦しい旅、田舎道を歩き、代を捨てて無常を観念しているから路上で死んでも本望です。気を取り直して頑張ろう。

 

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奥の細道旅行譚(医王寺)

2017年04月23日 | 旅行

さて福島駅より福島交通飯坂線(福島~飯坂温泉 9.2km)に乗って医王寺に行きました。

賑やかにペイントされた7000系電車(東急電鉄7000系)が入って来ました。

あなたはかつて東京と横浜間の華やかな路線を10輌編成で走っていたのですね。

全線が単線です。笹谷駅で交換です。朝のラッシュ時は3両編成になるとのことで地方の私鉄としては頑張っている方でしょう。

ワンマンではなく女性の車掌さんも乗務していましたよ。

運転席の上に「社会を明るくする運動」のポスターがありました。

今年も7月1日には安倍晋三内閣総理大臣閣下の号令のもと、「社会を明るくする運動」の全国キャンペーンがスタートします。

一年がたつのが早いなと思います。

とか感慨にふけっていると「医王寺駅」に到着です。

駅を降りると案内板の「→」にそって住宅や果樹園の中を歩いて行くと医王寺です。春の陽が暮れかかってきました。

奥の細道では古寺と書いてありますが大木もありなかなか立派です。

芭蕉はここに奉られている佐藤兄弟の墓の前で涙を流し、負け組応援団の俳句を詠みました。

佐藤継信、忠信は源義経の忠臣です。

継信は壇ノ浦で平家の能登の守、教経の引き絞った強弓が義経に向けられたとき、みずからの胸板を以って義経をかばい戦死しました。

忠信は居残って吉野落ちする義経を助けて京の館で討たれました。

本堂です。

二人が義経の元に馳せ参じる日、父親の佐藤元治が近くの館で別れの酒宴を張り桜の杖を地面にさして、もしお前たちが凱旋するようならこの杖は根づいて桜となって咲くだろうと言って戻りました。

桜は根付きましたが二人は戦死しました。元治みずからも頼朝の攻めにあって福島の石那坂で討ち死にします。

判官びいきの日本人にとってはいい話ですね。

さらに話の続きがあります。

古淨瑠璃「八島」四段目です。話を短くすると

義経の立派な家臣として討ち死にした二人の奥さんが(楓と若桜)老母、乙和御前の悲嘆を察し、気丈にも自身の悲しみをこらえて甲冑を身に着けて兄弟の凱旋の勇姿を装い、姑の心を癒したという故事です。

芭蕉の「笈(おい)も太刀も 五月にかざれ 紙幟(かみのぼり)」の句碑

奥の細道では「二人の嫁がしるし」とありますが実際にはこれから行く白石市の甲冑堂にある二人の嫁の軍(いくさ)出立ちの木像から受けた感銘を編集段階で医王寺の項にもってきて一気に話を盛り上げたということになっています。

旅行記でも「川の水は清く、山の木々の緑が輝いてい」たなどと書くだけでは読者は飽きてしまうので編集が必要ですよね。ビデオでも同じです。撮りっぱなしのは観ていてもちっとも面白くない。

宝物殿。 弁慶自筆の下馬札弁慶の笈、義経所要の直垂など展示。 

本文には「寺に入って茶を所望すると、義経の太刀と弁慶の笈があった」とあります。

一方曽良の旅日記では「寺には入らず、西の方を廻って兄弟の墓に行く」となっています。

実際に義経の太刀はここにはなく、芭蕉が見ないで噂だけで文章を書いたみたいですね。

ご隠居も時間が遅くて中に入れなかったのですが、義の太刀がピカピカ光っていて感動したなどと書くと後でばれるので止めておきます。

忠信公、義経公、継信公

継信公・忠信公 墓

本堂の門を出て右に折れると長い杉並木がありますがその奥にあります。うっかりすると見落とします。

春の闇が迫る時間に忠臣の墓の横に桜が見事に咲いていました。

崖の向こうの丸山(二人の育った館)を見ているようです。

時代はどんどん過ぎていきますが花の美しさは変わらないですね。

 

飯塚の里(前半)

