ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

そろそろ師走(大兵馬俑展)

2015年11月27日 | 日記

早いもので今年も師走の足音が聞こえてきました。

と言っても毎年同じこと書いていますのでたいした感慨もありません。

皆様は急に寒くなってきましたが毎日元気に仕事頑張っているでしょうか?

検見川高校の近くで皇帝ダリアが咲いていました。

花の命は短くて・・・昭和の大女優、原節子さんが亡くなりました。と言っても若い人はなんのこっちゃという感じでしょうか。

 

刈り取りを 終えて棚田の あぜ道に 

   新藁の香りの 甘くただよふ  (朝日歌壇 さいたま市 泉 明 さんの作品)

 

秋が深まって、あの夏の暑い日が恋しくなるとともに周りの人がいつまでも同じでないという寂しさを感じます。

毎日のように喪中につき年賀の挨拶を辞退する便りが届きます。 

 

上野の東京国立博物館に「始皇帝と大兵馬俑」展に行ってみました。(10月27日から2016年2月21日)

いつも爆買いして日本の経済に貢献してくれる中国人の魂みたいなものに触れたいと思いました。

初冬の森は噴水なんかも景気よく吹き上げていますがどこか寂しいですね。

上野公園はいつ来ても落ち着いていて東京の一つの魅力的場所です。

国立博物館本館です。

そして今回の展示場は平成館です。

それでは中に入ってみましょう

中はどうせ撮影禁止でしょうからエスカレーターのところでポスターをパチリ。

あとは絵葉書で勘弁です。

歴史など興味ないご隠居でも来るくらいですから人出は結構すごかった。でも本物は何体もないのです。

西安北東の山中に8000体ちかくもの兵や馬などが埋まってという事で驚きです。

農家の人が井戸を掘ろうとしたら偶然発見したとか。歴史の偶然?

どれ一つとして同じ顔はないといいますが何体もないのでよくわかりません。

始皇帝が亡くなった時、地下で一斉に兵の目がパッチと開き、馬がいなないたりしたら怖いというより浪漫でしょうか。

レプリカの前では写真撮影が許されていました。

 

このまま帰るのはもったいないので神宮外苑まで足を延ばしました。

昨年もイチョウの黄葉には早かったのですが今年もそれより遅くて来ましたがまだでした。

TVのニュースに出てくる並木全体が黄色に染まる写真を撮るのはなかなか難しい。

イチョウ見ているだけではちょっと物足りません。

うに貝焼き一個700円 富士桜原麦酒500円   でした。

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奥の細道旅行譚(春日部)

2015年11月23日 | 日記

春日部にやって来ました。前回の草加駅より東武線に乗って約20分です。

春日部は鎌倉時代からの町で古くは粕壁と書きました。

江戸時代は日光の宿場町として、街道沿いには土蔵や瓦屋根連子格子の古い街並みが少し残っています。

駅から旧日光街道周辺はよく整備されていて観光案内所(ぷらっとかすかべ)の人も親切です。東京から近いのですが観光にも力を入れているようです。

芭蕉さん一行も千住を出て奥の細道では草加に泊まったことになっていますが曾良の日記では春日部になっています。

駅からまっすぐ歩くと「ミセと蔵」の碑、右は田村金物店

土蔵も新しくて立て替えたのでしょうか。

古利根川に架かる古利根公園橋

東屋田村本店前の道しるべ

「東西 い八つき(岩槻) 北日光 東江戸 右之方陸羽みち」

本陣跡の碑

西武百貨店

最初はロビンソン百貨店として華々しく日本に3店舗ほど開店した一つでした。中に入りましたがちょっと元気なさそうです。

歩きながらひととき世の中を騒がした家具屋姫のお父さんがこの春日部で桐たんすを作っていたのが大塚家具の創業地だったなと思い出しました。

家具屋さんなどがあるのはこの辺ではなさそうです。

そんなことを考えて歩いていたら東陽寺に着きました。

ここも芭蕉一行が泊まったところではないかといわれています。

曾良の日記「廿七日夜カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と刻まれています。

次は小渕山観音院に向かいます。

途中船着き場の跡がありました。

観音院仁王門

かなり荒れているいる感じがします。

仁王像の手がもげていて痛々しい。

「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の句碑

小渕山観音院も芭蕉一行が泊まったといわれています。

修験道場として、この辺り一帯の山伏の総本山でした。芭蕉は修験道山岳仏教と関わり深い。(日光、出羽三山)修験道は芭蕉の希求する旅に共通するものがあると嵐山光三郎さんは言っています。

