村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

451.仕事は稼ぐためか、好きだからかやるのか?

2018-03-22 09:02:57 | 人生
講演例
  ・自分の人生論 ・山暮らし ・会話上達  ・老後の暮らし ・自主防災 ・資産運用 ・

   滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
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出来た・出来ます
テーマ
仕事は稼ぐためか、好きだからかやるのか?
仕事とは貴方はどう定義しますか?

 ・お金を稼ぐ、食っていくためのもの
  確かにそうじゃ
 ・つらいもの
    それもそうじゃ
 ・世の中の要望に応えて、その見返りにお金を稼ぐ
    まあまとめるとそうなるかね
 ・仕事するためには、好きだのどうだの言ってられない
 ・条件の良い仕事を得るためには自分の暮らしや人生さえも犠牲にする
しかし、本当にそうなんだろうか?何か肝心なものを忘れてないだろうか?

私の考えは仕事とは自分が一番楽しい事、好きな事
苦しみや悩みがあっても、自分が好きなこと、それが仕事
そうでなければ、それは仕事ではない、というのが私なりの定義

    ”好きではない事=仕事ではない” が私の昨今の基本的な信念だ

  注)好きと言っても一時の感情やエイヤーで好きということではない
    よくよく調べ、分析・評価した上で冷静に好きということですよ)
その意味が分かりにくいので、少しづつ説明して行く。というのは、
過去の私や世間一般は”仕事=好き”ではないように思うからだ

75歳の昨今のこの私の考えに反し
私の55歳以前の過去の仕事や人生は、必しも楽しくはなかったと思う
仕事のつらさが自分を逞しくするという考えも当時はあったと思う
戦後の経済成長期には「頑張ろう家建てる迄」みたいなことがあった
必死に我慢して仕事をする、苦しさにもじっと耐える、耐え忍ぶ、・・

就職氷河期の人は可哀想だったと思うが、売り手市場の今がチャンスだ
好きな仕事で一生を楽しく、幸せになるラストチャンスかもしれない

もし貴方のやっている仕事が好きではないのであれば、それは仕事ではない
それは処罰か拷問か奴隷か我慢忍耐だと、昨今の私は思うようになった
嫌な思いで作ったり・やったりしたものが他人を喜ばすなんてことはない
料理も嫌々しんどい思いをして作っものが美味しいはずがない

社長やお客様が心底喜ぶものは”仕事する自分が最も好きなもの”であろう
好きなことには全精神・全肉体の努力が結集して、雑念など全くない
ラーメン店や飲食店もそんなものなので、好きで真剣にやっている店が繁盛する
企業も成長するほど、上司は部下に厳しくなり、仕事はつらいものへと変わる
仕事とは食っていくため、家族を食わしていくためのもの、だから一生もんだが
好きでない仕事で人間関係や厳しいノルマで、一生苦しむなぞ、ぞーっとする

結婚出来ない・結婚後上手くいかない・子供産まない等の社会現象も
物事を好きになれない現代人が増えていることを示している
世代間ギャップというのがあるが、
昔の人は根性論的だが、最近の若者や今後はそうではないと思っている
「たかが好き、されど好き」好きなことにきちんと向き合えということだ

 ・好きって一体何なの?
 ・好きなものってある?
 ・どう好きなの、単なる好きなの?
 ・好きなものに対してどうしているの?
 ・ところで自分は好かれているの?
 ・どう好かれているの?
 ・自分のどういうところが好かれていると思うの?
 ・好き・・・・・
好きということをもっと深く考えてみなくてはならないのでは?


でも我々の一般的な実態はまだまだ”仕事=つらいもの”かもしれない
「そうだよ、仕事ってのは、すげーつらいものさ」「つらくないなんて仕事じゃねー」
その考えは正しいのだろうか???
好きでない仕事を嫌々やって魅力的な製品.サービスが生まれるのだろうか?
「好きこそものの上手なれ」と言うじゃないか

苦しみ・悩みというのは、私なりには嘘誤魔化しなんです
仕事=苦しみ・悩む=嘘誤魔化しなんて悲惨です
そんなつらい仕事で人生を送ってしまったら、人生を無駄に暮すことになる
一生かけても良い製品も良いサービスも何も生まれる訳がない
好きな仕事を選び、やっている最中に苦しみ悩みがあるのはむしろ歓迎だが
仕事を含め全てについて苦しみ悩みの多い間違った生きたかをしてしまう
人生も、苦しみ・悩む、辛い修行と言ったイメージがあるが、はたしてそうだろうか?