月の輪の渡しを超えて、瀬の上という宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。

佐藤庄司は佐藤元治のこと

飯塚の里鯖野(さばの)と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山というに尋ねあたる。

これ、庄司が館なり。麓に大手の跡など、人の数ふるにまかせて涙を落とし、またかたわらの古寺に一家の石碑を残す。

人の教えてくれるのに従って、あれこれと懐旧の涙を催した

中にも、二人の嫁のしるし、まずあわれなり。

女なれどもかいがいしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。

堕涙の石碑も遠きにあらず。

堕涙の石碑とは中国の故事で太守を慕う碑。遠く中国まで求めることもなくここにある。

寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶の笈をとどめて什物とす。

 

笈も太刀も 五月に飾れ 紙幟

五月の薫風のなかに紙幟が勇ましくひるがえっている。

この寺の寺宝とする弁慶の笈も義経の太刀も、端午の飾り物として晴れ晴れしく飾り、その紙の武勇の歴史を伝えるのが良い。

 

五月朔日のことや

5月1日の事です。

 

「翁の大好きな義経主従の物語のあるお寺に来ましたね」

「うむ。山門には入った時から涙が出そうです」

「みんな主君のために討ち死にしたんですよね。負け組だから弔慰金も出なかったんでしょうね」

「くだらないこというねぇ。勲章や金なんかもらわなくても佐藤兄弟、そして父君、奥方も偉かったのです」

「2人の奥方の木像はこれから行く甲冑堂にあるとガイドに書いてあります」

「いや。物語前半のクライマックスにするためここで見学したことにして読者の涙を誘うことにしよう。そして余韻を残して飯坂温泉に行くのだからかの地で酒飲んで馬鹿騒ぎしたなどと君の旅日記には書くなよ」

「翁、ねつ造記事はだめですよ」

「バカ!本が売れなかったら旅費さえ出なくなる。書生みたいなこと言っているんじゃない」

「馬鹿はないでしょう。だいたい本文で(女なれどもかいがいしき)なんて書くと将来に禍根を残しますよ。これから男女雇用均等法案とか再婚期間の平等とかやかましくなりますよ」

「うるさい!ついでにお寺に寄ってお茶でもご馳走になり義経の太刀も見たと書いておこう。何かの本に説明があったな」

「ますますいい加減。ところで佐藤兄弟の奥方は偉いのが分かりましたが江戸おもての方が騒がしくなっています」

「また幕府の祭りごとがうまくいっていないのかな?」

「老中の奥方の昭恵夫人ですよ」

「昭恵夫人が甲冑でも着て騒いでいるのかね。まさかミニスカってことはないよね」

「違うんです。老中の威を借りてあっちこっちで口利きしているそうです」

「あの人は飲み屋をやったり旅籠を経営したり気さくな人みたいだね」

「気さくなのはいいんですがね。子供の頃から勉強が大嫌いで親がせっかく最高の学問所にだまっていても入れるようにしたのに途中でやめたそうです。

今や元禄もバブルの様相ですが昭恵夫人も扇子打ち開いて遊びまわっていたそうです。若い頃」

「君は古文書とかには弱いけど世間話は好きですね」

「ところで翁、忖度(そんたく)という言葉をご存知ですか」

「人の気持ちを思いやるということなのかな」

「よく言えばそうですけど。役人は昭恵夫人の何げない言葉でも命令に聞こえるそうです」

「私は君に何か言ってもうわの空で空気の読めない男だと思っていますよ」

「そりぁ翁がのどが渇いたといえば酒でも少し飲みたいのかなとも思いますがね。金がもったいないからとぼけているだけです」

「こまった男だねぇ」

「今年の流行語大賞は忖度で決まりですね」

「ご老中は暮れまでもつかね?」

「しぶといから・・・・・・」

 

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奥の細道旅行譚(花見山公園)

2017年04月21日 | 旅行

一度福島駅まで戻り、芭蕉一行の旅には関係ありませんが花見山公園に行ってみました。

東北屈指の桜の名所です。

福島駅から臨時バスが10~15分間隔で運行していますがバス待ちの観光客が長蛇の列です。(午前中)

