ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(遊行柳)

2016年05月29日 | 旅行

遊行柳(ゆぎょうやなぎ)に行こうと東北線の黒田原駅にやって来ました。

かつての大動脈、東北線も時間帯によっては2両編成の電車の時もあります。

でも寝台列車カシオペアもこの線路の上を走っていたのかと思うとちょっとうれしいですね。

駅前は閑散としています。

遊行柳の近くのバス停、「芦野支所前」を通る伊王野行バスは一日4本です。8時10分のバスは出たばかり、次は14時15分です。

通りの先にタクシーの看板が見えたので2500円もかけて芭蕉さんも見た柳のある場所に行ってみました。

少し走ると新緑の穏やかな丘陵が見えてきました。

今でも観光客はそこそこ来ているのでしょうが芭蕉の頃はもっと有名だったみたいです。

謡曲「遊行柳」においては遊行上人(一遍上人)が奥州下向の際、朽木の柳の精が現れて西行の歌が詠まれた場所を教えたということになっています。

その西行法師の歌ですが

「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」(新古今集)

(旅に疲れて道の脇に清水流れる柳の木の下でしばらく休もうと立ちどまった)

芭蕉は松島や平泉に行くのを期待していたわけですが途中の当時としては有名な観光地をきちんとプランをたてて寄って行ったんですね。

実際に行ってみて伝え聞いたのとのギャップもまた計算の内だったのでしょう。

あぜ道の近くにあるので県道沿いの遊行庵(無料休息所)駐車場で降りました。

この辺はハイキングコースとしても整備されていて時間があればゆっくり歩いてみたいところです。

周りは見渡す限りの田園地帯です。まわりの山というか丘陵が低いので穏やかな景色になっています。

水田は構造改善事業のおかげか一枚一枚が大きな区画となっていて美しい景色になっています。芭蕉が訪れた時も田植えのシーズンだったかもしれません。

典型的な日本の水田と農村の風景です。

あぜ道を歩いて行くと入り口のような門柱がありその先に柳が見えてきました。

さらにその先に小さな神社があり後ろは鏡山です。

芭蕉が見た柳からでは何代目かの植え替えられた木でしょうか。

芭蕉はこの柳を見て大いに感激したのでしょう。

何と言っても旅の歌人西行に思慕し私淑することが深かったのですから。

今では農地の整理が行われて地形が変わり小川が脇には流れていません。

なおこの柳は昭和49年4月頃植えられたそうです。

田一枚~の句が書いてある石碑

遊行柳の案内

その先には温泉神社があります。

裏の鏡山に続く小道です。

奥の細道に起承転結があるならここで「起」の部分が終わりいよいよ白河の関から奥州路に入ります。

 

帰りはやはり一日4本の駅に向かうバスの時間に(10時近く、たぶん8時10分の折り返し)間に合いそうなので緑の丘陵をのんびり見る暇もなくバス停に走りました。

停留場に着くとすぐに道の向こうから東野(とうや)交通の小さなバスがやってきました。

バスに乗ると誰も乗っていませんでした。ここまで空気を運んでいたんですね。運転手さんも給料は同じでもお客さん乗せて走りたいですよね。

それでも運賃案内はデジタルの掲示板、もちろん冷暖房完備、ちゃんと設備投資しています。時間どおりの運行です。ハードもソフトもバッチリ。

「田舎のバスはおんぼろ車」などという歌がありましたが昔の話。

この辺が日本の隅々まで安心して旅行が出来るんですよね。

 

奥の細道(殺生石・遊行柳)  後半部分

又、清水流るるの柳は、蘆野の里にあり、田の畔に残る。

西行法師が「清水流るる柳陰」と詠んだ柳は芦野の里にあって、田のあぜの間に残っている。

此所の郡守戸部某の「此柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思いしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

この地の領主戸部なにがしが「この柳を見せたいものだ」と、おりあるごとにおっしゃていたのを、どのあたりにあるのだろうか思っていたが今日ここに立ち寄って休んだ。

田一枚 植えて立ち去る 柳かな

この句は解釈が難しいといわれています。

ここでは労働も幸福の営み。私も田植えしたかのような心持になった。さようならこの地のシンボル柳さん。

とか

西行の感慨に浸るうちに、すでに田一枚(早乙女が)を植えてしまったのだ。

嵐山陽光三郎さんは

柳の精霊が田を一枚植えて立ち去っていった。早乙女が田植えをしているのを見ているうちにふとそんな情景を幻視してしまった。

森敦さんは

柳の精の老人が現れて舞い、舞終わってただ柳だけが取り残されている。(この年になると懐かしい人がみんなが逝ってしまうのです)

