関西ISOシニアコンサルタントネットワーク代表村上和隆:(台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク代表)
※お知らせ:今後3~11月は滋賀県高島市の滋賀支所に常駐しています
滋賀支所
12~3月は京都市伏見の本部事務所に常駐しています
188.今日も京都に出てきたが,室内の温度は30℃湿度は36%異常低湿度
山に10年以上住んでいるが、毎年猛暑の夏でも、山の格別な涼しさには感激している
山で長年暮らしてみて、日本の暮らし方として、今更ながら、適正であるということに気づいたのである
今年も梅雨に入ったが、山では、夜~朝:21~22℃、昼間も室内や木陰は25℃くらいで汗をかくことはない、夜は寒さを感じ布団をかけて寝るのである
この一見大したことのないような事実が、自然の素晴らしさ・偉大さを表現している
もっとも森も間伐されず、高齢化と財政破綻による管理放棄が進み、虫の害や雪の害で年々痛んでいる、しかし自然は長い年月で見れば、やがて正常を回復するだろうが
滋賀県安曇川の山中から仕事で京都市伏見区の事務所に出向くことが何度かある
こういう場合、いつも確実に、京都の猛暑地獄というか灼熱地獄を嫌というほど実感するのである。その不快さは筆舌を絶する
しかも京都の猛暑&低湿度のほうが高湿度の山の中よりかなり不快なのである。これだけは不思議ですね。京都では室内でじっとしているのに、どんどん汗が噴出すのである。
「よくもこんな猛暑を我慢して暮らしているなー」「何でもかんでも手当たり次第、不平不満を言う人々が、高い電気代を払いクーラーかけて身体を悪くしても都会から離れないで我慢しているのである」
身体につくづく良くないのだ、温度もさることながら夏の都会の湿度は梅雨や雨降りの日を除くと砂漠のように湿度が低い一年中火災の危険にさらされているのである
梅雨時が唯一正常な湿度だということをもっと知るべきだと私は思うのだが?
人間というのは、いざとなると、随分と辛抱強いものみたいだ、一体どこまで猛暑の都会で我慢するのだろうか?
私は最近京都に来ると鼻血が出るのである。それが年々ひどくなっていて、最近は冬だけでなく、梅雨時を除き一年中そういうことがおきるのである
それもそのはず、どうやら、山の湿度は一年を通じて60%を割り込むのはごく稀なのだが京都では湿度20~30%なんてのはざらなんだ
間伐されない管理放棄の森の木は虫の害を受け、都会の木は水気を失い猛暑と大気汚染更に虫の害で瀕死の状態だ、人はそれを見て何を思うべきや?
元々、大昔から、日本人の祖先は、山中で湿度の高い暮らしをしてきたのである
当然、道路は舗装でなかったし、都会でも野原や庭や草花や川や水溜りや池などが沢山あった
それが野原や道路は舗装でと家はコンクリートで覆われ、川は暗渠などで地下に埋められてしまった
そこへきてクーラーや自動車や工場の排熱によって暖められることで異常に湿度が低い状況が定着してしまった
ひょっとすると、都会は、砂漠の何倍も乾燥し、身体に有害ではないかと勝手に心配している。砂漠は昼は暑いが夜はすごく寒いらしいし、自然の環境であることは確かであるのに都会はいかにも不自然なのである
不自然(非自然)というものは、実を言うとこんな恐ろしいものはないのである。不自然は更なる不自然(人為的・非自然)を生み出し、不自然のスパイラル(渦)に引き込まれていくのである
気象庁の天気予報でも、気温の予報はするが湿度の予報や実績のデーターを公表しない
気温も異常であるが、都会の湿度は年がら年中すごく異常なことになっているのに気付いていない
家電メーカーは除湿機なんてとんでもない身体に悪い機械をあたかも「素晴らしいもの」のように宣伝して売りつけてきた
そして市民は、まんまと、騙され、一家に1台2台と設置し、ガンガン除湿をする。しかも最近は深夜も含めて一日中なのである
こういう文明の利器が益々人間を自然な暮らしから更に遠ざけ、人間の身体を弱くしていくのだ
湿度20~40%なんて都会の暮らしに、除湿機が必要なわけがないのである梅雨時が唯一湿度が正常になるのに、それを知らずに除湿する、この都会人のなんとはない行為がすでに異常なのである
都会ではジメジメしていると感じても湿度は山の80~90%の半分~1/3にも満たないことを知るべきなのだ
温度が高ければ湿度が高くなって当然なんですが、都会では、なんと猛暑&低湿度である
森は夏の暑さでも冬でも湿度が保たれています、除湿なんてとんでもないことである。もし、そんなことしたら森は禿山になってしまうのである
都会の猛暑&低湿度は身体にかなり悪い、梅雨時はジメジメしていて良いのである。ジメジメを大いに楽しむ・享受すべきなのだ
熱帯のジャングルは猛暑だが高湿度で自然が維持されていることを忘れてはならない、こういう状態こそ自然なのである
ひょとして「夏の都会は湿度が高い」なんて思い違いをしていませんか?
