悩み・苦悩を放置せず自分で改善するか相談する良き師を持て
清く・正しく・美しく・明るく・元気・多くに挑戦・謙虚に・質素に
(国の指導者や会社社長がこういう事が出来ていて健全かつ平和でありたい)
東京工業大学⇒大阪松下電器⇒エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒ISOコンサルタント自営
東京浅草(猿若町誕生⇒三筋町)⇒大阪門真⇒萱島⇒京都⇒滋賀
専門:IE・VE・無駄取改善・生産管理・環境管理・経営管理・人生・会話・田舎暮・PC
人生関係:人生勉強・会話・老後・健康管理・運動・確定申告・異文化・資産管理
趣味:大工・剪定・テニス・スケート・読書・ネット・ブログ・太極拳・卓球・水彩画・楽器
****村上原基人生勉強会****
**物事は起きてからではなく起きる前にやる**
貴方は自由な時代に本当に自由に暮らしていますか?自由の意識が欠落してませんか?
・不自由な暮らしをして老後を迎え死んでしまうなんて情けない話ですね。
・貴方は心底自分が納得するような自由な生き方をしたことがおありですか?
・やれ平和とかエコとかリサイクルとか絆とか言うけれど、貴方にとって自由はどういうものなんですか?
・物資豊で便利な都会に住むために、かえって自由を犠牲にしていませんか?
・これまで一度も心の底から「自由だ」と感じたことがなく、縛り付けられてきませんか?
・社会から、会社から、他人から、家族から、常に不自由(拘束)を感じさせられていませんか?
・あなたは本当に個性的ですか?今ここで、その個性的なものを全部出してみて下さい
・今や平和や自由は当り前になって、しっかり意識出来ていなくて、平和ボケと言いますが、自由ボケしてませんか?
・貴方は自由を選ぶのではなく、楽することを選んでいませんか?
・大して得ることなく、自分の人生を四角四面に窮屈に生き続けて来ていませんか?
貴方は、心の底から自由ですか?自分の現在の自由さを疑ったことがありますか?もし自由だとして、自由な貴方は何をやっていますか?何をしようとしていますか?現代は自由の大事さの認識が希薄になっている。むしろ自分自身を縛り続けてきませんでしたか?
江戸時代や明治大正時代頃までは身分制度や貧困や家族の厳しい掟や上下関係など本当に不自由な暮らしを耐え忍んで来たので、長いこと、自由を求める空気はすごく強かったと思いますが、戦後一挙に民主化し自由を手に入れ、その後技術革新や法制度の改正などによって現在まで更に飛躍的に自由は進展して来ました。今の時代は出来ないことなどほとんどないほど自由です。私達は徳川家康の何百倍~何千倍も豊で自由な暮らしを享受しているのです。それでもよく観てみると案外わざわざ不自由な生き方をしている人、自由を正しく認識できていない人を私はかなり見かけるのが気になります。もっと自由に何でもやったらいいんですが?
戦後急速に田舎から都会へと言う流れが出来て、都会でお金を稼ぐ人が増え、都会は仕事も多く、物質的に豊かではあったが、過密で物価高の住み難い不自由な場所になって行ったこと、もう一つはあまりに多くの自由を得たために自由に対して不感症になり、少々の不自由さはあまり意識されなくなったり、我慢してしまう癖がついてしまったようです。
貴方は何かするときに①「不自由さ(何か大きな障害)があることを意識しています」か?それとも②「いつも我慢していているので格別、不自由を意識はしていない」ですか?
