ようやく東照宮、表参道にやって来ました。
東照宮の石碑の前に知らないご婦人が映ってしまいました。表参道の写真ではこれが一番良かったので我慢してください。
前の写真は反対側から写したものです。
夕方にもかかわらずすごい観光客です。平日です。
世界遺産めぐりのシャトルバスは7割がた外国人でこちらが海外旅行している気分でした。
芭蕉は4月1日(陽暦5月19日)に日光に到着後東照宮を参拝しました。
江戸から関東平野をとぼとぼ歩きこの見事な表参道の杉並木を見た時にはどんなに感激したでしょうか。
現代みたいに旅番組のTVなんかないので本当に初めて見る大感激の日光だったのでしょう。
うっかり芭蕉の気持ちのコメントなんか書けません。
それでは能書きはいい加減にして中に入りましょう。
三猿から御水舎、陽明門、眠り猫、坂下門、奥宮、さらに下って本社そして鳴龍の本地堂とまわります。
五重塔はまだ仁王門の外のほうでした。この後拝観受付所です。
五重塔は1650年福井の小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されました。
さてまずは左側に三猿のある神厩舎です。
リニュウアルした猿たちの彫刻です。
色彩豊かになりましたが少しマンガチックになった感じもします。
蹄鉄などいいお土産になりそうです。
最初1万円のを見て高いからやめたと思ったのですが今見ると3300円のもあったんですね。
三猿の反対側の上神庫の彫刻。
御水舎(おみずや)
1618年佐賀藩鍋島勝重公の奉納です。
以前はよく外国人が柄杓から直接水を飲んで口をすすいでいましたが今はちゃんと手に移してから口に含んでいます。
よく勉強しています。
鐘楼
いよいよ陽明門ですが。しかし・・・・・・・・・・。うまく撮れませんでした。
暗いのでISO800、F/5.6他、露出をプラス補正するのを忘れて何枚か撮りましたがみんな暗くなりました。
帰り際に反対からなんとなくオートで撮ったらこれのが良かった。
これからもっと写真の勉強して上手に撮りたいと思います。皆さんも呆れないでもうすこし付き合ってくださいね。
江戸時代、武士は陽明門の中の石畳、庶民は陽明門の前に土下座して東照宮を拝んだそうです。
今はご隠居みたいな平民でも入場券さえはらえば偉そうに写真なんかを撮ったりしていい時代になりました。
社務所で買った東照宮のパンフレットの表紙はやはり綺麗です。プロです。
御本社の前の唐門。
全体が胡粉(ごふん)で白く塗られていて金箔とよく似あいます。
まずは眠り猫のいる坂下門に向かいます。
祈祷殿の奥にニャンニャンがいます。
眠り猫。左甚五郎作と伝えられています。牡丹の花に囲まれてうたた寝しているそうです。
こらっ!眠っているふりしていないで昼でも起きてごらん。
ここから長い坂を登って奥宮に向かいます。
眼下に御本社を始めとする国宝群の屋根が見えます。
奥宮拝殿。
御宝塔。
御宝塔の下では家康公が祀られ、つまりは家康公の遺骨があることになっていますが創建以来誰も掘ったことがないので実在するかは不明だそうです。
日光の中でも最大のパワースポットです。
ご隠居もしばらくは目を閉じて佇んでいました。ピーチクパーチク中国語が飛び交いながら歩いて行くのが聞こえました。
ご利益も国際的になってきたから薄らいできたかな。
山を一回りして今日はかなり歩いてヘトヘト。
御本社に戻り中を見学(撮影禁止)して唐門の裏側です。
素晴らしい彫刻がありました。
やっぱり東照宮は素晴らしいですね。
芭蕉の時代と同じような建造物を見ているわけですが平凡な感想しか書けないのが残念です。
もっとも芭蕉ですら恐れ多いと書いているわけですから凡人のご隠居などが出る幕ではありません。
日光(前半)
卯月朔日、御山に敬拝す。
(4月1日、日光山を参拝する)
往昔、此御山を「二荒山(ふたらさん)」と書しを、空海大師開基の時「日光」と改給う。
千載未来をさとり給ふにや、今此光一天にかかや来て、恩沢八荒(おんたくはっこう)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏やかなり。
(千年未来を予言してか、今や東照宮のご威光は一天下に輝きわたって、恵の波はすみずみまで行きわたり、四民が安住の身を寄せる国土はいかにも穏やかである)
猶憚り(はばかり)多くて筆をさしおきぬ。
(あまり恐れ多くてこれ以上書くのは差し控える次第だ)
あらたうと 青葉若葉の 日の光
(青葉や若葉の濃淡が織りなす初夏の緑に降り注ぐ陽の光。神域に荘厳そのものだ)
黒髪山は霞かかりて、雪いまだ白し。
(男体山は初夏なのに霞がかかっているし古歌に詠まれているように雪が白く残っている)
剃捨てて 黒髪山に 衣更(ころもがえ) 曾良
(黒髪を剃り捨てて、旅に出た自分が今や黒髪を思い出させられる黒髪山の麓で夏衣に替える季節になったのは皮肉にも興味深い)
曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。
芭蕉の下葉に軒を並べて、予が薪水の労をたすく。
(芭蕉と軒をならべ住んでいて、男所帯の炊事の世話などの手伝いをしてくれた)
このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難いたはらんと、旅立暁髪を剃りて墨染にさまをかえて、惣五を改め宗吾とす。
(道中の難儀を慰めようというわけで、旅立ちをするときに髪を剃って墨染の僧衣に姿を変えて名も改めて惣五郎を宗吾とした)
仍て(よって)黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。
(「衣更」の二字が単なる季語ではなくて俗人から僧衣に替わった境涯の変遷と決意を象徴して効果的だと感じられる)