山全体に桜が咲いています。

平成29年4月12日に日本経済新聞の朝刊に掲載された河野恵夫さん(ふくしま花案内人会長)の記事を一部お借りして紹介します。

「花見山公園は年間に25万人以上が訪れる東北きっての花の名所だ。

だが花よりももっと美しいものがある。そのことを私たちに教えてくれた人物をお話しします」

皆について山裾の方に歩いて行きましょう。

 

「この花見山公園は私有地です。持ち主は阿部さんさんという花卉農家で公園の入ったところにお宅があります」

「山を人々が安らげる場所にしようと考えたのが先代の阿部一郎氏です。この人が花見山公園を今の形にした人で、公園は彼の人生そのものでした」

「一郎氏は1919年に生まれで実家は養蚕農家でした。そのころ世界恐慌の影響で生糸が売れなくなり田畑はおろか家まで手放さなくなりませんでした。

家族は山で摘んだ花を町に売りに行くその日暮らし。だが少しずつ借金を返済して山林を買い戻すことが出来ました」

所々に休憩する場所があります。やっぱり美しい花をたくさん見ても口が淋しいのは何処に行っても同じです。写真が露出不足かな?未熟だなぁ。

 

「一郎は信夫農学校に進学して当時の校長が唱えた言葉に心を打たれました。

それは商人が商魂があるように、農民には「信農魂」が大切。農業は苦しいことの連続だが、どんな時にもなにくそと頑張ることだ。

農家は下肥を使う仕事といわれたが一郎氏は「堂々と胸を張って馬鹿にされない仕事をしたい」と決意したそうです」

「卒業後は家族と共に雑木林を耕し、花を植えた。機械はなく一日に1~3坪しか耕せない。

それでも「苦しみの先には必ず幸せがある」とへこたれなかった」

「戦争で中国に渡り多くの戦友を亡くしました。

戦死した仲間とその家族に申し訳ないという割り切れない気持ちだった。

復員後は以前にもまして農業に打ち込んだのは、平和を強く希求する心があったためだ」

「戦後復興が進むのと足並みをそろえるように農園は発展しました。

花は四季折々に美しい姿を見せるようになりました。

「山を見せてほしい」という人が出てきて、59年には農園を無償で一般開放しました。一郎氏は来園者のためにトイレを設置し、つえを貸出した。

坂道で滑って服を汚した人にはジャージを差し出しました」

「一文の得にもならないのになぜそこまでやるのか。

農業は草花を育てるだけでなく、人の心も育てるもの。だから花を見たいという人には心置きなく見てほしいと話しました」

「花見山が桃源郷にたとえられるのは、一郎氏の人柄が花のように人を引き付けたからだと思う。

13年に93歳で一郎氏は世を去ったがその思いを知ることで、花を見に来た人々の心にも春風が吹いてくれたらうれしい」

 

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奥の細道旅行譚(信夫の里)

2017年04月18日 | 旅行

久しぶりで奥の細道の旅に出ました。(昨年の6月以来です)

まずは福島駅に降り立つと駅前は花が一杯でした。

駅からバスで20分ほどで文知摺観音(もぢずりかんのん)に着きました。

芭蕉一行は黒塚の岩屋によってから阿武隈川を渡って歌枕(江戸時代の観光名所?)で有名な「もじ摺の石」を探しに行きますが遥かな山里に石が半分程埋もれていてがっかりします。

「しのぶもぢずり石」はこの境内にあります。

当然ながら芭蕉像がありました。足元は何やら工事中で賑やかに道具が散らばっていました。

ゆるやかな坂を登って行くと句碑がいろいろありました。

「虎女伝説」

源融(みなもとのとおる)公がお忍びでこの辺りに来ましたが夕暮れ近いのに道もわからず困っていました。

そこへこの里の長者が通りかかりその自宅に行くと出迎えた長者の娘、虎女の美しさに息をのみました。

虎女もまた、公の高貴さに心を奪われました。

その後愛情が高まり公は一か月余り逗留しますが都から公を迎える使いがやって来て、また会う日を約束して去りました。

再開を待ちわびた虎女は慕情やるかたなく「もぢづり観音」に百日詣での願をかけましたが都からはなんの便りもありません。

嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと「もぢずり石」の面に慕わしい公の面影が彷彿と浮かんできて見えました。

