ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

いきいき茨城(コキア)

2017年10月27日 | 旅行

国営ひたち海浜公園にやって来ました。

何回か来ていますがコキアが紅葉している頃は初めてです。

中央ゲートからはいると園内を一周するシーサイドトレインが待っています。

総面積350ha,現在はその内の200haが開園しているそうでとにかく広い。

観覧車なんかもあったりして子供たちが喜びそうな乗り物が沢山あります。夕方なので乗客も少ないようです。

今回はコキアを見るだけで時間も押しているので見晴らしの丘に急ぎます。

なんという名前か分かりませんがススキの親分みたいな草が生えています。

観覧車も逆光で写すとまた違った感じです。

コキアのシーズンは盛り上がる時でしょうか。道路上まで案内が貼ってありました。

みはらしの丘が見えてきました。

今年はコスモスの花が何処に行ってもあまり綺麗ではありません。

コキアは原産は南ヨーロッパですが中国から渡来したそうです。

和名はホウキグサ

昔はこの茎を乾燥させてほうきを作ったそうです。そう言われると親しみがわきます。

丘の頂上まで沢山の観光客。

日本人も暇な人が多くなったなと思っていると半分ぐらいは中国語や韓国語を話している人達でした。

先ほどのトレインがみはらし広場駅に到着です。

軌道が敷設されているミニトレインだったらご隠居も乗ってみたいのですが・・・・。

丘の頂上に立つと海が見えました。

海の近くなので風が強かった。

反対側を見ると馬鹿が続々と登ってきます。

ご隠居も馬鹿の一人でした。

今回はコキアを見るだけに来たのでこれで終わりです。撤収します。

 

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いきいき茨城(那珂湊)

2017年10月22日 | 旅行

列島は台風の接近で全国的に荒れ模様です。(10月22日)

千葉市内も朝から断続的に雨が降っています。皆様のほうではどうでしょうか。

まぁこういう天気には何処にも出かけられないので、のんびりお茶でも飲みながら雨の休日を楽しみましょかね。

 

先日TVのニュースでひたち海浜公園のコキヤが綺麗だということで出かけてみました。

ご隠居は飽きっぽいので花なんかを一日じっくり見ていられないのでまずは那珂湊で美味しい物でも食べようと思いました。

ひたちなか海浜鉄道勝田駅です。キハ11が入線して来ました。

まずはひたちなか海浜鉄道湊線に乗りましょう。 JR勝田駅ー阿字ヶ浦駅間14.3KMです。

一日フリー切符を求めました。

この鉄道は大正2年に運行を開始した歴史がある会社です。上野から常磐線特急で一時間余りで勝田駅に着き、湊線で広々とした車窓が楽しめます。

すぐに那珂湊駅に到着。案内板が面白いですね。

空が広く感じられます。

駅の外から見た那珂湊駅。

駅舎内は静か。時間が止まっているようです。

ここも駅猫「おさむ」と妹分の「ミニさむ」がいるそうですが駅員にどこにいるか聞いたら「事務所で昼寝中です」とか。

おこすのも悪いから写真は止めておきました。

さて天気も良かったので少し歩いてみました。

山上門。市指定有形文化財。

水戸藩小石川屋敷(東京都文京区)に設けられた勅使奉迎用の門で形式は薬医門。

昭和11年にこちらに移築したそうです。この日は誰もいなくてちょっと淋しそうでした。

幕末に江戸では西郷隆盛もこの門を出入りしたとか。

那珂湊反射炉跡。県指定史跡。

反射炉と言えば伊豆の韮山反射炉が有名ですがこちらは水戸藩9代藩主徳川斉昭公が1857年に国防の観点から造られた大砲鋳造所です。

1864年の騒乱で破壊され昭和12年に実物大の復元模型です。

オランダの技術を学んで20門の大砲を作ったそうです。

日本人は昔から新しい技術を学んですぐ時代に対応するんですね。

今は日本も技術大国、発展途上国にどんどん新しいものを指導してあげたらいいのにと思います。

 

