マンツーマン個人指導や少人数の講演を依頼出来ます 村上原基
会話 人付き合い 人生 老後 大工 田舎暮らし 自分を捨てる
健康 運動 趣味 管理 物忘れ防止 水彩画 異文化体験
●努力して真剣に生きてるが、どうしても上手く行かない人お越し下さい
滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)
村上原基人生勉強会 kazutakajiのtwilog 地図
「やれ」といってもやらない「やめろ」と言ってもやめない、だから変わらない
世の中が便利で豊かで自由で安全安心になっていると思うのは大きな錯覚だ
平和必しも平和ならず、健康必しも健康ならず、豊必しも豊ならず、
*****************************
テーマ:継ぎ接ぎ家具に学ぶ、人生暮らし方も自由に造り上げてしまう
見かけに拘る、見かけを気にする、見かけで判断するそして見かけに
自分の自由な思考や行動を縛られてしまう
私は55歳で山暮らしを始めた、当初は山ではやることがないが
そのうち20年以上あれこれ新しい仕事や趣味を身につけてきた
伐採・野菜・山菜・大工・卓球・剪定・・これらは今やかなりの腕
水彩画やブログや人生研究やアユ釣りや散髪、太極拳とか
田舎暮らしそのものも今や上~中級レベルで手慣れたものだ
都会の人はゲームやパソコンぐらいで、どれも出来ないと思う
日常生活で家具とか家の修理は殆ど自分でやるが、
まず楽しい、プロに頼むより費用も1/10以下で出来る
自分で設計できる、アイデアが入れられる、直せる、壊せる・・
現代は家の中に自分でデザインし自分で作った物がない
企業が大量生産した使い難い、ちぐはぐな製品が置かれている
皆どこかの他人が勝手に造った使いにくいものばかりだ
そして下の写真を観て欲しい、かなりの継ぎはぎだが
最近は木材を新たに買わないようにしているので、こんな
ひどい継ぎ接ぎ家具が偶然にできてしまうが愛着さえ感じる
これでも自分の部屋の特定の場所に合わせて幅や高さは選べるし
別の場所で使うには分解し自分で改造するのは簡単なことなのだ
買いに行かなくてよい、すぐに出来る、欲しいものが出来る
定寸の木材がないから歯切れの木材をビスで無造作につなぐ
多分どんな家にもこんなみすぼらしい家具はないだろう
効果なイタリヤ製の家具とか大塚やDINOSの家具なんてのが
自慢げに鎮座ましましている「でも、くだらん、つまらん、面倒」
木材買って来て自分でつくれば望むものがすぐに出来、改造も出来る
家具は本来その働きを買うのであって、見た目が美しいから買うような
ものではない。多くの物は同様なのだが「見た目の良さを第一」にして
買う人はかなり多い
ところが多くの人はむしろ本来大事なことより形や色や材質に
拘ってしまうが、そんなものは使い勝手が一番大事なのだが?
