ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

老人ホーム

2024年12月18日 | 日記

私のいる老人ホームは63人いて、満員です。こういう施設も混んでいるものですね。

朝ご飯を食べて、用のない時は3~4人で集まって話をしたりするのですが、難しい昔話が多いのです。

あくる日も同じ話を延々としている人もいます。三日目も全く同じ話をしています。

要するにぼけ老人が多く集まっています(笑)

まあ誰にも迷惑をかけてなければいいのですが。中には職員に怒鳴ったりして困らせる人もいます。

結構大変な仕事だと思います。

時々施設で犬を借りてくることがあります。アニマルセラピーというそうです。もちろん有料です。

犬を楽しく見てる人もいますが、嫌いなのにイベントに参加してる人もいます。

「苦手なのにどうして参加されているのですか」と尋ねると「何かやってると聞いて来ただけ」

と言って最後まで参加していました。

私自身は犬や猫は好きなので、見に行きますが昔飼っていた(柴犬など)ので目新しさはなかったです。

月に一度演奏会があります。もちろん有料です。

結構上手なのでしょうが、老人ホームということもあり古い歌が多いです。

仕方がないですが、たまに聞く程度です。

 

午後は、老人ホームを経営している会社のオリジナル体操を40分ほど毎日やっています。

それにはなるべく出るようにしています。

 

その後は部屋に帰って、ぶらぶらしていると窓の外にイトーヨーカドーが見えます。

四街道の駅のそばで食べ物屋さんや飲み屋が結構あります。

歌を歌うだけでなく歌の先生も来て上手に教えてくれたりもしています。

私もたまには行きたいのですが、夜なのでちょっと難しいです。

成田まで行くとこの辺では中心で、いろいろなものがあります。

今までぽつぽつと佐倉を紹介していましたが、全体的には紹介できていません。

佐倉城は千葉一族が作ったのですが、本格的には徳川家康が作り土井利勝が大々的に作り上げました。

その後、何代かの後堀田正倫が最後の城主になり、廃藩置県となりました。

敷地内で堀田家農業試験場などを作り、研究に明け暮れていたそうです。

明治6年に陸軍第一軍営東京鎮台の佐倉営所が設置されると、城内の建物は順次取り壊されました。

また、佐倉で有名な「順天堂」は、1843年に佐藤泰然が蘭医塾兼診療所として創設したものです。

佐倉順天堂記念館では、佐倉順天堂や医学史に関する資料が沢山あります。

戦後は国立歴史民俗資料館として京都とここにしかない資料館があります。

ただし、最近は見に行く人よりも従業員の方が多いように感じます。

現在でも基本的な町割・道筋は変わっておらず、往時を偲ばせる文化財が残されています。

 

今年の佐倉の秋祭りは70周年で、県知事があいさつしてくれました。

佐倉に秋の訪れを告げる秋祭りは、鍵の手のような城下町を三日間、山車・御神酒所・御輿が盛大に
練り歩きます。

山車や御神酒所がすれ違う様子や、佐倉囃子に合わせた「えっさのこらさえっさっさ」の掛け声、
踊りは佐倉ならではのものです。

麻賀多神社神輿は、千葉県最大級の大神輿であり、威勢良い掛け声とともに渡御される姿は勇壮です。

佐倉の秋祭りは古くから「麻賀多神社祭禮」が母体で、五穀豊穣に感謝する秋祭りです。

 