町を歩いていると小さな天満宮がありました。

水戸光圀公も社参、道真公の御神像を造らせました。誰もいませんでした。

さてお腹もすいてきたので那珂湊おさかな市場に行ってみましょう。

平日にもかかわらず観光バスが何台も止まってここだけはすごい賑わいです。

駐車場に入る車がかなり並んで待っていて休日は大変な騒ぎだろうなと思いました。

干物がお日様に当たって輝いています。天日干しの干物は美味しそうです。

目の前は那珂湊漁港の海が広がっています。

この漁船もどのくらいの総トン数かわかりませんがかなり遠洋に乗り出していくのでしょうか。

それでは昼食です。

当ブログは食に関しては疎いので料理の美味しい店とかは紹介できません。

とりあえずは少しは行列ができている店に的を絞って入ってみました。

当店おすすめ「二色丼」を頼んでみました。1300円。

味は・・・・・・。うーん、どこにでもある感じかな。

ひたちなか海浜鉄道の終点、阿字ヶ浦駅に着きました。

ここも案内板がお洒落です。

役目の終わった古い車両が青空の下にぽつんと止まっていました。

駅前は何もありませんが少し歩くと海岸が広がっていて「磯遊び王国」とか海水浴場が広がりホテルや民宿が並んでいます。

冬に来たらあんこう鍋が美味しそうです。

そしてもうすぐ(徒歩約30分、バス便あり)ひたち海浜公園の入り口です。

 

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奥の細道旅行譚(加茂水族館のクラゲ)

2017年10月19日 | 旅行

湯野浜温泉から海岸沿いを走り港町加茂にやって来ました。

港から朝の鳥海山が見えました。

江戸時代、北前船の中継港として酒田に次ぐ海上交通の要衝として栄えていたそうです。

港を囲む小高い丘には神社仏閣が多数存在して、商港時代の名残りの蔵や民家、狭い路地などが残っています。

丘の上に立つ荒崎灯台。

日本各地何処に行っても海があり灯台がそびえています。嬉しい景色です。

この灯台の下に目指す加茂水族館がありました。

早速中に入ってみましょう。

クラゲ展示数では(約50種)は世界一だそうです。

平成9年頃は来場者数約92000人まで落ち込みました。入館者のいない日もあったとか。

しかしサンゴの水槽で偶然クラゲが発生したのを展示に結び付けました。その後有為曲折はありましたがクラゲに特化する水族館として年間来場者数約30万人になりました。

最近この話はTVのドキュメント番組でも何回も紹介されています。

どんな組織でもトップがきちんとした理念を持って行動すれば部下はついて行くのです。そして繁昌して尊敬される企業体になります。

下村脩先生がノーベル化学賞をとった緑色蛍光タンパク質の研究はオンワンクラゲに由来するということでもこの水族館が脚光を浴びましたね。

入り口の脇にスタンプがあったのでまずはもらったパンフレットに押しておきました。

さてクラゲのほうですがご隠居は水族館の写真は苦手なのであまりよく撮れませんでした。

クラゲの解説コーナーです。

宇宙の世界みたいですね。

この水族館の最大の売り物、クラゲドリームシアターです。

直径5mの世界最大級の水槽の中でゆらゆら揺れるミズクラゲが心を癒してくれません。

実物を見るともっと本当に素晴らしい。

この解説のパンフレットのようにいつかは上手に撮りたいものです。

外に出るとほかの水族館と同じようにアシカやアザラシのショーをやっていました。

クラゲが癒されると言っても愛嬌振りまいてくれたりはしないのでやっぱりこういうものも水族館では必要でしょうね。

子供達が大喜びでした。

さてこれをもって庄内、出羽三山の旅は終わります。千葉に帰りました。

旅は帰る自宅があるからいいのですよね。

 

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奥の細道旅行譚(鶴岡市)

2017年10月15日 | 旅行

湯殿山からの長い道のりでしたがようやく鶴岡市内に入って来ました。

まずは松が丘農場です。

明治5年に旧庄内藩士3000人が刀を鍬に持ちかえて開墾した一帯です。

月山山麓のすそ野に広がる225haの広大な開墾地には幾多の困難を乗り越えて現在まで続いているそうです。

夏の終わりにやって来たせいでしょうか。セミの鳴き声も最後というくらいに鳴いてはいましたが夕日が傾き始めなんだかちょっと淋しそうでした。

冬は雪が沢山降って、たいした防寒設備のなかった昔。武士の生活から一変した苦労は大変だったろうなと思いました。

松が丘開墾記念館(一番蚕室)

明治8年に建造。桁行37.8m、梁間9m、2階建ての上に、更に通風換気の越屋根が取り付けられています。

中に入ってみました。

1階の展示室は松が丘開墾資料、2階は全国の土人形、土鈴などが展示してありました。

床などはピカピカに掃除されています。わが家の事を考えると恥ずかしい。

更に記念館を出て歩いて行くと庄内映画村記念館(五番蚕室)がありました。

「おしん」などの室内セット、「おくりびと」の棺での入棺体験などいろいろ楽しめそうでしたが

先を急ぐので入館はあきらめました。

そして鶴岡市の中心部に入り鶴岡公園のお堀が見えてきました。

鶴岡市と言えばやはり藤沢修平の作品でしょうか。

藤沢修平さんは昭和2年に鶴岡市に生まれ山形師範学校を卒業、「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞しました。

