村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

461.最近のスポーツ競技及び怪しげな協会に思う

2018-08-30 20:48:40 | 人生
指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
講演例
  ・自分の人生論 ・山暮らし ・会話上達  ・老後の暮らし ・自主防災 ・資産運用 ・

   滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク⇒人生勉強会

出来た・出来ます
テーマ:スポーツ競技は虚業・嘘誤魔化しに堕落

・スポーツが巨大化し
・国家や役所やファンが膨大な組織を支えてしまう
・巨額なお金がからみ、利権を餌に横暴や搾取が横行する
・巨大な税金の無駄使い
・膨大なスポーツ施設建設・維持費
・怪しげなスポーツ団体
・パワハラが横行し
・金メダル第一主義
・あまりに高度で過剰な競争(例えば1/100秒の勝負)
・国民栄誉賞の安売り(ふざけるな)
・争いスポーツ優遇し、一般市民の健康目的のスポーツはおきざり

もういい加減にして欲しい?スポーツは争いやメダルが目的ではない
私は、すでに相撲や野球の八百長以降、スポーツ離れを果たしている
私には、勝ち負けはないし、興味も関心もない、皆さんそうあって欲しい
皆さんもスポーツをもっと冷静に楽しみ、熱狂や加熱は止めて欲しい

スポーツ協会や団体なんて予想以上に、ひどく汚いものである
そんな競技会や著名選手に自分も踊らされ毒されないで欲しい
こんな例を出して良いか分からないが、芸能人や芸術家や勝負師や先生などは
大方汚い人間どもばかり、そんな者「私は絶対に安易に尊敬もヒイキもしない」
信長・秀吉・家康、リーダー・権力者は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
 「泣くまで待つ」なんてリーダーはいない
実態は想像以上に目を覆いたくなるようなもので、絶対に騙されてはいけない

「本日は金メダル3個とれました」
「池江選手が金メダル5個獲得、快挙」
「金メダル何個は中国に続き2位」
「1/100秒差で金メダル」
・・・
第二次戦争中に前戦からの戦勝報告のような嫌な感じがする
一体それだから何だと言うのか?

争う・勝つ・ほんの僅かな差で一位になる・・・一体どんな意味があるのか?
1点差・1/100秒差・1㎝差でもメダルとれる・とれないの差になるが
私にとっては意味は全くなく、むしろ実にバカげた争いだと思う
争うことに、どれだけ価値があるというのか?実に愚かしい
「オリンピックは参加することに意味がある」ということは全く忘られている

日本のかつて高度成長やバブル崩壊の反省同様、冷静さを取り戻してほしい
金・金・金・名を売る・名を売る・名を売る・・・だけ、とにかく汚い世界なのだ
スポーツという虚業があまりに一大産業となって良くも悪くも賑わっている
選手のサインや着古したシャツや道具が高額で取引される
人々は競って選手のサインを欲しがる、全く価値もないのに
次々に虚業のネタを作り上げて価格をつけ、価格をつり上げていく、愚かしい

スポーツ競技でやれ成果だとか高い評価だなどと軽々しく言うべきではない
スポーツ競技は、あくまで遊びである、行き過ぎた賛辞はどうかと思う
国民は自国の選手が金メダルを採ると狂喜するが、私は全く冷静だ
テレビ局や新聞が歓喜を先導するなど著しく気違いじみて疎ましい
戦時中の軍部放送や新聞みたいで、危険な雰囲気さえ感じる
自国の選手が一位になることだけのために観戦することは弊害が大きい
熱狂的阪神ファン(気違い)などという人達がいるが実に愚かしい
ファンというと聞こえは良いが、異常偏愛者、危険分子、暴徒になりかねない


多くの国民が汗水たらし、安い給料で真面目に仕事し税金まで払っているのに
税金を無駄使いして、スポーツ競技という遊びに耽る沢山の若者
もっときちんとした社会の役に立つ仕事をして欲しい
しかも異常に頑張る、およそ普通の人間の出来る限界を遥かに超えている
3歳くらいから卓球選手の親が子供を鍛え、無責任に競技・争いに染まらせる
「人生の目標はオリンピックで金メダル」なんてつまらんことを堂々と言う
オリンピックとか金メダルということが人間を功利主義に走らすのだ
  原点に戻り、オリンピックはメダル廃止が必要ではないだろうか?

自分のお金でやるならともかく、怪しげに多額な税金が使われる
まるで北朝鮮のようなピラミッドな利益収奪組織が肥大化する
元メダル獲得者が理事長など上層部を独占し、北朝鮮さながらに強面だ

弱い選手でも、多くの選手団を税金で海外に派遣する
本当に喜ぶのはスポーツ選手と家族と関係者だけだ

経済や生産技術は中国や欧米にどんどん追い越され、じり貧になっているのに
スポーツに浮かれるようでは、国家自体を滅ぼしかねない
スポーツ省なんかが肥大化し虚業を促進するのは危険極まりない

・ロシアは国家あげてドーピング
・八百長相撲(儲けるためには分からないように何でもやっている)
・日本のボクシング会長がパワハラインチキ判定
・国家あげて選手に多額な支援、コーチ監督が特定選手にパワハラ虐め、
・体操のコーチについて、むしろ体操協会のパワハラ関与疑惑
 ここも例外なく元選手の塚原夫婦が協会を牛耳って、やり放題だ
・特定国に不利なルールの改正など・・・インチキな国家や監督や選手が横行する
まあ出るは出るは、多分大半の協会が怪しげな利権団体化している
まだテレビや新聞沙汰にはなっていないが、パワハラ協会は沢山あるはずだ