元禄二年に円空がこの観音院を訪れて七体の円空仏を納めているそうでもしかしたら芭蕉と会っていたかも?

 

さて現在の春日部です。

毎年5月3日と5日に江戸川の河川敷で大凧祭りが行われます。

風薫る5月の風に当たりながら江戸川の土手で寝転んで一日過ごすのは金のかからないゴールデンウィークの穴場です。

又春日部駅から野田線で一駅、藤の牛島駅の近くの牛島の藤も素晴らしい。

樹齢1200年の藤は4月下旬頃咲き世界一と言われていますよ。

 

「やっと春日部に着きました。今朝の見送りの人達がもう懐かしくなりました」

「翁の奥の細道では草加に泊まったことになっていますね」

「曾良さん、日記に千住から最初の宿泊地は草加などと書いていないよね」

「アタシはね歩く几帳面と言われていますので嘘は書きません」

「几帳面だか大福帳だか知らないけど僕の意向を守ってくれないと困るよ」

「どういう意向ですか?」

「旅の荷物が重くておっぽり投げたいくらいだと書いているのに七里も歩いたなどいう事になるとおかしいだろう。草加まで二里でどっと疲れが出たというのが受ける」

「見栄っ張りだなあ!ところで草鞋をぬいたら玄関でもう目が寝ていますよ」

「まだ体が慣れていないから疲れて夕食も食べずに眠くなった」

パチン!

「おう、たまげて目が覚めた。何をやったんだい?」

「猫だましです」

「曾良さんは白鵬みたいに大物じゃないんだから立場をわきまえなさい!」

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奥の細道旅行譚(草加)

2015年11月21日 | 旅行

草加宿にやって来ました。

前回の千住宿からだと東武線北千住駅より急行で2駅、15分位です。草加駅から普通列車に乗り換え1駅松原団地駅に下車そこから歩きました。

綾瀬川に沿って気持ちの良い遊歩道が続いています。

芭蕉に関係している碑や像が置かれています。

この橋も「百代橋」、昭和61年建設したそうですが新しい感じがします。

もちろん奥の細道から名前をとっています。

同じく「矢立橋」

綾瀬川と松並木

草加松原は江戸時代から日光街道の名所で、国指定名勝地となっています。

ドナルドキーンの碑

ニュヨーク生まれのアメリカ人ですが日本文学の第一人者。

奥の細道などの研究もあり日本ペンクラブ名誉会員。

もちろん芭蕉翁像もありました。

望楼。松にかくれてよく見えませんね。

ただの飾りか、何に使われているのかよくわかりません。

歴史民俗資料館

草加西小学校を改修してオープンしました。

せんべいの製造具とか昔の草加宿のたたずまいとかよくわかります。

そうです。草加は煎餅の町です。

今はクッキーとかにおやつの興味は移っていますが渋茶にはお煎餅。日本人だなぁと思いますよ。

おせんべい屋さんがかなりあります。

ご隠居的にはおんまや(大馬屋)の白醤油のむかしながらの煎餅が好きかな。

もちろんおんまやからはなんの利益の供与も受けていません。

 

奥の細道(草加)