どちらか一方を選ばざるを得ないのですが、どちらを選んでも、必ずそれぞれに何がしかの不自由さが潜在しているのです。子供はその不自由さに耐えられないのでぐずぐず鳴いたり怒ったり正直に不満を表に出してしまうのですが、過剰な自由時代において、大人は我慢することを覚えるのです。そして年齢とともに自由さを求めるよりも我慢をするほうに偏ってしまうのです。
①既婚者の場合は未婚者に比べると想定外の不自由さが生じる
②都会暮らしの人は田舎暮らしの人に比べると想定外の不自由さが生じる
③転職しない人は転職する人に比べると想定外の不自由さが生じる
④上司は部下に比べる想定外の不自由さが生じる
⑤頭の良い人は頭の悪い人に比べると想定外の不自由さが生じる
⑥有名人は無名な人に比べると想定外の不自由さが生じる
⑦先生は先生でない人に比べると想定外の不自由さが生じる
・・・・・・・・・
自分は良かれと思ってやっているが、案外に我慢をしていて、知らぬ間に自由を奪われてしまっていることがあるのです。
例えば、有名人や先生や警察官などは有名税というか、絶えず他人の目を気にかけて行動することが要求されますし、周囲からも真面目であることが求められるので、その分日常的に緊張を強いられ、かなり自由が束縛されます。有名人より私達のような無名な人間のほうがずーっと自由だということを忘れてはいませんか?
「都会暮らしと田舎暮らしとどちらが自由ですか?」こんな質問をしてみて下さい。多くの人は「当然自由なのは都会でしょ」と言うでしょうね。でも私のように元都会人が実際に田舎に長年住んでみると意外なことに、田舎のほうがずーっと自由だというのが実感です。例えば田舎は大病院がないので不安なんて言われますが、そんな場合でも、大きな病気になったその時だけ都会に行けば済むことなんです。田舎にもよりますが、私の住む安曇川のような田舎では町の医院は沢山ありますし一応大病院もあるにはあるのです。また都会と田舎の二重生活でもよいのです。我慢して都会だけに住み続ける必要はないのです。田舎をあーだこーだと勝手に悪く決めつけるのは間違っていると思います。
まあそうは言うものの元々田舎の人自身が自由かというと、やや自由ボケしているところもあるにはある。田舎の自由より都会の不自由に憧れているような若者も多いのは事実であり、それを私は否定しない。田舎に私のように都会の人間や外人が移り住むと田舎の自由を発見するのだ、そんなものなんだ。
日本人自身は日本の素晴らしさに気づいていないのだが、今未曾有の外人来訪ブームだが彼らも日本の自由さ、日本の個性的なものにびっくりしているんだ。
東京・大阪・京都と大都会住まいの後に30年近く山と田舎に独り住まいをして来た私から観ると、まるで別世界の人間のように、都会の人間に凄く違和感があります。多分彼らからすると「そんなこと田舎ペーに言れたくない」ということでしょうが、私も昔は都会側の人間だったから、「お前さんたちいい気になっているんじゃないよ」と思いますね。「何しろお前さん達かなり不可思議な奇妙な行動を当り前のようにやっているんだが、貴方方にはそれがトンと分かっていない」私にしたら申し訳けないが、「勝手にやってろ」としか言いようがない。彼らからすると「自由を謳歌している」のだろうが今の私から観ると「なんとも窮屈な生き方」にしか見えない。
コロナの時も過疎地である田舎は、空気もきれい、人込みがないので、私のような一人暮らしの高齢者ほどむしろ、ほとんどコロナに感染する危険を感じたことはありませんでした。また、もし、感染しても一戸建ての広い家でじっとしていることが出来るので、そういう点でも都会ほど困ることはなかったように感じています。今思うと「7回もワクチン注射なんか打たなければ良かった」と思っていますし、最近はインフルも含めてワクチンは一切止めてしまいました。当時、都会に自分の会社や学校がある人だけが当地でもコロナにかかっているような状況でしたね。
また大きな声では言い難い事なんですが、私が55歳の時に妻が他界しそれ以降私は自動的に一人暮らしになったんですが、ほぼ同時に滋賀県山の暮らしが始まったがそういう意味では家族とも離れての暮らしが続いてきた。そして思うことは全部自分で考え、全部自分で決断し、全部自分で自由にやってきたが、「これぞ自由な暮らしだった」のではないかと思っている。