どの作品も読みやすくて人間の心が優しく描かれていてご隠居も大好きです。

もっとも作品も多いので題名を見ただけではよくわからなくて2-30ページ進んでから昔読んだことがあるななどと思ったりします。

まぁ少しぼけてきたこともあります。

この「蝉しぐれ」は海坂藩ということになっていますが庄内藩のことだと思います。

 

夏の景色

いちめんの青い田圃は早朝の日射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接しているあたりは、まだ夜の名残りの霧が残っていた。

じっと動かない霧も、朝の光を受けてかすかに赤らんで見える。

そしてこの早い時刻に、もう田圃を見回っている人間がいた。

黒い人影は膝の上あたりまで稲に埋もれながら、ゆっくり遠ざかって行く。

頭上の欅の葉かげあたりではにいにい蝉が鳴いている。

快さに文四郎は、束の間放心していたようだ。そして突然の悲鳴にその放心を破られた。

 

この近くに(鶴岡市馬場町4-6)藤沢修平記念館があるそうですが時間がないので割愛しました。

致道博物館にやって来ました。

あと30分で閉館ですがいいですかと言われ「写真撮ってすぐに帰ります」と言いました。

「そんなには急がなくてもいいですよ」と受付の人が笑っていました。

日本各地の城下町に行くと必ずこういう文化が香る博物館があります。

城下町は大好きです。

この博物館は鶴ヶ丘城の三の丸のあたり、庄内藩の御用屋敷になっていたところだそうです。

徳川四天王のひとり酒井忠次を祖として明治時代まで酒井氏が治めていました。

その酒井氏が郷土文化の向上をのため旧藩校致道館資料及び土地建物を寄付したそうです。

「致道」とは中国の古典「論語」の一節「君子学んで以って其の道を致す」にあるそうです。

敷地内には見学場所が沢山あるようです。またゆっくり来てみたいですね。

鳥海山も夕闇が迫ってきました。

今宵は湯野浜温泉に泊まりました。

翌朝、朝の海岸を散策しました。約1kmわたる白浜海岸が特徴です。

昔来た時よりなんだか元気がないような気もしますがそんなこと書いたら怒られるかな。

さあ長かった庄内地方の旅も、くらげの加茂水族館を残すだけになりました。

 

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奥の細道旅行譚(六十里越街道)

2017年10月10日 | 旅行

湯殿山を参拝してかつて出羽三山詣でで栄えた街道を朝日村から鶴岡市方面に走りました。

のどかな田園地帯、田圃に稲が実っています。

芭蕉一行も時期はもう少し早かったけれどこんな景色を見ながら歩いたのでしょうか。

この間曽良の旅日記のも何も記載がりません。

大日坊の仁王門の前に出ました。

平成12年仁王門修理のため屋根裏を検索したところ1279年仁王像運慶作と記された検札を発見して仁王門は鎌倉時代に創建されたことが証明されました。

湯殿山大日坊本殿

湯殿山は往時女人禁制の秘境であったため、弘法大師は女人の心を哀れみ、この地を撰び清め湯殿山大権現を招し、湯殿山のお沢八万八千仏をまつり、女の湯殿山として建てたのが大日坊の起こりとなっているそうです。

本堂に上がってお参りすると隣の部屋には沢山の観光客、信者が集まって住職が熱心に秘話を解説していました。

暗い部屋から外を眺めると秋の日差しが明るく輝いています。

冬になるとすごい雪が降って景色が一変するのでしょうか。

全国には24体の即身仏があるそうです。

そして庄内地方では三体が公開されています。

この大日坊では真如海上人の即身仏が拝観できます。

即身仏

衆生救済を願い厳しい修行の末みずからの肉体をミイラにして残したお坊さんです。

即身仏になるための修行

木食修行(もくじきしゅぎょう)

木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ経を読んだり呪をする。

まず腐敗の原因となる脂肪が燃焼され次に筋肉が糖として消費され皮下脂肪が少なくなり水分もなくなる。

土中入定(どちゅうにゅうじょう)

地下に穴を掘り石室を築きそこに入ります。

竹筒で空気穴を設け完全に埋められた行者は断食しながら鈴を鳴らし経を読みあげながら息が絶えます。

3年3か月

その鐘がの音が地上の人に聞こえなくなることで息が絶えます。

3年3か月後に掘り上げられると何もしなくてもミイラ(即身仏)になっているそうです。

恐ろしい話を聞いて境内に出ました。

今まで見ていた景色が厳しいものに感じられました。

 