懐かしさのあまり虎女が駆け寄りますと、それは一瞬にしてかき失せてしまいました。

虎女は病の床に就いてしまいました。その後公から歌が届くのですがそれを抱きしめながら短い一生を終えましたとさ。

源融は陸奥の国の按察使(あぜち・地方行政官)でした。

彼のおかげで塩竈や松島などを京の都に観光PRをしてくれ有名になりました。

百人一首

みちのくの 忍ぶもぢずり 誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに (源融)

 (みちのくのしのぶもぢずりの乱れ模様のように私の心は忍ぶ恋のために乱れています。

このように乱れ始めたのは誰のせいでしょうか?わたしではなくてみんなあなたのせいなのですよ)

調子のいい和歌ですね。

石の表面に公の姿が現れたとのことで「鏡石」とも言われています。

甲剛碑。面白い漢字です。

甲剛の古字で金剛と同じ、北斗七星を意味するそうです。

人肌石。

人肌のようなぬくもりを持っていることから人肌石と呼ばれています。

やっと「もぢずり石」に辿り着きました。パンフレットや嵐山光三郎、森敦さんの本でも「石柵で囲まれて」と書いてありますが何も柵はありませんでした。

これで間違えがないのかと帰りに拝観券を扱っていたご婦人に尋ねようかと思っていました。ところが帰るころにはバスの時間が気になりすっかり忘れていました。

最近鶏と同じで3歩歩くと忘れます。

この地が綾形石(あやがたいし)の自然の石紋や綾形、しのぶ草などの葉形などを摺りこんだ「しのぶもぢずり絹」の産地で、文様をとるためにこの石が用いられたという伝説に基づいています。

下に半分埋まった面にその文様があり、そこに絹をあてて色付けしたとのことですが今になっては確かめようもありません。

「もぢずり」とは、文字が乱れた模様を言うので「文知摺」は単なる宛て字とか。

足止め地蔵尊

家出人や走り人がある時、この地蔵尊の足のあたりを縛っておくと、必ず無事に帰ってくるとのことです。

足の怪我や病にもご利益があるとのことです。

小さな池に水芭蕉が咲いていました。

福島県指定重要文化財。文知摺観音多宝塔。

文化9年(1812年)建立。高さは約15m。東北地方ではただ一つの多宝塔です。

多宝塔・・・・・・多宝如来を安置する塔。基檀上に二重の屋を構築して最上部は相輪を設置した塔を言う。

自筆資料などがある資料館です。

室内では給茶機などもありゆっくり休めます。

多宝塔の裏手に河原左大臣源融・虎女の墓があるとのことですが急いでいたのでよくわかりませんでした。

 

浅香山・信夫の里(後半)

くるば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。

遥かな山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。

里のわらべ来りて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落せば、石の面下ざまに伏したり」という

昔はこの山の上にあったのですが、通行人が人々の畑の麦を抜き荒らしてこの石の表面に摺りつけては、ためしたりして不愉快に思って、土地の人々がこの石を谷に突き落したところ、石の表面が下向きに倒れたのです。

さもあるべきことにや。

 

早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り

早乙女たちよ、稲の苗をとる手つきが昔を偲ばせてくれる。しのぶもぢ摺りが盛んに行われた頃が目の前に広がっているようだ。

芭蕉翁は那須から(田一枚~)ずぅ~と田植えに心が動いていたようです。

 