すなわち
仕事=好きなもの
すなわち仕事の見つけ方や会社の決め方がおかしい・怪しい
 ・理工系・文科系なんて区別はきっぱり捨てよう
 ・一流会社・二流会社、大会社零細企業などという区分もやめよう
 ・近くの会社と言うのもやめよう 
 ・いくらお金くれるからとか待遇がよいとかいうのもやめよう

そんな過去の仕事の選び方を一旦、エイヤーと捨ててしまいましょう
 世界中を旅行して自分の仕事を探すのなんてのは、良いことかも
 私のように全国各地に移り住んで仕事も変えていくなんてのも良いかもしれない
そういう中で好きな仕事を見つけたらよい、好きな事はそう簡単には見つからない

・俺は太っていて力もあるから相撲取りをやったが、実は好きじゃないし、すげーつらい
・成績よくて良い大学に入り、大会社に入ったが、全然面白くもない、つらいだけ
 なんて人も案外多い

単純に自分が好きなものを探すのはやってみて好きかどうかなのだから
すなわちあれこれ、やってみろ、次々に転職してみ、ということだ
現実は仕事に限らず好きなものが自分の周辺に少ないのではなかろうか?
・家好きじゃない
・父好きじゃない
・母好きじゃない
・先生好きじゃない
・部屋、洗面所、風呂、台所・・・好きじゃない
・洋服・靴好きじゃない
・友人、先生、兄弟・・・好きじゃない
・学校好きじゃない
・勉強好きじゃない
・趣味好きじゃない
幾つ好きなものがあるだろうか?
好きでもない都会に住み好きでもない人や環境にどっぷりハマっている

ところで、そういう自分自身は周囲の人に好かれているだろうか?貴方はどう?
何かを好きになるのも良いが、自分自身は他人に好かれないのは何とも悲しい
よく自分を飾るなとか自分に正直に生きろと言うが、それはそれで正しいが
間違うと我儘勝手な他人に好かれない嫌な自分になってしまう
だからと言って、他人に好かれるように自分を飾ったり誤魔化し自分を変えるというより、
時間をかけて、いろいろな体験を積み、自分を磨くことが自然に他人から好かれる元である
簡単に言えば、自然に振る舞うことだろうか、不自然な人は好かれないのだ
明るく元気で楽しく自然な人は、道端で偶然に会っても話し掛けたくなるし、
単に「おはよう」「こんにちわ」とか通り一遍の挨拶だけで通り過ぎることはなくなる

ところで何でもよいが、人生で非常に好きなことを発見出来ていますか?
それは幾つありますか?たった一つですか、三つも四つもありますか?
昔70歳以前には自分の人生において好きなものは食べる寝るくらいだった
「退職後はあれもこれも自由にやりたい」と思っていた人が現実には退屈男になる
実はあれこれ趣味の種や芽をもっているがそれを植えて育てる意欲がない
今の私はそういう点でいろいろな種や芽を自由に栽培している感じだ

現代人・都会人は暇が大嫌いだが、今の私は暇さえも好きになっている
暇で何もすることがない時間がやって来ると、「よく来たね」親愛の友来るだ

暇な時間に何だかんだとやってみると、過去嫌いなものが好きに変身する
しかし今は多くのものが好きだ、何も欲張って好きになったというより
気づいたらあれもこれも好きになって行ったのだった、現実にそんなことある

例えば(あまりに当たり前のものは書きませんが)
大工・山暮らし・家事・物書き・ガーデニング・絵描き・バイク・木伐採
自転車・会話・家のリフォーム・パソコン・資産運用およそ何でも好きだ
昔苦手だった会話や人付き合いも好きになり、今なら苦手だった営業も出来る
昔は絵描きや書や文書作成は最も苦手だったが、今は全くそんなことはない
あれほど嫌がっていた絵も、昨年トライしてみると、すぐに好きになった

言ってみれば、今私が好きな仕事や趣味の幅は、格段に広くなった
広くないと、好きな仕事の幅も極めて狭くなり、嫌いな仕事を選ぶはめになる
山暮らしを始めてから広大な管理放棄地の草抜きや木伐採を一人で淡々と
やっているうちに、そんなことでも今は、むしろ好きな事になっている
周囲の人からは「気の毒に草むしり,大変でしょ」なんて言われるが
そうしてみると、現在で私が好きな仕事は広大無辺になっている
すなわちどんな仕事も好きになれそうなのだ、なんとも幸せだ