嘘と思うならば湿度計を買うべきだが、家庭には、何故か温度計はあっても、湿度計がないのである
地球温暖化とかなんだかんだとマスコミが騒ぎ重大問題としてとりあげるが、猛暑に関連して都会の異常な湿度の問題の重大性を取り上げることは少ない
山が涼しい理由は、木や草が多いからです。地面への日差しをさえぎるとともに、草木の根が、土の深い所から水分を吸い上げ蒸発する水分で一日中冷やされているからである。言うならば環境に優れた森のクーラーなのである
都会には木や草はないから、家電製品として木の何倍も環境負荷を排出してクーラーなるものをガンガン動かしているのである
かなり雨が降らなくても森のこの働きは途絶えることはない。素晴らしいというか凄い
文明の利器?のクーラーは、(環境に悪い有害な)都会の木なのである、その違いは、森の木は自然で環境に好ましく、クーラーは地球環境破壊の凶器なのである
自動車以上にクーラーは環境に悪いのは明らかだ、こんなものが熱帯地方に普及しないことを祈るだけだ
森は夏でも涼しいくかつ環境に良いが都会のクーラーは都会をむしろ暖め、しかも環境に悪いのである
人間の考える技術とは比べるまでもない
大人と子供、プロとど素人の差があるのだ
もし、どうしても都会に住むのならば、不便でも高くても、森の付近を選んで住むべきである
自然の叡智の自然の環境に暮らすべきか?お粗末な人間の浅知恵の作ったコンクリートとアスファルトの都会の環境に暮らすべきか
答えは、言うまでもなく明らかなはずである
しかし人間は人間が開発したものを、英英と積み上げてきた自然の営みより上と考えるのだ
しかも人為的な発明に文化勲章や多額の表彰までする恐ろしさだ。人間はどんどん麻薬に溺れていくのである
人間は何か大きな勘違いをしている、しかもその間違いに気づかない、又は敢えて気づこうとしていない
堕落する人間、そして崇高な自然そのどっちを人は選択すべきなのか
「自然に優しい」とか「地球に優しい」などと不埒で不敬なことを軽々しく言う人間がいるが、そんなことを言うべきではない
人間なんて小ぽけなもののやること(=人為的又は非自然)に従ってはならないのだが、
どうも人間のやることは麻薬のような怪しげな魅力(魔力)があるようだ
さあ、まず都会という人間の作り上げたとんでもなくお粗末・下劣・愚劣なものを捨てるべきなんだ
たかが都会の猛暑と思うなかれ、都会の猛暑から何を学び、何を感じ取るか?
ささいな兆候に過ぎないかもしれないが、小さな兆候から何を感じ、どんな行動をとるべきなのか?