「黒塚の岩屋からはるばるもじ摺りの石に来ました。翁は巨石好きですね」

「横綱のようにどっしりしたものは落ち着くねぇ」

「それにしても柵はあるは苔むしているわでぱぁっとしないですね」

「日本の観光地はどこでもすぐに余計な手を加えるからいやだねぇ」

「まぁ子供の言ってるように馬鹿な旅人がどこでも落書きしているようにつまらないこと試して地元に迷惑かけたいるのでしょうか」

「でもこんな話も江戸で旅の雑誌読んでいるだけじゃわからないから実際に来てみると面白いね」

「ところで翁、ここでは源のととろだか融(とおる)だかが立派な和歌を詠んでるじゃありませんか」

「ちょっと不愉快な話だね。高貴で美男子の官吏と長者の美女の娘の話。出来過ぎている」

「フジTVのちゃらちゃらした女子アナと巨人軍のマッチョな選手の恋愛話みたいでちっとも面白くないですね」

「だいたい虎女なんて食いつかれそうな名前なのにめそめそしてるね」

「夢を食うというバク子ぐらいの名前が良かったかも」

「だいたい好きだったくせにさっさと都に帰って手紙一本で済ませるような冷たい男だよ」

「早く諦めて近くの町にに来ている天下り官僚でもつかまえればいいのに」

「まぁ男女の仲はわかりませんえ。あたしは翁の忖度に応えながらこれからもお供します。とか心にもないこと言ったりして」

 

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千葉さんぽ(ふなばし三番瀬海浜公園)

2017年04月13日 | 日記

桜も満開が過ぎて海上を吹く風が暖かくなると潮干狩りのシーズンです。

海があれば潮干狩りが出来るわけではありませんが房総半島では東京湾に面した場所が潮の干満差が大きくて適しているようです。

かつては浦安から木更津にかけて広大な干潟がありましたが現在ではほんの一部で潮干狩りが出来るだけです。

船橋の三番瀬ではかつては埋め立ての話もありましたが中止になり昔のままで残っています。

浦安に用事があったついでに帰りにちょっと寄ってみました。

熊手もレンタルであるようです。

だいたい潮干狩りなんて一生に何回もやらないと思うのでこれで十分でしょうか。

入園料が取られます。430円。この辺が都会の海岸らしい。やたらに海に入って楽しめません。となりのデイズニーランドと同じできちんと切符を買うことになります。

更にはですよ

沢山採って元を取るぞと思っても、持ち帰る貝に対して100gにつき80円払わなくてはいけません。管理されている海なのです。

さらには幾つかの区画になっていて今日は第2の漁場です。

分譲住宅の案内みたいです。

かき氷などはまだちょっと・・・という感じです。

海鮮丼の看板も。前の海でマグロなんかは獲れるわけないからどっから持ってくるのでしょうか。

堤防を越してやっと東京湾が現れました。

1800ha、東京ドーム380個分の広さです。

小学校の頃、幕張海岸に潮干狩りに来たのを思い出します。

国鉄(あの頃はまだJRではない)の幕張駅を降りて14号線を横断するともう海面が光で輝く干潟でのんびりした風景でした。

平日でもぼちぼち人が出ています。

ちょっとした海岸の風景です。

ちょっと沖合には大きな船が航行しているのでかなり深いのでしょう。

浦安方面には大きなマンション群が立ち並びます。

 

5月のゴールデンウィークごろになると潮の加減も良くなって木更津方面へ本格的に潮干狩を楽しむ人たちで高速道路も混みあいます。

大型連休が終わると列島はもうすぐ夏です。

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彩の国ロマン(幸手市権現堂の桜)

2017年04月09日 | 日記

8日(土)9日(日)関東地方ではちょうど桜が満開だというのに小雨が降っていたりして残念です。

そのなか埼玉県の幸手市の権現堂の桜を見に行きました。

東武日光線の幸手駅です。工事中で仮の駅舎になっていました。

「幸手市」・・・ 「幸せを手にする」ほっこりするネーミングの町です。

ご隠居はサラリーマン時代に大宮市(現さいたま市大宮区)に勤務していたことがあり住居は幸手でした。

しかし3年間余りの生活で幸せを手にしたことはなく嫌なことが続きました。

そしてサラリーマン生活の約13年間に終止符を打って独立するきっかけになった町です。

ほろ苦い思い出とちょっぴり新しい門出を味わった小さな町です。

駅前ロータリーの臨時バス停には桜見物に行く人たちの行列ができていました。

何十年ぶりかで来ましたが駅前が想像以上に綺麗になっていてびっくりしました。

昔は駅を降りると、右手に食堂(かつ丼とかラーメンとか中心でレストランとは言えない感じの店)がありその奥に東武ストアがありました。

今はファミリーマートになっています。時代が変わったんですね。

バスに30分以上乗ってやっと公園いつきました。すごい渋滞。平日ならもっと早く着きそうです。

土手を挟むようにして桜並木です。菜の花とのコントラストがいいですね。

1km、1000本の桜の堤です。

土手の上を人の流れに沿ってぶらぶら歩いてみました。

朝方埼玉の方も雨が降っていたらしく傘の花が咲いていました。(土曜日)

タブレットでいい写真撮れたかな?子供もワァワァと言っているうちは可愛いけれどすぐに「くそじじい」なんて言い出すんですよね。

やっぱり綺麗な桜見ただけでは物足りない?