好きなことが多い人   好きなことの深い人  何でも好きになれる人
は強いし、人生が豊かなのだ
反対にあれもこれも嫌いが多い人
は弱いし、人生は不幸になりがちだ


普通はそうはいかないし、かつての私のように仕事選びに苦しんでいるはず
私は今や人も誰でも付き合える、私が若ければ誰とも結婚できるかもしれない
しかし昔の私はそうではなかった、好きな人を探すのに苦労したし
人付き合いや会話がなっていなかったので大きな壁であった
現実に昔は孤独な時期が長かった、友人がいなかったし、かなりつらかった
どこでどう変わったのでしょうか?

”大学出た⇒会社に就職した⇒我慢して定年”=最悪な仕事選び
高校~大学では、自分な好きなものを発見する期間であって欲しい
嫌々、仕事や結婚生活を続けている可能性が大きいが、そんな不幸な事はない

 ・自分が好きなもの、一日やっていても疲れを知らないもの
 ・時間の経つのを忘れるような楽しくてしょうがない仕事
 ・毎朝楽しくで嬉しそうに会社に出かけるそんな仕事

そういう仕事こそが自分向きの人生を最大限に豊かにする仕事

大して好きではない仕事を選んでしまった場合には、
会社で挫折したり、上手くいかなかったり、ノイローゼになったりする
結婚・夫婦生活も同様で
 嬉しそうに、楽しく、話し・協力し・尊敬しあうそんな夫婦関係
 互いに大して好きでもないのに結婚してしまったら家庭は地獄でしかない

私の想像に過ぎないが、何となく上手く行かないとか悩んでいる人は
さほど好きではなかった仕事や物や人を、厳密に考えず
エイヤーか又は、「まっいいか」みたいに決めたせいではないかと思う
すなわち「元に原因あり」であって「今の問題ではない」ように思う
そんな時はクヨクヨ悩み続けるより、いっそ離婚や転職に梶を切るべきだ

仕事や結婚相手の人が好きではなかったから。   か又は
自分自身がだらしない頼りない人間だったという更に大元の原因でしょう

好きになることとは=
 ①相手をよく観察分析評価する
 ②自分が何を好きかをしっかり見極める
 ③自分自身がより幅の広い、しっかりした人間になる
  (他人から好かれる・求められる人に)

好きでないものや人を、好きだと思い込んで選んだのは実に不幸なことで
例えば
美味しそうなラーメンと思ってその店に入り注文したら不味かった
もっと事前にいろいろ調べ、店内を観察して入店すべきだったのです
結婚や就職は、その典型であり、余程好きでもない限り決めてはいけない

立派なことを言う私めも御多分に漏れず、過去は、好きでもないものを
さんざ買ったり、やったり、追求したりしてまいりました。
それ見い、谷あり山あり、苦あれば楽有りで、最初から上手くは行かない
と言われそうですが、私は私自身の苦い経験から言っているのであって、
苦い経験をお勧めではなく、「苦い経験をするな」と言いたいのです
苦い経験は当前とか苦い経験してこそ立派になれると信じないことです
もし苦しみ悩むことがあったら、その苦い経験から早く脱出して欲しい

舌切り雀の昔話をご存知だろうか:単なる思い込みは危険なり
優しい爺さんは小ぽけな荷物をもらい家に帰り開けると金銀財宝が出てきた
それを見た悪い婆さんが大きなツヅラを背負い家に帰る途中、中身をみると
石やお化けや恐ろしい虫が出てきた。
仕事や人を選ぶ場合多くの人は見かけで選び
それが自分にとって望ましいかどうかを慎重に考えないものなのである

大学進学そのもの=生涯の仕事決定ではない、単なる出発点に過ぎない
終身雇用がどうのこうのなんてのは3~4回転職してからの話なのだ
結婚も3~4人の人と付き合ってから結婚相手を決めるべきなのだ
まずは、自分の好きな事や人をじっくり見極めることが最も大切なのだ

過去を振り返ると、私の場合も、完璧に嬉しい楽しい仕事ではなかった
もし私が、100%好きな仕事をしていれば、大金持ち・大物になっただろう
好きな仕事を見つけた人が必しも100%成功するとは限らないが
好きな事は楽しいはずであり、そんな幸せなことはないはずなのである
プロのスポーツ競技選手はあたかも好きで楽しくやっているようだが
現実は苦しみや悩みを多く抱えており、そうでもないらしい
好きでやっているはずだが、意外にそうではないことも多いので要注意だ

