Amazonに勧められての購入。
少しタイムラグがあったものの、買ってすぐに読んだはずだ。
とはいえ、すでに発行から20年経っている新書なので、多くの人が読んでいることだろう。
ちなみに、タイトルにある〈子ども〉は、いわゆる中学生や高校生などを指しているわけではない。
哲学の入門書ではないし、ただ、ある種の人には救いになるかもしれないことが書かれてある。
これまで哲学書を読んできて、そして挫折してきた人にとっては、一つの光になるかもしれない。
▼少しだけネタバレあり▼
竹田青嗣をこれまで少し読む機会があった。
私にとって哲学は、文学を考える上で必要な知識だったし、ある程度押さえなければ分析できなかったという必要に駆られての読書だった。
そのうち、読むことについて、書くことについて、物語について考えていくにあたって、やはり行き着く先は哲学だった。
だが、いまひとつよく分からず、様々な哲学の入門書や哲学史を読んできた。
それでもいまひとつ分からなかった理由が、この本では納得できた。
納得できただけで、解決はしていないのだが。
この本で伝えていることは一つだ。
「哲学は学ぶものではなく、するものだ」。
学ぶ、すなわち、真似ることで哲学は体得できるわけではない。
自分自身がひっかかった「問題」について徹底的に考え続けることが「哲学する」ことであり、それ以外の哲学はありえない、ということだ。
私たちがふつう、哲学というのは、それは一つの思想であり、哲学ではない、というのだ。
思想が難しいのは、他人の哲学だからだ。
他人の哲学は、自分の哲学をすることについてヒントになったとしても、解決にはならない。
私はきっと、10代のころ、哲学をしていた。
そしてそのひっかかったことを、ずっと引きずって大人になった。
その中で、本を読む力を手に入れて、思想をさまよってきた。
だが、私が本当に求めていたのは、自分の力で考えていくためのヒントであって、答えではなかったのだ。
だから、他人の思想の入門書をどれだけ読んでも、納得することも解決することもできなかったのだろう。
なぜそんなふうになるのか?
それは、おそらく、それこそが、私というかけがえのない私自身の故だからだろう。
私はいつの間にか、取り替え可能な私と、取り替え不可能な私を混同しながら生きてきたのだ。
誰かが唱えた、アイデンティティや、近代的自我といった思想的用語を知ることで、肝心の原点である、どうしようもない私というものを忘れて、あるいは括弧に入れて思想を学んでいただけなのだろう。
社会が均一化され、権利が保障され、自由を獲得したからと言って、私が失われてしまうことはない。
そんなことは当たり前だったのに、そんなことを忘れてしまって、「理論的な思想」に絡め取られてしまっていたのだろう。
他人のふんどしで相撲は取れない。
生きるとということは、語ること、読むこと、観ること、振る舞うことと同じように、どうしようもなく孤独な営みなのだろう。
少しタイムラグがあったものの、買ってすぐに読んだはずだ。
とはいえ、すでに発行から20年経っている新書なので、多くの人が読んでいることだろう。
ちなみに、タイトルにある〈子ども〉は、いわゆる中学生や高校生などを指しているわけではない。
哲学の入門書ではないし、ただ、ある種の人には救いになるかもしれないことが書かれてある。
これまで哲学書を読んできて、そして挫折してきた人にとっては、一つの光になるかもしれない。
▼少しだけネタバレあり▼
竹田青嗣をこれまで少し読む機会があった。
私にとって哲学は、文学を考える上で必要な知識だったし、ある程度押さえなければ分析できなかったという必要に駆られての読書だった。
そのうち、読むことについて、書くことについて、物語について考えていくにあたって、やはり行き着く先は哲学だった。
だが、いまひとつよく分からず、様々な哲学の入門書や哲学史を読んできた。
それでもいまひとつ分からなかった理由が、この本では納得できた。
納得できただけで、解決はしていないのだが。
この本で伝えていることは一つだ。
「哲学は学ぶものではなく、するものだ」。
学ぶ、すなわち、真似ることで哲学は体得できるわけではない。
自分自身がひっかかった「問題」について徹底的に考え続けることが「哲学する」ことであり、それ以外の哲学はありえない、ということだ。
私たちがふつう、哲学というのは、それは一つの思想であり、哲学ではない、というのだ。
思想が難しいのは、他人の哲学だからだ。
他人の哲学は、自分の哲学をすることについてヒントになったとしても、解決にはならない。
私はきっと、10代のころ、哲学をしていた。
そしてそのひっかかったことを、ずっと引きずって大人になった。
その中で、本を読む力を手に入れて、思想をさまよってきた。
だが、私が本当に求めていたのは、自分の力で考えていくためのヒントであって、答えではなかったのだ。
だから、他人の思想の入門書をどれだけ読んでも、納得することも解決することもできなかったのだろう。
なぜそんなふうになるのか?
それは、おそらく、それこそが、私というかけがえのない私自身の故だからだろう。
私はいつの間にか、取り替え可能な私と、取り替え不可能な私を混同しながら生きてきたのだ。
誰かが唱えた、アイデンティティや、近代的自我といった思想的用語を知ることで、肝心の原点である、どうしようもない私というものを忘れて、あるいは括弧に入れて思想を学んでいただけなのだろう。
社会が均一化され、権利が保障され、自由を獲得したからと言って、私が失われてしまうことはない。
そんなことは当たり前だったのに、そんなことを忘れてしまって、「理論的な思想」に絡め取られてしまっていたのだろう。
他人のふんどしで相撲は取れない。
生きるとということは、語ること、読むこと、観ること、振る舞うことと同じように、どうしようもなく孤独な営みなのだろう。
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