私は自動車もきちんと走れさえすればへこみや傷は全く気にしない
家もとりあえず雨露しのぎ住めれば都会でも田舎でも構わない
形や見かけを気にする人は無駄なお金と不便さを背負うことになる
化粧の濃い、高い衣服を身に着け、高い金使い頭の髪の毛を手入れし、
美しく優しさを演じるそういう女性に魅かれてしまう
これも見かけ重視の選び方の代表的なものである
女性でも見た目の美しさよりその女性の人間としての素晴らしさで
選ぶべきなのだが実際はそうはならない
私があえてボロ家具を出したのも家具は美しさより大事なのは
機能だということを大げさに示したいからである
猫を飼う女性が多い、確かに猫は可愛い、でも私は可愛いものに
自分の心を奪われるのは危険だとさえ考えている
可愛い・美しい・綺麗・恰好いい・・・と言うのにはまり込み過ぎ
てはいけない、本質ではなく可愛いということそのものに魅かれるのは
私には、麻薬・酒・快楽・・・のようなものに思えてしかたない
東京とか京都が好き、東京や京都を離れたくないという人も多いが
なにも東京や京都の本質が好きなのではなく、便利さ・賑やかさ・快楽
それに、何となくその雰囲気が好きなだけなのだ
そういう人は東京や京都に住み続けその他の土地に移り住む人はない
そういう人の特徴は、経験も少なく了見や見方が狭い人が多い
私は東京や京都に住んで華やかな土地にはまってはいけないと思った
東京や京都は、一度くらい住むのはよいがそこに一生かけて住むほど
本質的に魅力的な場所ではないし、むしろ副作用があると結論を出した
椅子も椅子の形より本質である椅子の機能を深く掘り下げるために
自由に椅子を作ってみることだ、綺麗とか体裁に縛られてはならない
現代は、自由な時代・個性の時代のはずなのだが、現実はそうではなく
がんじがらめに自らを縛って不自由な生き方に甘んじている
そんな不自由な生き方をしているのに、それを自由だ、素晴らしいと
思い込んでいるが、よく考えるとおかしい・愚かしい・悲しい
兎に角現代人は自分を知らぬ間に縛り付けている例えば
・私は都会で働いているだから田舎住まいは無理
(田舎から都会へ通勤者は多い、 田舎との二重生活)
・家族や友人と離れたくない
(新たな友人を作ればよい)
・都会は買い物も何でも豊でかつ便利、田舎なんてとんでもない
(今やネットで日本中から何でも買える)
・田舎には蛇や虫が多い、大の苦手だから
(幾らでも防げるし、一年慣れれば克服できる)
・大病院がない、大病したら困る
(新型コロナウイルスで大変だったのは都会だった)
出来る方法は考えず、何かと自分を縛り付けるつまらん理由を探し出す
今の様に皆が都会都会と言う時代にはむしろ逆を行くほうが
私の経験でもずーとメリットが大きいのだが、何かと尻込みする
田舎暮らしは、兎に角のんびりする、余裕がある、じたばたしない
どこも空いている、どこでも無料で駐車出来る、道路も空いている
現代人や都会人はややもすると見た目のきれいさに目を奪われて
意思決定をしてしまう、見た目中心に考える悪癖がついている
見た目には都会は素晴らしいように見えるが、実は多くのリスクが
潜在している。例えば水道・電気・ガス・橋・洪水・交通網・・・
過密でしかも財政逼迫し人口減少、高齢化人手不足、
更に気候変動によりリスクは加速度的に増加している認識を持つ
べきだろう。私は20年前にそのリスクを認識して田舎に移り住んだ
田舎のように不便とか見た目が良くないことにも進んで係わるとか
入り込むことが大事だ、そうしないで見かけばかり追っていると
予期せぬ災害や嘘誤魔化しのつまらん人生で終わることになる
「本質より見た目、見かけで決める」の癖がついているのである
余裕があって見かけにお金をかけられる人が注意すべきことは、
見かけにふさわしい中身を磨いておくことだ
そうしないと、嘘誤魔化しにどっぷり浸かることになるからである
ちなみに私は、次のようにどちらかと言うと人の逆をやって来た
・大都会から田舎へ
・大企業から零細企業へ
・贅沢から質素へ
・頑張ってから気軽にへ
・他人の真似はしない
・他人依存から何でも自分でやるように
・誰とも付き合う
綺麗好きな人というのがいる、そういう人はお金持ちか都会の狭い部屋