大半の人は、私同様に「会社を辞めたい」と何度も思った人で、
(結婚では「この人とは、すぐにも別れたい」と思う人も多い)
最近の若者は、入社後1年持たない人や、1週間もたない人もいると聞く
しかし、それが正解かもしれない、「日本では3年は我慢せよ」と言うが、
嫌なことは3年やっても嫌なものであろうから、早く転職したほうが良い

結婚なんかも嫌な相手はせいぜい1週間とか1月で別れたほうが良い
2~3年暮らしてみると大半は、かなり思い違いな相手が多いのだから
結婚前に同棲し、その上で1年後に正式結婚すればよいかもしれないし
結婚式や披露宴は格安にやるか、ごく簡単なもので良いと思う
離婚しないように殊更に豪華絢爛な披露宴は止めよう
最期の結婚のようにして大盤振る舞いの披露宴とはナンセンス極まりない
結婚祝い金も3年後とか5年後にあげたらどうかと思う

ところで、今の私は、ある程度の人ならば誰でも好きになれる
昔より人を選ぶ幅は格段に広がったのだ、今結婚しない人が増えたのは
かつての私より更に幅の狭く、しかも付き合いベタが多いからだろう
あれもこれも出来ない人や我侭な人が増えている
例えば、最近はドライバーやトンカチ・のこぎりも使えない人が多い
出来ることはパソコンやスマホのキーを打つことだけという人も多い
そういう人は実に困った人で、仕事を頼んでも、人付き合いをしても
どちらも全く上手く出来ず、仕事も恋愛も結婚も100%失敗する

より好きな仕事をやることが真の幸せだが、給料等を優先してしまう
むしろ嫌いな事はすぐに辞めたほうがいいのかもしれない
「石の上にも3年」とか「ある期間我慢せい」と言ったのは昔のことだ
私流に言えば好きな事に対しては当てはまるが、嫌いなことは当てはまらない
会社も3~5年の間に「今の仕事は好きですか?」と聴いてやらねばならない

好きな仕事探し:
①物づくりか非物づくりか
②高度先端技術か既存技術か
③重労働か軽作業か
④田舎(山・海・平地)か地方都市か大都会か海外か
⑤座り仕事か経ち歩き仕事か
⑥研究職か非研究職か
⑦製造か販売か営業か事務か
⑧芸術(絵画・音楽・造形・文学・俳優・歌手)か非芸術か
⑨頭脳職か事務職か作業職か
⑩危険職か安全職か
⑪大企業か中堅企業か零細企業か自営か
⑫専門の狭い範囲か広い範囲の仕事か

先祖や親や兄弟の情報も参考になる。父母のどちらの血をひいたかも重要
子供も長男と長女は私に次男は妻の血を引いていて明らかに違いがある
得意な技術・技能は何か、学校の学科の成績はあまりに参考にならない
私は技術系だと言われ東京工業大学に入ったが、父の血筋は事務系だった
会社にも学業成績と社会での実力発揮のベクトルが正反対の人もかなりいた
例えば絵が好きだから画家だと決めつけずに、もっと範囲を広げるべきだ
技術や理科系だと思っていたら、意外と文科系なんて人も多い
私は、事務系でありながら、やや技術系なので、大きな利点・特徴である

仕事・結婚相手・住居を選ぶ時に最も大事なのは「心底好きかどうか」
(本当に心底好きでないと、失敗し、大きな成功や幸福を得られない)
しかも
自分自身も勉強し経験し鍛え異文化を体験し、自分自身の幅を広げるべきだ
(自分が狭い人は、好きな仕事や人をなかなか絞れない)
物事を考える時に悲観論になりがちでどんどん悪い方にはまり込みがち
(失敗・間違いに陥っても楽観論で早くそこから脱出すること)
出来れば物事を安易に毛嫌いせず、深く好きになるよう努力すべきだ

●好きを増やせ、それこそが幸せへの近道
●嫌いを減らせ、苦手を減らせ、それこそが幸せへの入口
 そのためには自分自身及び意識を大きく変えることだ
 固定感念を捨て去り、より自然に振る舞える自分になるべきだ
 得ようでなく、捨てようから始めることが肝心だ
 多くの嫌いは固定感念や自分のつまらん意識が邪魔しているのだ


最期にもう一度『好きこそ、物の上手なれ』(嫌うは、物の下手なれ)