ことし元禄二とせにや、奥州長途の行脚、ただかりそめにひたちて、呉天に白髪の恨みを重ねるといえへ共、

今年といえば元禄二年遠く奥州への旅をふと思いつきあの昔の中国の呉の国ような辺鄙な場所で髪が白くなるほど苦労して

耳にふれていまだに見えぬさかひ、若生て帰らばと定めなき頼の末をかけ、其日漸草加と云う宿にたどり着きに けり。

耳に聞いてもまだ見たことのない土地を見てまだ生きて帰れたらとあてにはならない期待をかけてその日ようやく草加と云う宿場に辿り着いた。

痩骨の肩にかかれる物先くるしむ。

痩せて骨ばった肩にかかる荷物が私を苦しめる。

只身すがらにと出立侍を、帋子(かみこ)一衣は夜の防ぎ、浴衣・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨てがたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

ただ身一つで旅立ったが、紙子一枚は夜の寒さを防ぎ、ゆかた、、雨具、墨など、また断れない餞別などしてくれた品々は捨てることもできずに道中の煩いになったのは仕方がない。

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奥の細道旅行譚(千住宿を歩きながら)

2015年11月18日 | 旅行

千住宿を千住大橋から北千住駅の方へ旧日光街道をもう少し歩いてみました。

 

千住は奥州に対する防備のための問屋場(人馬継立場)がありました。千住大橋が架かったのは文禄3年(1594)で芭蕉が旅立つ95年前に木橋が出来ていました。

日光東照宮にむかう日光街道の咽喉元でした。千住の町は街道の最初の駅であり、飯盛り旅籠、煮売酒場、居酒屋が立ち並ぶ歓楽街でした。

飯盛り女すなわち娼婦がたむろす色町に芭蕉は6日間も滞在したことになります。

奥の細道プチテラス芭蕉像

さて嵐山光三郎さん(以下嵐山さん)の「芭蕉紀行」(新潮文庫)は読んでいて思わず、なるほどとひざを打ってしまう程造詣が深い。

紀行文だと景色が綺麗だ、心地よい風が吹いている、ふらふら行ってしまう程の香りだとか語句が限られてしまい(ご隠居の場合ですが)写真に頼ることが多くなります。

しかし嵐山さんの洞察のすごさはネットであっちこっち検索したり、本をペラペラ調べたというのではなくて現地を何回も訪れ過去の経験からくる重みのあるものからでしょうか。

やっちゃ場の跡(青果市場)

行春や 鳥啼き魚の 目は泪

の句ですが川に泳ぐ魚が泪を流す、というのはあまりにも幼児的な描写である。と嵐山さんは書いています。

「魚とは杉風(さんぷう)のことではないか」と言っています。杉風は芭蕉の弟子でこの旅のパトロンです。芭蕉が大変世話になった恩人が千住で別れを惜しんで泣いたのです。

千住宿歴史プチテラス

また前回芭蕉一行が6日間千住宿に滞在したのは日光街道の工事が遅れたからだとご隠居はいい加減のこと書いていますが嵐山さんは次のように書いています。

曾良は吉川神道の出で、幕府とのつながりが深かった。当時日光工事普請で、伊達藩と日光奉行の対立がありそれを調べるミッションを与えられた。そしてその工事が遅れたので出発も遅れた。

当然調査に当たって費用が公儀から出て奥の細道の経費にあてた。また芭蕉と歩けば曾良の隠密がカムフラージュされます。

宿場街通り商店街

草の戸も 住替わる代ぞ ひなの家

嵐山さんは

自分の住んでいたあばら家に雛が飾られるだろうよという微苦笑の訳が多い。

しかし自分がいたわびしい庵に、はなやかな雛飾りがなされたその変わりようが、ズキリと芭蕉の胸を痛みようが隠しようがない。

「面八句を庵の柱に掛け置」も最初から面八句はなく芭蕉は「旅日記」の序章からいかにも本当らしい虚構を書き入れている。とのことです。

横山家、江戸期紙問屋だった商家

奥の細道は1689年出発、150日、2400kmを歩き5年後の1694年位完成した。

細道を歩いてから清書本が出るまで5年間かかっています。たかが400時づめ原稿用紙30枚程度です。それを5年間かけて推敲したしたのです。

奥の細道は単なる紀行文ではなく現実にふみとどまりつつ夢であり、夢なのに実用旅行案内書なのだと嵐山さんは言っています。

かどやの槍かけだんご  昔テレビで放送していた時はぼろ家でしたがいつの間にか立派になっていました。

昔この近くに大きな松の木があり侍が松の木の枝に槍をたてかけて団子を食べたそうです。

 