に暮らす人が多い、物は少なく、家具は気に入ったものを買う、そこに
いろいろなものを飾る壁紙も張り直す、そういう部屋にせっせと磨き上げ
そういう部屋に暮らすことを幸せと感じている
そういう人は確かに良いのだが私のような人間からすると
くだらん・つまらん・退屈・堅苦しい・不自由・・・なものと感じられる
以上は例に過ぎないが、真逆にすごい汚い部屋に平気で住む人もいる。
この世やこの世の人は皆自分の気に入ったものにはまり込む、
私が良くブログで訴えることが「都会の人は田舎にも住むべきだ、
できれば山にも住むべきだ」ということだが、都会がすべてという
コテコテの都会人はある意味滑稽であり、哀れにしか見えない
良いものは良い ではない
悪いものは悪い と決めつけてはならない
人間は自由で鷹揚であるべきだが、暮らし方や考え方がガンジガラメに
縛られている人が多いが、ある環境に長く疑問を感じずに暮らしていると
そうなるのが当然なのである
「私は自由よ」なんて言っている人に生き方が不自由な人が多い
「田舎、最低、あんなところ絶対に嫌」
「何よ、この家具、こんな汚い家具捨ててよ」
そういうふうにしてあっさり良い悪いをきめつけてしまう
「田舎はつまらない、都会は楽しい」と頭から決めつけている
そして都会の快楽や便利さにはまり込み都会だけに住み続ける
・大企業は良い、中小企業は最低
・金持ちは良い、さほど金持ちでない人は最低
・関東(関西)は最高、関西(関東)は最低
・・・・・・などと決めつけている人がなんと多いことか
良い悪いを決めつける人はおうおうにして薄っぺらな人だ
「私は継ぎ接ぎ家具を私としては満足しているし、使い勝手はむしろ良い」
人生も暮らしも人付き合い何でも形より中身だと私は思う
必しも優秀・真面目・楽しい・センスがよい人でなくてもよい
例えば市販の家具を買ってくるとピッタリサイズが合わないし
機能も満足できない、ましてや追加工とか修繕は無理
単に見栄えが良いので我慢して市販の家具を使ってしまう
私は我慢しない、寸法が合わなければ分解して切断し
寸歩通りの家具にしてしまう
使いにくければ自分で追加工してしまう
恰好はそこそこでよい、大事なのは使いやすさ
この写真のようにひどい継ぎ接ぎ家具でも全然平気だ
棚とはこういうもの、道具もない、大工も出来ないから買うしかない
万事がそのようにあっさり画一的に「こうでなければならない」と
「これはかくあるべきだ、あれはかくあるべきだ」と決めつける
そういう勝手な思い込みから一歩も出ようとしない
がんじがらめに縛られて生活している、人生は画一的で終わる
こんな継ぎ接ぎのものは我が家では沢山ある。かなり壊れても修繕する
壊れた所をとりあえず手持ちの材料で継ぎ接ぎし使えるようにする
日本古来の凝った継ぎ方は面倒、何の嘘誤魔化しもないこれこそ芸術?
人生を自分の思いのまま生きる姿勢は大事だ
人間関係でも相手にこせこせはしない、自分を自由に出す
相手と楽しい時間を過ごす努力はするが私は遠慮や
飾ったり、嘘誤魔化しはしない。最近の私は全てにおいてそうだ
55歳で都会も捨てた、あんな生き難い所、危険な場所、
不自由な場所は嫌だ。何だかんだと都会人は都会を自慢するが
私にしてみると、都会暮らしなんて笑いぐさだ
あんなに不安全・不安心な暮らしを自慢して何になるんだ?
自分に自信がないのか?過剰な便利さや快楽さは要らない
家族とか会社組織とか友人とかも、ともすると互いに互いを
束縛し不自由にしている、のびのびと付き合えていない
私は、55歳から田舎で一人暮らしを続けている
子供3人はあちこち関西の各地にバラバラに住んでいる
子供との付き合いや家族については全くの俺流だ
親しかった者ほど大人になったら離れて暮らすことだ
万事が自由で拘束はされない生き方をしている
この継ぎ接ぎ家具のような生き方をしませんか
ご要望で図面通りオーダーメイドの各種継ぎ接ぎ家具作りますよ
但し、材料はどんなのでもよいが持ち込みでお願いします
⇒安いし、速い
どこにいる?探しましょう❣
ゴーヤがなり始めました3個見つけて下さい、目下全部で10個なっていますが
ゴーヤジュース(バナナ+ゴーヤ+豆乳+リンゴ+カルピスでミキサー)
カマキリがいます。秋には枯れ葉に変化します、知ってますか?