さて大日坊から六十里越街道に入り注連寺に向かいます。

小説「月山」にも出てきた「春が来て大網までバスが来たという大網」「冬の間は越すことができない十王峠」それに七五三掛(しめかけ)などの地名が出てきます。

湯殿山注連寺 即身仏 恵眼院鉄門海上人が参拝できます。

天井の絵画が素晴らしい。撮影禁止なのでお見せできないのが残念です。

小説「月山」より

それにしても、道しるべは思い出したように建っていて、この新道には間違いないらしいが、だんだん小さな棒グイみたいなものになってきて、ついにそんなものも見えなくなってきました。

山あいの向こうからは、送電線の鉄柱の小さく見える山並みが迫って来て新道も尽きてしまいそうな気がするのです。

じじつ、注連寺は新道の尽きたところにあったので、足も疲れ不安にかられていると、ようやく山あいから漏れる夕日に、銅葺の屋根を輝かしている大きなお寺が見えてきました。

しかも、山は暮れるのがはやく、そして寺がもうそこにあるところに来ながらも、たどり着いたときは境内もすでに暗く、花がつくられているらしいのに、かすかな香りばかりが闇に漂っていたのです。

かつては森敦文庫もあったそうですが朽ちて今はありません。

日本最大級の大鰐口 

直径5.5尺 重さ百貫目

七五三掛桜(しめかけさくら)

咲き始めは白色、次第に桃色に変化するという神秘的な魅力があるそうです。

お寺から晴れている日は月山が見えます。

雪囲いのための桟木が残されていました。

森敦は昭和26年晩夏からひと冬をこの寺で過ごした体験を基に描かれた「月山」です。

大作家はここから遠く月山を望んでどんなことを考えていたのでしょうか。

単なる観光客・凡人のご隠居にはとうてい分かりません。

 

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奥の細道旅行譚(湯殿山)

2017年10月06日 | 旅行

月山から神秘の霊域、湯殿山にやって来ました。

便利なことに有料道路がありました。

昔から湯殿山で経験したことは「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められています。

駐車場を出ると大きな案内図がありました。

先日いつも行っている床屋さんのばあやに湯殿山は神秘的でご利益がありそうだと話しました。

「あたしも30年ぐらい前に行ったことあるけどご神体からお湯が流れていてさ、すごいよね」

「湯殿山の事べらべらしゃべるとご利益が無くなるというか罰が当たるかもしれないよ」

「だって30年もお客さんに喋っているけど罰が当たるどころかますます繁昌しているよ」

「そうか、少しぐらいブログに書いても神様からクレームはこないかね」

「どっちみち野崎さんのブログなんかたいして見ている人もいないだろうけど、少しは宣伝になって参拝する人も増えたりして感謝状でもくるかもしれないよ」

「ずいぶんだねぇ」

まずは度肝を抜くような大きな鳥居が現れました。

このへんはどのガイドブックを見ても載っています。肝心のご神体の岩などの写真がないのが不思議でしたがそういうことなのです。

こちらも大きい。

宿泊もできるみたいです。

近在の温泉なんかに泊まって美味しいものをたらふく食べて、二日酔い気分で参拝に来るよりこういうところで夜は静かに湯殿山の霊気にあたった方がいいかもしれません。

駐車場から先は一般御車は入れませんのでシャトルバスに乗ります。

もっともゆっくり歩いても30分ぐらいで高齢の人も登っていました。

ご隠居はもちろんバスに乗りました。

いよいよ本宮です。

ここから登ってご神体に向かいます。

よく撮影禁止でもスマホで隠し撮りしている人がいますがここではさすがにいないような気がしました。

 

神社では参拝所でお祓いを受け、500円払って、お守りと人形の形代(かたしろ)をいただきました。

紙の形代は水に濡らして流します。こうすることで身の汚れを俗界に置いて行くことになります。

そして履き物を脱いで裸足になり石敷きの道を歩くと湯の花に覆われた巨大な茶褐色の岩があり温泉が噴き出ていました。

噴出した温泉が足元も暖かく流れ、ぬらぬらとしてこの世のものとは思えない液体と言った感じ。いやぁすごい。

なんていったらいいのでしょうか。古代からこんな感じだったのでしょうか。猿の惑星という映画のワンシーンみたい。

そしてご神体の後を登り(上から見下ろすようになるのですがばあやの話では昔はなかったそうです)谷全体を見渡せる場所でもう一度拝みます。

駐車場の鳥居が見えます。この山々全体に神様が飛び回っているのですね。

ここは撮影禁止の場所ではありません。念のため。

駐車場まで下りてきたら急に冷たい風が吹いてきました。

パーカ(馬鹿ぁではない)を持って行って良かった。ユニクロで買ったんだぞぅ。

ご隠居はいずれ隣の聖のようになりたいと思っています。

南無・・・・・・・・・・・・。

 湯殿山では夢うつつとなりました。

 