ご隠居が「松島」の場面でもいい加減なこと書いていますが嵐山さんの見解はどうでしょう。

松島や 鶴に身をかれ ほととぎす  も芭蕉の句だと嵐山さんは言い切っています。

句を詠めなかったという独白は(松島の)地の文だけで風景を立体化させ、地の文を主舞台に上げる仕掛けだそうです。

荒川の土手に出てしまいました。

常磐線、つくばエキスプレス線、東武線と列車の賑やかな鉄橋です。

 

また石巻でもとうとう道を間違えて石巻の湊に着いたとあります。

しかしこの道順は最初から予定通りで、風光明媚な松島から一気に平泉につづくのは紀行の起伏にかけるためこう書いたそうです。

東京とは思えない空の広さです。

金八先生のロケ地になっていた場所です。

 

改めて奥の細道はいろいろな読み方があるなと思いました。

ご隠居のブログで酒田から「いなほ」に乗って新潟に行く場面があります。

 

嵐山光三郎さんの文章だとこうなります。

「私が日本海に出会うたびに、波の鼓動にひそむ秘密をさぐろうと耳をかたむけ、

海底に月がまるごとひとつ塩づけとなって沈んでいるのではないかと考えたりする。

そのため、日本海は悲しいほど神秘的な無常を秘め、列車の振動に身をゆだねて目を閉じると、

瞼の裏側にも真珠色のさざ波が打ち寄せてくるのであった。

『細道』の地の文は、象潟以後は漢文調がやわらくほぐれて物語り調になってくる。

そこに、旅の終わりの芭蕉の穏やかな気分が反映されている。

前半の思い詰めた気合が反転して、静かなる旅となった」

素晴らしい文章ですね。

 

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奥の細道旅行譚(いい日旅立ち)

2015年11月16日 | 旅行

さてようやく芭蕉一行の旅立ちの地「千住宿」にやって来ました。

まず南千住駅を降りると早速駅前に芭蕉翁の像がありました。

更に1kmほど歩くと4号線に交差して素戔雄神社(すさおのじんじゃ)があります。

神社には江戸時代に近隣の文人たちが建てた「奥の細道」矢立初めの句碑が残されています。

舞殿

「行く春や・・」の句が載っている碑

4号線を北千住の方に向かって歩いていくと千住大橋が見えてきました。

芭蕉の時代もすでに木造の橋が架かっていて奥州方面に行く参勤交代などで賑わったそうです。

千住大橋

橋を渡って左折して川岸に降りてみました。

芭蕉一行は深川から船でやって来てこの辺に上陸したのでしょうか?

現在は恐ろしく無機質な場所になっていました。

護岸のコンクリートの壁にこの絵がありました。

折角芭蕉一行の旅立ちの場所なのにこれだけではあまりに淋しい。

足立区の観光協会はもう少し頑張ってテラスとか記念の観光施設を作ってもらいたい。

千住大橋のたもとにある石碑

「矢立」は墨壺に筆入れの筒のついた携帯用の筆記用具です。

 

何はともあれこの地より一行は奥の細道へ旅立つのです。

元禄2年3月27日(陽暦5月16日)芭蕉46歳、曾良41歳は心の旅に出立したのでした

 

奥の細道(旅立)

弥生の末の七日、明ぼのの空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花梢、又いつかはと心ぼそし。

3月も押しつまった27日、明け方の空はおぼろにかすんで月は有明で形も細く光も薄い。遠く富士山がかすかに見えて、上野・谷中の森も見え、あの花の梢もいつみられるかと思うと心細い。

むつましきかぎりは宵よりつどいて、船に乗りて送る。

親しい人たちは前の晩から集まり深川から同船して送ってくれた。

千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。

千住と云う所で船を下船していよいよ前途3000里の旅に出るのだと感慨で胸いっぱいになり涙の目に幻のように映る千住の街に惜別の涙が落ちるのだった。

 