会話 人付き合い 人生 老後 大工 田舎暮らし 自分を捨てる
健康 運動 趣味 管理 物忘れ防止 水彩画 異文化体験
●努力して真剣に生きてるが、どうしても上手く行かない人お越し下さい
滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)
村上原基人生勉強会 kazutakajiのtwilog 地図
「やれ」といってもやらない「やめろ」と言ってもやめない、だから変わらない
世の中が便利で豊かで自由で安全安心になっていると思うのは大きな錯覚だ
平和必しも平和ならず、健康必しも健康ならず、豊必しも豊ならず、
*****************************
テーマ:継ぎ接ぎ家具に学ぶ、人生暮らし方も自由に造り上げてしまう
見かけに拘る、見かけを気にする、見かけで判断するそして見かけに
自分の自由な思考や行動を縛られてしまう
私は55歳で山暮らしを始めた、当初は山ではやることがないが
そのうち20年以上あれこれ新しい仕事や趣味を身につけてきた
伐採・野菜・山菜・大工・卓球・剪定・・これらは今やかなりの腕
水彩画やブログや人生研究やアユ釣りや散髪、太極拳とか
田舎暮らしそのものも今や上~中級レベルで手慣れたものだ
都会の人はゲームやパソコンぐらいで、どれも出来ないと思う
日常生活で家具とか家の修理は殆ど自分でやるが、
まず楽しい、プロに頼むより費用も1/10以下で出来る
自分で設計できる、アイデアが入れられる、直せる、壊せる・・
現代は家の中に自分でデザインし自分で作った物がない
企業が大量生産した使い難い、ちぐはぐな製品が置かれている
皆どこかの他人が勝手に造った使いにくいものばかりだ
そして下の写真を観て欲しい、かなりの継ぎはぎだが
最近は木材を新たに買わないようにしているので、こんな
ひどい継ぎ接ぎ家具が偶然にできてしまうが愛着さえ感じる
これでも自分の部屋の特定の場所に合わせて幅や高さは選べるし
別の場所で使うには分解し自分で改造するのは簡単なことなのだ
買いに行かなくてよい、すぐに出来る、欲しいものが出来る
定寸の木材がないから歯切れの木材をビスで無造作につなぐ
多分どんな家にもこんなみすぼらしい家具はないだろう
効果なイタリヤ製の家具とか大塚やDINOSの家具なんてのが
自慢げに鎮座ましましている「でも、くだらん、つまらん、面倒」
木材買って来て自分でつくれば望むものがすぐに出来、改造も出来る
家具は本来その働きを買うのであって、見た目が美しいから買うような
ものではない。多くの物は同様なのだが「見た目の良さを第一」にして
買う人はかなり多い
ところが多くの人はむしろ本来大事なことより形や色や材質に
拘ってしまうが、そんなものは使い勝手が一番大事なのだが?