解説引用: 好きこそ物の上手なれとは、どんなことであっても、
人は好きなものに対しては熱心に努力するので、上達が早いということ
出典:故事ことわざ辞典 このことわざの意味は…好きなコトであれば、
誰に強いられることもなく自分から取り組むことができ、
モチベーションを保ちながら継続して努力を続けることができるので、
スキルが比較的早く上がる、というもの
好きなことをやっている人には勝てない ...‎仕事でも同じこと
· ‎好きであれば「自律性」が保たれ、 · ‎寝ないでやれるのは好きだから


3年前に田中に引越しした時に床下のシロアリ駆除を行ない今度3年目の検査
そこで換気扇4台と全面炭を敷き詰めた。なんせ地下水が豊富、床下は土むき出し
湿気の多いところで、前回と合計100万円かかったが健康や家のためには納得
一戸建ての家は床下の湿気対策をすべきだ地震対策の重要な一つでもある
地震対策では柱がシロアリに食われていないことは絶対条件だから

床下換気扇朝10時~午後3時まで自動的に換気する

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450.ぶつぶつ文句言いに何の利益があるというのか?

2018-03-08 21:57:11 | 会話
指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
講演例:
  ・自分の人生論・山暮らし・会話上達・老後の暮らし・自力防災・嘘誤魔化し・資産運用

   滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
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ぶつぶつ文句言いに何の利益があるというのか?立派な大人になろう

昨今の家で親子/兄弟などが二人以上いれば、何かと互いに文句を言いあう
貴方は日常、誰かにぶつぶつ文句を言う頻度は多いですか少ないですか?
もし他人に面と向かって文句を言わない日がないという人は重症・要注意だ
私は現在、その文句言いから解放された一人として見解を述べてみたい

昭和初期、父が絶対的権力者で、まだ寿命も短かく、文句言いは父だけだった
しかし男女平等で父の権力も地に落ち、高齢化、核家族化、一人暮らしの現代は
欧米なみに安易に自分の意志を表明するようになり、ズバズバと文句を言う
言いたいことが言える、それ自体は、むしろ良い世の中になったのだが
ネットなどでも辺り構わず誹謗中傷も増えていると聞く、トランプさんもその一人
トランプみたいに文句が多い人は基本的に精神障害があると言わざるをえない
暑いの寒いの・好だの嫌いだの・面白いのつまらんのと言うような人は情緒不安定
自分の心を適正にコントロールできない、アクセルを踏みすぎ、急ブレーキが多い

昨今では、虐め・ハラスメント・DV・ネット炎上・虐待という形にエスカレートする
たかが文句と侮ってはならない、様々な悲惨な結果になる可能性が大きい
感情の抑揚が強く、感情を上手く抑制できない人は文句言いに走りやすい

互いに建設的議論したり、明るく意見を言い、聞き、受入れる文化が伴ってない
日本人は、相手と楽しく議論したり、相手を理解しようとする能力が欠如している
昔から、自分の意志を現さず、自分の意志を伝える努力をして来なかったのだ
その結果、日本の社会や企業や家庭の人間関係はバラバラ状態に崩壊している
日本の本音と建て前の文化も廃れつつある、過去の人間関係の基本は崩れた

単なる文句言いや、あまりにぶしつけな文句の言い方は厳禁なのだ
ヅケヅケ言うからには、他人の意見にもっとしっかり耳を傾けるべきなのだ
かつ、相手に対する思いやりは以前よりも数倍大事になるのだ
文句を、何も考えずに、ただ自分勝手に相手にぶっつけるのは愚か者のすること

言い変えれば、日本人は数段大人にならないといけないということである
昨今の日本で欠けていることが和気あいあいの家族の一体感であろうか?
残業もほどほどにして、週末や夕食や一家団欒を全員で楽しまんといかん
「日本流おもてなし」は、深みがない、内面(うちづら)は極めて悪い

日本のおもてなしは外だけ、家庭やご近所では喧嘩、揉め事が絶えない
文句言いによる家庭崩壊・夫婦崩壊・親子崩壊・兄弟崩壊・・・
そんな現代の日本人を尊敬できるわけがない

夫婦喧嘩・親子喧嘩・兄弟喧嘩その発端は些細な文句言いから始まる
長年の親友が一言の文句の言いあいであっさり親友解消なんてもよくある
私も同年配の兄弟や友達の家の夫婦喧嘩の悲惨さを漏れ聞く
離婚なんてのも長年の文句の言いあいが大量に溜まった果てのことだ
文句を言いあわない、互いに敬う、いたわり合う、讃えあうことも大事だ