行春や(ゆくはるや) 鳥啼き魚の 目は泪

もうすぐ春は行ってしまう。私も行くよ、遠い旅に。鳥が切なげに鳴き、魚の目が涙に潤んでいるのは、春と私、どちらとの別れを惜しんでいるんだろう。(長谷川櫂訳)

 

是を矢立の初めとして、行道なをすすまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送なるべし。

この句を旅の記の初めとして第一歩を踏み出したが後ろ髪が引かれる思いで先に進まない。人々は道中に並んで自分たちの後ろ姿の見える限りはと見送ってくれた。

 

「翁!長年の夢である奥州への旅立ちの時が来ましたね」

「ウン。病気にならないように気をつけていいもの書こうね」

「それにしても最初からぶち上げましたね。こんなに見送りの人が大勢いたのかな?」

「これは紀行文ではなく夢物語なんだよ。曾良さん、今後とも日記にあまり几帳面に書かないように注意しておきますよ」

「ところで深川のあばら家は高く売れたんですか?どこのリハウスに頼んだのかな」

「あばら家はひどいね。今度は小さな女の子のいるニューファミリーが購入してくれました。失礼がないようによく掃除もしてきました」

「目に見えるようです。翁がはたきを肩にかけ箒でサッサと畳をはいたりして」

「ついでに鼻歌交じりで、♪春一番が掃除したてのサッシの窓をほこりの渦を踊らせています。ワンツースリーお別れなんですぅ とか歌っていたら怖いですね」

「出だしからつまらないこと言ってますね。♪奥の細道からのお祝い返しは微笑みにして届けます。なんてついでに歌ったりして」

「おお怖ヮ」

「しかし旅の荷物が多くて困りました。これでもまだ足りないものがあるような気がします」

「途中で気がついたら、ありばば(天猫)にでも注文すれば腹の薬でもラクダでもすぐに届きますよ」

「そんな物いらないけれどありばばとはなんですか。アラブの盗賊みたいで反対に路銀でも盗まれるんじゃないかい」

「世界最大の通販サイトです。先日11月11日の独身の日には一日で2兆円近く売ったそうです」

「あまり難しいこと考えていても先に進まないからまず一歩」

「将来の人は20日に深川を出てなんで千住を出発したのが27日なんだと不思議に思っています」

「曾良さんが几帳面に日記に書くからだよ。僕はね深川を26日にでたとみんなが勝手に思わせよう工夫したのに」

「北千住の遊郭なんかでひと遊びしたと思われては困りますよね」

「芭蕉忍者説なんかもあるそうだから含みを持たせて日記に書いてね」

「近くに関東代官頭の伊奈家があるのでそこで仙台伊達家の内情を調査する命を受けたようなことを将来の人が想像するように一筆書いておきましょう」

「それがいい!インポッシブル!トムクルーズの世界だ」

「なに言ってるんだか」

「本当は日光街道が工事中で少し日程を延ばしただけなんだ。でも書くのよそう。将来の人の楽しみなくなるから」

「それでは出発!」

「いい日旅立ち、♪日本のどこかで我々を待っている人がいる」

「曾良さんのことなんか誰も待っていないよ。僕のこと皆期待してます」

「ごもっとも、あんたが大将!」

 

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奥の細道旅行譚(日本橋)

2015年11月14日 | 旅行

日本橋は奥の細道とは関係ありません。が

芭蕉が29歳(1672)の時江戸に出てきて最初に住んだのが小田原町(現在の日本橋室町)です。

一旦帰郷しますが1677年に戻り文京区関口で水道工事に従事して37歳で深川に戻りました。

そんなわけでご隠居にとっても個人的に懐かしい町である日本橋を歩いてみました。

神田駅から日本橋に向かって歩きます。

休日の朝の東京は車も少なくて歩いていても本当に気持ちがいいです。

昼ごろになると中国からの爆買いツアーの人達がやって来ます。でもお客様ですから大事にしましょう。

コレド室町の中心的な三井タワーが見えてきました。

コレド日本橋は旧東急百貨店跡。その昔は白木屋百貨店。

東京でも丸の内は三菱地所、日本橋は三井不動産が再開発を競っていました。

最近杭のデーター改ざん問題で三井不動産はオウンゴール的にブランド力に翳りが出て日本橋はどうなんでしょうか?