かつて一流企業でパワハラを受けた私の経験では、多くの企業でもほとんどが
パワハラしているのだから、スポーツ界は、更にもっとひどいと推察できる
スポーツなんて汚い世界なのだ、協会理事長は自分の利権を守る汚い人間が多い
多額の税金や興行収入が動いているから、あまりに美味しい話に蛆虫が群がる
選手は子供や若年で、それを食い物にして自分達は甘い汁を吸う吸血鬼なのだ
羊の皮を被った狼どもが協会のトップ人の姿なのだ


スポーツ競技重視主義を根本から打破すべきで、税金投入も大幅削減すべきだ
政界や役所や協会みたいなものは腐敗しやすい悪質な組織なのだ
意外にも宗教界や警察関係や学校の先生関係も安易に信じてはならない
案外汚い組織を内在しており、とんでもなく腐敗した組織であることも多い
金・利権・権力・うまい話のあるところは、いかにも綺麗そうだが、汚れた人が必ずいる
政治や企業や宗教団体などは上辺綺麗・中身汚染の典型なのだ
私の嘗ての東証一部上場会社で受けたパワハラも悪質で信じ難いものだった
同様なことが多くの東証一部上場会社でもやられていると知り、驚愕した
企業も、権力と金の典型的な組織であれば、当然パワハラのメッカだ

スポーツもロボット化したらどうだろうか?
不正も出来ない、病気も怪我もしないロボット選手の
プロリーグのほうが不正な金は動かず、ずーっと良いかもしれない?
競技のロボット化。もうすでに人でやる限界を超えている100m8秒台も可能だ

ボクシングやレスリングなど犯罪すれすれの暴力スポーツが平然と実施されている
あらゆるスポーツが高度化・激化しており、大怪我する人が多く出ている
スポーツとは元々、健康増進や融和や楽しむものであったはず、
少なくともスポーツと国威発揚を結び付けてはならない。
また、何でもかんでもお金に結び付けるのも望ましいことではない。
そこには必ず利権が生じて影で悪いことをする組織がのさばることになる

 一位・金メダルとは
 言ってみれば「俺が世界一・お山の大将我一人」みたいなことだけ
 一選手だけの満足で、国民として何も得ることはない、むしろ失うばかり
 私の人生論ではスポーツなどの虚業やメダルや一位なんかは求めない
 ある立派な人が「競争がないと強くならない」と言ったが
 強い・弱いという観念こそが怪しいのだ、そんなもの何の意義もない
 そんなことはない
 「争いが自分を強くする」なんてことは、嘘誤魔化しにすぎない
  争いは紛争を引き起こし、憎み合い、殺し合い、際限がない 


一位になったとして一位を維持するのは非常に困難で、ほんの一時だ
二位でも三位でもいい、二位や三位も十分立派に好成績なのだ
「金銀銅はいいが四位以下は駄目」だなんてことも全くない
自然界には一位も二位もない、食える・寒さ暑さをしのぐ・寝れれば良いのだ
何億の中の一位だなんて何の価値もない、一位でも食べられてしまうかもしれない

金メダルとった人間が社会で優れている保証はない、むしろお粗末な人も多い
麻生大臣・鳩山元首相や福田元首相なんてお粗末リーダーがその例だ
国家を最悪な方向に導き退職後もいろいろ迷惑なことをしでかしている
ちなみに政治は昔から四流以下のままだし、かつて一位の経済も低下している
企業活動ならいざ知らず、たかがスポーツや芸術という遊びには本質的な価値はない
争う相手を打ち負かして自分がのさばる、そんなことを続けて何の意味があるのか

オリンピックや大競技会で金メダルをとり合う:もうやめませんか?
結果的にとれてしまうのは良いが、身体を極限まで擦り減らしてやることではない
競争に参加した多くの選手達は、心も身体もボロボロだ
相手を負かせて得意満面になるようなことが、そんなに良いことなのか?

パラリンピックに至っては、私の理解の限界を超える
「身体障害者に争わせメダル競争」なんて更にやってはならない
高齢者の老人競技会も同様だ、高齢者も障害者も無理して競うべきではない
何故競う・争うという発想になるのだろう?

音楽競技会、絵画競技会、料理競技会・・・やれ大臣賞だのと採点する
一秒百分の一秒を競ってどんな意味があるのだろうか?むしろ弊害ばかりだ
「日本選手も9秒台で世界のレベルに到達」一体それが何だと言いたい
100mを9秒台で走ると、どうなると言うのでしょうか?

そんなことに多額な税金を使って何の利益があるのだ
スポーツや芸術などで例え一位になっても本質的な価値はない
何しろ税金の無駄使いだけは止めて欲しい
天皇陛下などが被災地見舞いなど地方旅行などすれば数千万~億単位の金がかかる
国民は喜んでいるが、多額な税金の無駄使いで実質大迷惑なのだ
世界的な会議を日本に招聘すると百億単位の金がかかる。
一体何の意味があるのか?もっと警備しやすい専用の島などでやればよいのだ
指導者の金の意識は我々とは桁が違い、億単位の金使いでも完全に麻痺している
税金だから「使い放題」なのだ、指導者とは無責任で、そんなものだ

芸術や料理も争うものではない。そんなものの優劣はつけられない
私など絵は絵そのもの、音楽も音楽そのものを淡々と味わうだけだ
これはあれより上だの下だの、高い絵だなどと考えたこともない
一般人が見分け・聞き分けできないレベルを高いお金を出して求めることもない
芸術も料理も、時により、状況により良しあしは変化する

私は有名欧米画家の絵が好きではない、下手でも自分が描いた絵のほうが好きだ
音楽会に行ってもどちらがどれだけ良い演奏だなんて聞き分けが出来ない
料理も酒もよほど不味いもの以外は、優劣はつけ難いものだ
野球なんかも10億円の年俸の選手の試合が格別素晴らしいとは思えない
年俸3~400万円の並みの選手の試合や高校や大学野球の試合で十分、
異常に高いコストの試合なんか何故観たいのか?