私は自動車もきちんと走れさえすればへこみや傷は全く気にしない
家もとりあえず雨露しのぎ住めれば都会でも田舎でも構わない
形や見かけを気にする人は無駄なお金と不便さを背負うことになる
化粧の濃い、高い衣服を身に着け、高い金使い頭の髪の毛を手入れし、
美しく優しさを演じるそういう女性に魅かれてしまう
これも見かけ重視の選び方の代表的なものである
女性でも見た目の美しさよりその女性の人間としての素晴らしさで
選ぶべきなのだが実際はそうはならない
私があえてボロ家具を出したのも家具は美しさより大事なのは
機能だということを大げさに示したいからである
猫を飼う女性が多い、確かに猫は可愛い、でも私は可愛いものに
自分の心を奪われるのは危険だとさえ考えている
可愛い・美しい・綺麗・恰好いい・・・と言うのにはまり込み過ぎ
てはいけない、本質ではなく可愛いということそのものに魅かれるのは
私には、麻薬・酒・快楽・・・のようなものに思えてしかたない
東京とか京都が好き、東京や京都を離れたくないという人も多いが
なにも東京や京都の本質が好きなのではなく、便利さ・賑やかさ・快楽
それに、何となくその雰囲気が好きなだけなのだ
そういう人は東京や京都に住み続けその他の土地に移り住む人はない
そういう人の特徴は、経験も少なく了見や見方が狭い人が多い
私は東京や京都に住んで華やかな土地にはまってはいけないと思った
東京や京都は、一度くらい住むのはよいがそこに一生かけて住むほど
本質的に魅力的な場所ではないし、むしろ副作用があると結論を出した
椅子も椅子の形より本質である椅子の機能を深く掘り下げるために
自由に椅子を作ってみることだ、綺麗とか体裁に縛られてはならない
現代は、自由な時代・個性の時代のはずなのだが、現実はそうではなく
がんじがらめに自らを縛って不自由な生き方に甘んじている
そんな不自由な生き方をしているのに、それを自由だ、素晴らしいと
思い込んでいるが、よく考えるとおかしい・愚かしい・悲しい
兎に角現代人は自分を知らぬ間に縛り付けている例えば
・私は都会で働いているだから田舎住まいは無理
(田舎から都会へ通勤者は多い、 田舎との二重生活)
・家族や友人と離れたくない
(新たな友人を作ればよい)
・都会は買い物も何でも豊でかつ便利、田舎なんてとんでもない
(今やネットで日本中から何でも買える)
・田舎には蛇や虫が多い、大の苦手だから
(幾らでも防げるし、一年慣れれば克服できる)
・大病院がない、大病したら困る
(新型コロナウイルスで大変だったのは都会だった)
出来る方法は考えず、何かと自分を縛り付けるつまらん理由を探し出す
今の様に皆が都会都会と言う時代にはむしろ逆を行くほうが
私の経験でもずーとメリットが大きいのだが、何かと尻込みする
田舎暮らしは、兎に角のんびりする、余裕がある、じたばたしない
どこも空いている、どこでも無料で駐車出来る、道路も空いている
現代人や都会人はややもすると見た目のきれいさに目を奪われて
意思決定をしてしまう、見た目中心に考える悪癖がついている
見た目には都会は素晴らしいように見えるが、実は多くのリスクが
潜在している。例えば水道・電気・ガス・橋・洪水・交通網・・・
過密でしかも財政逼迫し人口減少、高齢化人手不足、
更に気候変動によりリスクは加速度的に増加している認識を持つ
べきだろう。私は20年前にそのリスクを認識して田舎に移り住んだ
田舎のように不便とか見た目が良くないことにも進んで係わるとか
入り込むことが大事だ、そうしないで見かけばかり追っていると
予期せぬ災害や嘘誤魔化しのつまらん人生で終わることになる
「本質より見た目、見かけで決める」の癖がついているのである
余裕があって見かけにお金をかけられる人が注意すべきことは、
見かけにふさわしい中身を磨いておくことだ
そうしないと、嘘誤魔化しにどっぷり浸かることになるからである
ちなみに私は、次のようにどちらかと言うと人の逆をやって来た
・大都会から田舎へ
・大企業から零細企業へ
・贅沢から質素へ
・頑張ってから気軽にへ
・他人の真似はしない
・他人依存から何でも自分でやるように
・誰とも付き合う
綺麗好きな人というのがいる、そういう人はお金持ちか都会の狭い部屋