三井タワー

杭は岩盤まで届いているのかな?

昔は前面に千疋屋のビルが3階建てで独立していました。

その奥に三井北3号館がありご隠居のサラリーマン人生の第一歩を踏み出した場所でもあります。

千疋屋の2階にはパーラーがあって仕事が終わって麻雀の面子が集まらない日は会社のチンピラOLとジュースなんかを飲んでつまらない話をしていました。

現在の若いサラリーマンは深酒もしないし麻雀もやらないらしくてアフターファイブは何をしているのでしょうか。

三井本館(重要文化財)

昔三井の大番頭団琢磨が暗殺されたのもここです。

昔話で恐縮ですが日本橋では3年ばかり過ごし地方に転勤になりました。

サラリーマン時代は上司の意向を相談もせず独断専行でやらかしてよく怒られました。サラリーマン時代はずぅ~とコッパ平社員でした。

サラリーマンを長くやるにはそれなりに周りに気を使って、もちろん業績もそこそこ上げてやっていくのがいいのでしょうね。

 

昨夜BSで「八甲田山」を放映いしていましたが懐かしくなりました。

ご隠居が会社で「歩こう会」の会長をやっていて皆を尾瀬に連れて行ったことがありました。

夏の尾瀬です。しかしその頃この八甲田山の映画がヒットしていて「雪の行軍、雪の行軍川は何処だかわからない。馬は倒れてほってもおけず・・」

と歌いながら木道を歩き「大峠、小峠が見えてきた、馬建て場はまだか」などと笑ったのが思い出されました。

あの頃一緒にハイキングしていた友人も何人かがこの映画を再び見て昔を思い出してくれたら嬉しいなと思いました。

三越が見えてきました。日本橋といえば三越?

そして三越といえばライオン。

日本橋三越10時開店の時間です。

最近CMにもよく出てくる福徳稲荷です。

昔はこの地に神社なんて小さなものでもなかったような気がします。

木の香りがまだ漂う感じの新鮮な造りです。すみません、爺さんが写っているのしかいい写真がありませんでした。

さてやっと芭蕉さんの足跡がありました。

佃煮屋さんの鮒左の前面にありました。

「発句地 松尾桃青 春の宿」の碑

芭蕉は最初は桃青という俳号だったのですね。

 

さて芭蕉の足跡は日本橋で思いつくのはここだけです。でもこれだけで帰るのはもったいないので私の好きな東野圭吾作「麒麟の翼」のゆかりの地を少し回ってみたいと思います。

昭和通りに出るとすぐ「小津和紙」店がありました。

被害者、青柳武明が折り紙「和紙十色」を購入したことになっています。

この先をすぐ右折

日本橋七福神 寶田恵比壽神社

被害者はあることを祈って七福神に千羽鶴を奉納していきます。

運慶、あるいは左甚五郎の作とも伝えられている祭壇中央に「恵比寿神」が安置されています。

繁栄、平穏守護のご利益があるそうですよ。

同じく椙森(すぎもり)神社

商売、福富の神が祀られています。

東京の神社らしくて敷地は狭くてもお金がかかっているような気がしました。

茶の木神社

小網神社 修理中です。

水天宮です。修理中。

日本中、意外と修理している神社仏閣は多いようです。

七福神では一番大きな神社です。

安産・子授け・芸能祈願・水難除けなどのご利益があるそうです。

甘酒横丁に出ました。この通りにも小説ではいろいろな店が出てきます。

とりあえずひとつだけ草加屋です。

小説の中で加賀恭一郎がうまい煎餅と紹介していましたね。

そして事件の最初の場面江戸橋です。

この地下道で被害者青柳武彦が刺され日本橋方面にやっと歩いて行きます。

日本橋です。

どこから写真を撮っても高速道路が邪魔になります。

被害者はこの辺りで日本橋署の警察官に保護されます。

道路原標

明治44年に日本橋が架けられたときに「東京市道路原標」が設置されました。

各地への距離です。

 

日本橋、人形町周辺を歩いてみて改めていい所だなと思いました。

沢山お金持っているお年寄りならこの辺でマンションを購入して朝は素敵なカフェテラスでサンドイッチをほおばり夜はイタリアンレストランで、そして銀座へもタクシーでワンメーター、素晴らしい老後ではないでしょうか!