スポーツで他人の金メダルのことより、もっと自分自身のことを磨け
スポーツ競技をみて「日本勝て」だけで観戦する人の卑しさ・情けなさ
勝ったと満面の笑み、負けたといって泣く、なんとつまらんことか
私は全ての競技や他の何事においても心を白紙にして観戦する
「日本勝て」「こうなれ」「あーなれ」と思ってはいない
日本頑張れだけでなく相手国にも「頑張れ」と言うのが本来の人間なのだ

かつて、日本の武士道精神は、相手にも尊敬とエールを送ったものだ
競技の内容自体や例えばドラマの筋や内容自体、芸術も淡々と観る
最近の日本を観ていると、毎日謝るトップの映像がなんとも嘆かわしい
こんな時代にはスポーツや芸術やあらゆるものが信用できないし
私は全て信用していない。スポーツも芸術も頭ごなしに賞賛しない

・スポーツ競技を観て自分のヒイキが負けているとイライラするなんて馬鹿げている
・テレビドラマで主人公と同じように自分も一緒に心配し悩むのも馬鹿げている
 ドラマの主人公が虐められたり、不幸な場面にヒヤヒヤ・ドキドキ
 深刻に心配したり、悩みながらドラマを観ている人は多い、愚かしい
・多くの虚業(嘘誤魔化し業)が盛んだが、のめり込まず一線を画すべきだ



スポーツ競技もドラマも淡々と静かに、冷静に観ているのが望ましい
スポーツもドラマも作られたもの、架空・虚偽なものということを忘れてはならない
架空のものをやたらに信奉するのは絶対によくない、私は絶対にしない
戦時中に天皇陛下を信奉した結果どうなったか、ご存じですよね
戦争とは、国家を愛する、怪しげな指導者を信じることで悲惨な運命をたどる
私は、スポーツ選手、俳優、歌手、小説家などを軽々しく信じ好きになることはない

人は何事においても嘘誤魔化しや架空を必死に信じて自分に悪影響を与えようとする
人々には、なぜか、何かを盲目的に愛し・尊敬し・ヒイキする癖があるのだ
「止めろ」と言ってもなかなか止めようとしない
日常的なことでも、安易に間違ったことを信じ切っている場合が多い
嘘誤魔化しをあたかも素晴らしいことのように信じるのは是非卒業して欲しい
例をあげろと言われても、例なんか挙げる必要がないほど
嘘誤魔化しは、身の回りに沢山ある。在家と出家の違いがそこにある。
つまらんことを、安易に尊敬したり、信じたりするのが在家の人の特徴だ

それは、日常生活で他人と付き合う場合も全く変わらない
ヒイキもしない、嫌いもしない、批判もしない、心配や悩みもしない
相手に勝った負けたも全くない(でも案外人は勝ち負けを意識する)
第二次大戦のように「天皇陛下様万歳」みたいなことに結び付いていく
何かを無意味にやたらに好きになるな、熱狂的阪神ファン現象は危険だ

ヒイキ・差別をせず、誰とも話・誰とも楽しむ・誰とも一緒に頑張る
勝ち負け。相手を負かす・俺様が勝ちなどと思うことは微塵もない
勝つ・負けるを意識して人と付き合うのは何とあさましい・愚かしいことか

スポーツ競技を勝ち負けばかり意識して観ている人の心は穏やかでない

多くの人が人との付き合いにおいても勝ち負けを意識する
もっと自分の弱さ・愚かさも含めて全てをさらけ出せば会話も弾む
「相手がこう言った」だから「私はこう言ってやった」
こんな争い事みたいな会話や付き合いは全く楽しくもない

私は、アジア大会も夏の高校野球大会もオリンピックもあまり好きではない
オリンピックも当初の清廉な目標を忘れ争い事や金儲けに堕落している
高校生や若者を食い物にして多額な金が協会や組織に落ちるのだが、
その巨額な金が誰の懐に入るのやら、怪しいものである


地方の小競技場や学校の体育館で争いや勝負は二の次の身近な催しを歓迎する
・100mを9秒台で走るとか、0.01病短縮なんてどうでもよい
・すばらしい交響楽団なんてどうでもいい
・有名画家の高い絵画なんかもどうでもいい
あたかも「最高のものが素晴らしい」なんて言う人がいるが

私はそんなのは、疲れるだけ、つらいだけ、難しすぎる
一流は私の肌に合わない、一流は企業活動だけでよい
一流の、例えばイチロー選手や金メダル獲得選手なんか友達にしたくない
ほんの一握りの彼らは、億万長者だ、あんな棒振り・玉とり・駆け足ふぜいが
私は、一流の人は苦手であり、多分多くは嫌いである

人間自身・自分自身だけでよい
あくまで一流・一位なんてのは遠い目的・目標であって、とりあえずは
自身の小さな目標達成に地道に取り組んでいけばよいのではないだろうか?
一流・一位・金メダル主義反対・・・