「ノアの箱舟」である、他人が意に介さないときでも自分だけは何かを感じ取れるかそれが生き物としてのあるべき姿なんだろう
都会と田舎を真正面から比較対比してどちらが良いのか評価してみることが必要な時期になっているようだ
変わることを他人に要求する当の本人が全く変わらない、だから物事は良くならない
※お知らせ:今後3~11月は滋賀県高島市の滋賀支所に常駐しています
滋賀支所
12~3月は京都市伏見の本部事務所に常駐しています
188.今日も京都に出てきたが,室内の温度は30℃湿度は36%異常低湿度
山に10年以上住んでいるが、毎年猛暑の夏でも、山の格別な涼しさには感激している
山で長年暮らしてみて、日本の暮らし方として、今更ながら、適正であるということに気づいたのである
今年も梅雨に入ったが、山では、夜~朝:21~22℃、昼間も室内や木陰は25℃くらいで汗をかくことはない、夜は寒さを感じ布団をかけて寝るのである
この一見大したことのないような事実が、自然の素晴らしさ・偉大さを表現している
もっとも森も間伐されず、高齢化と財政破綻による管理放棄が進み、虫の害や雪の害で年々痛んでいる、しかし自然は長い年月で見れば、やがて正常を回復するだろうが
滋賀県安曇川の山中から仕事で京都市伏見区の事務所に出向くことが何度かある
こういう場合、いつも確実に、京都の猛暑地獄というか灼熱地獄を嫌というほど実感するのである。その不快さは筆舌を絶する
しかも京都の猛暑&低湿度のほうが高湿度の山の中よりかなり不快なのである。これだけは不思議ですね。京都では室内でじっとしているのに、どんどん汗が噴出すのである。
「よくもこんな猛暑を我慢して暮らしているなー」「何でもかんでも手当たり次第、不平不満を言う人々が、高い電気代を払いクーラーかけて身体を悪くしても都会から離れないで我慢しているのである」
身体につくづく良くないのだ、温度もさることながら夏の都会の湿度は梅雨や雨降りの日を除くと砂漠のように湿度が低い一年中火災の危険にさらされているのである
梅雨時が唯一正常な湿度だということをもっと知るべきだと私は思うのだが?
人間というのは、いざとなると、随分と辛抱強いものみたいだ、一体どこまで猛暑の都会で我慢するのだろうか?
私は最近京都に来ると鼻血が出るのである。それが年々ひどくなっていて、最近は冬だけでなく、梅雨時を除き一年中そういうことがおきるのである
それもそのはず、どうやら、山の湿度は一年を通じて60%を割り込むのはごく稀なのだが京都では湿度20~30%なんてのはざらなんだ
間伐されない管理放棄の森の木は虫の害を受け、都会の木は水気を失い猛暑と大気汚染更に虫の害で瀕死の状態だ、人はそれを見て何を思うべきや?
元々、大昔から、日本人の祖先は、山中で湿度の高い暮らしをしてきたのである
当然、道路は舗装でなかったし、都会でも野原や庭や草花や川や水溜りや池などが沢山あった
それが野原や道路は舗装でと家はコンクリートで覆われ、川は暗渠などで地下に埋められてしまった
そこへきてクーラーや自動車や工場の排熱によって暖められることで異常に湿度が低い状況が定着してしまった
ひょっとすると、都会は、砂漠の何倍も乾燥し、身体に有害ではないかと勝手に心配している。砂漠は昼は暑いが夜はすごく寒いらしいし、自然の環境であることは確かであるのに都会はいかにも不自然なのである
不自然(非自然)というものは、実を言うとこんな恐ろしいものはないのである。不自然は更なる不自然(人為的・非自然)を生み出し、不自然のスパイラル(渦)に引き込まれていくのである
気象庁の天気予報でも、気温の予報はするが湿度の予報や実績のデーターを公表しない
気温も異常であるが、都会の湿度は年がら年中すごく異常なことになっているのに気付いていない
家電メーカーは除湿機なんてとんでもない身体に悪い機械をあたかも「素晴らしいもの」のように宣伝して売りつけてきた
そして市民は、まんまと、騙され、一家に1台2台と設置し、ガンガン除湿をする。しかも最近は深夜も含めて一日中なのである
こういう文明の利器が益々人間を自然な暮らしから更に遠ざけ、人間の身体を弱くしていくのだ
湿度20~40%なんて都会の暮らしに、除湿機が必要なわけがないのである梅雨時が唯一湿度が正常になるのに、それを知らずに除湿する、この都会人のなんとはない行為がすでに異常なのである
都会ではジメジメしていると感じても湿度は山の80~90%の半分~1/3にも満たないことを知るべきなのだ
温度が高ければ湿度が高くなって当然なんですが、都会では、なんと猛暑&低湿度である
森は夏の暑さでも冬でも湿度が保たれています、除湿なんてとんでもないことである。もし、そんなことしたら森は禿山になってしまうのである
都会の猛暑&低湿度は身体にかなり悪い、梅雨時はジメジメしていて良いのである。ジメジメを大いに楽しむ・享受すべきなのだ
熱帯のジャングルは猛暑だが高湿度で自然が維持されていることを忘れてはならない、こういう状態こそ自然なのである
ひょとして「夏の都会は湿度が高い」なんて思い違いをしていませんか?