酒飲んだりたこやき食べたりしたいですよね。

抜け目なく道の駅だか農産物直売所とかもありました。

結局のところ、ご隠居も仮設の椅子に座って350円の天ぷらそばで昼を済ませました。

いつものようにふらふらしてたいして感動もせず権現堂を後にしました。

 

せっかく来たので幸手市内を少しぶらつきました。

日光街道の日本橋から数えて6番目の宿場です。当ブログでも奥の細道は時々紹介していますが幸手は素通りとなっています。

国登録有形文化財「岸本家住宅主屋」

もとしょうゆ醸造業

街路灯も桜のデザインです。

街角で地元のボランテァの人達が無料の抹茶サービスをしていました。

イベントなどなくても最近各地の観光地に行くとが無料のガイドさんが沢山いたりして嬉しい限りです。

問屋場跡は小さな公園になっていました。

永文商店酒屋さんです。

間口に対して奥行きが長いので倉庫から物を運ぶのにトロッコが敷設されています。

「横丁鉄道」と親しまれているそうです。

トロッコの写真を撮ったのですが家に帰って大きくしたらぶれていました。省略。

なにやってるんだかね。

このあと友人に会うために和戸駅まで行ったら・・・・

東武鉄道の500系新型特急リバティが入線して来ました。

4月21日から運行が始まるそうです。

これに乗ってリニュウアルした日光東照宮にでも行ってみたくなりました。

最後に新型特急に出会って幸せを手に入れた感じです。

 

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千葉さんぽ(成田市さくらの山公園)

2017年04月06日 | 日記

桜の開花の便りが毎日、ニュースをにぎわしています。

今年は東京が満開なのに鹿児島などやっと開花したそうですね。

桜と飛行機がうまく撮れる場所としてさくらの山公園が有名なので行ってみました。

東京都内は満開というのにここは二分咲きぐらい。都心より寒いのかな。

こんな感じです。

しかしここまで来たので飛行機の写真でもすこし撮って行きましょう。

丘の上には沢山の人達が携帯やカメラを持って構えています。

さくらが満開だとさまになるんですがちょっと残念です。

ここは5~10分間隔でどんどん飛行機が離陸していきます。(昼時はちょっと少なくなるようです)

近くに何百万円もするような望遠レンズをつけたカメラを持っている爺さんがいました。

「ずいぶんいいカメラお持ちですね」

「カメラが重くてひっくり返りそうだよ。君のは軽そうでいいね」

ムカッときて殴ってやろうかと思いました。

喧嘩になってもこんな爺さんなら勝てるだろうと思いました。

「エンジンが四つついているのが来た。これは馬力があるから低空から飛んでくるのでシャッターチャンス!」

なにがシャッターチャンスだよ。

パイロットにしてみれば「オマエにいい写真を撮らせるために操縦しているんじゃないよ」と言うかも。

あくまで機嫌が悪くなって場所を移しました。

早咲きの桜が咲いていたので何とか人に見せられるものが撮れました。200㎜ぐらいの望遠だとこれが限界。

風の方向によっては着陸の体制になる時がありもっと大きく飛行機が撮れるそうです。

後ろで轟音がしたので振り返ると

藪の中、京成スカイライナーがスカイアクセス線を疾走していきました。

いろいろ賑やかで楽しい所だなと思いました。

お腹が空いたので隣接している空の駅に行ってみました。

「うなり寿司」390円を食べました。いなりずしが3個入っていました。ラベルに書いてあるようにご飯の中に3種の具材が入っています。

ご隠居の好きなスタンプもあったのでペタリ。台紙まで置いてありました。

 