私のスポーツや芸術やドラマを観る場合の心構え
 ・スポーツ競技で一方の選手を応援しない
 ・勝ち負けを一切気にしない
 ・ヒイキ選手やチームを造らない
 ・選手のサインなんかを求めない
 ・選手関連グッズなどに価格をつけない
 ・有名芸術作品よりも下手でも自分の作った作品を愛する
 ・スポーツ選手や芸能人や芸術家や小説家を必しも尊敬しない


スポーツ・ドラマ・音楽・芸術・勝負ごと・小説・・・美名の元に
こういった虚業が隆盛し人々を嘘誤魔化しに導くリスクを避けるようにすべきだ
麻薬みたいなもので案外難しいが、日本がんばれでなく、あまり熱くならずに
私のように過剰な熱狂はせずに冷静に内容そのものを楽しむことだ

最近あまり好きではないが釣りをやった、場所は琵琶湖のマキノの小さな川
素人でも、小鮎がただで大量に取れる、それを唐揚げで食べる、美味しい
自然の恵み、春は山菜、秋は果物、夏はアユ、滋賀・安曇川万歳だ
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460.人としてどうあるべきか?自己責任で老後をきちんと生きているか

2018-08-01 09:10:55 | 健康・医療
指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
講演例
  ・自分の人生論 ・山暮らし ・会話上達  ・老後の暮らし ・自主防災 ・資産運用 ・

   滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク⇒人生勉強会

出来た・出来ます
テーマ:腰痛を例に、人としてどうあるべきか?貴方はきちんと答えられるか?

我々在家の人(一般人)と出家の人(お坊さん)の明らかな違いは
一口で言えば、我々在家は嘘誤魔化しの人、出家は人生を深めた人
・在家は、生き方や暮らし方もいい加減 ・出家は、かなりきちんとしている

私は人気のない山に20年暮したことで、ほんの僅か出家に近づいた
普段我々は僧侶などと親しく付き合い僧侶の生き方に触れることもない
それぐらい互いに水と油、別世界の人であり、日常、交わることもない

ここ数年の自然災害・戦争・テロ・保護主義などはそういう弊害の現れで
柔道のパワハラや日大アメフト事件や日本ボクシング連盟、政治家のセクハラなど
指導者のあまりにひどいヤクザ・殺人鬼まがいの悪事が露見した
私が勤めた電子部品会社でも、二人の新米常務によるひどいパワハラがあり、高齢幹部が
これ見よがしに粛清されたが、私も当時は凄い憂鬱と恐怖の日々だったのを思い出す

現代人は、原点・基本を忘れ、自己中心や快楽追求に走る危険な状況だ
ここ数年の異常気象を単なる自然災害と考えている人間に鉄槌が下っている
想定外の大きな災害にあった被災地の人間を可哀そうだなんて私は思わない
自分自身で何とかしようとせず他人任せの人があまりに多すぎる
この国も更なる災害国になり、借金は更に巨額になり消滅していくのだろう


在家であろうと、出家の心を持つのは大事なことだし
本来在家の人ほど、出家の人の生き方に学ぶべきだが、まず、やらない
部屋の断捨離のプロにも及ばないが、出家の人を学ぶのは並大抵ではない
出家と言っても、山奥で長く修行や暮してもいない糞坊主や偽坊主が多い
ので要注意であり、そんな坊さんを真似るととんでもないことになる
出家にも怪しげな出家がおり、在家にも出家に近い在家がいることも事実だ

高齢化社会になって退職後20~30年も生きる恵まれた時代において
その余生を有意義に暮すべきであり、漫然と余生を無為に過ごすべきではない
60歳以降は出家に少しでも近づく努力をして人間完成を目指したい
老いてますます自堕落な暮らしを続け「悠々自適」と収まっていては駄目
自己責任・自立・自律・自前をほぼ忘れた現代人は、依存・責任転嫁・他律

私がもう一つ思うことがある
一流スポーツ選手などが世界一になり、国民栄誉賞を貰って大騒ぎしているが
 棒切れで玉撃っのが上手いとか、棒切れでボールを打ち穴に入れるの上手い
 走りが速い、殴り合いが強いなんて、本当に国民栄誉賞なんですか?
高額な所得のスポーツ選手を観ていると、明らかに金儲けの手段になっている
甘い汁を吸う超有名スポーツ選手を観ていると、尊敬どころか、軽蔑の念さえ覚える

松井・イチロー・大谷・・・巨額な所得を得ている人をヒイキや尊敬したくもない
スポーツ選手なんて、一体それほど尊敬に値するものなんでしょうか?
町で汗泥まみれで安い給与で働く人に比べれば、むしろけしからん人達にしか思えない
走りの速い黒人の国だったら、その国は、国民栄誉賞だらけになってしまうだろう
オリンピックも大リーグも騒ぎ過ぎだ、あんなものを喜んだり、尊敬してはならない
スポーツに多額な金が絡むのは良くない、汚職や八百長の元で、全く観たくもない

電気やガソリンの浪費、スポーツにうつつを抜かし、スマホに依存、国家財政は大赤字
少子高齢化、自然災害や巨大地震・・・それでも自ら何もせず、平然としている
そんなことより自己を磨き・律することがその何倍も大事で有意義なことだ
禅の高僧は、国民栄誉賞の筆頭でしかるべきだが、彼等は栄誉賞など求めない

現代は自己を磨くより、つまらん娯楽や金儲けで他を押しのけ一番を目指す
そんなことして一番になったところで、人生や社会のためになることはない
一番だろうが、一体なんの益があると言うのか?金儲けのために造られたに過ぎない
ファンに仕立て上げられ、踊らされ、金をむしりとられているカモに過ぎない
スポーツは普通の人が健康維持のために適度にやって楽しむもので、深入りはいかん