ご近所同志のトラブルや喧嘩もニュースになったり、よく耳にする
逆に文句を言わず我慢すれば、心に憂さや嫌なものが溜まっていく

 ・叱りつける・・・上の者が下の者に強圧的に意見する
 ・本人に直接文句を言う・・・人によっては良いこともあるが、大方最悪
 ・直接ではないが聞こえるようにぶつぶつ言う・・・かえって陰湿になる
しかし結果的には、「何度文句を言っても、一向に改まらない」なのである
その結果文句自体よりも、改まらないこと自体が頭に来るようになるのである

もう文句の言い方が良いの悪いの、どうのこうのではなく、
 ・言われるほうは・・・煩いしつこい奴だと怒り
 ・言うほうは・・・全然改められないことに怒るのだ
ぶつぶつ文句を言うと、言い方はどうあれ、双方に何も良い効果はない
残るのは二人の間の不信感とわだかまりや恨みや怒りなどである
しつこくしないこと、暗く陰湿にならないこと、トコトンやっつけないこと

75歳の私は、他人に面と向かって文句を言わないことにしている
むしろ相手の良いところを褒め讃え、決して文句のための文句は言わない
人というのは、「自分は正しい」「相手が悪い」と信じているものだ
人とは自分にプライドを持っており、自分には甘く、相手にはきついのだ
他人に文句を言っても何のプラスもないのだが、親しさに甘えて
つい気に食わぬことをポンポンと面と向かって説教や苦情を言ってしまう
相手の立場を考えずに単に文句を言うのは、愚か・恥知らず・自分勝手だ

文句言いは、もう、病気だ、生活習慣病だ、難病だ、大病だ
ぶつぶつ文句が病気とは思わず「親切に言ってやる」と思う日本人が増えている
個人に向かっての批判・非難・文句が多い人は、実にみっともない
「私は子供のように駄々っ子です」と自ら言っているようなものだが
なかなか長年の癖は、頭や心に沁みついているから、なかなか直らない
人が、しつこく、ぶつぶつ文句を言うのは何故だろう?
人は「文句を言いたがりや」「黙って見過ごせない」から

ちなみに私も昔は、そういう普通のというか最低の文句言いであった
しかし山に20年暮した後の私は、文句が減り、更に全く文句を言わなくなった
文句を言わなくなった私からすると、文句の多い人々が不思議でならない
「ぶつぶつ文句を言うのは人として未熟な人間の証」だと悟ったとからなのだ
時々京都に行くが娘との会話もスムースだし、
何か娘に怒られても「すまんすまん」ですます。私はもはや爺さんなんです
確かに私が悪いからだ

例えば、私なりに食器を綺麗に洗っているが、娘の求める綺麗さとは異なる
しかし、娘がお父さんの洗った食器が汚いというのだから、素直に認める
20年の山暮らしで、他人に文句を言うことは、私の頭や心からなくなった
他人からの文句は「有難い」と素直に受け入れる私になったのだ
山暮らしが過去の固定観念を捨てさせ、正しい観念を植え付けてくれた
凄まじい固定観念は、都会暮らしのままでは普通、容易には拭い去れない
都会というのは人の心も固くし、閉ざさせてしまうものなのだ

会話指導もする私にとっても、会話という面からも「文句言い」は最悪だ
困ったことに、会話好きに文句言いの人が案外多い
すなわち、会話上手の人は、油断して、本性を露わにしてしまうのだ
会話が上手いのに、文句言いでは、何のための会話上達なのかわからない
会話の上手の基本の中で一番大事なことは「相手を不愉快にさせないこと」
もし言う場合は、相手を十分に思いやり、相手の気分を害さないように注意だ

文句のつけどころがないなんて立派な人はいない、むしろ問題だらけの人が大多数
家で、やたら文句を言われては、心が休まらない、家は気を抜き休める場所だ
あれも、これも面と向かって
文句つけていたら、一日中、文句言いに付き合わなければならない
「口数が多すぎる」そのために言わんでもいい文句も沢山言ってしまう
会社で朝から晩まで煩い社長なんてのがいるが、こんな会社は業績が悪い
文句を言えば文句が返ってくる、戦争のようなものだ、結果は果てしないだけ
駄目人間であることはお互い様であって「互いに他人に言える立場かい?」
口は災いの元なのだが、文句言いの人の口を封じるのはかなり難しい

