遊行柳(ゆぎょうやなぎ)に行こうと東北線の黒田原駅にやって来ました。
かつての大動脈、東北線も時間帯によっては2両編成の電車の時もあります。
でも寝台列車カシオペアもこの線路の上を走っていたのかと思うとちょっとうれしいですね。
駅前は閑散としています。
遊行柳の近くのバス停、「芦野支所前」を通る伊王野行バスは一日4本です。8時10分のバスは出たばかり、次は14時15分です。
通りの先にタクシーの看板が見えたので2500円もかけて芭蕉さんも見た柳のある場所に行ってみました。
少し走ると新緑の穏やかな丘陵が見えてきました。
今でも観光客はそこそこ来ているのでしょうが芭蕉の頃はもっと有名だったみたいです。
謡曲「遊行柳」においては遊行上人(一遍上人)が奥州下向の際、朽木の柳の精が現れて西行の歌が詠まれた場所を教えたということになっています。
その西行法師の歌ですが
「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」(新古今集)
(旅に疲れて道の脇に清水流れる柳の木の下でしばらく休もうと立ちどまった)
芭蕉は松島や平泉に行くのを期待していたわけですが途中の当時としては有名な観光地をきちんとプランをたてて寄って行ったんですね。
実際に行ってみて伝え聞いたのとのギャップもまた計算の内だったのでしょう。
あぜ道の近くにあるので県道沿いの遊行庵(無料休息所)駐車場で降りました。
この辺はハイキングコースとしても整備されていて時間があればゆっくり歩いてみたいところです。
周りは見渡す限りの田園地帯です。まわりの山というか丘陵が低いので穏やかな景色になっています。
水田は構造改善事業のおかげか一枚一枚が大きな区画となっていて美しい景色になっています。芭蕉が訪れた時も田植えのシーズンだったかもしれません。
典型的な日本の水田と農村の風景です。
あぜ道を歩いて行くと入り口のような門柱がありその先に柳が見えてきました。
さらにその先に小さな神社があり後ろは鏡山です。
芭蕉が見た柳からでは何代目かの植え替えられた木でしょうか。
芭蕉はこの柳を見て大いに感激したのでしょう。
何と言っても旅の歌人西行に思慕し私淑することが深かったのですから。
今では農地の整理が行われて地形が変わり小川が脇には流れていません。
なおこの柳は昭和49年4月頃植えられたそうです。
田一枚~の句が書いてある石碑
遊行柳の案内
その先には温泉神社があります。
裏の鏡山に続く小道です。
奥の細道に起承転結があるならここで「起」の部分が終わりいよいよ白河の関から奥州路に入ります。
帰りはやはり一日4本の駅に向かうバスの時間に(10時近く、たぶん8時10分の折り返し)間に合いそうなので緑の丘陵をのんびり見る暇もなくバス停に走りました。
停留場に着くとすぐに道の向こうから東野(とうや)交通の小さなバスがやってきました。
バスに乗ると誰も乗っていませんでした。ここまで空気を運んでいたんですね。運転手さんも給料は同じでもお客さん乗せて走りたいですよね。
それでも運賃案内はデジタルの掲示板、もちろん冷暖房完備、ちゃんと設備投資しています。時間どおりの運行です。ハードもソフトもバッチリ。
「田舎のバスはおんぼろ車」などという歌がありましたが昔の話。
この辺が日本の隅々まで安心して旅行が出来るんですよね。
奥の細道(殺生石・遊行柳) 後半部分
又、清水流るるの柳は、蘆野の里にあり、田の畔に残る。
西行法師が「清水流るる柳陰」と詠んだ柳は芦野の里にあって、田のあぜの間に残っている。
此所の郡守戸部某の「此柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思いしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
この地の領主戸部なにがしが「この柳を見せたいものだ」と、おりあるごとにおっしゃていたのを、どのあたりにあるのだろうか思っていたが今日ここに立ち寄って休んだ。
田一枚 植えて立ち去る 柳かな
この句は解釈が難しいといわれています。
ここでは労働も幸福の営み。私も田植えしたかのような心持になった。さようならこの地のシンボル柳さん。
とか
西行の感慨に浸るうちに、すでに田一枚(早乙女が)を植えてしまったのだ。
嵐山陽光三郎さんは
柳の精霊が田を一枚植えて立ち去っていった。早乙女が田植えをしているのを見ているうちにふとそんな情景を幻視してしまった。
森敦さんは
柳の精の老人が現れて舞い、舞終わってただ柳だけが取り残されている。(この年になると懐かしい人がみんなが逝ってしまうのです)
森敦「われもまたおくのほそ道」
文庫本で200pですが1200円もします。