ごく暇なときにスポーツ競技を観るが、日本や自分の県が勝てと全く思わない
ヒイキのチームや選手も全くいない、そして競技の内容だけを淡々と観戦する
話は違うが、スポーツ競技に限らず
テレビ映画を観てもストーリーの主人公を応援したり、展開に一喜一憂しない
心配もしないし、ドキドキもしないし、感激もしない、涙も流さない
スポーツや映画鑑賞でびくびくしながら観るのは、止めなければならない


高齢化社会を迎え、老いとは衰えを意味しているように思われているが
はたしてそうだろうか?最近の私は全くそう思ってはいない
患者が健康に年取るための治療について、医者や整体師も努力しないといけない
痛みを一時的にとるなんてことはどうでもいいことなのだ、保険の無駄使いだ

老い=衰え 老い=衰退 老い=弱体 と安易に信じ込む人があまりに多い
老いはマイナス面だけではない、それどころか、むしろプラス面が多い
物事は必ず両面があることを絶対に忘れてはならない
良さそうなものでも必ず悪い面がある、悪そうなものも必ず良い面がある
プラス面を観ずに、マイナス面だけを見つめるのは良くない

老いのプラス面を一度じっくり考え、書き出してみませんか?
敢えて私の答えを示さないので皆さん自分で考えて下さい
老いで一番良いことは人間的な成長である、若者より断然優れている
むしろ人間的な成長は老人そのもの、老い=人間成熟 老い=人間完成
 ※ところが多くの老人で人間的に立派になっていく人は意外にも少ない
老後は、リターイアー・引退・隠居し、抜け殻みたいな暮らしになっていく
老いとは老いるから老いなので、老いない人には老いはない事を忘れてはならない
多くの老人が大きな間違いをしてしまうのは、老い=老衰に捉えるからだ


世の中、良きにつけ、悪しきにつけ”物事をあーだこーだ決めつける”
そして事態が悪いほうに行くと、安易に悪い方に決めつけてしまう
もっと謙虚に自分や人生を一度白紙に戻し考え直すべきだ
そういう安易な決め方自身が物事を悪化させてしまう元になる
「俺なんか所詮駄目人間」「所詮何の取柄もない」なんて具合だ
励ましているのではないのだが、「励ましてくれなくてよい」と反発する
真面目にやれば、必ずや出来ると信じているのだが、忠告を完全無視する

親切な忠告が、単なる励ましに捉えられ「そんなことは出来るわけない」となる
人は衰えてくると「励ましは要らん」「忠告は要らん」と不快感を露わにする
腰痛爺さんは「腰が痛いのに、そんなこと出来るはずがない」と声高に言う
これも実に大きな間違いの一つだ、腰痛患者のやることなすこと逆なのだ
歳とるほど、ますます謙虚に他人の忠告を受け入れ自分で考えないといけない

逆のようだが、私は腰痛の老人に「もっと運動し、身体を動かそう」と言う
しかし
多くの腰痛爺さんは「腰が痛くて到底運動なんか無理だ」と拒否する
「無理して運動やストレッチをしないほうが良い」などと言われる
腰痛爺さんの身になれば当然のことなのだが、それでは腰痛は絶対に直らない
腰が痛い ⇒ 運動はできない、身体を動かせない
 年取ると身体を動かさない部分があちこち多くなる、その不足を意識して
 補うことが必要であり、そのために満遍なく身体を動かし続けることが必要

ところが腰痛爺さんは、
運動は出来ない、身体を動かせない ⇒ 腰痛は悪化する
物事が悪化すると原因追求するが最後は、歳のせいに結論を出すのだ
考え方は「あまり動かすと痛むので、痛む運動はしたくない」なのだ


大して効果はないのだが、いよいよ外科や整体や整骨院に治療をしてもらう
治療し腰痛は少し改善する。しかしその間、自分自身は何もしようとしない
「金で医者や整体師が直してくれる」と思っているが、現実そんなことはない
身体を動かさない ⇒ 筋肉が減り、骨も細る ⇒腰痛は決定的に悪化していく
すなわち運動や身体を動かすのは腰痛を根本から直す最良の方法なのだが
歳だからと、頭から、やることを拒絶する ⇒ 当然腰痛は確実に進行する
老いとはそういうことなのだ、老いの容認により、老いが始まり、老いが進む


老いたからと諦めるから腰痛になる、きちんと暮せば腰痛はひどくはならない
肥満や喫煙なども、何かと「・・・だから」と出来ない・しない理由をあげる
この世は進歩発展という名を借りて、結果的に悪事に走る、悪事を加速する

”最良の方法とは、その人にとって、最も難しいこと”なのかもしれない
難しいというか、多くの場合は面倒くさい・続かない・効果がすぐ出ない・・・
その人にとって難しいことをやらなければ腰痛も肥満も禁煙も出来ないのだが
   人間は弱いのだ、   人の心の弱さが貧乏や腰痛の原因なのだ
運動し身体を動かし姿勢を正すということをきちんとやれば何とか悪化を防げる

お坊さんを観ていると、やることが丁寧で一つづつきちんとしているのに気づく
小笠原流というのがあるが、坊さんでなくても、きちんとしている人は他にもある
「全てにわたってきちんとすることなど不可能」と言う人に言ってあげる
「大丈夫、全てがいい加減な貴方なら、全てをきちんとすることなど朝飯前だ」と
お坊さんが入山し修行すると、アトピーや花粉症など永年の病気が直ると聞く
そんなものだろうと山暮らし20年の私も納得する、本来の正しい暮らしに戻るから
人間は、あらゆる行為をきちんと正すべきなのだ、お坊さんを参考にしましょう
花粉症を直そうと食べ物や運動などを必死にやるより山の良い環境で、
規則正しい暮らしを続けるほうが効果がある、何となく分るような気がする
ある意味無理して都会に暮らしている事そのもの自身が異常なのだと思う
出家し山中で厳しい修行を10年もすれば、それだけでも大きな効果が期待できる