森敦「われもまたおくのほそ道」

文庫本で200pですが1200円もします。

 

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奥の細道旅行譚(那須・殺生石)

2016年05月26日 | 旅行

那須ロープウェイからバスに乗り那須湯元温泉で下車しました。

那須観光の中心地でしょうか。那須高原観光案内所を中心として、お土産物屋さんやレストラン、お客も多くて賑やかですが自動車も間断なく走行していて怖い。

300年前は静かだったんでしょうね。

那須の湯で旅に疲れた芭蕉の躰や心を癒してくれたのでしょか?

駐車場の先に温泉神社(ゆぜんじんじゃ)の鳥居が見えました。

鳥居をくぐって振り返ると那須野が良く見えます。

芭蕉は那須神社を参拝して

「湯をむすぶ 誓いも同じ 石清水」と詠みました。

これは奥の細道本文ではなく曾良の旅日記に書かれています。

「湯をむすぶ」は湯を手に取ってすくいあげるという意味で石清水八幡の水をすくうのと同じくらいご利益があるということでいい湯だったのでしょう。

社務所

デザインが気に入ったので交通安全のステッカーを買いました。

ご隠居の車の後ろには沢山の神社仏閣のステッカーが貼ってあるので追突されたことがありません。

さらに参道を進みましょう。

本殿

温泉神社は那須与一が祈願をこめた「那須湯泉大明神」です。

奥の細道では以前に紹介した金丸八幡がそれだと土地の言い伝えによって書いてあります。

本殿の隣に稲荷大明神がありました。

この右手の坂道を下って行くと殺生石のある河原が見えてきます。

殺生石の由来

昔中国やインドで美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から800年前の鳥羽天皇の時代に日本に渡来しました。

このキツネは「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え、日本の国を滅ぼそうとしましたが時の陰陽師阿部泰成に正体を見破られて那須野ヶ原へと逃げました。

その後も旅人や領民に危害を加えたので朝廷は三浦介・上総介の両名に命じ退治させました。

ところがキツネは毒石となり毒気を放って人畜に害を与えましたので近寄ることを禁止していました。

その後会津の源翁和尚が石にこもるキツネのうらみを封じて毒気も少なくなったと伝えられています。

殺生石付近は絶えず硫化水素ガスが噴気していますので、風のない曇天の日はご注意ください 那須町。

という説明板も建っています。

今でも狐は怒っているのかな。

なんの悪さもしない野生生物は自然保護の精神にのっとり大事にしましょうね。

木道に沿て回遊できます。同じ木道でも尾瀬沼のそれとは違って花もなく殺風景です。

なんだか哀れな感じもします。

昔湯の花を採掘していた場所です。

芭蕉は(曾良の旅日記)

「石の香や 夏草あかく 露あつし」

とも詠んでいます

 

奥の細道(殺生石・遊行柳) 前半部分

これより殺生石に行く。館代より馬にて送らる。

これより殺生石に向かう。館代から馬で送られた。

この口付きの男「短冊得させよ」と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと

この馬の口取りの下人が、記念に短冊をもらいたいと求める。こんな馬子ふぜいにしては風雅なことを望むものだと

 

野を横に 馬引き向けよ ほととぎす

広漠たる那須の原野を分け入って行く馬首を大きく横に引きめぐらせよ。野を横切ってほととぎすが鋭く鳴き過ぎた。

 

殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す。

殺生石は、温泉の湧き出る山陰にある。石の毒気は今もなくならないで、蜂・蝶のたぐいが地面の砂の色も見えないほど重なり合って死んでいる。

 

「もののあわれというか凄まじい場所ですね」

「おいおい、曾良さんあまり近くによると毒気にあたるよ」

「安心してください!着けています防毒マスク。いつも明るい曾良さんでした。とか言ったりして」

「あいかわらず馬鹿だね」

「でも地球がまだまだ活動しているって感じですね」

「時々頭の配線がつながってまともなことを言うね」

「ついでに大涌谷みたいに温泉卵はないんですかね」

「ところで世間の噂では臨時福祉給付金が届いているというが曾良さんも3万円もらったかな?何か御馳走してくださいよ」

「翁と同じであたしも確定申告しているんで何も来やしませんよ」

「お上は、おめぇらは汗水出して一生懸命働いて税金納めて立派だから金くれないなんておかしな話ですねぇ」

「なんだか社会主義の国みたいですね」

「みんな何もしないでぶらぶらしていた方が楽なようです」

「こんな政策おかしい!国債の残高ばかり増えてしまう」

「公平な第三者の厳しい目で精査してもらいましょう」

 