文句言う人、文句言われる人、どちらも、もっと大人になって欲しい
会話の中で文句や批判は多い、こんな人のぶつぶつ口撃を防ぐのは、
当面は、黙って台風の時同様、平然と通り過ぎるのを待つしかない
または、相手の上を行ってしまうようにより大人になることだ
「勝手に言わしておけ」「相手にせん」文句が行き過ぎるのを待つだけ
要するに、文句というものを観ないことだ、完全否定することだ
もし余裕があれば
文句言いをじっくり味わしてもらうしかない、聞いてあげることも功徳だ

周囲の事に感じ過ぎないことだ、周囲がどうあれ心を乱さないこと
平然としていること、文句に反応しないこと、動じないこと、
文句言われたくらいで、腹立てないこと、相手を批判しない事が大事なのだ
そうは言っても、
言われたほうの人の心は、言った人がきついほど、これまた煮えくり返るのである
「畜生」「ばか野郎」「死ね」みたいなもんで、会社の役員を何度も呪ったものだ

私もしばしば身内や町内や家庭のご夫婦の凄まじい文句の言いあいを目撃する
「何ともバカバカしい」「どうでもいい」「いい加減にしたら」ということに過ぎない
一体どんな効果を期待しているか定かではないが、明らかに逆効果しかない
「夫婦喧嘩は犬も喰わない」というが、実にくだらないことだと言っているのだ
今、私が思うことは、  ” 文句を言わないこと=立派な大人”  である
本人達は、真剣に相手をののしり、自分の正当性を訴えるのだが
どちらかが、そんなことは、見向きもせず、無視すれば済むことなのだ
ほどよく語り合い・理解しあい・互いを思いやり・相手に迷惑をかけない
そういうことがきちんと出来て大人なのにと、私はしみじみと思う

20年の山暮らしをした私は、文句言いを、完全に捨て去り縁を切った
つまらん品格のない文句などは、全く耳も貸さないし笑い飛ばす
夏に暑いのは当たり前、冬は寒いのが当たり前、だから暑いの寒いのと文句を言わない
文句言っても暑いのが涼しくなる訳ではない。 文句なんてものはその程度のものだ
「文句言ってどうにかなる」のは子供が親に駄々こねて地べたに寝てしまう時だけ
みっともないが、まあ、子供だから大目に見るとして、
駄々こねるのは、大の大人がやることではない
文句は言う人だけが悪いのではなく、言わせる人も悪いことを重々知らんといかん

物事には
 ・好きがあるから嫌いが生じる
 ・嬉しいがあるから、悲しいがある
 ・良かったがあるから悪かったがある
私は都会の人に比べて、好き・嬉しい・良かったという感情を減らしている
いつも平板・平静・平常でいられる
 好き過ぎると、好き過ぎるほど、嫌う場合には、嫌う気持ちも大きくなる
 好きという感情が低く抑えられるようになると、嫌いという感情も抑えられ
感情の起伏を平らにすること、こういうことは大人のすべきことである
コツをつかめば、それほど難しいことではない

ぶつぶつ文句も同様で自分からも言わないし、言われても受け流すようになる
もし他人の文句が妥当であれば、ごく素直に取り入れて正すべきである
本来は文句を言ってくれるのは有難いのだ、そういうことも大人のあるべき姿だ
自分にとって役立つ相手の人からの文句であれば、私は大歓迎だ

私も以前は他人に文句を言われると受け入れるどころか大きく反発したものだ
多分皆さまもそうではないだろうか?
しかし
70歳くらいから、私に文句というか意見をしてくれることが有難いと思うようになった
その意見が妥当な場合、どう自分は対処すべきか即刻悔い改めるようになった
何でこんなことが70年も出来なかったのだろう?よくも無駄な時を過ごしたものだ

同時に競技スポーツを観なくなった。争うということが実につまらんと悟ったのだ
争うということは、良いことのように言う人もいるが、所詮は、排他・排除につながる
相撲・野球・オリンピックあらゆる競技スポーツや競技会は関心がなくなった
勝った者は大喜びし、幸福にもなるが、負ける者は悲しみ不幸になることも多い
オリンピックでも「金メダルをとることにどんな価値があると言うのだろうか?」
金メダルとれたのは、その人が素晴らしいからではない、単なる偶然にすぎない
「百戦して百勝するとも立派な武士とは言えない」たまたまの偶然に過ぎない
宝くじなんか滅多に当たるものではないが、当たるとすれば全くの偶然でしかない