 ・喫煙   ・飲酒   ・運動   ・姿勢
 ・歯磨き  ・食事   ・会話   ・付き合い
 ・掃除   ・仕事   ・睡眠   ・謙虚
 ・勉強   ・質素   ・お金   ・・・・

一部ではなく、全てにわたって、満遍なくきちんと出来ていることが大事なのだ
お勧めしたいのは、
お坊さんの立ち居振る舞いを観察し、自分の場合とどこが違うか明らかにすること
昔はお祖母ちゃんや父母や伯父さんから、事あるごとに注意をされたものだ
多分、あまり多すぎて、かえって逆効果にならないかと心配だが

やれ腰痛がどうのこうのではないし、腰痛だから無理は出来ないでもない
腰痛だから無理は出来ないではない。無理であっても必要なことはやるようにする
個別に拘り個別原因を良くしようとし過ぎると、むしろ腰痛悪化の原因になる


在家の人の弱点が、問題を絞って、それだけやれば良いと思うことだ
そんなことはないのだ100のうち30やれば良好な状態を維持出来るはずがない
ところが在家の人は、30だけ必死にやるのだが、それが次々に日替わりになっていく
在家は、楽をしたがる。もし在家を卒業したければ樂することを求めないことだ
きちんと正しいことを真面目に続けることだが、在家の人はこれしきのことも出来ない
私が田舎の山の貧しい寺で真剣に修行するお坊さんに学ぶ点は
 (※都会の寺には事業経営者みたいな欲得の僧侶もかなり多いので要注意)
 ①淡々としている   ②笑顔  ③冷静  ④質素
 ⑤堂々  ⑥謙虚  ⑦欲張らない  ⑧無・空
 ⑨作務  ⑩規則正しさ  ⑪簡素  ⑫落ち着き
 ⑬信仰心(深い人生観)  ⑭道徳心  ⑮自慢しない
 ⑯思いやり  ⑰清掃  ⑱清潔  ⑲整理整頓  ⑳平常心

そういうことが生き方や暮らしや行動に出る、それを良く観て真似るようにしている

腰痛を直すのに、当然だが、誰でも、個別の原因を調べ始める。犯人捜しだ
医者も同様で、一つかせいぜい二つくらいの原因を突き止める
10の原因を全部調べずにレントゲン結果でそれほど悪くなくても
「〇〇病です」と医者が出来る治療を想定し結論を出してしまう
10の原因があるものを何故に2つに絞ってしまおうとするのだろう?
ダイエットなども10くらいの原因があるはずだが、バナナダイエットとかで誤魔化す
もし、万一効果があがっても大半が改善されていないのでぶり返す、リバウンドする

医者や整体師から10の原因を全て明らかにし、全てについての対策を言われたことはない
医者なんてそんなものなのだ、勝手に原因を決め、自分の出来る処置や投薬をするだけ
今の医者はまず血圧測り、血液とり、場合によっては超音波検査など、保険の点数稼ぎ
患者からの状況聴取は僅か、患者の生活習慣なんか事細かく聴かない、多分点数にならない
そして処方はABCのどれかを選択するだけ荒っぽい、基準オーバーはすぐに投薬か注射、
副作用は、どうでもいい、だって俺が言ってるんじゃなくて製薬会社や医師会の見解だから

だから患者毎にきめ細かい処方をばっちり言うような医者や整体師は皆無だ、無理なのだ
簡単な病気であれば、医者でなくても出来る。ちなみに最近の大工も誰でも出来るそうだ
  「医者も大工も、出来るだけ自分でやるべし」が山暮らし20年の私の結論だ
腰痛爺さんの場合、少なくとも10くらいの原因があり全対策を同時実施する必要がある
ような感覚で直さないと、全然効果が出ない。その結果、
「やっはり歳のせいですね」なんていい加減な結論にしてしまうことになる
確かに長生きになったために、ある年齢になれば諦めが必要なんだろうが
80・90・100歳でも元気な老人がいる以上、100歳までは諦められない

例えば、10の原因があるのに2つだけ対策したとしよう
  確かに効果はあるがあとの8つの原因に対策されていないから
  8つはむしろ悪化し続けるので2つ良くなっても相殺されてしまう
  悪い場合は8つの原因でかえって悪化してしまうことである
  もし8つ改善しても肝心な2つが手つかずだと、悪化することがある
腰痛がなかなか良くならないのは、1~2つの原因だけを対策するからである
「木を観て森を観ず」なのである「全体を直さず、部分をいじるだけ」
腰痛は全体病・総合病なのだ、悪い原因を放置して一部だけ直しても駄目なのだ

便秘で便秘薬をもらって、たしかに一時的に便通が良くなるが
  野菜食べない・運動しない・酒は飲む・暮らし不規則のままでは、また元に戻る
腰痛の場合、私の経験でもいろいろなことを次々にやってきたが
  一時的な改善はあるものの、そのうち以前より悪化するの繰り返しだった
整体・マッサージ・入浴・痛み止め・シップ・注射・牽引・・・

大事なのは、樂に直す方法に頼るのではなく、面倒がらず地道な努力を続けること
すなわち、ストレッチ・運動・歩行・筋肉強化・姿勢改善・など真面目にやるのだ
しかも地道な努力を毎日続けなければならないのだ、歳だから無理なんて言い訳だ
歳だから出来ないではない。出来ないから・やらないから歳をとっていくのだ