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奥の細道旅行譚(那須ロープウェイ)

2016年05月22日 | 旅行

芭蕉一行は黒羽で十分休養して(陽暦6月3日)那須の殺生石(せっしょうせき)に向かいます。

途中雨が降ってきて高久村の高久角左衛門宅に2泊します。

高久は黒磯駅から約3km国道4号線の旧道沿いを歩いていくとあります。

芭蕉が2泊したということで碑がありました。すごいですね。

曾良の旅日記には「高久ニ至ル。雨降リ出ニ依。・・・・宿角左衛門、図書ヨリ状被添」

とあり黒羽の浄法寺図書高勝から紹介状をもらっていたようです。

地名も高久で苗字も高久、大きな地主か庄屋さんだったのでしょう。

「みちのく一見の桑門同行二人なすの篠原をたずねて、猶殺生石ミむと急ぎ侍る程に、あめ降出ければ先批ところとどまり候」

という芭蕉の真蹟が伝存しているそうです。

芭蕉塚には菜の花が綺麗に咲いていました。このすぐ近くに現在の高久家がありますが個人宅なので写真は撮りませんでした。

嵐山光三郎さんは高久家を訪れて高久まささんに(大正9年生まれ)お会いして系譜など見せてもらうと5代目角左衛門(当時28歳)の時に芭蕉が宿泊した事が分かりました。

「高久家は敷地こそ広いが簡素な屋敷であった。高久まささんは500年の旧家を継ぐシャンとした気品があり、美しく気品のある人で、庭で採れたアブラ菜のゴマあえと、里芋のサンショ煮を出してくれた」

と嵐山さんは書いています。

芭蕉も又このように旅先で会うやさしい心遣いに、ふと気を休めたのでしょうか。

それにしても作家として有名になると取材もやりやすくなりその上ご馳走になったりするんですね。

ご隠居がふらふらしていると警察でも呼ばれそうなので撤収しましょうかね。

ここから800mぐらいの所に高福寺があります。

ここは高久家の墓所があります。

静かなお寺です。

庭の木が素晴らしい。

 

さて現在に戻って黒磯駅から那須ロープウェイに向かいます。

途中に那須湯元、温泉神社などがありますが晴れているのでまず雲海を目指します。

黒磯駅からは1時間に1本ぐらいバスが出ているので便利です。

フリーパスだと2600円

那須ロープウェイまでその都度買うと往復しただけで2700円かかります。途中下車するとさらに料金がかかります。

フリーパスだとロープウェイも1割引きとなっていてせこいようですが(升添さんほどではありませんが)ちょぴりお得です。

何処に行ってもこんなものがありますね。

鬼面山が見えました。

山頂駅に到着です。

晴れていたんですけど写真の具合はよくないですね。

茶臼岳に向かう登山道です。90分ぐらいで行けるそうですがこの日は風が強くていつロープウェイがいつ運行禁止になるかわからないので装備のない人は遠くに行かないでくださいとのことでした。

芭蕉がこの雄大な景色を見たらどんな句を残すでしょうか?

夏山に ゴンドラ揺れる 休暇かな   ご隠居

お粗末。芭蕉に怒られそう。

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奥の細道旅行譚(雲巌寺)

2016年05月19日 | 旅行

黒羽郵便局前から市営バスに乗り雲巌寺にやって来ました。

雲巌寺は鎌倉時代に建てられた禅寺で臨済宗妙心寺派の名刹。春の新緑や秋の紅葉も素晴らしいが冬の雪景色は特に素晴らしいとのことです。

朱塗りの橋の下には(瓜瓞橋)は武茂川の渓谷が新緑の明るい雰囲気を醸し出しています。

陽暦の5月23日、芭蕉と曾良はこの橋を渡り長い階段を登り参拝したんですね。

曾良の日記には「雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉」とあります。

まさに今と同じ季節、300年以上前昔も新緑と鶯の鳴き声が山々に響いていたと思うと感慨深いものがあります。

もっとも奥の細道は卯月(旧暦4月)だが寒いと書いてあります。

三門から仏殿を見る。

雲巌寺は芭蕉の心の師匠ともいうべき仏頂禅師が若い頃に修行していました。

仏殿

芭蕉は仏頂禅師と深川で知り合い交流を深め、その無欲さに感銘を受けぜひとも師の足跡を自分もたどってみたいと思ったようです。

鐘楼

今も昔も有名な人が訪れた場所を行ってみたいと思う気持ちは人情でしょうか。

松や杉の木が生い茂り、苔の生す暗い道を辿ると山門に着くと書いてありますが、境内は広く開けていて庫裡がありました。

裏手に仏頂禅師が修業したという場所があるらしいですが立ち入り禁止みたいです。

5月の連休とはいえ訪れる人もまばらで森閑としていました。

今頃鎌倉なんかは観光客でお祭りのようでしょうか?