ご隠居は金がないので磯辺の片隅でのたれ死にします。

 

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奥の細道旅行譚(深川界隈)

2015年11月10日 | 旅行

芭蕉さんのゆかりのある深川周辺を少し歩いてみました。

東京都江東区というと観光にはあまり馴染みがないような感じがします。

でもネットで検索して観光イラストマップなどを出してみます。臨海部では若洲公園、東京ゲートブリッジ、お台場、また当ブログでも紹介したことのある仙台掘り川公園から荒川ロックゲート。

そして深川のお不動様、八幡様と新旧入り混じって楽しそうな所が沢山ありそうです。

まずは芭蕉記念館です。

都営地下鉄森下駅から歩いて7分ぐらいです。歩くのが面倒だと言っても芭蕉さんの旅に比べればわずかです。東京の街を歩きましょう。

展示室には元禄4年正月3日付け句空宛芭蕉書簡、蕪村の芭蕉座像図など所蔵されています。

裏手にある隅田川の堤防の上に出てみました。隅田川を通して東京の中心部、ビル群が見えます。

堤防の上を少し歩くと史跡展望庭園があります。

隅田川に架かる橋でも一番美しいと言われている清洲橋です。

清洲橋を背にして芭蕉翁が鎮座していました。

水上バスが通過していきました。やっぱり現代です。

芭蕉さんが千住に旅立った時は小さな船だったのでしょうね。

次は萬年橋です。

江戸時代は富士山が綺麗に見える名所だったそうですよ。葛飾北斎の「富嶽三十六景・深川萬年橋下」に描かれた有名な橋です。

現在は鉄骨造りになってしまいましたがそれでも趣のある橋ですね。

川船番所跡

幕府が設けた番所で萬年橋北岸に置かれ川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査したそうです。

 

それではお不動様の方に行きましょう。

成田山東京別院深川不動堂・・・深川のお不動様です。

正面が旧本堂、その奥が内仏殿、左側が本堂で映画館みたいに階段状に座席がなっていて一番下で護摩修行が行われます。

元禄16年成田山のご本尊を江戸に奉納して特別拝観したしたことに始まり、このご本尊は弘法大師御みずから敬刻開眼されたといわれています。

参道には深川飯を出している食堂もあり入ってみました。

でもどうでしょうか、本当においしい店は違う場所にありそうです。グルメを追及する人はネットで調べていった方がいいようです。

ご隠居は食べる方はあまり気にしていないので行き当たりばったりで当ブログではグルメに関しては期待しないでくださいね。

お不動様の隣にある富岡八幡宮です。

都会の真ん中でも木々に囲まれていて和みます。

江戸三大祭の一つ「深川八幡まつり」で有名です。あと二つは「神田祭」「山王祭」です。

神輿を担ぎ手が水をかけられながら練り歩く連合渡御は勇壮らしいです。

境内には静かな池もありました。

横綱力士碑

歴代の横綱力士と大関雷電為右エ門を顕彰しています。

八幡様の裏手の八幡掘遊歩道に架かっている八幡橋です。

鉄を主材料として作った橋として造った鉄橋としては日本最古のもので国の重要文化財です。

かつては明治11年京橋楓川に建造され島田弾正屋敷が近くにあったので弾正橋と言われていたのを現在の場所に移築しました。

江東区だけでもまだまだ見ていない場所が沢山あります。

が今回の街歩きはこの辺で。

 

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奥の細道旅行譚(発端)