よくこういう人を見かける
  「私、毎日1万歩歩いています」
  「私、毎日自転車に乗ります」
  「私、毎日ストレッチしています」
  「私、毎日縄跳びしています」
  「私、毎日腹筋やってます」
しかし、その人の腰痛は必しも、あまり良くならない、そのうち、もっとひどくなる
 年寄りの冷や水になってしまう、ある日突然、冷や水だけ始めるからそうなるのだ

なぜかというと、10の原因のうち1つだけやっているようなことになってしまう
大体、原因を探すようでは腰痛は良くならない、原因が分からなくなっているのだ
年寄りの腰痛対策は、1つだけやるのではなく、あれこれ満遍なくやることが需要なのだ
腰痛が深刻になった時に原因が一つだけなんてことはない、多くの原因が隠れている
ところが一つの原因を改善しようとするから、腰痛が長期化するのだ
腰痛が長期化してきたら、一つの原因を追究するのは意味がないし、効果は出ない

例えば、腰痛の場合、次の幾つをきちんとできていますか?
 ①長く座り続けない
 ②座る姿勢はきちんと真っすぐに
 ③歩く姿勢もきちんと真っすぐに
 ④敷布団は柔らかすぎない
 ⑤毎日頻繁にストレッチ、身体ひねり
 ⑥毎日ある程度の距離を歩く
 ⑦自転車に乗る
 ⑧毎日腹筋や筋肉つける運動
 ⑨逆に、腰に悪い、きつい運動は止める、減らす
 ⑩ヘルニアや神経痛の場合は当分無理しない
 ⑪ストレッチや歩き方や運動のやり方の問題を改善
 ⑫栄養をきちんととる、牛乳・豆腐・野菜・肉など
 ⑬酒減らす、禁煙、ジュース減らす

高齢者の腰痛でも12項目が全てきちんと出来ていれば、腰痛はひどくならない
ところが腰痛の高齢者がきちんとやっているのがせいぜい3つくらいなのだ
3つしか出来てないで「一向に腰痛がよくならない」とはよく言うよねー
医者や整体に行くと、つい依存して自分が日々やるべきことが疎かになる場合が多い

ちなみに参考までに、胃腸の不調や便秘なども
 ①規則正しい食事
 ②夜は6時までに食事し以降は食べない
 ③夜は10~11時に毎日同じ時間に寝る、夜更かし厳禁
 ④朝は決まった時間に起きる、日曜日に寝だめしない
 ⑤禁煙
 ⑥深酒はしない、ごく少なく
 ⑦減塩・減糖・減炭水化物
 ⑧運動・歩行・腹筋など
 ⑨ストレッチ
 ⑩但し、運動し過ぎない、夏場は特に控え目に
 ⑪野菜をきちんと食べる
 ⑫栄養は満遍なくバランスよく
 ⑬趣味を幾つか持つ
 ⑭食べ過ぎ・飲み過ぎしない
 ⑮気にしない・くよくよしない
 ⑯発酵食品をとる
 ⑰適度に水分とミネラルとる
 ⑱円満な人付き合い・会話
 ⑲やると決めたら続ける
 ⑳以上のことを全て完全に続けてやる
何か1つ2つやって便秘解消などと楽することは考えずに全面的に真剣に続けることだ

腰痛でも何でも自分の身体は本来自分で直すもので医者が直すものではないのだ
医者というのは、完璧に直せる人ではない、推測の上でやっているので
「当たるも医者、当たらぬも医者」なのだ。占い師より、やや、ましな程度なのだ
特に腰痛は自分で直す最たるものなのだ
「整体にかかっても一向に良くならない」と
文句を言うのは、お門違いなのだ、医者や整体は多くの原因の一部分をやってもらうだけ
揉めば直る・指圧すれば直る・機械で治療すれば直るという保証は全くないのだ

永年腰痛に悩む腰痛爺さんを観ていて、私は「こりゃいかん」と反省した
腰痛爺さんは、誰も同じような反応をする「腰が痛くて運動どころじゃない」
 しかし、出来ない=腰痛は直らない=更にひどくなる
動物である人間は痛かろうと、動かすことで直るのである、じっとして直ることはない
そうこうしている内に、私は、やっと少し、腰痛改善のコツをつかみ出した
すなわち、医者や整体師に依存過ぎずに、自前で生き方・暮らし方をきちんと正すこと
あれやり、これやりではなく、当たり前のことを全部無理せず地道に続けることだ
これは腰痛だけでなく人生全般に通じる真理なのだと確信している
基本・原点に戻ることだ、但し爺さんなので年相応にやることだ、無理は禁物


”腰痛だから腰痛が改善されない”ではない
”腰痛だから自分には直せない、医者や整体に直してもらう”でもない

腰痛は自分の生活習慣を全面的に見直し・改善し、それを続ければ良くなる

貧乏だから貧乏は改善されないではない
貧乏だから博打や上手い話で儲けようでもない
貧乏は自分の暮らしや心構えを全面的に改善し、それを続ければ良くなる

すなわち自分の生き方や暮らし方を全面的に正せということである

歳だから腰痛が直らないのではなく、腰痛を直そうとしないから歳をとる
腰痛爺さんの実態は、腰痛を直さず放置し続けるので、腰痛が悪化し、
それが歳のせいのように思えてくるのである
腰痛の原因自身は、そのまま放置しておくから、当然、腰痛は悪化し続ける