今でもこんなに静かなのですから300年頃の昔はどんなにか寂しかったでしょうか。

でも修行するにはぴったりの場所かも。浅草寺なんかで修行していると夜になると吉原が近いのでムズムズして落ち着かないかもしれませんね。

門前にお土産さんもなく、バスの停留場前に移動販売の軽トラックがジュースやお菓子を売っていました。

仏殿に下る急階段

仏殿と山門

これだけ見ても山が深いという感じです。

御朱印をいただこうと声をかけましたが誰も出てきませんでした。

ちょっと尻切れトンボになりました。かなり不便な感じもしましたが何とか雲巌寺を参拝しました。

マイカーで来た方が便利のようです。ご隠居は近所で乗るだけで車で遠出はしません。知らない場所では事故を起こしそうです。

 

奥の細道(雲厳寺)

当国雲岸(厳)寺のおくに、仏頂和尚山居の跡あり。

下野の国雲巌寺の奥に仏頂和尚が山ごもりをされた跡がある。

堅横(たてよこ)五尺にたらぬ草の庵

  むすぶもくやし雨なかりせば

縦横が5尺(約150cm)にも足らぬ草庵だが、その草庵を造ることさえ、自分にとっては残念なことだ。もしも雨さえ降らなければ。

と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞き給ふ。

とたいまつの消し炭で岩に書きつけましたと、以前に和尚が語っていました。

其跡みんと雲岸(厳)寺に杖を曳けば、人々すすんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打ちはぎて、おぼえず彼麓に到る。

その後を見学しようと雲巌寺に出向くと沢山の人が勇み立って互いに誘い、若い人も多くにぎやかに談笑しあってあっという間に寺のある麓に着いた。

山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く苔しただりて、卯月の天今寒し。

山は奥深くて谷あいの道がはるかに続き、森が黒々と生い茂り苔の雫が落ちて夏4月というのに冷え冷えと寒い。

十景尽(つく)る所、橋をわたって山門に入る。

雲巌寺10景を見ながらその終わるところで橋を渡って山門にはいる。

さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢ登れば、石上の小岩窟にむすびかけたり。

仏頂和尚の庵の跡を探して、寺の後ろの険阻な山をよじ登ると小さな庵が岩窟にもたせ立ててある。

妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。

伝え聞く「妙禅師の死関」(南宋時代の高僧)「法雲法師の石室」(不詳)を見ているような気がする。

啄木鳥も(きつつきも) 庵(いほ)はやぶらず 夏木立

周囲はキツツキが木を突く音でうるさいのにこの小屋は突かれた跡がない。キツツキも小屋の以前の主人を敬い遠慮したんだろう。

と、とりあへぬ一句を柱に残し侍し。

と、当座即興の一句を書きつけ柱に掛けて記念とした。

 