嘘と思うならば湿度計を買うべきだが、家庭には、何故か温度計はあっても、湿度計がないのである
地球温暖化とかなんだかんだとマスコミが騒ぎ重大問題としてとりあげるが、猛暑に関連して都会の異常な湿度の問題の重大性を取り上げることは少ない
山が涼しい理由は、木や草が多いからです。地面への日差しをさえぎるとともに、草木の根が、土の深い所から水分を吸い上げ蒸発する水分で一日中冷やされているからである。言うならば環境に優れた森のクーラーなのである
都会には木や草はないから、家電製品として木の何倍も環境負荷を排出してクーラーなるものをガンガン動かしているのである
かなり雨が降らなくても森のこの働きは途絶えることはない。素晴らしいというか凄い
文明の利器?のクーラーは、(環境に悪い有害な)都会の木なのである、その違いは、森の木は自然で環境に好ましく、クーラーは地球環境破壊の凶器なのである
自動車以上にクーラーは環境に悪いのは明らかだ、こんなものが熱帯地方に普及しないことを祈るだけだ
森は夏でも涼しいくかつ環境に良いが都会のクーラーは都会をむしろ暖め、しかも環境に悪いのである
人間の考える技術とは比べるまでもない
大人と子供、プロとど素人の差があるのだ
もし、どうしても都会に住むのならば、不便でも高くても、森の付近を選んで住むべきである
自然の叡智の自然の環境に暮らすべきか?お粗末な人間の浅知恵の作ったコンクリートとアスファルトの都会の環境に暮らすべきか
答えは、言うまでもなく明らかなはずである
しかし人間は人間が開発したものを、英英と積み上げてきた自然の営みより上と考えるのだ
しかも人為的な発明に文化勲章や多額の表彰までする恐ろしさだ。人間はどんどん麻薬に溺れていくのである
人間は何か大きな勘違いをしている、しかもその間違いに気づかない、又は敢えて気づこうとしていない
堕落する人間、そして崇高な自然そのどっちを人は選択すべきなのか
「自然に優しい」とか「地球に優しい」などと不埒で不敬なことを軽々しく言う人間がいるが、そんなことを言うべきではない
人間なんて小ぽけなもののやること(=人為的又は非自然)に従ってはならないのだが、
どうも人間のやることは麻薬のような怪しげな魅力(魔力)があるようだ
さあ、まず都会という人間の作り上げたとんでもなくお粗末・下劣・愚劣なものを捨てるべきなんだ
たかが都会の猛暑と思うなかれ、都会の猛暑から何を学び、何を感じ取るか?
ささいな兆候に過ぎないかもしれないが、小さな兆候から何を感じ、どんな行動をとるべきなのか?
「ノアの箱舟」である、他人が意に介さないときでも自分だけは何かを感じ取れるかそれが生き物としてのあるべき姿なんだろう
都会と田舎を真正面から比較対比してどちらが良いのか評価してみることが必要な時期になっているようだ
変わることを他人に要求する当の本人が全く変わらない、だから物事は良くならない