そこで私は簡単なことだが重要な結論を導き出した思いがした、
  一部でなく、全部についてきちんと真面目にやることなのだ
   満点な本来の自分を取り戻すことだ
しかし歳をとるほど、貧乏になるほど、人間はきちんとするより
むしろ、より、いい加減になるのである
更に、そのいい加減さを許さないのではなく、何だかんだと是認してしまうのだ
いい加減を一つ是認すると、一つの原因が生じ
やがてそれが二つ三つ四つと増えていく、そうなると歯止めが効かず、
きちんと真面目にという基本姿勢は完全に崩壊してしまっているのだ
「歳だから・・・」年齢は関係ない、真面目にきちんとするという事と無関係だ

そこに来て医者はというと、数値や画像による医学的な検査に頼るばかり
患者の克明な状況を調べようとはしない、やれる能力や時間がないからだ
何のことはない、10の原因なんか完全無視で、より医学的な症状に拘るのだ
改善対策はあくまで医学上の一般的なこと
運動して下さい・歩いて下さい・姿勢を正して下さい・入浴して下さい・・・・
そんなことが皆、出来て居れば腰痛が悪くなることはないのだが、
医者は痛みを一時的にでも取り除くことで、治療費というお金を貰おうとする

直ぐに痛みはとれなくても、根本原因が分かり、治療法を明らかにしようとは思わない
そしてかつての私のように医者や整体に行って、その時だけ良くなるで終わる
すぐに痛みが取れる処方を期待してはいけない、それよりも確実に直る処方が欲しいのだ
高いお金と時間をかけたが、結果的にどぶに捨てたみたいなってしまう
医者や整体師は、とりあえず腰の痛みを取り除こうとしてくれているだけだったのだ
根本原因は医者の力では直らないと分かっていながら、健康保険費を無駄使いするだけなのだ
医者や整体師が直せるのは、患者の一時的かつたった一つの原因によるものだけなのだ
患者の生活習慣や高齢化により複雑な原因によるものは自分でしか直せないのだ
 ・腰痛原因を検査するだけならよい
 ・しかし腰痛を直すのは自分自身でやるべきだ
 ・医者はA+B=Cみたいな誰にも共通的な状況をつかみ、その標準的な治療法を定め、
  医者にしか出来ない処置をするだけに適している
 ・医者に腰痛のような個人の努力によるものを直せというのは無理なのである
 ・医者には出来ることと出来ないことがあるが腰痛爺さんを直すのは出来ないことだ

  72歳以降、最近の私は次のようなスローガンで自前で腰痛改善を続けている
    姿勢よく・立て・歩け・食べろ・動け・伸ばせ・曲げろ・負荷かけろ

 無論私の長年の経験もあるので必しも誰もが上手く行くとは保証できないが
 その時は私と遭って直接相談して欲しい、アドバイスをさせて戴く

本題に戻るが、この腰痛の経験を人生全部に普遍させてみた

「何事もきちんとやる習慣を身に着けるべし」ということである
「いい加減主義を止め、完璧主義に」移し替えることだ
例えば、身近なことだが
 ・靴を脱ぐときは、2足揃えて、足先の向きを変えて置く
 ・物を使え終えたら、元の場所にきちんと仕舞う
 ・食事したら歯を磨く、間食はしない
 ・水回りや冷蔵庫は毎日ないし毎週一回はきちんと清掃する
 ・毎日寝る時間起きる時間を決まった時間にする
 ・などなど・・・・・
要するに禅僧のように行いを全てにわたって丁寧にきちんとすること
焦らない・欲張らない・楽しようとしない・頑張り過ぎない・いい加減にしない・・・・
ところが一般人(在家)によくあるのは、布団は敷きっぱなし、布団は干さない、
  掃除はしない、食器は流しに洗わず置きっぱなし、服もにぎっぱなし、間食する、
  暴飲暴食する、部屋には物だらけ、ほこりも一杯・・・・
 ・きちんと出来ることの割合が低い
 ・きちんと出来ることにかなりの苦痛や困難を伴う
 ・きちんと出来ることが長く続かない
 ・きちんと出来るレベルが低い、すなわち自分が思っているほどきちんと出来ていない
 ・一言で言えば、意志が弱い 又は 出来ない病
最後にまとめると
トヨタの改善は素晴らしいと有名だが、言い替えれば、何事も問題だらけということだ
腰痛爺さんの場合は問題が多岐に亘っているが、高齢なので、全部出来ない・続かない
諦めないで、基本原点に戻り全部をきちんとし、無理せずに、続けることだ
自力で地道に直そうとしないと、腰痛は直らず、悪化し、寝たきり老人を増やすだけ

今年の夏は猛暑で外に出られない。一日エアコンかけっぱなし、更に温暖化を助長する
夏の猛暑の原因が電気石油の使い過ぎだから省エネすべきところだが、
熱中症に注意しエアコンをつけ放なしにという指示が出ている、対策が真逆なのだ?
これも腰痛爺さん同様に、反省の欠如・依存・そして悪循環から脱出出来ない例だ
水飲み、運動しないと秋に大きなつけがまわってくる、そして秋に医療保険が増大する
良いことをする人に減税し、いい加減な人に増税すべきだが、これも逆なことをやっている

消費税もあげ、医療保険負担もあげ、都会集中に増税、インバウンド収益に増税、
災害危険地域住人への災害税、いろいろ自己責任の施策を実施しないといけない

原因に対する対策が本来やるべきことの逆なことをしている⇒悪循環⇒脱出付加

私は室内で壁打ち卓球やストレッチもやっています。爺さんも自分工夫してやることです


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