「今日は初夏といのに寒いねぇ」

「あたしゃ寒くても馬鹿だから風邪はひきませんよと翁に言われる前に言っておきましょう」

「しかし容赦なく月日は流れ新緑の美しい季節になった!」

「ダンベェ言葉を使う下野(しもつけ)の人々の心の優しさにふれながらみちのくが近くなってきましたね」

「ところで翁は体調は如何ですか?江戸からずいぶん歩きましたよ」

「僕は元気だよ。それより曾良さんは成人病が沢山ありそうだけど途中で医者でも有ったら検査でもしてもらったら!」

「それでは体調のすごくいい時に診てもらいましょうか」

「具合悪い時に診てもらうんじゃないのかい?」

「検査の結果が悪いと薬を増やされるから状態のいい時行って医者に褒められるぐらいがいいんですよ」

「訳わからない」

「翁と歩いていると気を使って神経がまいるので東城大学医学部、不定愁訴外来、通称愚痴外来の田口講師にでも診てもらいたい」

「愚痴外来とはなんだい?」

「フジテレビのドラマ観ていなかったんですか?結構ミステリアスで面白かったですよ」

「とにかく世の中訳わからないことが多いんですよ」

「そういえば江戸でもベッキーだ、升添だ、清原だと次々と吊るし上げにあってているね」

「だいたい自分には何の被害がなくても怒っている人が多いですね」

「月光仮面のような正義の使者が多くなっているのかね」

「月光仮面とはまた古い。スパイダーマンぐらいと言ってほしい」

「何はともあれ我々は元気で粛々と奥の細道の旅を続けましょうかね」

「粛々となんていうとどこかの官房長官みたいに上から目線だとか非難されますよ」

「怖いね」 

海堂尊作 「第4回このミステリーがすごい!」大賞受賞、続編の「ジェネラルルージュの凱旋」も面白かった。

ドラマのあと映画にもなりましたね。映画は観ていませんが主人公を田口公子という女性に設定して竹内結子が演じたみたいですね。

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奥の細道旅行譚(那須神社)

2016年05月15日 | 旅行

黒羽町の中心街からバスで461号線を行くと道の駅「「那須与一の郷」がありました。

広大な敷地にレストラン、農産物直売館、情報館などが並んでいます。

最近は鉄道の駅前では満足にお土産を買えるような店もありませんが道の駅は繁昌しているというか、品物も豊富です。

さてその一角に那須与一伝承館という立派な建物がありました。

こういう建物が立派な場所は中に入るとがっかりするところが多いのですがとりあえず300円、料金払って入りました。

国の重要文化財の刀や鎧などが展示してありました。

小劇場があってからくり人形風ロボットと三面ワイドスクリーンの映像による屋島の合戦における那須与一の活躍を上演していました。

与一は目をふさいで南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光権現、宇都宮那須の湯泉大明神

願わくばあの扇のまん中射させて賜ばせたまえ。これを射損じるものならば、弓切り折り自害して

人に再び面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さば、この矢はづさせたふな。

と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。

与一鏑(かぶら)を取ってつがひ、よつびいてひやうど放つ。小兵というぢやう、、十二束、三伏、弓は強し

浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかり射て、ひいふつとぞ射切りつたる。

(平家物語 那須与一の一部)

 

この道の駅の裏手に那須神社(昔は金丸八幡宮といったらしい)があります。

木立に覆われた長い参道の奥に本殿がありました。

お水舎

国指定のおくのほそみちの風景地となっています。

楼門

那須与一が源平屋島の合戦で扇の的を射る時に祈願をこめたのは、那須湯元の温泉(ゆせん)神社だそうですが

芭蕉が訪れた頃はこの地では与一が祈願したのは金丸八幡宮であると言い伝えられていたそうですよ。

本殿。

全体的に道の駅の賑わいに比べてちょっと淋しい感じがしました。

 

奥の細道(黒羽)  後半部分

それより八幡宮に詣。

それから八幡宮に参拝した。

与一扇の的を射し時「別しては我国氏神正八まん」とちかいしも、此神社にて侍ると聞けば、感応殊しきりに覚えらる

那須与一宗高が扇の的を射た時に「わけてもわが生国の氏神正八幡よ」と祈誓をこらしたのもこの神社であると聞くと、ありがたさもひとしおです。

暮れば桃翠宅に帰る。

修験光明寺と云有。そこに招かれて、行者堂を拝す。

また修験光明寺と云う寺がある。そこに招かれて行者堂を拝んだ。

夏山に 足駄を拝む 首途哉

旅の再開を前にして役行者(えんのぎょうじゃ)が用いたという足駄(あしだ・・・はきもの)を拝んだ。行く手にそびえる夏山を超えるにあたり、彼の健脚にあやかれたらいいな。

 