佐倉には料理も色々あり、楽しそうです。

ウナギも有名なもののひとつで、過去にもよく食べました。

市役所の中には地元のシェフが入った食堂があります。豚肩ロースのコンフィが1380円しますが、美味しかったです。

房州屋の本店は創業約90年の、佐倉市を代表する老舗蕎麦店です。

佐倉藩鎮守で佐倉七福神巡りの御朱印所である麻賀多神社と、登録有形文化財で日本遺産の旧平井家住宅に挟まれた、観光に極めて便利な立地です。

ここ房州屋のおすすめメニューは「とろろそば」で、佐倉市和田地区の名産品・大和芋を使用。

地元ならではの味を楽しめ、薬味にうずらの生卵も添えられます。

蕎麦の舟盛りは珍しく、少量づつ束ねて盛り付けるので、食べやすさも抜群です。

他にも男性に人気なのが3種類の味が楽しめる「三味そば」

女性には7種類以上の具材が入っている「佐倉七福神そば」が人気。

こちらは正月の佐倉七福神巡りを意識しており、温かい蕎麦です。

いずれもリーズナブルで美味しい上にボリュームも満点で、観光抜きでも蕎麦だけ食べに行きたくなります。

世間ではもうすぐクリスマスですね。この日記にもいくつかクリスマスにちなんだ写真を入れました。

私の老人ホームでもクリスマス会が土曜日に行われるそうです。

皆様もよいクリスマスを過ごせますように。

 

これで今年の日記はすべて終了です。皆様はどんな1年でしたでしょうか。

今年も色々ありましたが、来年もいい年になるといいですね。

私も来年もとりあえず生きて文章を考えたいと思います。

それではさようなら、よいお年をお過ごしください。

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王子稲荷神社

2024年12月13日 | 日記

今回は赤羽から東京に一つ戻って王子に来ました。

王子は路面電車が通っていて(東京でただ一つだけ)、早稲田から王子あたりがちょうど中間となります。

本当に路面電車は楽しいですよね。

路面電車の駅から飛鳥山の方に歩くと、春には桜が奇麗に咲いています。

ここには歩いてもすぐ来れますが、飛鳥パークレール(エスカルゴ)というモノレールが2~3分の距離ですがあります。

それに乗ってみるのもいいでしょう。

今日は、その話ではなく、王子稲荷の話です。

ここは東京都北区岸町に鎮座する神社です。

この神社が建立されたのは不明です。

源義家が奥州征伐(前九年の役)の際に、当社を深く信仰して「関東稲荷総司」と崇めたと伝わっています。

源頼家が「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称しました。

関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされていました。

義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていきました。

前九年の役とは、奥州の陸奥守に任命された源頼義(みなもとのよりよし)が、奥州(陸奥国)で半独立的な勢力を形成していた有力豪族・安倍氏を滅亡させた戦いのことです。

その後天正十八年(1590)に、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏が滅亡。

同年、関東移封によって徳川家康が江戸入り。

天正十九年(1591)、家康は「王子神社」と当社に朱印地200石を寄進。

将軍家祈願所に指定され、大いに崇敬を集めました。

今から約千年の昔、この附近一帯は野原や田畑ばかりでした。

その中に榎の大木がありそこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。

この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二月の晦日の夜関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの社に集まります。

ここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になっていたそうです。

当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。

これが「王子稲荷の狐火」と呼ばれています。

また、ここで有名なのが歌川広重による『名所江戸百景』より「王子装束ゑの木大晦日の狐火」。

装束榎に集まる狐たちの様子を描いたもの。

大晦日の夜に関八州の狐が装束を改めるために集ったという伝承を描いています。

装束榎の下にいる狐たちに視線を向けがちだがその奥にも注目です。

かなり細かいが小さく数多くの狐と狐火が描かれています。

狐火は実に壮観だったのでしょう。

装束稲荷神社は、王子稲荷神社から300mぐらい離れた場所にあります。

装束稲荷神社を出発して町を歩きながら王子稲荷神社に向かいます。

手狭な境内ではあるが、町の小さなお稲荷様としては綺麗に整備された一画です。

装束稲荷大明神と言われています。

御朱印は向かいにある「くらしの器王子ヤマワ」にて購入が可能です。

器の他、狐のお面も常時展示販売も行っています。

12月31日の夕方から神社を出発して、練り歩きながら王子稲荷に行きます。

王子稲荷では子供たちが踊りを踊って、その後獅子舞があり、1月1日の早朝に

「新年あけましておめでとうございます」となります。

来年もいい年になるといいですね。

12月31日の夕方からとなるのでもうすぐ行われます。

ぜひ皆様も行ってみてください。

王子から5分ほど歩いたところにある「名主の滝公園」です。

昔は東京都が管理していたころはよかったのですが、北区の管理になってからは寂しくなってしまいました。

それでもちょっとした観光ついでに寄ってみてください。

 

それではまた次回。

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