老人の私が京都の家に帰ると困るのが家の近くでやることがないので、京都では一日中家の中でじっとしているか隣のス―パーにでも出掛るくらいしかないのです。一方安曇川の家では前が空地、家には庭や土間があり、周囲には自然も、川も山もあるし無論5~10分で買い物の出来る大型店も5~6軒もあるんです。また毎週生協が配達してくれますし、頻繁にネットで買い物をしますが1~2日で配達してくれるので、不自由さはほとんど感じません。
田舎の道路はかなり(チョー)空いていますから目的地には時間通りに着けますし、駐車に困ることは全くありません、田舎暮らしを始めて田舎の自由さをあらゆる場面で実感しています。私は水彩画や卓球や大工仕事や木の剪定などをやっていますが、習い事もできます。スポーツも近くの体育館で出来ますし、むしろ都会より簡単かもしれません。まあそんなことで私は不自由でむしろ自然がなく騒々しい京都に帰ることがほとんどなくなってしまったというわけです。だから京都市内や繁華街にもここ30年ほとんどご無沙汰しています。
それと、とにかく都会の家および玄関・風呂・トイレ・洗面所・庭なども全て狭いですね。私が一人で住む今の田舎の平屋(一階建て)の家は152㎡建坪62㎡で玄関・風呂・トイレ・洗面所・土間や庭も広いですし、一人住まいとしては、たっぷり十分な広さがあります。庭も前後合計70㎡ほど、しかも家の道路の向いにもかなり広い空き地があります。それでも欧米の家は更に一回り広いらしいから日本の都会の家がいかに狭いか不自由かが推測できるというものです。日本の都会は、4人暮らしでは私の家と同じ程度の広さで庭もなく、かなり窮屈です。しかも都会の中古の家でも価格は極端に高いです。都会の家の価格は私の田舎の家6~10軒分はしますし、かつ狭いです。そういう意味では都会では、お金の自由も奪われているのです。収入は多いが案外つましい暮らしをしておられる。
しかし田舎でも、都会とは別な不自由さは伴いますから田舎のどこに住むかは、自分で慎重に選ぶことも大事です。都会暮らしの時から失う自由と、山暮らしで得る新たな自由を天秤にかけてどちらが大きいかで決めたらよいと思います。私の場合は山暮らしのほうが格段に自由でしたが、72歳でさすが体力や緊急対応に自信がなくなり山を降りました。
更に私は東京から関西に移り住み更に滋賀の田舎に引っ越したり会社も4つ転職してきました。引っ越しや転職経験は、私が何か考える場合にも他の人より情報の質も量も多く、考えたり決断する自由度は広いのです。東京に住んだことのない人に比べて、24年暮らした私には、東京の様々なイメージがすぐに頭に浮かんできます、大企業とか小企業についても私にはすぐに頭にそれらのイメージが湧くのです。大都会の暮らしも山や田舎の暮らしも容易にイメージ出来るのです。すごく自由に広く正しく物事が考えられます。
また京都での長い暮らしも、京都に住んだことのない人よりより広く深く体験しているのでイメージもかなり自由に出来ます。他県だけに住む人には観光地の京都市しかイメージ出来ないはずで、そういう点では観光だけで京都に長く住んだことのない人の場合は、ほとんどきょうとについて偏見ばかりで不自由だなーと思わざるをえません。
趣味も同様で私は色々な趣味をやってきましたから、何でも容易に、正しく、自由なイメージが可能ですし、多くの人といろいろな趣味について深い会話が出来ます。
私の山暮らしや田舎暮らしで感じた自由感は他のあらゆることについて自由を考えるきっかけとなりました。「今自分は自由なのか?」「もっと自由な環境はないのか?」
まあ「都会が好き、田舎なんて大嫌い」、「大企業が良い、中小企業なんて絶対に行かない」、「卓球とか水彩画なんて苦手で絶対にやらない」なんて人は狭い経験の範囲で暮らしているのでかなり不自由なんです。そういうことを少しは考えてみることをお勧めします。
◆何故、人や自動車や家の多いところで狭い家に住んで不自由な暮らしを我慢しているんですか?