「曾良さんよ、立派な道の駅があるからお昼にしようかね」

「翁!伊達藩の調査に予算がかかってしまい路銀がエコノミークラス症候群です」

「では天ざるはやめてかけ蕎麦にしよう。くれぐれも幕府の預り金は飲み食いに使わないように!」

「そうですね。江戸の大目付役、升添何某みたいに皆の前でせこいことで恥はかきたくないですよね」

「僕はね大所高所の人だから、領収書・領収書と多くの面前で言い訳させたりしないように配慮してくださいよ」

「ところで我々の足跡を訪ねているご隠居と八兵衛とやらはどうしている?」

「そういえばあいつらは学生時代に弓道部で知り合ったとか。ここにも来たかもしれませんが那須与一も馬鹿奴らの事を笑っているでしょう」

「人生全般に真摯な態度が見られないよね」

「ご隠居と云うのは弓が下手で逆立ちしても的に当たらなかったそうです」

「きみねぇ、普通に討っても下手なんだから逆立ちしたらなおさら当たらないだろう。曾良さんの話は物理的にもおかしいよ」

「翁を喜ばせようとばかっ話しているんですよ」

「しかし世の中いい加減な奴でも何とか生き抜いて臨終を迎えるんだね」

「まぁご隠居の云うことには運動部のマネジャーをやっていたので就職活動は顔パスだったなどと威張っていましたよ」

「学生時代からろくすっぽ練習なんかしないで口だけ達者なマネージャだったんだろうね」

 

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奥の細道旅行譚(黒羽)

2016年05月13日 | 旅行

那須野を通って黒羽町にやって来ました。

昔は那須郡黒羽町と独立していましたが現在は大田原市の一部です。

平野が過ぎたあたりで小高い丘陵に接して、那珂川が流れ、城跡があって最寄駅に行くバスターミナル、丘の上には県立高校、絵にかいたような日本の地方の町です。

さだまさしに「案山子」という曲がありますがそんな感じです。

まずは芭蕉の館に行ってみました。

芭蕉の館の前には芭蕉と曾良の銅像がありました。

中に入ると広いエントランスホール、芭蕉展示室、大関記念室などあり、各地にある芭蕉の記念館とあまり変わりがないようです。

というようなスタンプもありました。

さていったん外に出て掘割にかかる橋を渡ると城址公園にでます。

大きな広場がありました。

桜やアジサイが綺麗だそうでシーズンになれば混み合うのでしょう。

物見櫓

黒羽城は留守居役家老の浄法寺図書高勝(芭蕉がお世話になりました)が「館代」と言われるように周囲に濠をめぐらし、堤防を囲んだところに本丸その他を構えた館城だったらしい。

しかしここからのながめは素晴らしい。那須野から遠く那須連山を望めます。

この辺一帯は芭蕉の道とか芭蕉の広場とか本当に静かでのんびりできます。

 

黒羽では「桃雪」という俳号で句作も行っていた浄法寺図書に世話になりました。

奥の細道の行程で14日間の長きに逗留したのはここだけです。

悪天候が続き、なかなか出立できなかったのと師をもてなす桃雪の心づかいに甘えてしまったのでしょうか。

この間、桃雪の弟・翠桃の案内で名所旧跡を回り句を残しました。

鎌倉時代の武士たちが弓矢の腕を磨いたという「犬追物の跡」妖怪・九尾の狐が退治されたという伝説のある「玉藻の前の古墳」「八幡宮」などを訪ねました。

というのが一般の説です。

 

近接している大雄寺に行ってみました。

三門

大雄寺には高勝の墓(浄法寺家)があります。

総門

廻廊

境内は誰もいなくて初夏の夕陽が流れ込んでいました。

静かです。この言葉しか出てきません。本当に語彙不足です。

本堂

芭蕉の広場に続く道には「行春や~」の句碑がありました。

 

さて嵐山光三郎さんの説です。

黒羽に14日間も滞在したのは、曾良が日光奉行と伊達藩の確執を調べるためだったろう。

日光で伊達藩の人足が仕事に取り掛かったのは4月13日であった。

曾良の公務は極秘に行われたので黒羽藩にもばらすことはできない。

この間、芭蕉は修験光明寺へ行き行者堂を拝しまた翠桃宅で36句の歌仙を開きました。

という方が面白い。

 

奥の細道(黒羽) 前半部分

黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信(おとづ)る。

黒羽の城代浄法寺某のもとを訪れる。

思いがけぬあるじの悦び、日夜語つづけて、その弟桃翠(翠桃が正しい)など云うが、朝夕勤めとぶらり、自らの家にも伴いて、親族の方にもまぬかれ、

思いもかけぬ突然の訪問に、主人の悦びはいいようもなく、日夜歓談してその弟も朝夕まめまめしく心をつかって尋ねてくれ、自分の家にも連れて行ったり

日をふるままに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見して、那須の篠原わけて、玉藻の前の古墳をとふ。

何日か過ごすうちに、ある日郊外を散策して犬追い物の跡をざっと見物して那須の篠原を分け入り玉藻の前の古墳を訪ねた。

 