世の中には必ず一人だけ金メダルを採る人が存在する、宝くじも必ず一人1等当選する
それは偉いことではない、10人が100m走ると必ず一人だけ一等賞がいるのだ
すなわち1等賞や金メダルなんて、ごく当たり前で、世界には嫌というほどいるのだ
その一人の金メダルの人の陰に、失格のレッテルを貼られた非常に多くの選手がいる
金メダルを採ったものは関所の手形を持ち、他の人は関所を通過する手形をもらい損ねる
プロ野球・オリンピックは人間の考えた嘘誤魔化しが真実のように丁稚上げられたもの
嘘誤魔化しもどんどんエスカレートすると国民栄誉賞まで嘘が嵩じてしまうのだ

何度も言うが金メダルは、偶然その人が採っただけのこと、偉いことではない

人は、あまりに嬉しがったり、好きになったり、し過ぎてはならない
そんなことで大喜びするのは、実に恥ずかしいことだ
しかし、長年の都会生活の果てに大喜びすることを覚えてしまうのだ
大喜びしたり大喜びしようとすることが、大泣きすることに通じるのだ
人は、冷静、冷徹でなければならない。熱くなってはいけない。人は熱くなり易い
そんなことを誇ってはならない、現代はそんなことがあまりに多すぎる
だから世の中は一向によくならないのだ

勝つ人間もいるが負ける人間も必ずいるのだ、だから負けても悩むことはない
山暮らし20年の私なりに思うのは、「争い事は実に愚かだ」ということだ
やくざ者のすることなのだ、本当に偉い人は人を押しのけ勝とうとはしないし
文句言われて悩んだり怒ったりすることはないのだ

ましてやそんなものが国民栄誉賞だなんて、よほど政治家もどうかしている
絶対にやってはならないことで、ノーベル賞や文化勲章もすぐに辞めて欲しい
立派な発明や本もこれまた偶然の産物に過ぎない、誰かがいつかやることなのだ
あんなものを平然と、かつ、喜々としてもらう人が信じられない、情けない
私には、王選手もイチロー選手も松井選手も人間として尊敬の対象ではない

私が尊敬する人は、俺がやってやるなどとも思わず、地味だろうと、
誰も認めてくれなかろうと、自分がなすべきことを黙々と心を乱さずやる人だ

心を平静に保つ、他人のことをあれこれ批判しない、
ましてや自分の不平不満を誰かに向けて、面と向かって文句言わない
更に、
 ・やたらに好きにならない
 ・やたらに喜ばない
 ・やたらに頑張らない
 ・やたらに褒められようとしない
 ・やたらにいい恰好しない
 ・やたらに威張らない
 ・やたらに口数を多くしない
 ・やたらに自分を意識しない
 ・他人のやっていることを多めに見る
 ・他人の良いところを褒めてあげる

相手の欠陥や不出来を探し出して、ヅケヅケ文句を言うことは良いことではない
良いことと言うならばその効能を考え・言ってみてから冷静に言うべきだ
他人に対する文句はカーっとなってぶちまけるものではない

国会の議論を観ていると、野党は与党のスキャンダルをしつこく追及するが、
あんなことは国家の政治家のやるべきことではない
  政治家や指導者は、 文句を言われてはならない ・文句を言ってはならない
 ・政治家は天下国家、10年20年先のことを議論すべきなのだ
 ・高い税金を使い、くだらんスキャンダルを責めるなんて
  政治家の本文を全うせず、日本の野党は文句言いに生き甲斐を見出す
 ・文句を言うのは別の所・時間でやれ、あんたは文句家か?政治家ではないのか?
 ・もっと高尚な互いに役立つ議論をするように努めて欲しい

夫婦円満・親子円満・兄弟円満・ご近所円満に・・・・・
そうなることは、実は自分自身が大人になったことを意味するのです

ぶつぶつ文句言いもそうだが、人間は「それが良い」という固定観念から抜け出せない

毎年一か所以上お金の許す範囲で家のリフォームをしている
TOTO洗面化粧台LDCF075BAGEN2A:75幅80高52㎝奥、左にスムース排水
今年は念願の洗面所に75㎝幅の洗面台を入れ、横に棚もとりつけた計7万円

更に今月はシロアリ、床下湿気対策として
部屋全部の床下に炭を敷き詰め、4か所の床下換気扇を設置予定だ60万円
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