◆なぜ一か所に住み続けて自分を閉じ込めているんですか?もっと自由に引っ越せばよいのに
◆なぜ一つの会社に勤め続けて毎日ほぼ同じ仕事をやり続けているんですか?もっと自由にいろいろな会社に勤めていろいろな仕事やいろいろな人と出会ったら
◆なぜ趣味が少ないんですか?もっと自由にいろいろな趣味を体験して楽しんだらどうですか?
江戸時代以前の昔には、皆ある意味真面目にコツコツ暮らしていた、体系的な科学技術は存在しないに等しく、いつも厳しい日々であった。だから、そういう時代にはある程度の正当な嘘誤魔化しが必要であった。歌とか踊りとかマジナイとか飲酒とか占いとか信仰・・・とか。でも現代はそんなものはほとんど必要ないはずなのだが、昔よりむしろ嘘誤魔化しだらけの社会になっている。もはやどれが嘘誤魔化しでどれが真実かも分からなくなっている。そんな人間の行動はまさに麻薬患者や泥酔アル中患者のようなものでまともに観るに値しないようなものになっている。そんな者にもはや「自由とは何か」「本来の自由を再度獲得しよう」など到底理解はできないことだろうと私は思っている。
自由に飛び立て、自由に駆け巡れ、自由に新しい環境に突入しろ、そうすることで現在の私のように自由な生き方や暮らしを手に入れることが出来るのですが、貴方は一生狭い籠に閉じこもって、これだけ自由な時代に、わざわざ不自由な一生を生きていくことにならないように注意して下さい。「海外旅行に行きましたとか都会でいろいろな楽しみをやっています」なんて言ってもそんな人が自由かというと、必しもそうでもないのに私は少々心配になるのです。政治家や先生も意外と狭いし不自由を我慢している、そんな人に導かれていて大丈夫なの彼らももっと自由にいろいろな体験をしてほしいものだと思わざるを得ません。
空き地が放置されていますが、そこは雑草が生え放題で環境悪化につながるところを、私は我が家の前の空き地をきれいに維持して差し上げ、その代わりに自由に使わしてもらっています。
清く・正しく・美しく・明るく・元気・多くに挑戦・謙虚に・質素に
(国の指導者や会社社長がこういう事が出来ていて健全かつ平和でありたい)
東京工業大学⇒大阪松下電器⇒エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒ISOコンサルタント自営
東京浅草(猿若町誕生⇒三筋町)⇒大阪門真⇒萱島⇒京都⇒滋賀
専門:IE・VE・無駄取改善・生産管理・環境管理・経営管理・人生・会話・田舎暮・PC
人生関係:人生勉強・会話・老後・健康管理・運動・確定申告・異文化・資産管理
趣味:大工・剪定・テニス・スケート・読書・ネット・ブログ・太極拳・卓球・水彩画・楽器
****村上原基人生勉強会****
**物事は起きてからではなく起きる前にやる**
貴方は自由な時代に本当に自由に暮らしていますか?自由の意識が欠落してませんか?
・不自由な暮らしをして老後を迎え死んでしまうなんて情けない話ですね。
・貴方は心底自分が納得するような自由な生き方をしたことがおありですか?
・やれ平和とかエコとかリサイクルとか絆とか言うけれど、貴方にとって自由はどういうものなんですか?
・物資豊で便利な都会に住むために、かえって自由を犠牲にしていませんか?
・これまで一度も心の底から「自由だ」と感じたことがなく、縛り付けられてきませんか?
・社会から、会社から、他人から、家族から、常に不自由(拘束)を感じさせられていませんか?
・あなたは本当に個性的ですか?今ここで、その個性的なものを全部出してみて下さい
・今や平和や自由は当り前になって、しっかり意識出来ていなくて、平和ボケと言いますが、自由ボケしてませんか?
・貴方は自由を選ぶのではなく、楽することを選んでいませんか?
・大して得ることなく、自分の人生を四角四面に窮屈に生き続けて来ていませんか?