「黒羽では思いのほか桃雪さんに気に入られましたね」

「その調子で2週間ぐらい滞在してくださいよ」

「曾良さんは例の調査ですか。なるべく早く切り上げてくださいよ」

「この旅費の一部は幕府から出ているんですから伊達藩のリサーチはきちんとしないと帰ってからひんしゅくをかいますよ」

「それじゃ名所を巡ったり句会でも開きますか」

「参加費沢山集まって税務署に目をつけられそうになったらパナマにでも送金してくださいよ」

「それに地元の人は江戸の話を聞きたがっていたね。4年後にオリンピックがあってエンブレムだスタジアムだと大変だと教えてあげよう」

「勘定奉行の黒田何某が量的・質的金融緩和だ,マイナス金利だとわめきながら江戸城の天守閣から小判をばらまいているとか言ったらたまげますよ」

「そんなでたらめみたいな話こんな田舎でも信用されないよ」

「黒田何某だって2%の物価上昇なんかできないと思ってますよ。立場上だけ」

「しかし20年以上も景気が良くならないのにいつも同じ政策、金融緩和しか思いつかないのかね」

「試験勉強のできる人は模範解答は一つしかないと思っているんですよ」

「老人は退職金をたくさん持っているので金利を一気に5%にしたら利息で物を買って景気が良くなるかもしれない。企業だってしこたま現金もっているから金利上がっても大丈夫」

「ごもっともです」

 

 

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奥の細道旅行譚(那須)

2016年05月08日 | 旅行

2016年大型連休もそろそろ終わりですね。心豊かに過ごされたでしょうか。

奥の細道の足跡を訪ねる旅も昨年は「室の八島」で終わっています。

今年も季節が良くなってきてゆるりと続きを行ってみたいと思います。

芭蕉一行は室の八島から鹿沼・日光と訪ねますが現在は日光陽明門はまだ修理中で見られません。

当ブログでも以前に日光東照宮は紹介していますがその時も修理中でした。

来年4月には工事が終わる予定なのでその頃東照宮はもちろん中禅寺湖から戦場ヶ原あたりまで行ってみたいと思います。

とりあえず鹿沼・日光は飛ばします。

JR西那須野駅から国道461号線を黒羽市街に向かっていくと広い水田がどこまでも続き田植えの真っ最中です。

芭蕉一行も陽暦の5月20日頃歩いていたわけで皐月の風にそよぐ早苗を見ながら何を思っていたのでしょうか。

感慨深いですね。千住を出発して「行く春」から「夏(げ)の初め」そして「夏木立」と季節が移って行きます。

日光を出て、川室(かわむろ)、大渡(おおわたり)、船生(ふにゅう)、玉生(たまにゅう)、矢板、大田原と芭蕉の時代そのままの地名が現在も残っているのがすごいなと思いました。

日光から那須へ向かう本街道を利用しないで近道の荒地であった「那須野が原」を踏破したため困難だったようです。

日没になり雨に降られてどうにか農家に泊めてもらいます。

曾良の日記によると農家でなく翠桃宅(のちにでてくる黒羽藩家老浄法寺図書の弟)に泊まったようです。

その後馬を借りてしばらく進みますがここには可愛い女の子が登場します。これもフィクションだそうです。

紀行文と言っても事実だけ書いていたのでは旅情感が出ないので創作して初めていいものができるのでしょうかね。

「草刈るおのこ」「小娘」「野飼い馬」など那須野の原野をを幻想的に筋立てにしているそうです。陸奥を舞台にした謡曲「錦木」など意識しているという説もあります。ただぶらりと旅に出たわけではなく事前調査万全ででかけたのでしょう。

江戸時代から、いやもっと昔から日本の5月には新緑と青空を泳ぐ鯉のぼりの風景があったのでしょうね。

日本の一番いい季節です。

 

奥の細道(那須)

那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかかりて、直進(すぐみち)をゆかんとす。遥かに一村を見かけて行くに、雨降日暮る。

那須の黒羽に知人がいるのでこれより本街道を行かずにまっすぐな近道をして行くことにした。はるか向こうに見える一村を目当てに行くと雨が降ってきて日も暮れてしまった。

農夫の家に一夜をかりて明ければ又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈るおのこになげきよれば、野夫といえども、さすがに情しらぬには非ず。

そこで農家の家に一夜をかりて夜が明けるとまた一面の野原を歩く。と、原の中に放し飼いの馬がいた。草を刈っていた農夫に馬を貸してくれと頼みこむと田舎の人とはいえ人情を持ち合わせていた。

「いかがすべきや。されども此野は縦横にわかれていてうゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう待たれば、此の馬のとどまる所にて馬を返し給え」とかし侍りぬ。