2015年11月07日 | 旅行

さて奥の細道旅行譚も原点に戻って深川に行ってみました。

芭蕉の足跡に沿って歩くのではなく、あっちこっちに飛んで申し訳ありません。

なにせ祝休日を利用しての紀行です。最後に一回りしたらまとめる予定です。

 

それでは最初です。序章をゆっくりこの機会ですから読んでみましょうね。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人です。

船の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。

船頭として船の上に生涯を浮かべ、馬子として馬の轡を引いて老いを迎える者は、毎日旅をして旅を住処としているようなものです。

古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲のかぜにさそわれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、

古人の中には、旅の途中で命を亡くした人が多くいます。私もいくつになった頃からか、ちぎれ雲風に身を任せて漂っているのを見ると、漂泊の思いを止めることが出来ず、海ぎわの地をさすらい、

去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらいて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関こえんと、

去年の秋には隅田川のほとりのあばらやに帰ってクモの古巣をはらい、しばらくおちついていたが年も暮れ春になって霞がかかる空をながめながらふと白河の関を超えてみようかと思い

そぞろ神の物につきて心をくるはせ道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、

「そぞろ神」が乗り移って心をみだしおまけに道祖神の手招きにあっては取るものも手につきません、

もも引きの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里の灸すゆるより、松島の月先心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風の別墅に移るに、

もも引きの破れをつくろい、笠の緒を付け替え三里のつぼに灸をすえて旅支度を始めると、まずは松島の名月が気にかかり住まいは人に譲り、旅立つまでは杉風の別宅に移る

草の戸も 住替る代ぞ ひなの家

(わが家よ、主人が変わるぞ。前の主人はむさくるしい独身男だったが、今度はいるのは、女の子のいる家族らしい。春にはお雛様が飾られるかもしれない。楽しいだろう) 長谷川櫂訳

面八句を菴の柱に懸置。

そこに上の発句を詠んで表八句(連句の初めての懐紙の表に書く八句)を柱にかけておいた。

芭蕉稲荷神社

芭蕉は9年間暮らした住居を引き払い「奥の細道」の旅に出る気持ちの高ぶりがひしひしと伝わってきます。

旅が好きな人にとっては一泊でも二泊でもこの高ぶりに変わりありませんね。

 

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11月

2015年11月02日 | 日記

11月になりました。カレンダーもあと2枚。

今日は千葉市では雨が降ったりやんだり、気温も12月上旬の陽気とか。

一段と寂しい季節になってきましたが皆様は風邪などひかないで元気でお過ごしですか?

毎年同じことを書いていますが11月はイベントの少ない月ですね。

12月になれば忘年会など始まってがぜん元気が出てくるのですがこの時期、神社仏閣など行って他人のガキの七五三など見ても面白くも可笑しくもないので止めましょう。

炬燵なんかを出して来たり、

春に洗濯屋さんから取って来てその辺におっぽり投げてあったコートのビニールでも外しましょうかね。

 

  別るるや 柿食いながら 坂の上   惟然

送る者と送られる者が、そこまで歩いて一緒に来たのですが坂の上まで来て見送るのはここまででいいと言われました。

何処までも一緒に行きたいのですがどこかで終わりにしなくてはいけません。

立ち止まると急に別れが淋しくなります。空を見上げると白い雲がぽつんと浮かんでいます。

途中の道端でもいだ柿をかじったりしても間が持てません。

そのうち別れた人が坂を下ってだんだん小さくなっていきます。

現在のようにマイカーや新幹線があればいつでも会いに行けるのですが・・・

ちょっと秋らしい寂しい風景ですね。

 

惟然は元禄2年9月奥の細道を終えた芭蕉を大垣に出迎え、以後芭蕉に追随して親愛されました。

元禄7年10月芭蕉が没すると、その霊を弔う目的で初七日のうちに芭蕉像百体を彫って同門に与えました。

 

あと2ヶ月で今年10ヶ月分のやり残したことを挑戦しようなどと馬鹿なこと考えないで元気で穏やかに過ごしましょうね。

 

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