桜が咲いていなかったので残念でしたがうなり寿司も食べたし、スタンプも押したしまあまあだったかな。

さくらが満開になるのを待っていると雨が降ったり用事が出来て行けなくなったりするので思い立った日が吉日です。

また来年来よう。生きていたら。

 

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4月(騎士団長殺し)

2017年04月01日 | 日記

4月になりましたね。千葉では朝から冷たい雨が降っています。

平成29年度(新年度)です。

新しい学校に通う、会社に入社したとか転勤になったとか身の回りに変化があったでしょうか(活動を始めるのは月曜日以降でしょうけど)

ご隠居は仙人みたいな暮らしなので身の回りでは何も変わりません。

せいぜい最近摂生しているせいか血糖値の数値が良くなったという程度。

毎年同じことを書いていますがこの時期スーパーには鹿児島産のソラマメが並び始めました。ソラマメは好物です。

季節が進んでくるとソラマメの産地も列島を北上して、ゴールデンウィークの頃は関東地方の物が出荷されてきて、大相撲夏場所をTVで観ながらビールを飲むのが楽しみです。

花見川の遊歩道では冬の花と早春の花が入り乱れています。

生きている うちに近々 会おうやと 糖尿患う かつての上司

  (朝日歌壇 流山市 葛岡昭男さんの作品)

会社を辞めてさあ第二の人生だ。年金も入って金の心配もないし子供たちも独立して時間もある。

と言っているうちに病気の心配です。うまくいかないものです。でも人生うまくいっている時のが少ないですよね。

ご隠居の知っている何人かの大金持ちで社会地位のある人でも隠れた悩み事を持っている人もいて、ある意味世の中、平等だなと思ったりします。

「今年は自治会の役員で会長にでもなったら死にたい気分だ」とかいう友人がいます。

「いやなことするのも生きている証し。死んだら気楽だけど美味しいものも食べられないぞ。だいたい今まで会社でもっと大変で辛いこと乗り越えて来たんでしょう」

と言ってやります。

さて3月で紹介した「騎士団長殺し」ですが1か月かけて上下読みました。

TVの2時間サスペンスみたいにすぐに死体が転がっているというような話ではありませんがミステリアスでどんどん読めます。

ただ雑に読みたくないのでゆっくりと毎日少しずつページをめくっていました。

読み終えるともっと物語が続いていて毎日過ごせればいいのにと思うぐらいぴったりきます。

「騎士団長殺し」という題も面白いですがナチスに関係している?・・・・・・・・。

村上春樹の作品に感想文を書くなどとは恐れ多いので止めておきます。

上下合わせても3600円(税別)。一回飲みに行くより安いのでぜひ購入して読破してください。村上さんに沢山印税が入れば又やる気を出していい作品を書いてくれるでしょう。

前作も仲のよかった友人たちと突然距離を置かれるようになった理由を探すというだけですがミステリアスでしたね。

朝日新聞の記事

「騎士団長殺し」の舞台は小田原から少し山の中に入った海の見える場所となっています。

毎日の時間の流れ、季節の移り変わりが美しく書かれています。

小田原市西部の入生田(いりうだ)に実在した近衛文麿の別荘も紹介されています。

小田原市ではハルキストが舞台になった場所を巡りに来てくれることを期待しているそうです。

小説を読んで舞台になった場所を訪れ、映画になったら観るというのは人生の大きな楽しみです。

 

さて今月の終わりにはもうゴールデンウィークです。

新緑の美しい季節になります。

先日医者の待合室で週刊誌を読んでいたら天地真理のことが書いてありました。(中途半端に読んでいたので間違っていたらごめんなさい)

彼女は現在首都圏の老人ホームに入所しているそうです。

若い頃はお金がじゃんじゃん入って好き勝手に使っていたそうです。

今でもその癖が直らないでお金を持たせるとすぐに全部使ってしまうそうです。

だから娘さんが週三回2000円づつ渡しますがそれもすぐに使ってしまうそうですよ。

若い頃天地真理とか浅田美代子の大ファンだったのでちょっぴり淋しい感じがしました。

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