貴方は、心の底から自由ですか?自分の現在の自由さを疑ったことがありますか?もし自由だとして、自由な貴方は何をやっていますか?何をしようとしていますか?現代は自由の大事さの認識が希薄になっている。むしろ自分自身を縛り続けてきませんでしたか?
江戸時代や明治大正時代頃までは身分制度や貧困や家族の厳しい掟や上下関係など本当に不自由な暮らしを耐え忍んで来たので、長いこと、自由を求める空気はすごく強かったと思いますが、戦後一挙に民主化し自由を手に入れ、その後技術革新や法制度の改正などによって現在まで更に飛躍的に自由は進展して来ました。今の時代は出来ないことなどほとんどないほど自由です。私達は徳川家康の何百倍~何千倍も豊で自由な暮らしを享受しているのです。それでもよく観てみると案外わざわざ不自由な生き方をしている人、自由を正しく認識できていない人を私はかなり見かけるのが気になります。もっと自由に何でもやったらいいんですが?
戦後急速に田舎から都会へと言う流れが出来て、都会でお金を稼ぐ人が増え、都会は仕事も多く、物質的に豊かではあったが、過密で物価高の住み難い不自由な場所になって行ったこと、もう一つはあまりに多くの自由を得たために自由に対して不感症になり、少々の不自由さはあまり意識されなくなったり、我慢してしまう癖がついてしまったようです。
貴方は何かするときに①「不自由さ(何か大きな障害)があることを意識しています」か?それとも②「いつも我慢していているので格別、不自由を意識はしていない」ですか?
どちらか一方を選ばざるを得ないのですが、どちらを選んでも、必ずそれぞれに何がしかの不自由さが潜在しているのです。子供はその不自由さに耐えられないのでぐずぐず鳴いたり怒ったり正直に不満を表に出してしまうのですが、過剰な自由時代において、大人は我慢することを覚えるのです。そして年齢とともに自由さを求めるよりも我慢をするほうに偏ってしまうのです。
①既婚者の場合は未婚者に比べると想定外の不自由さが生じる
②都会暮らしの人は田舎暮らしの人に比べると想定外の不自由さが生じる
③転職しない人は転職する人に比べると想定外の不自由さが生じる
④上司は部下に比べる想定外の不自由さが生じる
⑤頭の良い人は頭の悪い人に比べると想定外の不自由さが生じる
⑥有名人は無名な人に比べると想定外の不自由さが生じる
⑦先生は先生でない人に比べると想定外の不自由さが生じる
・・・・・・・・・
自分は良かれと思ってやっているが、案外に我慢をしていて、知らぬ間に自由を奪われてしまっていることがあるのです。
例えば、有名人や先生や警察官などは有名税というか、絶えず他人の目を気にかけて行動することが要求されますし、周囲からも真面目であることが求められるので、その分日常的に緊張を強いられ、かなり自由が束縛されます。有名人より私達のような無名な人間のほうがずーっと自由だということを忘れてはいませんか?