出羽三山(湯殿山)

谷のかたはらに鍛冶小屋というあり。

この国の鍛冶、霊水を撰びて、ここに潔斎して、剣を打ち、ついに月山と銘を切って世に賞せられる。

かの龍泉に剣を淬(にら)ぐとかや、干将・獏耶(ばくや)の昔を慕う。

(中国には呉山に尋ねて龍泉の水に剣をきたえたという話があるが、この刀工の業績は干将・獏耶(刀の制作者の夫婦の名前)のいにしえの苦心の跡がしのばれる)

道に堪能の執浅からぬこと知れたり。

(まことに一芸に優れたものの執着心が浅くないのが分かる)

岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺なる桜つぼみ半ばに開けあり。

降り積む雪ノ下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花のこころわたりなし。

(降り積もる雪の下に埋もれながら、こうして春を忘れない花ごころには感銘を受ける)

炎天の梅花ここにかをるがごとし。

(禅家における炎天の梅花がまのあたりに香っているようだ)

行尊僧正の歌ここに思い出でて、なほあはれもまさりておぼゆ。

(「もろともにあわれと思へ山桜」と詠んだ行尊僧正を思い出される)

総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとどめてしるさず。

坊に帰れば阿闍梨の求めによりて三山巡礼の句、短冊に書く。

涼しさや ほの三日月の 羽黒山

(日が落ちて黒々とシルエットを浮きだたせている羽黒山の上に三日月がほのかに見える。神秘的で心も涼しくなる)

雲の峰 いくつ崩れて 月の山

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな

(他言を許さない湯殿山の尊厳さに対する感涙にぬらす私の袂。何も語らずともお山のありがたさはわかるでしょう)

湯殿山 銭踏む道の 涙かな(曾良)

(湯殿山は地に落ちたものを拾ってはならぬおきてで、地上におびただしく落ちている賽銭を踏んで参拝してもこの霊山の尊さに思わず涙がこぼれた)

 

 

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10月

2017年10月02日 | 日記

今年も早くも10月になってしまいましたね。

お変わりありませんか?空が澄んできて高く感じられます。近所の公園でのんびりする休日もいいでしょう。

毎年10月第一日曜日は美浜区民フェスティバルです。

今年は月初の1日になりました。

ご隠居の所属する美浜地区保護司会もテントを一張り借りてPR活動をしました。

特にぬり絵のコーナーが人気ありました。

絵の好きな子は進んで書きたいと言います。素質を伸ばしてあげるといいですよね。

小さな子供でも色にもこだわりがあり犬の子供とは違うなと思いました。

早朝から野菜の安売りなどがあるのでいつも午前中の方が混みます。

今年は天気も良くて盛会でした。

東京湾も奇麗でした。

お昼はみんなで輪になって弁当を食べてボランティア活動の休日が終わります。

毎年ステージも盛りだくさんです。

一人で走る100m走でも団体競技でも待っている間は緊張します。

最近はアルプスなんぞに行かなくてもテントが見かけられます。

おまけ

 

最近日が短くなってきましたね。

旅行に行ってもハイキングに行っても夕方になるとすぐに暗くなってしまいます。

しかしその分果物が豊富でご飯も美味しいですね。

 

停車すれば 旅人の笑む 及位駅(のぞき) 県境またぎ 秋の風ふく

 朝日歌壇 仙台市  沼沢修 さんの作品

 

奥羽本線で旅すると山形県の及位(のぞき)駅から院内駅になると秋田県です。

昔サラリーマンをやっている頃よく秋田に行きました。

まだ新幹線なんかない時代です。

「つばさ」というディーゼル特急で8時間近くかかりました。

ご隠居は若い頃から列車には何時間乗っていても苦にならないので特に帰りは楽しかったな。

新聞読んだり駅弁買って少しばかり、飲んだりうとうとしたりしていると上野駅です。

181系つばさ、運転手さんの帽子もつばの広い帽子でなくSLの機関士が着用するもので職人という感じがしました。

でも板谷峠を超える時はエンジンが空回りしているようでかなりゆっくりでした。それでもEF71に牽引してもらっていたんですね。

遠い昔の話です。出たての蜜柑でもほおばって旅したいですね。

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