に暮らす人が多い、物は少なく、家具は気に入ったものを買う、そこに
いろいろなものを飾る壁紙も張り直す、そういう部屋にせっせと磨き上げ
そういう部屋に暮らすことを幸せと感じている
そういう人は確かに良いのだが私のような人間からすると
くだらん・つまらん・退屈・堅苦しい・不自由・・・なものと感じられる
以上は例に過ぎないが、真逆にすごい汚い部屋に平気で住む人もいる。
この世やこの世の人は皆自分の気に入ったものにはまり込む、
私が良くブログで訴えることが「都会の人は田舎にも住むべきだ、
できれば山にも住むべきだ」ということだが、都会がすべてという
コテコテの都会人はある意味滑稽であり、哀れにしか見えない
良いものは良い ではない
悪いものは悪い と決めつけてはならない
人間は自由で鷹揚であるべきだが、暮らし方や考え方がガンジガラメに
縛られている人が多いが、ある環境に長く疑問を感じずに暮らしていると
そうなるのが当然なのである
「私は自由よ」なんて言っている人に生き方が不自由な人が多い
「田舎、最低、あんなところ絶対に嫌」
「何よ、この家具、こんな汚い家具捨ててよ」
そういうふうにしてあっさり良い悪いをきめつけてしまう
「田舎はつまらない、都会は楽しい」と頭から決めつけている
そして都会の快楽や便利さにはまり込み都会だけに住み続ける
・大企業は良い、中小企業は最低
・金持ちは良い、さほど金持ちでない人は最低
・関東(関西)は最高、関西(関東)は最低
・・・・・・などと決めつけている人がなんと多いことか
良い悪いを決めつける人はおうおうにして薄っぺらな人だ
「私は継ぎ接ぎ家具を私としては満足しているし、使い勝手はむしろ良い」
人生も暮らしも人付き合い何でも形より中身だと私は思う
必しも優秀・真面目・楽しい・センスがよい人でなくてもよい
例えば市販の家具を買ってくるとピッタリサイズが合わないし
機能も満足できない、ましてや追加工とか修繕は無理
単に見栄えが良いので我慢して市販の家具を使ってしまう
私は我慢しない、寸法が合わなければ分解して切断し
寸歩通りの家具にしてしまう
使いにくければ自分で追加工してしまう
恰好はそこそこでよい、大事なのは使いやすさ
この写真のようにひどい継ぎ接ぎ家具でも全然平気だ
棚とはこういうもの、道具もない、大工も出来ないから買うしかない
万事がそのようにあっさり画一的に「こうでなければならない」と
「これはかくあるべきだ、あれはかくあるべきだ」と決めつける
そういう勝手な思い込みから一歩も出ようとしない
がんじがらめに縛られて生活している、人生は画一的で終わる
こんな継ぎ接ぎのものは我が家では沢山ある。かなり壊れても修繕する
壊れた所をとりあえず手持ちの材料で継ぎ接ぎし使えるようにする
日本古来の凝った継ぎ方は面倒、何の嘘誤魔化しもないこれこそ芸術?
人生を自分の思いのまま生きる姿勢は大事だ
人間関係でも相手にこせこせはしない、自分を自由に出す
相手と楽しい時間を過ごす努力はするが私は遠慮や
飾ったり、嘘誤魔化しはしない。最近の私は全てにおいてそうだ
55歳で都会も捨てた、あんな生き難い所、危険な場所、
不自由な場所は嫌だ。何だかんだと都会人は都会を自慢するが
私にしてみると、都会暮らしなんて笑いぐさだ
あんなに不安全・不安心な暮らしを自慢して何になるんだ?
自分に自信がないのか?過剰な便利さや快楽さは要らない
家族とか会社組織とか友人とかも、ともすると互いに互いを
束縛し不自由にしている、のびのびと付き合えていない
私は、55歳から田舎で一人暮らしを続けている
子供3人はあちこち関西の各地にバラバラに住んでいる
子供との付き合いや家族については全くの俺流だ
親しかった者ほど大人になったら離れて暮らすことだ
万事が自由で拘束はされない生き方をしている
この継ぎ接ぎ家具のような生き方をしませんか
ご要望で図面通りオーダーメイドの各種継ぎ接ぎ家具作りますよ
但し、材料はどんなのでもよいが持ち込みでお願いします
⇒安いし、速い
どこにいる?探しましょう❣
ゴーヤがなり始めました3個見つけて下さい、目下全部で10個なっていますが
ゴーヤジュース(バナナ+ゴーヤ+豆乳+リンゴ+カルピスでミキサー)
カマキリがいます。秋には枯れ葉に変化します、知ってますか?