「都会暮らしと田舎暮らしとどちらが自由ですか?」こんな質問をしてみて下さい。多くの人は「当然自由なのは都会でしょ」と言うでしょうね。でも私のように元都会人が実際に田舎に長年住んでみると意外なことに、田舎のほうがずーっと自由だというのが実感です。例えば田舎は大病院がないので不安なんて言われますが、そんな場合でも、大きな病気になったその時だけ都会に行けば済むことなんです。田舎にもよりますが、私の住む安曇川のような田舎では町の医院は沢山ありますし一応大病院もあるにはあるのです。また都会と田舎の二重生活でもよいのです。我慢して都会だけに住み続ける必要はないのです。田舎をあーだこーだと勝手に悪く決めつけるのは間違っていると思います。
まあそうは言うものの元々田舎の人自身が自由かというと、やや自由ボケしているところもあるにはある。田舎の自由より都会の不自由に憧れているような若者も多いのは事実であり、それを私は否定しない。田舎に私のように都会の人間や外人が移り住むと田舎の自由を発見するのだ、そんなものなんだ。
日本人自身は日本の素晴らしさに気づいていないのだが、今未曾有の外人来訪ブームだが彼らも日本の自由さ、日本の個性的なものにびっくりしているんだ。
東京・大阪・京都と大都会住まいの後に30年近く山と田舎に独り住まいをして来た私から観ると、まるで別世界の人間のように、都会の人間に凄く違和感があります。多分彼らからすると「そんなこと田舎ペーに言れたくない」ということでしょうが、私も昔は都会側の人間だったから、「お前さんたちいい気になっているんじゃないよ」と思いますね。「何しろお前さん達かなり不可思議な奇妙な行動を当り前のようにやっているんだが、貴方方にはそれがトンと分かっていない」私にしたら申し訳けないが、「勝手にやってろ」としか言いようがない。彼らからすると「自由を謳歌している」のだろうが今の私から観ると「なんとも窮屈な生き方」にしか見えない。
コロナの時も過疎地である田舎は、空気もきれい、人込みがないので、私のような一人暮らしの高齢者ほどむしろ、ほとんどコロナに感染する危険を感じたことはありませんでした。また、もし、感染しても一戸建ての広い家でじっとしていることが出来るので、そういう点でも都会ほど困ることはなかったように感じています。今思うと「7回もワクチン注射なんか打たなければ良かった」と思っていますし、最近はインフルも含めてワクチンは一切止めてしまいました。当時、都会に自分の会社や学校がある人だけが当地でもコロナにかかっているような状況でしたね。
また大きな声では言い難い事なんですが、私が55歳の時に妻が他界しそれ以降私は自動的に一人暮らしになったんですが、ほぼ同時に滋賀県山の暮らしが始まったがそういう意味では家族とも離れての暮らしが続いてきた。そして思うことは全部自分で考え、全部自分で決断し、全部自分で自由にやってきたが、「これぞ自由な暮らしだった」のではないかと思っている。
老人の私が京都の家に帰ると困るのが家の近くでやることがないので、京都では一日中家の中でじっとしているか隣のス―パーにでも出掛るくらいしかないのです。一方安曇川の家では前が空地、家には庭や土間があり、周囲には自然も、川も山もあるし無論5~10分で買い物の出来る大型店も5~6軒もあるんです。また毎週生協が配達してくれますし、頻繁にネットで買い物をしますが1~2日で配達してくれるので、不自由さはほとんど感じません。
田舎の道路はかなり(チョー)空いていますから目的地には時間通りに着けますし、駐車に困ることは全くありません、田舎暮らしを始めて田舎の自由さをあらゆる場面で実感しています。私は水彩画や卓球や大工仕事や木の剪定などをやっていますが、習い事もできます。スポーツも近くの体育館で出来ますし、むしろ都会より簡単かもしれません。まあそんなことで私は不自由でむしろ自然がなく騒々しい京都に帰ることがほとんどなくなってしまったというわけです。だから京都市内や繁華街にもここ30年ほとんどご無沙汰しています。
それと、とにかく都会の家および玄関・風呂・トイレ・洗面所・庭なども全て狭いですね。私が一人で住む今の田舎の平屋(一階建て)の家は152㎡建坪62㎡で玄関・風呂・トイレ・洗面所・土間や庭も広いですし、一人住まいとしては、たっぷり十分な広さがあります。庭も前後合計70㎡ほど、しかも家の道路の向いにもかなり広い空き地があります。それでも欧米の家は更に一回り広いらしいから日本の都会の家がいかに狭いか不自由かが推測できるというものです。日本の都会は、4人暮らしでは私の家と同じ程度の広さで庭もなく、かなり窮屈です。しかも都会の中古の家でも価格は極端に高いです。都会の家の価格は私の田舎の家6~10軒分はしますし、かつ狭いです。そういう意味では都会では、お金の自由も奪われているのです。収入は多いが案外つましい暮らしをしておられる。