「どうしたものかな。忙しいので案内するわけにもいかないがこの辺は道がむやみやたらに分かれていて初めて旅する人にとっては道に迷いそうです。この馬に乗って行って止まったところで馬を返してください」

ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云う。聞きなれぬ名のやさしければ、

子供が二人馬の跡をついて走ってくる。一人は可愛らしい女の子で「かさね」という名前だ。あまり聞きなれない名前が優雅なので

かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名成るべし   曾良

可愛らしい女の子をよく撫子にたとえるが、花弁を八重に重ねた(かさね)八重撫子の名であろう

やがて人里に至れば、あたひを鞍つぼに結びつけて馬を返しぬ。

ほどなく人家のある村里に着いたので、駄賃を鞍壺のところに結んで馬を返した。

 

「憧れの日光を見た後でなんだか鄙びた場所になってしまいましたね」

「日は暮れるし雨は降ってくるし心細いね。あれに農家が見えてきた。曾良さん!宿泊交渉してきてよ」

「有名人なんだから自分でお願いしたら?僕の行くところにはいつも人が待っていると自慢してるじゃないですか」

「僕は大所高所の人だから細かいこと苦手なんだ」

「頭下げるの嫌いな人ですねぇ」

「宿泊 O K で~す」

(翌朝)

「今日も野原を歩くかと思っていたら馬を借りられてよかったね」

「レンタカーいやレンタホースですね。その上、乗り捨て自由、料金後払い。気が利いてますよね」

「更には自分で車庫いや馬屋まで帰って行く。まさに自動運転。スバル、レガシィの自動運転より優れもの。ガソリンも食わなくてなおさらいいや」

「後ろから可愛い女の子がついてくるよ。曾良さん飴玉でも持っていないのかい?」

「いや何もないから手品でもやってみましょうか」

「お嬢ちゃん!この横縞手ぬぐい見ていてね。ぐるぐるって丸めて懐に入れるでしょう。そして出したら縦縞になっていた。不思議だよね」

「ちっとも面白くない!!」

「今どきの子にマギー司郎の真似したってうけないよ」

「ところでお嬢ちゃん年はいくつ?」

「おいおい女性に年を訊いたら失礼だよ」

「失礼じゃないけど、個人情報だから簡単に言わない!」

「ギャフーン。今どきの子はしっかりしているね」 

「それじゃ名前も教えてくれないね」

「うん。あだ名なら教えてあげる!」

「源氏名なんていうかと思った」

「ぞうりに(かさね)って書いてあるよ」

「ばれたか~」

「撫子みたいに可愛いからつけたのかな?それとも将来はなでしこジャパンみたいに活躍してほしいのかな」

「どうでもいいけど私の名前をかたっておれおれ詐欺なんかやらないでね」

「ウーン。最後まで寂しい世の中になったのを感じるねぇ」

 

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5月(美浜区の海岸通り)

2016年05月01日 | 日記

5月になりましたね。

毎年書いていますが日本で一番いい季節です。自宅にいても遠出しても若葉の美しい自然が身近にあります。

初夏を楽しみましょう。

いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす

                    正岡子規

いちはつはアヤメ科の多年草で5月頃咲きます。漢字では「鳶尾」「一八」と書くそうでで中国原産。

花言葉は「付き合い上手」「使者」「火災」

子規は病が重くなってきておそらく来年の春を迎えることができないわが命と思っています。最後の春が目の前で過ぎていく。

毎年桜が咲き、菖蒲、紫陽花、向日葵、菊の花と移って行きますが今年が見納めかなどと考えるとどんなに淋しいでしょう。

元気でも季節の移ろいを十分に楽しみたいものです。

 

さて人工海浜では日本一長い千葉市の海辺ですが「ザ・サーフ オーシャンテラス」という東京湾を一望できる民間活力をを導入した新施設が出来ました。

ぜひ東京の人も近いので千葉市の都市型ビーチに来てみませんか。東京湾の水も綺麗になりました。

バンケット

130人の着席可能な宴会場

ホール

音楽イベント、ギャラリー、ウェディングなどさまざまな利用が可能なホール

レストラン・ベーカリーカフェ

レストラン入り口

雄大な海辺と空を見渡せるシーサイドレストラン。

 

定休日   火・水(祝日除く) レストランは火定休

住所    千葉市美浜区磯辺2-8-3 稲毛公園内

アクセス JR新検見川駅南口・JR検見川浜北口から「稲毛ヨットハーバー行終点」

 

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