しかし田舎でも、都会とは別な不自由さは伴いますから田舎のどこに住むかは、自分で慎重に選ぶことも大事です。都会暮らしの時から失う自由と、山暮らしで得る新たな自由を天秤にかけてどちらが大きいかで決めたらよいと思います。私の場合は山暮らしのほうが格段に自由でしたが、72歳でさすが体力や緊急対応に自信がなくなり山を降りました。
更に私は東京から関西に移り住み更に滋賀の田舎に引っ越したり会社も4つ転職してきました。引っ越しや転職経験は、私が何か考える場合にも他の人より情報の質も量も多く、考えたり決断する自由度は広いのです。東京に住んだことのない人に比べて、24年暮らした私には、東京の様々なイメージがすぐに頭に浮かんできます、大企業とか小企業についても私にはすぐに頭にそれらのイメージが湧くのです。大都会の暮らしも山や田舎の暮らしも容易にイメージ出来るのです。すごく自由に広く正しく物事が考えられます。
また京都での長い暮らしも、京都に住んだことのない人よりより広く深く体験しているのでイメージもかなり自由に出来ます。他県だけに住む人には観光地の京都市しかイメージ出来ないはずで、そういう点では観光だけで京都に長く住んだことのない人の場合は、ほとんどきょうとについて偏見ばかりで不自由だなーと思わざるをえません。
趣味も同様で私は色々な趣味をやってきましたから、何でも容易に、正しく、自由なイメージが可能ですし、多くの人といろいろな趣味について深い会話が出来ます。
私の山暮らしや田舎暮らしで感じた自由感は他のあらゆることについて自由を考えるきっかけとなりました。「今自分は自由なのか?」「もっと自由な環境はないのか?」
まあ「都会が好き、田舎なんて大嫌い」、「大企業が良い、中小企業なんて絶対に行かない」、「卓球とか水彩画なんて苦手で絶対にやらない」なんて人は狭い経験の範囲で暮らしているのでかなり不自由なんです。そういうことを少しは考えてみることをお勧めします。
◆何故、人や自動車や家の多いところで狭い家に住んで不自由な暮らしを我慢しているんですか?
◆なぜ一か所に住み続けて自分を閉じ込めているんですか?もっと自由に引っ越せばよいのに
◆なぜ一つの会社に勤め続けて毎日ほぼ同じ仕事をやり続けているんですか?もっと自由にいろいろな会社に勤めていろいろな仕事やいろいろな人と出会ったら
◆なぜ趣味が少ないんですか?もっと自由にいろいろな趣味を体験して楽しんだらどうですか?
江戸時代以前の昔には、皆ある意味真面目にコツコツ暮らしていた、体系的な科学技術は存在しないに等しく、いつも厳しい日々であった。だから、そういう時代にはある程度の正当な嘘誤魔化しが必要であった。歌とか踊りとかマジナイとか飲酒とか占いとか信仰・・・とか。でも現代はそんなものはほとんど必要ないはずなのだが、昔よりむしろ嘘誤魔化しだらけの社会になっている。もはやどれが嘘誤魔化しでどれが真実かも分からなくなっている。そんな人間の行動はまさに麻薬患者や泥酔アル中患者のようなものでまともに観るに値しないようなものになっている。そんな者にもはや「自由とは何か」「本来の自由を再度獲得しよう」など到底理解はできないことだろうと私は思っている。
自由に飛び立て、自由に駆け巡れ、自由に新しい環境に突入しろ、そうすることで現在の私のように自由な生き方や暮らしを手に入れることが出来るのですが、貴方は一生狭い籠に閉じこもって、これだけ自由な時代に、わざわざ不自由な一生を生きていくことにならないように注意して下さい。「海外旅行に行きましたとか都会でいろいろな楽しみをやっています」なんて言ってもそんな人が自由かというと、必しもそうでもないのに私は少々心配になるのです。政治家や先生も意外と狭いし不自由を我慢している、そんな人に導かれていて大丈夫なの彼らももっと自由にいろいろな体験をしてほしいものだと思わざるを得ません。
空き地が放置されていますが、そこは雑草が生え放題で環境悪化につながるところを、私は我が家の前の空き地をきれいに維持して差し上げ、その代わりに自由に使わしてもらっています。